2020年10月25日「生きているのは、もはやわたしではなく」

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生きているのは、もはやわたしではなく

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節

音声ファイル

聖書の言葉

15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。21わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節

メッセージ

 教会の子どもたちの間で比較的よく読まれている絵本に、『たいせつなきみ』という本があります。マックス・ルケードというアメリカの作家が書いたものです。物語の舞台は木彫りの小人たちが住む世界です。この世界に生きている小人たちにはある特徴があります。それは二種類のシールが体に貼られているということです。金色の星のシールと灰色のだめじるしのシールです。なめらかな木でできた可愛らしい小人、才能が豊かな小人には金色の星のシールがもらえました。一方で、絵の具がはげている小人や失敗ばかりする小人には灰色のだめじるしシールが貼られていたのです。この世界に生きる小人たちは毎日のように、自分が金色をした星のシールをもらいたい。そのことばかり考えていました。中々、星のシールをもらえない時は、周りの小人たちの体にだめじるしシールを貼って優越感に浸っていました。しかし、お互いシールを貼り合っているような生き方をしている限りは、本当に安心して生きていくことはできません。今、星のシールをたくさん持っていたとして、もし何かの形で自分の弱さが露呈してしまったならば、醜いだめじるしシールを貼られることになってしまいます。今の自分を誇ることができても、そのことが自分を最後まで安心させてくれるとは限りません。むしろ不安の原因になってしまうのです。

 ところで、この絵本の主人公はパンチネロという小人です。パンチネロにもたくさんのシールが貼られています。しかし、すべてだめじるしシールなのです。「お前はだめなやつだ」と周りから言われ続け、自分の体に貼られているシールを見る度に、やっぱり自分はだめなやつだと言って落ち込みます。何一つ望みを持つことができませんでした。ある時に、ルシアという小人に出会います。不思議なことにルシアには、星のシールもだめじるしシールも貼っていませんでした。パンチネロはその理由を知りたがります。そうすると、ルシアは「エリに会いに行けば分かる」と言うのです。エリというのは、木彫りの小人を造った人物です。パンチネロはエリに会いに行く決心をします。シールを貼ることを、貼られること、そういう生き方に捕らわれない秘密を教えてもらうために、エリのもとに向かうのです。

 とは言え、自分はだめじるしシールばかり貼られています。果たして、エリは自分に会ってくれるのだろうかと心配をしていました。ところが、エリは心からパンチネロが自分のもとを訪ねて来てくれたことを喜び、歓迎してくれたのです。なぜ、エリはパンチネロが来たことを喜んだのでしょう。だめじるしシールばかり貼っているのに勇気をもってやって来たからでしょうか。そうではありません。エリがパンチネロを造り、いのちを吹き込んだからです。周りから何と言われようとも、自分で自分のことを好きになれなくても、パンチネロを造ったエリからすれば、なくてはならない大切な存在であることに何の変わりもありません。

 エリはこのように言います。「みんながどう思うかなんてたいしたことじゃないんだ パンチネロ。もんだいはね このわたしがどう思っているかということだよ。そしてわたしはおまえのことをとてもたいせつだと思っている。」『たいせつなきみ』―英語のタイトルは“You Are Special”です。「あなたは特別な存在だ」ということです。そして、木彫りの小人たちを造った「エリ」というのは、お気付きの方も多いかと思いますが、神様のことを表わしています。神様はあなたのことを、特別な存在、なくてはならない大切な存在として見てくれています。たとえあなたが、自分でだめなやつだと思っていたとしても、あるいは、他の人にだめシールを貼り続けなければ自分の尊厳や価値を見出すことができなかったとしても、イエス・キリストのゆえにあなたは赦され、愛されているのです。神様にあなたはどう思われているのか。そこに私たちのいのちの価値があります。聖書は語ります。神様の目に、あなたは高価で、貴い存在なのだと(イザヤ書43章4節)。

 人は誰もが自分の価値を見出したいと願っています。自分で自分の価値を見出すこともできるかもしれませんが、やはり自分以外の誰かに自分のことを受け入れてほしい。認めてほしいと願っているのではないでしょうか。決して、独りよがりの喜びではないのです。誰かから喜んで自分を受け入れてもらっているということを知ること。そのことが決定的に私どもの人生を支えるということがあるのです。他の人には認めてもらえないかもしれない。でも、この人だけは私のことを受け入れてくれる。愛してくれる。そのことを知ることができたならば、「私は生きていける」ということがあるのです。問題は、どうしたら誰かに受け入れてもらえる存在になることができるのかということです。どうしたら自分の価値を誰かに認めてもらえるのでしょうか。ここに人生の問い、人生の課題というものがあると言ってもよいでしょう。何か善いことや立派なことをしたらいいのでしょうか。他人を見下げることによって、自分の価値を高めればよいのでしょうか。

聖書が語る「救い」というのも、実はこのことと深い関わりを持っています。本日は宗教改革記念日礼拝とささげています。今から503年前、1517年10月31日、ドイツの修道士であったマルティン・ルターという人が、ヴィッテンベルク城の城門に「95ヶ条の提題」と呼ばれる文書を貼り出したことから宗教改革の運動は始まりました。私たちの教会もまた宗教改革の流れの中に立つ教会です。宗教改革のことについて歴史的なことや神学的なことなど様々なことを学ぶことができるでしょう。いずれも有益な学びです。しかし、何よりも私どもはこの日、礼拝をささげ、御言葉に耳を傾けながら私たち教会の原点に立ち帰ります。

 宗教改革者マルティン・ルターにとって、彼をこの改革運動へと突き動かした御言葉がありました。ローマの信徒への手紙にも記されているのですが、本日お読みしたガラテヤの信徒への手紙の中にも同じことが記されています。第2章16節です。もう一度お読みします。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」ここで問題になっているのは、「義とされる」ということです。しかも、如何にして義とされるのかということです。「義とされる」というのは、分かりやすく言うと、「救われる」ということです。人はどうしたら救われるのか。誰もが関心を持つ問題です。誰もがこのことを抜きにしては生きていくことができない大切な問題がここで語られているのです。この「義」という言葉ですが、元々は裁判や法廷で使われていた言葉です。例えば、裁判の席で義とされるというのは、「無罪を宣告される」という意味です。あるいは、相手との関係が正しい関係へと回復するということです。私どもが救われるというのも、神様から「あなたは無罪だ」と告げられ、神様と正しい関係にいつでも生きることができるようになったということです。

 ところが、教会の歴史の中でややこしい問題が生じました。それは、私どもが神様に受け入れていただき、認めていただくための正しさというものを、どのようにして手に入れることができるのかということです。そもそも、なぜこんなことが教会の中で問題になるのかと不思議に思われる人も多いでしょう。そんなこと問うまでもなく、聖書を読めば分かり切った話ではないかと思われるかもしれません。しかしこのことは、教会の中で根強く残り続けることになったのです。そして、このことは教会が立ちもし、倒れもする大切な教えとなりました。聖書の中心を貫くメッセージだということです。もう一度、16節を見ていただきますと、パウロは16節で2つのことを対比しながら言っています。「律法の実行によって義とされる」ということ。もう一つは、「キリストへの信仰によって義とされる」ということです。

 このことを語る前にパウロは、15節で「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」というふうに言っています。ここでもユダヤ人と異邦人を比べています。「ユダヤ人」というのは神に選ばれた民です。他の誰よりもわたしはあなたを救うと言っていただいた民です。一方で、「異邦人」というのは、ユダヤ、イスラエルから見たら救いか遠いとされた人々でした。まことの神を知らず、偶像を崇めている人たちだと言って、イスラエルの人々は軽蔑していました。そして、ユダヤ人たちはいつの間にか、自分たちが「神に選ばれている」ということについて大きな勘違いをしてしまい、「選民意識」というものが生まれるようになったのです。要するに自分たちは他の民とは違う。エリートなのだということです。そのしるしとして、自分たちは「律法」を持っているというのです。十戒を中心とする神の戒めのことです。そして、この律法を忠実に守ることによって、救いに至ることができると考えたのです。しかし、よく考えてみますと、「救い」というものは神様ではなく、この私自身にかかっているという理解になります。次第にユダヤ人たちは、本来律法によって「神」に向けるべきはずの心を、「自分」に、そして「周りの人」に向けるようになります。私はあの人よりも立派な信仰生活をしている。私の信仰はあの人に比べたら全然だめだというふうに。神様を愛し、神様をたたえる道へと導く律法が、自分を誇り、他人を見下すものになってしまいました。神の律法に自分の生活を照らし合わせた時、人々は自分の罪を思い知らされ、自分の惨めさや愛の貧しさというものを嫌というほど知ったことでしょう。しかし、「律法の実行によって義とされる」ということを、神様が本当におっしゃっていたとするならば、救いようもない現実しかそこにはなかったのです。それゆえ、律法は人々にとって、重荷でしかありませんでした。律法の実行によって義とされるという教えは、神様との間に、隣人との間に、何も良いものを生み出さなかったのです。パウロもユダヤ人です。かつて、主イエスにお会いし、洗礼を受けるまでは、この律法の実行によって義とされる生き方をずっとしていたのです。

 しかし、復活の主イエスをお会いし、救いの恵みにあずかった時、ユダヤ人であるとか、異邦人であるとか、そんなことは救いには何の関係もないということ、皆、神の前に等しく罪人であることを知りました。15節の「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」というのは、かつて自分もユダ人としてのエリート意識、律法の実行による義に生きていたけれども…、ということです。しかし、神によって救われるというのは、そういうことではないと悟ったというのです。それが、「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」という言葉です。「イエス・キリストへの信仰」という言葉ですが、もちろん、このように訳してもいいのですけれども、最近は、「イエス・キリストの信仰」と訳されるようになりました。ただそう訳しますと、何かイエス様御自身が信仰を持っているというふうに聞こえますから、「イエス・キリストの真実」と言い換えています。実際、「信仰」というのは、「真実」と訳すことができる言葉なのです。つまり、私どもはイエス・キリストの真実によって、私どもは義とされた、救われたのだとパウロは言うのです。私どもの真実、私どもの真っ直ぐな姿勢が、ついに救いを自分のところに引き寄せたというのではなくて、イエス・キリストが御自身の真実を貫いてくださった。そこに義とされるただ一つの根拠が生まれた。救いが生まれたということです。そういう意味で、私どもが神様に救われるという時、私ども自身はまったくの受け身なのです。神によって義と認められるというのは、ただ神御自身に、そして、イエス・キリストにかかっているのです。

 次の17節、18節は少し難解な言葉ですが、ここもキリストの真実によって義とされたということが前提になっています。17節では、「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。」とあります。パウロが言う「キリストへの信仰によって義とされる」というのは、当時のユダヤ人からすれば信じられないような教えでした。依然として律法の実行によって義とされるということが、彼らの心の中に根付いていましたし、洗礼を受けたユダヤ人キリスト者でさえ、律法に縛られた生き方に惑わされていました。ガラテヤの教会の人たちの問題の中心はここにありました。キリストの十字架だけでは自分たちは救われない。十分ではない。だからユダヤ人が大事にしている割礼を受けないといけないと言い出したのです。ガラテヤの教会の人たちは次第に救いの本質を見失っていました。主の弟子であったペトロでさえ、異邦人と食事をすることを拒んでしまいました。異邦人、つまり、罪人たちと仲良く食事をしているところを見つかったら、ユダヤ人たちから何を言われるか分からないと言って恐れたのです。そのことでパウロはペトロと対立することになりました。パウロは律法の行いを越えた救いの恵みに生きていましたから、異邦人たちと一緒に食事をしても何の問題もないと思っていたのです。たとえ、周りの人から「お前も罪人の仲間」「お前も罪人だ」と言われたとしても、それはキリストが罪人をつくりだしているということにはならないのだと反論しています。18節も、「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば」とありますが、自分で打ち壊したものというのは、キリストに出会う以前の生き方、つまり、律法の行いよって義とされる生き方のことです。もうその生き方はやめたのだ。打ち壊したのだと言うのです。それにもかかわらず、再びキリストとはまったく関係のない生き方によって、自分を誇り、神に認めていただこうとする生き方に戻ってしまうならば、こんな愚かな話はないと言うのです。

 そして、続く19節でこう語ります。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」自分はもう死んだというのです。何に対してかと言うと「律法」に対してです。私はもう自分を誇る生き方をやめたのです。周りから認められることによって、自分の価値を見出す生き方。それができなければ、周りの者を見下して自分一人で生きようとする生き方。誰に何と言われようとも、自分が「これでいい」と思いさえすれば、そこに意味があると言って、強がり、神様の存在さえも無視しようとする生き方。そういう生き方をもう捨てたのだ。いや、捨てたというよりも、死んだのです。律法の実行によって生きようとする生き方は罪以外の何者でもないからです。

 だから、続けて「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と語ります。律法の行いによって、自分の価値を見出し、神に認めていただこうとする思い、つまり「罪」というのは、いったい何よって解決できるのか。それは、主イエスの十字架以外にありません。十字架につけられた主イエスの中に、罪人である自分自身の姿を見ています。キリストが私の罪を贖うために十字架についてくださった。それは私がキリストと共に十字架に死んだことと同じだと言うのです。そして、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」という言葉は、パウロがローマの教会に向けて書いて手紙の中で、「洗礼」について述べている箇所と重なる言葉でもあります。ローマの信徒への手紙6章4節には次のようにあります。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」洗礼を受けてキリスト者になるということは、キリストと共に葬られるということです。だから昔の教会は説教壇の床の下が洗礼槽になっていました。しかもその形は墓、棺をかたどったものでした。その洗礼槽の水の中に沈められ、そしてもう一度、水の中から出てきます。主イエスが墓の中から出てこられたように、私どもも死者の中から新しい復活のいのちと共に出てくるのです。

 パウロは言います。20節です。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」洗礼を受け、キリスト者になるということ、そして、神に義と認められ、救われた者となるということは、自分が自分でなくなるということです。すべてはキリストのものとなるということです。「生きているのは、もはやわたしではない」などと言われると、もしかしたら少し寂しい思いがするかもしれません。もちろん、今、この肉体をもって生きているのは、他の誰でもなく私なのです。パウロが20節で「わたしが今、肉において生きているのは」と言う時の「肉」というのはパウロ自身のことであります。病を患い、教会の問題に悩み、迫害を受け、死の恐怖さえ経験したことのあるパウロです。多くの人が経験するようなことを、肉体をもったパウロもまた経験するのです。しかし、パウロはそこで、「生きているのは、もはやわたしではありません」と告白することができるところに深い慰め、そして救いそのものを見出しているのです。

 「私の人生は私が生きるのだ」と言い張る時、果たしてそこに生きる喜びがあり、慰めがあるのかという問いを、パウロはここで私どもに投げ掛けていると言ってもよいでしょう。私が私を生きるというのは、パウロが論じていますように「律法の行い」に生きるということですが、もう少し掘り下げますと、様々な問題、人間が抱えるあらゆる問題に通じるものがあると私と思います。それは私が私を生きるという時に生じる問題です。自分自身の罪のこともそうですが、人生に起こるあらゆる試練や苦難、隣人との関係、愛の問題、病や死といった様々なことが私どもの人生には襲い来るのだと思います。それこそ、私が私でいることができなくなるということがあるわけです。そこで、本当に自分が行ってきたことが価値を持つのでしょうか。自分がこれまで何をしてきたのか?これから何をすべきなのか?もうそういうことを考える余裕がないほどの窮地に立たされるということがあると思うのです。

 だから、パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と語るのです。もはや私ではなく、キリストが私の内に生きているということ。ここに救いの恵みそのものを見出しています。自分の中に、生きる根拠、いのちの根拠があるのではなくて、十字架に身を献げてくださるほどに、私のことを愛してくださったキリストの中にいのちの根拠があります。「私が」「私が」という思いに強く固着する生き方ではなく、このような私のことをなお愛してくださり、私のために身を献げてくださったキリストの十字架によって、私は神に受け入れていただいた。この恵みの中に自らを委ねる。ここに救いの喜びがあります。もう私どもを苦しめ続けてきた、律法の行いによって義とされる生き方というものは姿を消しました。もう死んだのです。キリストが私の内に生きているというのはそういうことです。キリストの愛が私を完全に支配し、包み込み、救いへと導きます。キリストの復活のいのちが、死を越えて私どもを希望へと生かすのです。キリストが私のためにしてくださったこと。ここに私たちの救いがあり、生きる喜びがあります。

 ところで、パウロという人は、今申しました20節のところで、これでもかというほどに「わたし」という言葉を多く使っていることに気付かされます。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にしません。」「わたし」-これはパウロが自己主張するために、「自分が、自分が…」と言っているわけではありません。何が言いたいかと申しますと、結局、この手紙を書いている私パウロ自身が、十字架に示されたキリストの真実と愛によって救われた存在であるということを信じ、その救いの道に喜んで生きていなければ、すべては空しいということです。興味深いことに、宗教改革者のマルティン・ルターも、ジャン・カルヴァンもこの御言葉を解説するところで、似たようなことを言うのです。例えば、ルターはこう言いました。「わたしたちはパウロが語る『わたし』、『わたしのために』、という言葉を自分自身に当てはめることに習熟するがよい。この『わたし』と語られているものの中に自分が果たしているかどうかなどと疑ってはいけない。ペトロやパウロへの愛と等しいものがわれわれに向けられている、われわれのところに来ている。」カルヴァンも「…各人が特に自分自身にこのことを当てはめて考えるのでなければ、決して十分ではない。」と言っています。つまり、「わたし」というところに自分の名前を当てはめて御言葉を読んでみて、本当にそのとおりだと思うことがなければ、この御言葉を理解したことにはならないと言うのです。

 だから、パウロは最後の21節でもこう語ります。「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」キリストによって救っていただいた者の生き方、それは一つの言い方をすると、神の恵みを無にしない生き方です。今の私があるのはただキリストのお陰によるのだという歩みを重ねていくということです。私どもが生きる世界は、自分の能力や才能、行いによって評価される世界かもしれません。また、多くの苦難が満ちている世界です。しかし、生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられる。この信仰の事実が、肉体のいのちを越えて、私どもを希望に生かします。だから、神の恵みを無駄にしてはいけません。神の恵みがこの私に与えられたものであるということを大切にして生きるのです。その時に、私どもは何にも縛られない生き方をすることができます。神様の恵みと平和に包まれ、安心して自分のことを喜ぶことができるのです。お祈りをいたします。

 ただイエス・キリストの真実だけが、私どもを罪と滅びから救い出してくださいました。私のために十字架に死に、復活してくださった主イエスと共に歩む幸いを喜ぶことができますように。また、神様が与えてくださった恵みを届けることができるように、教会の業を祝福してください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。