2020年10月04日「すばらしい喜びへ」

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すばらしい喜びへ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ペトロの手紙一 1章3節~9節

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聖書の言葉

3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、 4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。 8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。ペトロの手紙一 1章3節~9節

メッセージ

 主イエスの弟子でありましたペトロが、生まれて間もない小アジアにある教会に向けて、一枚の手紙を記しました。教会の人たちへの挨拶を記し、「神がほめたたえられますように」と呼び掛けた後、ある驚きをもって記した言葉があります。それが第1章8節の御言葉です。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」今日も多くの人が愛している御言葉の一つかもしれません。それはきっと、私どももまた、キリストの見たことがないのに信じ、キリストを愛し、キリストを喜ぶ思いに溢れているからでしょう。あるいは、自分もまたあのキリスト者たちのように、言葉では言い尽くせないようなすばらしい喜びに生きたいという憧れのようなものを持っているからではないでしょうか。そして、自分一人だけというのではなく、私ども教会全体がキリストへの愛と信仰と喜びにいつも溢れることができたならば、どれほどすばらしいことでしょうか。どれほど世の人々にとって魅力溢れる場所となることができるでしょうか。

 ペトロから手紙を受け取った小アジアと呼ばれる地域は、今で言うトルコの辺りにあたる場所です。その小アジアの教会ですが、最初の第1章1節を見ますと「離散して」とか「仮住まいをしている」という言葉があることに気付きます。本来一つであるはずなのに、バラバラになってしまっているということです。今、住んでいる所は、自分たちの本当の住まいではないということです。理由があって、違う場所に仮の住まいを建てて生きていかなくてはいけなくなったということです。それだけで、ただならぬ状況であることは明らかです。理由の一つに、ローマ帝国による厳しい迫害がありました。やがてこの手紙を書いたペトロも捕らえられ、ローマの地で殉教することになります。キリスト者たちも、落ち着いて信仰生活することができなくなりました。自分の家にいたら、見つかって捕まってしまう。だから、それぞれが自分の住んでいる場所を離れたのです。そしてバラバラになったのです。

 このバラバラになるというのは、ここでは教会の仲間たちとバラバラになってしまうことを意味しました。洗礼を受け、キリストを信じることは、キリストの体である教会に連なって生きることと一つのことです。しかし、それが迫害という厳しい試練の中で、共に集まることが難しくなりました。彼らの中には洗礼を受けて間もない者たちもたくさんいました。教会自体も生まれてからそれほど時間は立っていないのです。また共に教会に集いたいと願いつつ、一方では、いつか自分たちも世の権力者たちに見つかり、殺されてしまうのではないかという恐れや不安が絶えずあったことでしょう。しかし、そうであるがゆえに、ペトロが見た教会の人々の姿は、彼を驚かせたのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」

 だから、3節の初めで、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」と語っています。「神を賛美しよう!」と呼び掛けているのです。こんな苦しい状況で、神を賛美することなどできないというのではなくて、むしろ、迫害という試練の中にあるからこそ、神様をほめたたえようというのです。喜びの時にだけ、神を賛美して、悲しみや苦しみの時には、神を賛美しないというのではないのです。なぜならば、あなたがたは既に新しい人間になることができたからです。3節の続きにこうあります。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え…。」誰もが新しくなりたい!新しく生まれ変わりたいという願い、あるいは憧れのようなものを持っているのだと思います。でも、自分はもう若くはない。歳をとっているから、自分はもう新しくなることなどできないと言って、諦めてしまいます。あるいは、自分は過去に大きな過ち、失敗をしてしまった。どうしても拭い去ることができない、どうしても忘れることができない。そう言って、自分の後ろにあるものに捕らえられ、引きずられながら、新しくなることができないと思い込んでいます。でも、人間が新しくなるということ、それは新しく創造されることです。そして、それがお出来になるのは、神様ただお一人だけです。自分がこういう力を持っているとか、こういうことができたからというのではなく、ペトロの言うように、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれ(る)」ことができたのです。

 この手紙は、まだ洗礼を受けたばかりのキリスト者たちに向けて記された手紙とも言われます。洗礼を受けるということはどういうことか。キリスト者になるとはどういうことか。そのことをペトロは丁寧に語ります。私どもに与えられている信仰が如何なるものなのか。これは洗礼を受けたばかりの者に限らず、信仰生活を長く続けている者たちにとっても、絶えず立ち帰るべき大切な教えです。そして、その与えられた信仰を知る度に、喜びへと導かれていく、そのような幸いな経験をするのではないでしょうか。ペトロは、教会の人たちに、あなたがたは神の豊かな憐れみによって、新しく生まれることができた。あなたは既にもう新しい存在になることができた。だから、神をほめたたえるのだと言うのです。これまでの古いあなたはそうではなかったかもしれない。何かと言えば、愚痴や不満を口にしていた。後悔と諦めの思いに捕らわれていた。でも神がキリストにおいて、あなたを選び、罪と滅びから救い出してくださった。だから、あなたがたは賛美を歌う人間。だから、わたしと一緒に賛美の歌をうたおう。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」

 そして、キリストによって新しく生まれ変わった人間、神から賛美の歌を授けられた人間は、「天」を仰ぐ者とされます。天におられる神に向かって賛美の歌をささげます。新しく生まれた人間は、もう悲しむことなく生きていけるようになったとか、もう涙を流さずによくなったというのではありません。迫害が厳しい時代です。死がいつも隣り合わせです。実際に、信仰の仲間が捕らえられ、いのちを奪われるという悲しい知らせをいつものように耳にしていたことでしょう。地下に身を潜めるようにして、礼拝をささげながら、そこに殉教した仲間の遺体を棺に入れ、共に礼拝をささげました。棺の上に、パンとぶどう酒を置き、聖餐にあずかりました。誰もが悲しみ、涙を流さずにはおれなかったことでしょう。でも、そこで、神の豊かな憐れみによって、既に自分たちが新しくされたことを心に留めます。そして、そのような悲しみの中にあって、自分の心を覗き込むように、うなだれるのではなく、心を天に向けたのです。天を仰ぐ時、そこに賛美の歌声が生まれるからです。

 4節以下(〜6節)でこう言います。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。」「天」には財産が蓄えられています。しかも、朽ちず、汚れず、しぼない財産です。天に蓄えられている財産とは、救いそのものと言い換えてもよいでしょう。救いの恵みが色褪せることは決してありません。今既に救いの恵みに生かされていますが、主イエスが再び来てくださる時、今よりももっと鮮やかで、確かな形で私どもに救いが与えられます。そこでは、もう悲しむことも、労することも、涙することもありません。すべてが神の喜びに包まれるのです。

 だから、私どもが洗礼を受け、新しくされているということは、私どもが希望に生きているということでもあります。3節の終わりに、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とありました。「生き生きとした希望」というのは、「死んでいない」ということです。「ここに希望がある」と言いながら、実際は死んだような希望、しゃぼん玉のように儚く消えてしまう希望というのは、この世にたくさんあるのではないでしょうか。何とか希望の火を消さないために、こっちのほうで頑張って、炎を絶やさないようにする。どうして、自分はこんなことをしてまで、「希望に生きている」と言わなければいけないのだろうか。そのような矛盾に陥ってしまうことがあります。しかし、復活のイエス・キリストによって与えられる希望は虚しく消えてしまうようなものではありません。自分で頑張って希望の火を灯し続ける必要もありません。復活の主の希望は、いつも生き生きと生きているのです。死の力にも負けることなく生き続ける確かな希望です。このようなすばらしい希望の中に、教会が立っているのです。

 地上の歩みには、6〜7節でペトロも語っていますように「試練」というものがあります。小アジアの教会の人たちにとっては、「迫害」ということが大きな試練でした。「キリスト者になったら、もう試練に悩まなくなるだろう」と言うのではなく、はっきりと、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と語ります。そして、この試練によって、あなたがたの試練が本物であることが証明されるだろうと言うのです。「試練」という言葉は、「精錬する」という言葉から生まれました。鉱石から不純物を取り除き、純金を採り出す時に、鉱石を砕いてふるいにかけます。不純物はふるいに掛けられ、網の目から落ちていきます。そして純金だけが細かい網目に残るのです。私どもの信仰も様々な苦しみをとおしてふるいに掛けられます。ふるいに掛けられ、キリストへの不純な思いが取り除かれ、キリストへの純粋な信仰が残るのです。苦しみを神から与えられた試練として受け止め、キリストへの信仰、希望、愛をもって耐え忍んだのです。それが、神から与えられた信仰であると言うのです。

 私どもは、もしかしたら、こう考えてしまうかもしれません。試練によって、私どもの信仰が偽りであったということが証明されてしまうのではないかというふうに。私どもは自分たちの生活の中に襲い来る試練に怯えてしまっています。いつ自分の弱さが明らかにされてしまうのだろうか。いつ自分の強さが明らかにされてしまうのだろうか。一度、不安に襲われたならば、真っ直ぐに試練と向き合うことすらできなくなってしまいます。そういう私どもに対して、ペトロは「神の力により、信仰によって守られています」と念を押すように5節の終わりで語っていました。神の力によって、試練の中にあっても、私どもは守られているのです。では、「信仰によって守られている」とはどういうことでしょうか。「信仰」というのは、「”信”じる”心”」と書いて、「信心」のことを指すのではありません。何があっても、倒れることなく、固く信じ続けようとする自分自身の心や頑張りが大事なのではないのです。もし、信仰が信心であるならば、私どもは試練の中で立ち続けることはできないでしょう。「信仰」という言葉は、「真実」という意味を持つ言葉です。この場合の真実というのは、神様御自身の真実のことです。この神の真実が、試練の中に置かれている私どものところに真っ直ぐ届けられ、私どもの信仰が守られるのです。このような信仰に小アジアの教会の人々は生きることができました。生まれたばかりの間もない教会が、神の力と真実に守られ、試練の中に立ち続け、それだけでなく、心から主を愛し、喜んで生きていたのです。

 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」ペトロは教会の人々の信仰を見て、喜んでいます。この言葉を語ったのはペトロでした。主イエスの一番弟子という自負を持ちながら、幾度も失敗をし、どの弟子よりも一番主イエスから叱られた弟子でもありました。良かれと思って、思い切ったことを口にしたり、行動に移したことがすべてと言っていいほど、裏目に出た人でした。主イエスが十字架で死ぬということを知った時、「私は他の弟子たちがあなたを捨てても、私だけはあなたを見捨てることはありません。あなたのためなら死んでも構いません。」と言って、主の前で信仰の決意をしました。ペトロにとって、信仰に生きるとは、自分の決意に忠実に生きることでした。でも、ここでもペトロは大きな勘違いをしてしまいます。いのちを掛けるほどの決意も、死の恐れを前にして、簡単に崩れ去ってしまうのです。「お前もイエスの仲間だな?」と人々から問われた時、ペトロは恐ろしくなって、「イエスなど知らない」「イエスとは何の関係もない」と言って、三度、つまり完全に主イエスを否んだのです。これこそが信仰だと信じていた自分の決意、信心は何も意味を持ちませんでした。

 しかし、そのようなペトロのもとに復活の主は訪ねて来てくださいました。主イエスは、ペトロに三度、問われるのです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」自分は三度、主を否んだ人間であるという過去の記憶から、自分は三度「主を愛しています」と告白した人間であるという新しい記憶へと塗り替えられなければいけませんでした。そのために、主はペトロに愛を問うてくださいました。しかし、「わたしはあなたを愛しています」と主に向かって言ったところで、自分の言葉のどこに真実味があるというのでしょう。主を愛していながらも、「愛してします」と口にすることができないペトロは、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」としか言うことができませんでした。主イエスに対する信仰も愛も自分の決意が支えるのではない。罪深い自分を赦してくださり、その上で愛を問うてくださる復活の主の中に、私のいのちも希望も愛もあるのだ。そのことに気付かされたのです。この復活の主イエスの真実の愛が、ペトロを伝道者として立たせます。そして、主を愛することは、主イエスの小羊を飼うこと、つまり、教会を建て上げ、そこに集う一人一人を養うことです。そして今、手紙を記している小アジアの教会の人々が、まだ、自分たちの目でキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれているのです。

 また、復活の主イエスが弟子のトマスに語った言葉を思い起こします。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)トマスは最後まで復活の主を信じることができませんでした。自分の目、自分の手こそ確かなものであり、それゆえに、自分の手で主の十字架の傷跡を見、触らなければ、決して信じないと言い張っていたトマスでした。しかし、その疑いの中に閉じこもるトマスのもとを訪ねてくださいました。主イエスの願いはただ一つ、信じない者ではなく、信じる者になってほしいということです。自分の確かさや、自分の都合に合わせて神を信じるのではありません。「信じる者になってほしい」という真っ直ぐな主イエスの思いと真実が、私どもを信じて生きる者に造り変えてくださいます。そして、主イエスが幸いだとおっしゃってくださった「見ないのに信じる」ということの中に、実は大切なメッセージが込められているのです。信仰とは、自分の目に見えるものによって左右されるものではないからです。目に見えることがすべてではないからです。ただ復活の主の真実だけが、信仰を与え、私どもの歩みを支え守っていてくださいます。それは試練の中にあっても、なお天を仰いで賛美することのできる信仰です。

 私どももまた、これまでに幾度も気付かされてきたのではないでしょうか。試練を経験すればするほど、そこに貫かれていたのは神の真実であるということに。どのようなことがあっても、復活の主が与えてくださる希望はいのちに満ちているということを、私どもは信仰生活の中で何度も経験するのだと思います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」神がどのようなお方であるかを正しく知ることができた時、そこにはキリストへの愛が生まれ、喜びが生まれます。そして、神賛美へと導かれていくのです。

 日本のプロテスタント教会の初期の伝道者に植村正久という人がいました。この植村先生は、ペトロの手紙一第1章8節の御言葉を愛しました。また、復活の主がペトロに、三度愛を問う場面も非常に愛したと言われています。植村先生が亡くなる2年前に、「汝我を愛するか」という説教を語っています。その中で、こういうエピソードが登場するのです。植村先生がまだ若かった時です。名古屋で伝道をしていました。そこで、あるご高齢の信徒の方と出会ったそうです。その人には口癖がありました。「俺は飯よりもイエスが好きだ」という言葉です。それが彼の主イエスへの最上の信仰告白でした。植村先生は最初その言葉を聞いた時、あまりよく思わなかったようです。ご飯とイエスさまを比べるなんて、どうかしていると思ったのかもしれません。それに、もっと上品な言葉で、主イエスへの愛を言い表すことができるだろうと思ったようです。

 でも、植村先生が歳を重ね、死というものが間近に迫って来た時、「俺は飯よりもイエスが好きだ」と言っていた、あのご高齢の信徒の方の気持ちがよく分かるようになったと正直に述べているのです。植村先生は言います。「信仰は感情の伴わない頭でっかちの信仰ではいけない。信仰は何よりもイエスが好きだという感情が伴うものだ。」植村先生は、伝道者として、牧師として、何よりも一人のクリスチャンとして、歩みをずっと重ねてきました。日本を代表するような伝道者・牧師でした。人一倍、御言葉に聞き、神様のことについて、人間のことについて深く考えながら歩みを重ねてきたことでしょう。何をどのようにして語り伝えればよいのか、その言葉について深い吟味を重ねてきたことでしょう。そのような歩みの中で、最後に何が残るのか。それはとても単純なものでした。主イエスを愛するという一点に、信仰生活の大切な点が集約されている。もっと俗っぽく言えば、主イエスのことが好きかどうかということ。主イエスのことが好きで好きでたまらないということ。ご飯が自分のいのちを支えるよりも遥かに勝って、復活の主のいのちが私を本当に生かしている。だから、あのご高齢の信徒の方が口にしていたように、「俺は飯よりもイエスが好きだ」と喜びをもって信仰を言い表すというこができる。その中に信仰に生きる者の幸いがあるのです。

 今から私どもは聖餐を共に祝います。「見ないで信じる者は幸い」とおっしゃってくださった主イエスが、この聖餐においては、パンとぶどう酒を自分たちの目ではっきりと見、自分たちの舌ではっきりと味わうことができる、そのような確かな形で、救いの恵みを明らかにしてくださいます。神は豊かな憐れみによって、罪深い私どもを包み込んでくださるお方です。この世界はどれも不確かであり、何の希望もない。信じられるのは自分の力だけだと言いながら、結局どうすることもできない私どもの中に主イエスは来てくださいました。洗礼を受けて新しい人間にされたにもかかわらず、古い自分に捕らわれてしまう私どものもとを、この日も訪ねてくださり、主御自身がこの食卓を用意してくださったのです。ここにあなたの救いがあり、ここに真実の愛と生ける望みがあると、復活の主は告げてくださいます。

 また、聖餐はこの主イエスの愛に私どもが応える時、献身を新たにする時でもあります。上手く、あるいは、思ったように応えることができないかもしれません。「飯よりもイエス様が好き」としか言いようがないかもしれません。でも、私どもにとってのまことのいのちの糧は主イエス・キリストだけであり、キリストが与えてくださる霊の糧によって養われている者であるということに変わりはありません。その思いを大切にしながら、これからも礼拝をささげる度に、御霊と御言葉によって心の目を開いていただきたいと願います。その開かれたまなざしで天を仰ぎ見、望みを新たにしましょう。お祈りをいたします。

 見ないで主を信じる信仰へと導いてくださり、愛と喜びに生きる道へと招いてくださり感謝したします。地上の歩みにおいて、様々な試練を経験するかもしれませんが、あなたの力と真実が私どもを守っていてくださることを信じることができますように。そして、天に備えられている救いのすばらしさに心を向け、賛美をささげることができますように。すばらしい喜びに満ち溢れている存在として、教会がこの地に立ち続け、主から与えられた使命に生きることができますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。