2020年09月13日「腹を立てるな」
問い合わせ
腹を立てるな
- 日付
- 日曜朝の礼拝
- 説教
- 藤井真 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 5章21節~26節
音声ファイル
聖書の言葉
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」マタイによる福音書 5章21節~26節
メッセージ
私どもは日々、様々な感情を抱きながら過ごしています。昨日までの一週間を振り返ってみましても、同じ一つの気持ちで七日間を過ごすことができたという人は、ほとんどいないのではないでしょうか。喜び、感謝しつつ歩むことができた日もあれば、涙を流すような悲しい経験をしたという人もいるでしょう。先行きがはっきりと見えない苦しみに心が押しつぶされそうになったこともあるかもしれません。また、物事が思うように前に進まず、苛立ったり、怒りを覚えたりしたこともあるでしょう。なぜ、あの人は私のことを分かってくれないのだろう。なぜあの人たちは自分のことばかり考えて、私のことを何一つ考えてくれないのだろう。そのような腹立たしい思いで心が一杯になったこともあったのではないでしょうか。
主イエスが、御言葉をとおして今日、私どもに対して語り掛けておられる一つのことは、「腹を立てるな」ということです。腹を立てること、怒るということの中に、あなたがた人間の深い問題があるのだと言うのです。そうだとしたら、私どもはなるべく穏やかに過ごせばよいのでしょうか。よく考えてみると、私どもが願っていることは、なるべく自分自身穏やかでありたいということです。そして、自分だけではなくて、共に生きる人たちもまた怒ることなく、穏やかでいてくれたらどれだけありがたいことかと思います。しかしながら、中々そうはいきません。単に自分が怒りっぽいか、そうでないかということよりも、どうしても腹を立てて怒らざる得ない状況に置かれることがよくあるからです。明らかに相手が間違っていると分かった時に、それを知っていながら、黙っていることはよくないことだと、自分の良心が声をあげることがあるでしょう。もし、黙り続けているならば、結局それは、相手の間違いを自分も認めることにもなってしまうのです。だから、「義憤」という言葉がありますように、義しい怒り(正義の怒り)も存在して然るべきだと誰もが考えるのです。なぜ、私どもが腹を立てるのでしょう。何の理由もなく怒る人というのはまずいないと思います。理由があるから腹を立てるのであり、その理由は怒るのに十分値すると思っているのです。
主イエスは、兄弟に「腹を立てるな」とおっしゃった後、続けて、兄弟に向かって、「ばか」と言うな。「愚か者」と言うなとおっしゃいました。腹を立てるというのは、心の中でぶつぶつとつぶやいて、それで終わりではありません。それが「ばか」とか「愚か者」という実際の言葉となって、相手にぶつけられます。これもよく分かることかもしれません。しかし、驚くべきことは、腹を立て、「ばか」と言う者、「愚か者」と言う者は、神の裁きを受けるということなのです。22節を見ますと、段階的に「裁き」「最高法院」「火の地獄」というふうに度合いは強くなっていますが、どれも同じ神の裁きを受けるということに変わりはありません。腹を立てるだけで、何も言わなければ、それほど対した裁きを受けずに済む。だから腹を立てても、ほどほどにしておけばいいという話ではないのです。
もともと、今日の話の発端は21節にありました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」主はそうおっしゃった後に続けて、「しかし、わたしは言っておく。」と言って、主御自身の言葉について述べられたのです。「殺すな」というのは、十戒の第六番目に記されている戒めです。「人を殺す者は裁きを受ける」という言葉も十戒の文言そのものにはありませんが、他の箇所を見ますと、殺人の罪は死刑に処せられるということが記されています(出エジプト記21章)。主イエスは、先の第5章17節でこうおっしゃいました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」主イエスは、「旧約聖書とか十戒というのはもう古い言葉だから読んでも意味がない。これからはわたしが語る言葉を神の言葉として聞きなさい。」とおっしゃったのではないのです。むしろ、旧約聖書の言葉を完成するために来たのだと言うのです。つまり、あなたがたがこれまで聞いて信じてきた聖書の御言葉は、実はこういう意味をもっているのだということを明らかにしようとされたのです。「殺すな」という十戒の戒めもその一つのです。人を実際に殺さなければ、それで「殺すな」という戒めと守ったことになるのか?という主イエスの深い問いがここにあります。実際に誰かをナイフで刺したり、銃で撃ったりすることがなくても、「殺したい」という思いを、あなたがたは心に秘めているのではないか。主イエスはそのように問いかけています。そこに殺人の根っこがあるのだというのです。
宗教改革の時代、ハイデルベルク信仰問答と呼ばれる信仰問答が作成されました。十戒の「殺すな」という戒めを解説するところで、このようなことが語られています。「神が、殺人の禁止を通して、わたしたちに教えようとしておられるのは、御自身が、ねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような殺人の根を恨んでおられること。またすべてそのようなことは、この方の前では一種の隠れた殺人である、ということです。」(問106)私どもは、殺人の根、つまり、ねたみや憎しみや怒り、復讐心を持っています。その根っこが取れないから、いつまでも、人を殺し続けているのです。またハイデルベルクは、「一種の隠れた殺人」と呼んでいます。ニュースで報道されるような殺人事件を犯しているわけではないかもしれません。しかし、隠れてこっそりと誰かを殺している。「あの人さえいなければ、自分の人生もう少しいいものになっていたのに」とつぶやきながら、密かにその人のことを、自分の中から消してしまっているのです。主イエスがおっしゃった「ばか」と言うな、「愚か者」と言うなということですが、「ばか」というのは「虚しい者」という意味があります。「愚か者」というのは、もっときつい意味で、「神なき者」とか「神に呪われた者」という意味があります。神に呪われるということが、いったい何を意味するのか。それは決して、冗談半分で口にすることができるような言葉ではありません。特に、ユダヤの人たちというのは、神に呪われて死ぬということがどれほど恐ろしいことであるか。そのことをよく知っていた人たちです。でも、そういう言葉を平気で口にしてしまうのです。それほどに相手のことを重んじていないということの表れでもあります。
ここで一つ思い起こしますのは、旧約聖書の創世記第4章に記されているカインとアベルの物語です。最初に造られた人間アダムとエバから生まれたのが、カインとアベルの兄弟でした。ある時、兄のカインが作物をささげ、弟のアベルが羊の初子をささげました。しかし、どういうわけか、神様はカインの献げ物には目を留めてくれませんでした。聖書はその理由について何も記しません。納得がいかなかったのはカインでした。どうして、神様は私の献げ物を喜んでくれなかったのだろうか?なぜ、アベルの献げ物だけ喜ばれたのだろうか?神様がなさったことに対する問いが深まれば深まるほど、神様に対してというよりも、弟アベルに対する怒りが込み上げてきました。激しく怒ったカインは顔を伏せてしまいます。神様は、「顔を上げてわたしを見るように」とカインに呼び掛けました。でも、カインは神様の御顔を見ようともせず、罪に支配されてしまいます。そして、とうとう弟アベルを殺してしまいました。人類最初の兄弟カインとアベルの物語は、人類最初の兄弟殺しというたいへん悲しい物語になってしまったのです。
神様は、アベルを殺したカインにこうおっしゃいました。「お前の弟アベルはどこにいるのか?」(創世記4章9節)神様がいつも問うておられることは、私どもの立ち位置です。あなたはどこに立っているのかということです。カインの父アダムに対しても、「どこにいるのか」(創世記3章9節)と問われたことがありました。罪を犯し、神様の御顔を避けるために、木の間に隠れていたアダムに「どこにいるのか」と問われたのです。それは、わたしとの正しい関係の中に立っているか?わたしの顔を避けずに、わたしと真っ直ぐに向き合っているか?という問いでもあります。アダムの息子カインにはこう問われました。「お前の弟アベルはどこにいるのか?」これは、神様との関係だけでなく、兄弟との関係、隣人との関係においても、あなたは正しい所に立っているかという問いでもあります。でも、カインはこう答えたのです。カインは答えます。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」すべてをご存知である神様を前にして、実に愚かな答えです。でも、それが罪ある人間の姿だということでしょう。怒りによって神を見失い、共に生きる隣人を見失ってしまっているのです。そして、自分さえも見失っているのです。
このカインとアベルという人類最初の兄弟にして、最初の殺人の物語を読みながら、読む度に、たいへん辛く悲しい思いに捕らわれる経験をいたします。それは、客観的に外側から見て、どうして仲がいいはずの兄弟の間で、殺人などという悲劇が起こってしまったのだろう?ということではないと思います。この兄弟の物語が辛く悲しいのは、この私もまた、兄のカインの気持ちがどこかで分かってしまうからではないでしょうか。私もこのカインのように、怒りの中で、神を仰ぎ見ることができなくなり、ついには、自分を見失い、人を殺してしまうのではないかという恐れに捕らわれる時、本当に心が震えるような思いがいたします。私どもは、決して一人で生きているのではなくて、家族や友人、職場や教会のなど、本当に多くの人たちに取り囲まれて生きています。直接会ったことがなかったとしても、どこかでいい意味でも、わるい意味でもその人たちの影響を少なからず受けているものです。そして、私どもの身の回りで起こる色んな出来事をよく考えてみると、どこかで誰かが関わっているケースが実に多いのではないでしょうか。そうしますと、自分の身に起こる出来事が、自分にとって都合のいい場合はそれでいいのですが、そうでない場合、カインのように、なぜこんなことが起こるのか?なぜ私だけがこんな目に遭わないといけないのか?という思いが生じてきます。その時、その思いがやがて怒りに変わってしまうということは、よくあることなのだと思います。
だから、神様がカインに願った一つのことは、「顔を伏せるな」ということでした。顔を上げて、わたしを見なさい!ということだったのです。もし、神を見つめることをしなければ、私ども人間は罪に支配された人生を生きる他ないからです。主イエスがここで、「殺すな」「腹を立てるな」「『ばか』と言うな」「『愚か者』と言うな」と言葉を続けられたのも、結局は、「あなたを呼んでいる神の御声を聞いて、神を見るように」ということと同じです。「実際に手を出して殺すだけだが殺人ではなくて、心の中で相手を憎むことも同じ殺人なのだ。だからもうあなたがたが神に裁かれる以外にない」と言って、私どもの行き場を完全に封じ込めようとしたのではないと思います。もちろん、神様は私どもの心をご覧になる方です。「心の中で密かに人殺しをしているね」とはっきりおっしゃる方です。でも、その私どもの心を見つけながら、顔を上げるように呼び掛けておられます。その時に、神様との関わりだけでなく、自分が共に生き、そして、愛すべき兄弟を見出すことができるからです。
ところで、ある神学者は、このようなことを言っています。「私どもは愛するからこそ、怒る。正しい怒りは憎しみとは異なる。そして正しい怒りは和解を願ってやまないはずである。」正しい怒り、それは和解を願ってやまないはずだと、この先生は言います。主イエスがここで願っておられること、そして、主がおっしゃった言葉の中に込められている祈りも、この「和解」ということではないでしょうか。「わたしの怒りは正義の怒りである。だから、あなたがたは滅びよ」というのではないのです。どうか和解してほしい。神とも、そして兄弟とも。そのための主イエスの言葉なのです。
だから、主はこうおっしゃったのです。23節以下です。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」主イエスは、私どもに呼び掛けおられます。「仲直りするように!」「和解するように!」主は、17節で、わたしは律法を廃止するためではなく、完成するために来たとおっしゃいました。律法を完成するというのは、例えば、十戒の「殺すな」という戒めを取り上げて、「この戒めの本当の意味は、心の中で誰かをねたんだり、憎んだり、腹を立てたりすることも含まれるのだ。まさか、そこまで広い意味があるとは考えたこともなかっただろう。」と言って、人々をアッと言わせる。それだけが目的ではありません。主イエスは、ここで「殺すな」という戒めを、もっと積極的な意味で捉えています。それが、兄弟と「和解する」ということです。十戒というのは、「〜してはいけない」という禁止命令や、「〜しなさい」という命令文が目立ちます。そうすると、どこか堅苦しい思いがするかもしれません。でも、主イエスにお会いし、主に救っていただいた人間は、この十戒を堅苦しいという思いではなく、むしろ私どもを自由へと解き放ってくれる、そのような神の言葉として聞くことができるのです。だから、「あなたは殺してはならない」というのは、言い換えると、「あなたはもう人を殺さなくてもよくなった」と言うことができるのです。実際、「殺すな」というのは、「あなたは殺さない」と訳すことも可能な言葉なのです。神が願っておられる世界というのは、もう私どもが人を殺すことのない世界です。キリストによって救われた者は、もう誰も殺さない世界の中を、既に自由に生き始めているとも言えるのです。
キリストに救われた人間は、「和解」が持つ重みというものをよく知っている人間です。そして、23節、24節で言われていることは、神を信じる者にとって一番大切とも言える「礼拝」のことです。祭壇に供え物を献げるために、神殿に向かったのでしょう。しかし、その途中で、自分に反感を持っている兄弟のことを急に思い出したのです。「兄弟」というのは、血が繋がった兄弟だけというふうに限定する必要はないと思います。要するに、誰かが自分を憎んでいるということを思い出した。せっかく、気持ちよく礼拝に行こうと思ったのに台無しになった。逆にその人に対する怒りが込み上げてきた。その時、どうしたらいいのか。主イエスは、「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」ということです。「礼拝する前に、まずあなたがすべきことがあるだろう」ということです。誤解を恐れずに言えば、礼拝よりも兄弟との和解が大事だということです。もちろん、礼拝をいい加減にしていいということではありません。あなたが腹を立てたまま、供え物を神様に献げたとしても、それで本当に神様がお喜びになられるのかということです。旧約聖書のホセア書には、私どもが神にささげる本当の献げ物とは何かということについて記されています。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア書6章6節)神が喜ばれるのは「愛」です。神に向かう愛、人に向かう愛、その愛がなければ、礼拝にいくら高価な供え物を持ってきたとしても、それは神が喜ばれる礼拝にならないと言うのです。
しかしながら、私どもは和解することの難しさというものをよく知っているのだと思います。主イエスが、25節でもおっしゃっているとおり、和解しなければいけない相手、兄弟というのは、自分のほうから一方的に恨みを抱いている人間ではありません。もし、自分が一方的にその人に腹を立てて、怒っているというのであれば、方法次第では自分の心を落ち着かせて、何とか和解に持ち込むことが可能かもしれません。でも、和解すべき相手というのは、向こうのほうから一方的に、自分を恨み、裁判にまで持ち込もうしている。つまり、自分にとって「敵」であると言ってもいい人間なのです。それにもかかわらず、「和解しないと神に裁かれる」などと、さらに厳しいことを主イエスから言われたならば、私どもはもうどうすることもできず、途方に暮れてしまうだけだと思います。
しかし、「兄弟と和解するように」と命じられた主イエスは、人間同士が和解しようにもすることができない悲しい現実を知らないはずはありません。だからこそ、この世界に来てくださったと言ってもよいのです。私ども一人一人が、神の御前に立つことができ、神から喜んでいただける存在になることができるように、主イエスはこの世界に来てくださいました。その主イエスの十字架は、神との和解のしるしと共に、私ども人間同士が和解するうえでなくてはならないものです。主イエスが十字架につけられたのは、私ども人間が腹を立てたからです。「このイエスという人間は、人を惑わす者。救い主でも何でもない。私たちが望む救いを与えることができない者。」そう言って、主イエスを十字架にかけて殺しました。十字架というのは、木にかけられるということでもあります。旧約の時代から、木にかけられる者は、神に呪われた者であると言われてきました(申命記21章23節)。最初のほうで、「愚か者」という言葉は、「神に呪われよ」という意味だと申しました。だから、腹を立てて、誰かに「愚か者」などと言ってはいけないと主は厳しく命じられたのです。しかし、主イエスは人間の罪を背負い、神の怒り、そして呪いをすべて十字架の上で受けられたのです。私どもが受けるはずの神の呪いを、すべて十字架の上で受けてくださいました。また、主は十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)そのように執り成しの祈りをささげてくださいました。神と人との和解のために最後まで御自身のすべてを献げてくださったのです。
この主の十字架によって、神との和解、兄弟との和解の道が拓かれました。それは、神と隣人を愛する愛の道が拓かれたと言ってもよいでしょう。主イエスの十字架は、今もずっとゴルゴダの丘に立っているわけではありません。でも、キリストの体である教会が与えられています。たとえ、礼拝堂に十字架が掲げられていなかったとしても、十字架の言葉ここで告げられます。「礼拝に来る前に、まずやるべきことがあるだろう!」と厳しいことをおっしゃりながらも、しかしそれでも、「あなたがここに来なければ和解の道はない。愛の道はないのだ。」そのように激しい愛をもって、今も主イエスは私どもに語り掛けてくださいます。だから、私どもはここでもう一度、顔を上げ、主を仰ぎつつ、主イエスによって赦されている幸いを共に味わいたいと願います。ここから兄弟との和解の道が始まるのです。
最後に25節を少し見たいと思います。主イエスは、「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。」とおっしゃいました。ここで「早く」とおっしゃっています。時間が立ってからとか、お互いの気持ちが整理できたらとか、怒りの感情が少し収まったらというのではありません。早く和解するようにと言うのです。そうしないと、相手に訴えられて、裁きを受けることになるからです。私どももまた終わりの日に、皆、神の前に立つのです。神の裁きの前に立つのです。主の日の礼拝をささげる度に、私どもは終わりの日に、神の前に立つその備えをしていると言ってもよいのです。再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ、私どもは何をすべきかがいつも問われています。主イエスはおっしゃっています。「早く和解しなさい」と。なすべきことが多い私どもの歩みです。しかし、真っ先に優先すべきこととして、和解すべき兄弟のために祈り、和解の道を歩み始めたいと思います。最後に必ず主イエスが来てくださるのですから、私どもは諦めることなく、兄弟との和解のために、愛のために仕えていきたのです。お祈りをいたします。
神様、あなたは私どもにいのちを与え、そればかりか御自身に似る者としてお造りくださいました。あなたは私どもが死ぬことではなく、いのちに生きることを望まれるお方です。それにもかかわらず、人はどれだけ互いのいのちを奪い合ってきたことでしょうか。怒りや憎しみによって、どれだけ隠れた殺人を犯し続けていることでしょうか。どうかお赦しください。今一度、あなたを仰ぎ見ることができますように。あなたが喜んでくださる人間として歩むことができるように、いつも御霊によって清めてください。終わりの日まで、和解に生きる道を諦めることなく歩むことができますように。様々な人間関係の中に生きる私どもが、そこで疲れてしまうことがないように、励ましてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。