2020年10月18日「死も、墓も新しくされて」
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死も、墓も新しくされて
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ヨハネによる福音書 19章38節~42節
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聖書の言葉
38その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。39そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 40彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。41イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。42その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
ヨハネによる福音書 19章38節~42節
メッセージ
ヨハネによる福音書に先立ちまして、旧約聖書詩編第88編の御言葉を朗読していただきました。初めて聞く方もおられるかもしれませんし、何度も聞いたことのある方もおられるでしょう。正直どのような思いを抱かれたでしょうか。聖書にはこういう言葉も記されているのかと、ある驚きをもって聞いた人もたくさんおられたのではないでしょうか。この詩編第88編は、150ある詩編の中で「最も暗いと言われる詩編」「慰めがまったく与えられない詩編」と言われています。詩人は重い病の中にあったのでしょう。もう目の前に死という現実が迫って来ているのです。まだ、イエス・キリストを知らない時代に生きた人です。「復活」という教えもあまり語られていない時代でした。だから私が死んでしまえばすべては終わってしまう。すべては空しい。ただあなたの怒りの前に消えてなくなってしまう他ない存在だというのです。そして、詩編を歌った詩人は最後に次のような言葉をもって閉じるのです。「愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。」(19節)死を前にした私と親しくしてくれる者はもう誰もいない。愛する家族も友も、そして神よ、あなたさえも遠い存在。ただ暗闇だけが私と親しいと言うのです。この詩編の言葉を聞く私どもも言葉を失っています。詩編の詩人は決して自虐的な意味を込めて、「今、わたしに親しいのは暗闇だけ」と言っているのではないのです。死を前にして、本当に為す術もなく、ただ恐れおののき、深い闇の中で絶望する他ない人間の姿がここに描かれています。そして、同時に詩編の詩人は問い掛けるのです。「死」というのは、あなたにとって何なのか。「いのち」ということ、「生きる」ということはあなたにとって何なのかと。私どもはどのように答えることができるでしょうか。どのような信仰をもって言い表すことができるのでしょうか。
朝の礼拝の中で、私どもは毎週「使徒信条」と呼ばれる代々の教会で告白されている信仰を告白しています。とてもシンプルな言葉で、私たちは聖書が語る神とはこのようなお方であるということを告白しているのです。天地の造り主である父なる神について告白した後、最も多くの言葉を重ねて告白しているのが神の独り子であられる主イエス・キリストについてです。「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」というふうに言葉が続きます。当たり前のことかもしれせんが、使徒信条は神について告白する言葉であり、私ども人間のことについてはあまり深いことを語りません。深く掘り下げれば、神のことを語ることの中に、人間のことが含まれていると言ってもよいのですけれども、使徒信条はひたすら神がどのようなお方であるのか、主イエスが、そして聖霊がどのようなお方であるのかを語るのです。主イエスについて告白している言葉があります。つまり、聖霊によって母の胎に宿ること、処女から生まれること、ポンテオ・ピラトの裁きによって、十字架にかけられること。これらは主イエスにしか当てはまらないことです。しかしながら、使徒信条を告白する中で、唯一、主イエスと私どもの歩みが重なる言葉があるというのです。この一点において、主イエスと私どもが一つになると言える言葉があるのです。それが「死にて葬られ」という言葉です。私どももやがて死を迎え、葬られる時が来るからです。主イエスもまた十字架に死に、墓に葬られました。厳密に言うと、主イエスの死と私どもの死は、同じ死でも意味はまったく違うのですが、「死にて葬られ」ということに関して、言葉の上では確かに重なる部分があるのです。使徒信条が語る「死にて葬られ」というのは文字通り、本当に死んだということです。仮の死、偽りの死を死んだのではありません。私どもが「死ぬ」という時も、仮の死を死ぬわけではないのです。本当に死ぬのです。でも、本当に死なれ、墓に葬られた主イエスが甦えってくださいました。このことが、実は私どもの人生、信仰の歩みにおいてたいへん大きな意味を持つのです。「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という言葉で詩編を閉じた詩人に対して、明るい光をもたらすことができる道がここにあると言うことができるのです。
主イエスは、十字架につけて殺されました。その遺体をずっと放っておくわけにはいきません。過越祭というユダヤ人にとって大切なお祭りが迫っていました。安息日も近いのです。誰かが一刻も早く、主イエスの遺体を引き取って、墓に納めなければいけませんでした。でも、誰も引き取ろうとはしないのです。なぜでしょうか。十字架につけられて死ぬということは、神に呪われた者であることのしるしであると、聖書に記されているからです。神に呪われた者の遺体を引き取り、自分が持っている墓に納める。そのようなことをしたら、自分までもが神に呪われた者になってしまう。そのことを人々は恐れたのだと思います。誰も主イエスの遺体を引き取ろうとしませんでした。
そのような中、一人の人物が主イエスを十字架刑につける判決を言い渡したピラトのもとに現れます。そして、主イエスの遺体を引き取りたいと願い出たのです。38節をもう一度お読みします。「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」アリマタヤのヨセフという人は、主イエスを葬るこの場面にだけ登場する人物です。他の福音書を見ますと、彼について詳しい説明がなされています。ヨセフは、身分の高い議員であり、金持ちだったというのです。そして、神の国の到来を密かに待ち望んでいました。41節を見ますと、「そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」とあります。誰も葬られたことのない墓は、ヨセフの墓であったということがマタイによる福音書に記されています。自分が死んだ時に入るはずだった墓を、主イエスの遺体を納めるためにささげたのです。
さらに、もう一人の人物が登場します。ニコデモという人です。ニコデモはこの福音書の初めのほう第3章に既に登場してきます。ユダヤ教の教師であり、議員だった人物です。「新しく生まれる」ということについて、主イエスとたいへん興味深い対話を重ねました。しかし、ニコデモは主がおっしゃることを理解できないまま、夜の闇の中に消えて行ったのです。ただ、その後も主イエスという方に関心を持ち続け、ついに主を信じるようになったと言われています。そして、主イエスが十字架に死に、その遺体を引き取る場面で登場するのです。39節にこうあります。「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」とあります。没薬と沈香というのは、遺体を葬る時に、腐敗が進まないようにするために用いたものです。それにしても没薬と沈香を混ぜた物が百リトラ、キログラムに換算しますと33キロもの量に当たるというのです。一人の人間を丁重に葬るにしろ、33キロというのは大人の半分ほどの重さに当たりますから、これはあまりにも多すぎる量だと言われます。一国の王様であるとか、たくさんの財産を持っている人間が死んだ時ならまだしも、なぜ主イエスの葬りの際にこれほどの没薬と沈香を用意したのでしょうか。主イエスこそまことの王と信じていたからでしょうか。そうかもしれません。けれども、もう一つ言えることは、このニコデモもまたアリマタヤのヨセフのように、自分が死んだ時のことを考え、自分の葬りのために大量の没薬を用意していたというのです。ニコデモももう年齢的には老人です。だから、主イエスから「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われた時、戸惑ってしまったのです。「新しく生まれる」ということを、単に年齢が若返ること、幼子になることだと思い違いをしてしまったのです。
アリマタヤのヨセフとニコデモの共通点は、持っているものを主イエスのためにささげたという点。また、歳を重ねていて明らかに死を意識して生きていたという点です。そして、もう一つの共通点があります。38節をもう一度見ていただきますと、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。ユダヤ人の議員であり、教師である自分たちが、実はキリストを信じていたということが公になれば、何を言われるか分からない。周りからどう思われ、どのような扱いを受けるか分からない。自分もまた主イエスのように捕らえられてしまうかもしれない。だから、「ユダヤ人を恐れて、そのことを隠していた」と正直に記すのです。第12章42〜43節にも次のようなことが記されています。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」アリマタヤのヨセフやニコデモだけではないのです。他の議員の中にも主イエスを信じる者は多かったというのです。しかし、公に信仰を言い表さなかったのです。恐れとともに、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」からです。ヨセフもニコデモも同じような問題を抱えていたのでしょう。結局最後は人間からの誉れ、評判が気になったというのです。そのことが、公に信仰を言い表せない大きな壁になったのです。
ヨセフやニコデモのような隠れたキリストの弟子というのは、今日においてもたくさんいるのではないでしょうか。心の中では主イエスを信じている。でも、教会に行って、共に礼拝をささげようとまでは思わない。まして、洗礼を受けようとは思わない。その必要性を感じていないのです。どうしてでしょうか。一人一人に尋ねてみないと分からないところがあるかもしれませんが、その理由の一つがここにあるのではないでしょうか。神よりも、人の誉れを好んだということです。自分がキリスト者になったら、家族や周りの人たちと上手くやっていくことができなくなるかもしれない。今まで積み上げてきたものをすべて捨てなければいけないかもしれない。自分の人生設計を大きく変更する必要がある。でも、自分は主イエスがなさることや語られるお言葉に心惹かれている。やっぱり自分は主イエスを信じている。このような葛藤の中で、最終的には、キリストを信じているということを隠しながら、信じていけばそれでいいではないかと自分で結論付けたのです。
しかし、そのような隠れたキリストの弟子であるヨセフとニコデモが、主イエスを墓に葬るという場面で、誰もできなかった大きな働きをすることになります。38節にありました「ユダヤ人を恐れて」という言葉は、次の第20章19節にも記されている言葉です。主イエスが復活したという知らせを聞きながらも、主の弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵を掛けて閉じこもっていたというのです。ずっと主イエスの一番近くにいて、いつも主のあとについて行った弟子たちは、主の十字架を前にして、主を見捨て逃げ出します。復活の知らせを聞きながらも、扉を開いて外に出て、主に会いに行こうともしません。他の人たちに復活という喜びの知らせを伝えようともしません。恐れに捕らわれ、家の中に閉じこもっているのです。そういう意味では、ヨセフとニコデモが取った行動は実に対照的です。そして、同時にこのことは既に洗礼を受け、いつものように礼拝に集うために教会に来ている私どもに対する問いでもあります。信仰を公にしながらも、どこかで自分がキリスト者であるということを隠したいという思いがあるのではないかということです。とりわけ自分の生活の中に面倒なことが起こる。試練を経験する。その度に、キリストを信じている者としてしっかりと立つことができなくなる。そのような恐れに捕らわれている姿を神様にというよりも、他人に見られたくない。弱い人間に思われたくない。周りと合わせることができない人間に思われたくない。そう思って、自分がキリスト者であることを隠そうとするのです。
ではなぜヨセフとニコデモは、キリストを信じる者として勇気ある行動を取ることができたのでしょうか。今日の箇所には記されていませんが、第12章32節を見ますと手掛かりになる主イエスの言葉が記されています。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」「地上から上げられるとき」というのは、十字架にかけられる時という意味です。主イエスは、十字架の上ですべての人をわたしのもとへ引き寄せようというのです。これまでずっと隠れながら主を信じてきたヨセフとニコデモが十字架の出来事を知った時、自分たちもまた十字架の主によって招かれ、引き寄せられる力を感じ取ったのでしょう。その時、今までの自分たちにはなかった勇気を与えられ、主イエスの遺体を引き取るという大きな働きを担うことになったのです。
また宗教改革者カルヴァンという人は、ここに聖霊なる神様の働きを見ています。ふたりは「聖霊の道具」として用いられたと言うのです。それはより広い意味で理解すると、教会のために用いられたということでしょう。私どももまた、聖霊の働きによって生まれた教会のために用いられる道具とされたいと願います。そのことが、時にこれまでの自分では考えられなかった勇気ある行動へと駆り立てることがあるのです。また、御霊の導きによって、ヨセフとニコデモが主イエスの遺体を引き取り、丁重に墓に納める行為へと導かれたとするならば、とりわけニコデモという人にとっては大きな意味を持ったことでしょう。かつて主イエスはニコデモにこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネに夜福音書3章3節)「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(同5節)神の国に入るために、つまり、救われるためには新しく生まれなければいけない、水と霊によって。水と霊というのは、洗礼によってということです。そこに働く聖霊によってということです。でも、ニコデモはそのことが理解できずに、主イエスのもとを去り、隠れるようにして主を信じていました。しかし、主の十字架がニコデモを引き寄せ、御霊によって新しくされる経験をここでしたのです。主の十字架だけが私を新しくし、救いをもたらす。その救いの真理へと聖霊が導くのです。
アリマタヤのヨセフとニコデモは新しい墓に主イエスの遺体を収めます。没薬と沈香を主の体に塗り、香料を添え、亜麻布で丁寧に主の体を包みます。昔のお墓は洞穴のようになっていましたから、その奥に主イエスの遺体を置いたのです。その墓は41節にもありますように「新しい墓」でした。「新しい」というのは何を意味するのでしょうか。まだ誰も入ったことのないという意味で新しい墓でありました。それは、主イエスの遺体を納めるにふさわしい聖さを持っていたということでしょう。そして、この福音書を記したヨハネは、もう一つ特別な意味を込めて「新しい墓」という言葉を用いているのではないでしょうか。誰も引き取ろうとしなかった主イエスの遺体を勇気をもって受け取り、丁重に葬りました。しかし、このヨセフもニコデモも、まさか三日後に主イエスはお甦りになるなどとは思ってもいなかったということです。ヨセフにとっての慰めは、主イエスが納められている墓に、やがて自分も入ることができるということでした。こういう感覚は今日でも同じだと思います。愛する夫がいるお墓に自分も死んだら入りたい。死んでも愛する家族と共にいたいという思いは誰にでもあるのではないでしょうか。ヨセフは主イエスと一緒に同じ墓で共に眠ることができること。これ以上の幸いはないと思っていたに違いありません。
しかし、主イエスは十字架に死んでから三日後の朝、神様は誰も考えもしなかった驚くべきことをなさいました。人間が考える慰めや幸いを吹き飛ばすような驚くべき御業をなさったのです。主イエスがお甦りになられたということです。主イエスを死の眠りから呼び起こし、新しいいのちと共に墓の中から出で来られたのです。ヨセフとニコデモは主の復活の出来事を聞いて何を思ったのでしょう。震えるような思いに捕らわれたことでしょう。それは主イエスの復活によって、死の意味、墓の意味がまったく変わってしまったからです。ヨセフが持っていた墓は、これまでとは違う意味で「新しい墓」となりました。墓というのは、死んだ者が眠る場所です。死の悲しみを紛らわすために、残された者たちは「この人は眠っている」と言いたいのかもしれません。でも、墓の中に納められたその人が目を覚ますことなどありません。それが死の厳しい現実です。墓は私どもが一番最後に行き着く場所です。そこは希望がない場所です。詩編の詩人が言いましたように、親しいのは暗闇しかないのです。しかし、十字架で死んだ主イエスが死の中から甦ってくださいました。そのことによって、死も墓も意味がまったく変わってしまったのです。墓というのは、人が最後に行き着く場所ではなくなってしまったということです。人が最後に行く場所ではなく、むしろ私どもが新しく出発する場所として墓が存在するのです。主イエスが復活のいのちをもって、墓の中から新しい歩みを始めてくださったからです。アリマタヤのヨセフは空っぽになった墓を見つめて何を思ったのでしょう。ここは主イエスが甦ってくださった場所であり、ここはまことのいのちに輝く場所であるということ。そして、死の力に勝利した神の豊かな恵みを見出すことができたのではないでしょうか。ヨセフは主イエスと一緒の墓に入ることができる。それだけで幸いだと思っていました。しかし、そのような自分の思いを遥かに越える慰めと幸いを神様は与えてくださったのです。やがて自分も地上の生涯を終え死ぬことだろう。そして、主イエスがお甦りになられたこの墓に葬られる。復活の主に結ばれている私もまた、主イエスのように新しいいのちをもって出発することができる。いや既に復活の主のいのちに生かされている。この幸いを知りながら、与えられた残りの生涯を大切に歩んだに違いありません。
このアリマタヤのヨセフとニコデモに与えられた幸いは、今ここに生きる私ども一人一人に与えられている幸いでもあります。最初に詩編第88編の御言葉を紹介しました。たいへん暗い詩編でした。でも、同じ詩編の第16編には次のような御言葉があるのです。旧約の時代において、復活信仰を先取りしたような言葉です。詩編第16編10〜11節です(旧約846頁)。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」神は私どもに墓穴を見させず、いのちの道を教えてくださいます。死んで、墓に葬られても、そこでいのちの道を見せてくださり、私どもを神賛美へと導いてくださいます。やがてこの詩編の御言葉がイエス・キリストにおいて実現するのです。
今ここにいる私どももまた、復活の主が拓いてくださったいのちの道を歩んでいます。日曜日、私どもが教会に集うのは、復活の主が切り開いてくださったいのちの道を通り、神を賛美するためです。そして、主の日の礼拝というのは、神様の御前に立つ時でもあり、それはやがて来る終わりの日、救いの日に、神の御前に立つ備えをしていると言ってもいいのです。「終わりの日」のことを「終末」と呼びますが、終末というのは何も主イエスが再び来られる日だけを意味するのではありません。ここに集う一人一人もまたそれぞれの終末というのを迎えます。つまり、死ぬ時が来るということです。礼拝は私どもが一人一人が死に備える時でもあるということです。神様がキリストをとおして与えてくださった尊いいのちを見つめながら、自分の限りあるいのちを見つめます。そのことは決して、自分の存在が空しい儚いと嘆くのではなく、自分のいのちが限りあるものであるからこそ、与えられた地上のいのちを大切にして生きていこうということです。そして、主に結ばれて死ぬ私どもの人生は永遠の価値を持つということ。このいのちに今ここで生かされているのだということを改めて心に刻むのです。
アリマタヤのヨセフもニコデモは、主イエスの遺体を葬るために一所懸命準備をしました。自分が死んだ時のためにと思って大切にしていたものをすべて差し出しました。でも、主イエスは三日後に甦えられたのです。では、ふたりの葬りのための備えは意味をなさなかったのでしょうか。そんなことはなかったと思います。葬りのための備えは無駄になどなっていないのです。むしろ、彼らが十字架で死んだ主に対してした行為は、神様のいのちの勝利を証するものとなったのです。私どもは、主イエスの遺体を葬る準備はもうできませんが、いつも神様の御前に立ちつつ、自らの死の備えをすることができます。復活の主のいのちに囲まれて、自らを見つめ、望みをもって歩みます。そのような歩みを重ねていくということ。このことが自分に対してだけではなく、愛する家族や仲間たちに対して、神様の恵みを証するものとなります。そして、教会全体が主の復活のいのちに生かされている幸いを覚え、生きる姿勢をいつも整えていきたいと思うのです。お祈りをいたします。
復活の主によっていのちの道を拓いてくださった父なる神様、今日もあなたに導かれ、ここに集うことができました。この場所から、神様の恵みによっていつも新しく出発することがゆるされています。死にも打ち勝った祝福のうちに新しく歩み出すことができます。御霊を豊かに与えてくださり、神と教会のために仕える器として私どもを豊かに用いてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。