2020年09月06日「復活の主に遣わされて」

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復活の主に遣わされて

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章16節〜20節

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聖書の言葉

16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書 28章16節〜20節

メッセージ

 先程、お読みしましたマタイによる福音書は、一つの大きな特徴をもって、福音書を閉じています。マタイだけではありません。救い主イエス・キリストの地上の歩みを記した4つの福音書は、どれも独特な終わり方をしています。普通の手紙であるならば、決まった言葉で筆を置くのでしょうけれども、福音書記者たちはそれぞれが深いこだわりをもって、最後の言葉を残しました。「余韻」という言葉がありますように、終わっているのに、まだ何かが心の中で鳴り響いているのです。マルコは、復活の出来事を目の当たりにした女性たちが、正気を失い、沈黙したことを記します。その理由は、「恐ろしかったから」だと言うのです。なぜ、主イエスの復活が喜びではなく、恐ろしかったのでしょうか。ルカは、手を上げて、弟子たちを祝福しながら、天に昇って行かれる主イエスのお姿を記します。弟子たちの目線は天に向けられています。何を思いながら天を見つめ、これから新しく始まろうとする聖霊の時代を迎えようとしていたのでしょうか。ヨハネは、主イエスがなさったことはあまりにも多過ぎて、この福音書には収めきれないと語ります。もちろん、ヨハネが記した福音書をとおして、イエスが救い主であることを信じれば、いのちを得ることができるのですが、収めきれなかった主イエスの言葉、御業とはどのようなものだったのでしょうか。どの福音書記者も敢えて気になるような終わり方で、それぞれの福音書を閉じているのです。

 では、マタイは福音書の最後に何を記したのでしょうか。本日の第28章16節以下は、地上における主イエスと弟子たちとの最後の場面を描いている箇所です。そして、最後の言葉は、復活の主が弟子たちに約束してくださった言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この主の言葉が、後の教会の人々の心に響き続けていました。主イエスがいつも共にいてくださる、このことがどれだけ多くのキリスト者たちの慰めとなり、励ましとなってきたことでしょうか。マタイはどうも主が共にいてくださるということを、福音書の初めから明らかに意識していたようです。主イエスの父となりましたヨセフが、夢の中で天使から告げられたことがありました。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」マタイによる福音書第1章23節の御言葉です。イエスというお方はどのようなお方なのでしょうか。それこそ、分厚い本を何冊も出せるほどのたくさんの言葉で説明することができるでしょう。しかし、マタイはどうしてもこの「インマヌエル」、つまり、「神は私たちと共におられる」ということを伝えたかったようです。だから、最後にも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という主イエスの肉声を残しました。

 マタイはこの後、主イエスと弟子たちがどうなるかを記しませんが、明らかなことは、ルカによる福音書にも記されていますように、主が天に昇って行かれ、主のお姿を見ることができなくなってしまうということです。しかし、聖霊が与えられ、福音が宣べ伝えられ、教会が誕生するのです。主イエスはもうこの地上にはおられませんし、主のお姿もこれまでのように見ることができなくなりました。しかし、主が与えてくださった聖霊の働きの中で、新しい歩みを始めることになったのです。その新しい歩みの中で、ずっと響いている言葉こそ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という復活の主の言葉だったのではないでしょうか。言葉が一人歩きしているのではなく、主の言葉と共に、復活の主御自身が共にいてくださる幸いを、11人の弟子たちも、そして代々の教会やキリスト者たちも共に味わいながら、ここまで歩みを重ねてくることができたのです。

 マタイによる福音書は、最後の第28章から主イエスが復活した喜びの知らせを記しています。復活の日の朝、女性たちが主イエスの遺体が収められているはずの墓に行くと、石が取り除かれ、主イエスはそこにおられませんでした。代わりに天使の声が響き渡るのです。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイによる福音書28章6節)そして女性たちに命じました。弟子たちのところに行って、主の復活を告げ、エルサレムから離れたガリラヤの地で主とお会いすることができると告げるようにというのです。また一方で、マタイだけが記すもう一つの記事があります。それは墓の前で見張りをしていた番兵たちのことです(同28章11〜15節)。彼らは主イエスの遺体が墓からなくなったことに慌てたのでしょう。それで都に帰り、祭司長、長老たちと相談することになります。もし、自分たちが十字架で殺したイエスが、復活したなどということが明らかになれば、たいへんな騒ぎになり、自分たちの身も危なくなります。そこで何をしたのでしょうか。それは今日で言う賄賂工作です。お金を番兵たちに渡し、弟子たちがイエスの遺体を盗んだという話にすり替えたのです。つまり、「復活などない!」という話で、すべてを通そうとしたのです。そして、その噂は、ユダヤ人の間で広まることになります。

 主イエスは復活なさったのに、そんなことがあるはずはないと言い張って、その出来事をもみ消そうとする。このことは何も2千年前に起こった昔の話ではありません。今日、私どももまた、「主の復活などない」という世界の中を生きているのではないでしょうか。それも、お金を渡せば、神様がなさった復活の出来事など簡単に揉み消すことができる。そのような愚かな人間の思いによって覆われた世界が今もここにあるのです。主イエスの復活を否定しようとすればするほど、そこには力をもって支配しようとする人間の思いが大きくなります。都合がわるいことは揉み消し、自分たちにとって都合のいい世界だけを築き上げようとします。主イエスの復活を否定することは、神そのものを否定することでもあります。そこにはなお罪あり、行き着く先は死と滅びでしかありません。

 だから、復活の主は、弟子たちにガリラヤに行くように命じられたのです。「イエスが甦えられたはずなどない。弟子たちに盗まれただけだ」という噂が広がるエルサレムから離れた弟子たちの故郷ガリラヤに行き、山に登るようにと主はおっしゃったのです。このガリラヤにある「山」について、多くの人々が推測しますのは、あの「山上の説教」が語られた山ではないかと言っています。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。…」そのように、主がかつてキリストの弟子として生きる幸いを教えてくださったあの山にもう一度登るように、命じられたのです。そして、主イエスは先回りして、山の上で待っていてくださるのです。主イエスを裏切り、自分の罪に絶望している弟子たち、主が復活したという知らせを聞いても、何が起こったのかまだ十分に受け止め切れていない弟子たちがそこにいました。初めは12人いたのに、ユダが裏切って今は11人になっています。様々な思いが交錯していたことでしょう。決して、軽やかな足取りでガリラヤに向かうことができたわけではなかったと思います。重い足を引きずるようにして、ガリラヤの地に向かったのではないでしょうか。

 しかし、そのような弟子たちを、先回りして待っていてくださるお方がおられます。それが復活の主イエスです。この復活の主に招かれるようにして、弟子たちは山に登り、主イエスとお会いすることができました。そして、そこで弟子たちがしたことは、17節にありますように「ひれ伏した」ということです。ひれ伏すというのは、礼拝するという意味の言葉です。この福音書を記したマタイは、第2章でも人々がイエス・キリストを礼拝する場面を描きます。それはクリスマスの出来事を語る場面です。占星術の学者たちが、黄金・乳香・没薬という彼らにとっての大切な宝であったものを献げた際、「彼らはひれ伏して幼子(イエス)を拝(んだ)」(マタイによる福音書2章11節)のです。そして、マタイはこの福音書を閉じるにあたり、もう一度、イエスこそ、復活の主イエスこそ、私たちがひれ伏し、礼拝すべきお方であるということを明らかにしようとしました。復活の主イエスとの出会いは、何よりも神を礼拝する場において与えられます。主日ごとの礼拝をこうして守ることができるのは、いつも復活の主の招きがあるからです。「わたしのもとに来なさい」という主の招きがあり、先立ってこの場所に立っていてくださる主が、私どもが教会に来ることを心から待ち望んでいてくださるのです。そして、私どもが神を礼拝する時、そこに主イエスとの真実の出会いが与えられていくのです。

 ただ一方で、17節を読んでいまして、興味深いことは、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあるように、「疑う者」がいたのだということです。主イエスの礼拝しながら、どうも心が一つに定まらず、疑っている者がいたというのです。では、いったい11人いた弟子たちのうち誰が疑ったのだろうということになります。何人かはちゃんと信じていたけれども、他の何人かは疑っていたということなのでしょうか。どうも、そういう細かいことは一切記されておりません。ここは、そのまま訳しますと、「彼らはイエスを見て拝んだけれども、疑った」となります。11人中何人だけが疑ったというよりも、11人全員が疑っていたのです。

 マタイによる福音書を読む人たちが、疑う弟子たちのことを聞いて、もう一つ思い起こす箇所があります。それが第14章22節以下に記されている出来事です。ある日の夕方、舟の上に乗った弟子たちが、湖を渡って、向こう岸に行こうとするのですが、逆風に悩まされてしまいます。一晩中漕いでも思うように前に進まない。とうとう、夜が明ける時刻となりました。その時、主イエスが湖の上を歩いて、弟子たちの乗る舟に近づいて来られたのです。思わず、弟子たちは「幽霊だ」と叫ぶのですが、すぐに主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃってくださいました。弟子のペトロが何を思ったのか、私も湖の上を歩いて渡りたいと主にお願いします。主もペトロに「来なさい」と命じられました。沈んでしまうのではないかという恐れもあったかと思いますが、主の言葉に導かれ、ペトロは勇気を出して水の上に足を踏み出しました。そうすると、本当に歩くことができたというのです。一歩一歩、水の上を歩きながら、主イエスの言葉に従って一歩を踏み出して歩んでいくということがどれだけ素晴らしいことであり、幸いなことであるかを感じ取っていたことでしょう。しかし、ペトロは強い風が気になりました。風によって波が高くなっている様子が目に映ったのでしょう。「恐い」と思った瞬間、ペトロは水に沈みそうになったのです。しかし、主イエスがすぐに手を伸ばして、助けてくださったのです。そしてペトロにおっしゃいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」(マタイによる福音書14章31節)。

 この時、主イエスがペトロに言った、「なぜ疑ったのか」という言葉が、本日の第28章17節の「疑う者もいた」という言葉と同じです。しかも、ちょっと疑ってみたというのではなくて、強い疑いを意味する、そういう言葉です。元々は、「心が二つに分かれる」という意味があります。焦点が一つに定まらないのです。主イエスを真っ直ぐに見つめて歩めばよいのに、強い風によって波が高くなる様子が目に入って恐くなったのです。だから、沈みそうになったのです。私どもが見るべき一つのもの、私どもが立つべき一つの場所に立つことができないがゆえに、主イエスを疑うということが起こります。そして、第14章が記されている舟の上での出来事ですが、この「舟」というのは、昔から「教会」を意味すると考えられてきました。私どもも、教会という舟に乗りながら、教会の仲間たちの共に信仰の航海を続けます。時に嵐に襲われ、時に沈みそうになることもあるでありましょう。でも、復活の主が共にいてくださり、たとえ沈みそうなっても、手を伸ばし、助けてくださるのです。ただそのように、信仰に生かされ、救いの恵みを知っているにもかかわらず、心が二つに分かれ、見るべきものを見ることができず、疑いと恐れに捕らわれてしまうということがあるのです。「疑う」というのは、死んだ人間が復活するはずなどないというふうに、生物学的に信じられないとか、科学的に信じられないという話ではありません。復活の主を信じるというのは、人間の思いや考え、知識といった自分の中にある基準が第一になるのではないのです。湖の上においても、山の上でも、弟子たちは何を疑ったのでしょうか。なぜ、疑いの思いが生まれたのでしょうか。それは、とても単純なことで、神様の愛を信頼することができなかったからではないでしょうか。幾度、疑い、裏切ったとしても、十字架につき弟子たちの罪を赦そうとする主イエスの愛を最後まで信じることができませんでした。復活して、もうあなたがたは赦しといのちの中にあることを信じることができなかったのです。

 しかし、復活の主イエスは、疑う弟子たちを御自分の前から排除しようとはなさいませんでした。復活の後、ガリラヤの山の上に登って来た弟子たちに対しても同じです。彼らを見捨てようとはなさいません。18節に「イエスは、近寄って来て言われた。」とあります。主は疑う弟子たちに近寄って来てくださいました。主イエスを疑い、水に沈みそうになったペトロの手を取って、助け出してくださったように、復活の主とそこに示された神様の大きな愛をまだ信じることができない弟子たちのもとに、自ら近寄って来てくださったのです。私どもがこうして信仰の歩みを重ねることがゆるされているのは、いつも御前に私どもを招いてくださり、疑い迷うことがあったとしても、救いの手をすぐに差し伸べてくださる復活の主が今も生きて働いていてくださるからです。救いと助けを与えてくださる復活の主が、いつも近寄って来てくださり、何度でも信仰を呼び起こしてくださるからです。

 そして、弟子たちの疑いをまるで覆い隠し、押し潰すようにして、主は言葉を続けられました。18節〜20節です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」復活の主の言葉、それは弟子たちにする命令の言葉でもあります。命令というのは、「このように生きよ!」ということでしょう。主イエスの救いに生きるということは、私どもが本来なすべきことは何であるのかを示されるということでもあります。いくつかのことがここで言われていますが、その中心になるのは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」ということです。教会の言葉で言えば、「伝道」するということです。主イエスは、18節にありますように、「天と地の一切の権能を授かっている」お方です。私どもが生きる世界には様々な力があります。権威や権力といったものがたくさんあります。今年、世界中を苦しめている新型コロナウイルスもまた、一つの大きな力と言ってよいでしょう。幸い守られてはいますが、予想もしないところから感染し、いのちを落とすこともあるかもしれません。そして、死の力こそ、この世にある力の中で、最も大きな力と言ってもよいでしょう。だから、自分は誰かのいのちを握っているということが分かれば、その相手に対してくいくらでも偉そうに振る舞うことできるものです。しかし、主イエスは罪と死の滅びから甦ってくださいました。しかも、自分たちのいのち、自分たちの力について、大きな思い違いをしている者たちを滅ぼすのではなく、主イエス自ら人間の罪を背負い、十字架に死んでくださったのです。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」そうおっしゃった復活の主は、御自身の力をこの世界を明らかにするために、何をなさったのでしょう。例えば、自分を苦しめ十字架につける判決を下したポンテオ・ピラトのもとに行ったのでしょうか。十字架にかけられ苦しんでいる時に、「それでもユダヤ人の王か。お前が救い主であるならば、今、自分を救って、十字架から降りてみろ」と言って侮辱したローマ兵たちの前に現れたのでしょうか。それとも、当時ユダヤを支配していたローマ皇帝の前に現れ、「わたしこそまことの王である」と告げたのでしょうか。そのいずれでもありませんでした。父なる神から天と地の一切の権能を授かった復活の主は、その御自分のいのち、そして、御自分の力をすべて弟子たちに注いでくださいました。11人の弟子たちというのは、決して教養が優れた人物でもありません。強い権力を持っている人間でもありません。人の目から見れば、田舎に住むごく普通の人間です。主イエスを信じる信仰が与えられながらも、失敗を繰り返し、心を真っ直ぐ神様に向けることができない者たちばかりでした。しかし、主は彼らを弟子として選び、伝道の最前線に遣わされるのです。

 たった11人から始まった伝道の働きは、2千年という長い歴史の中で、世界中に多くのキリスト者や教会を生み出してきました。私どももまた復活の主に出会い、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」られ、キリストの弟子とされました。今も生きておられる主は、教会に集う私どもにも、あの時と同じように、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と命じておられます。それは、主イエスのことを単に人々に言い広めるというのではなく、「弟子にしなさい」とあるように、ここには神様の強い愛の迫りがあります。一人の人を洗礼に導き、主の弟子にするためには、熱心に、そして忍耐強くその人と関わっていくことが求められます。イエス・キリストのことを知って、それで終わりというのではなく、洗礼を受けるように、つまり、父と子と聖霊の名によって、救いといのちの約束が与えられているという、この確信の中を歩んでいくということが、どれだけ幸いなことであるかを告げるのです。また、伝道の働きは、教会全体でなすべき働きであると同時に、一人一人が遣わされている場所でなすべき務めでもあり、終わりの日まで尽きることのない祈りの課題でもあります。私どもは、自分の手をどのような時も取ってくださり、決して、離すことのない神様の愛を伝えます。罪と死の力か解放された私どもは、もうこの世の力に振り回されて、生きる方向を見失うことはないのだということ。その救いを与えてくださる主イエスというお方を人々の前に差し出していくのです。

 復活の主イエスは最後に約束の言葉を与えてくださいました。20節後半です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」多くのキリスト者たち、教会にとってどれだけ大きな励ましとなってきた言葉でしょうか。「世の終わり」というのは、主が再び来られる日まで、救いの完成の日までということです。天に昇られた主は、遠くに行ってしまわれたのではなく、聖霊をとおして、この地上においても共にいてくださいます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」「いつもあなたがたと共に」というのは、「すべての日々にあって」という意味です。すべての日々、それは決して単調な歩みではないでしょう。喜びの日もあれば、悲しみを経験することもあります。健やかな日もあれば、死の力に捕らわれるような思いをすることもあるかもしれません。伝道が思うように前に進まず、洗礼を受ける者が長く教会に与えられないということもあるでしょう。しかし、どのような日々にありましても、主は共にいてくださることを約束してくださいます。キリストの福音を宣べ伝える働きをしている時、私どもは一人ではないのです。キリストの福音を語る時、自らの貧しさを実感しますが、それは福音が如何に偉大なものであるかということを表しているとも言えるでしょう。しかし、背負い切れない働きをすべて教会に委ねられたのではなく、復活の主イエス御自身も共に担いながら、御国の前進のために歩みを重ねてくださいます。世の終わりまで、すべての日々において、復活の主はあなたがたと共にいると約束をしてくださいます。主によって大きな幻を見させていただきながら、最後まで希望をもって歩んでいくのです。お祈りをいたします。

 復活のイエス・キリストよ、私どもを主の弟子として遣わしてくださることを感謝いたします。主に従い、福音を伝える働きにおいても、自らの貧しさを覚え、過ちを重ねてしまう私どもですが、その度に、あなたは近寄って来てくださり、助けの手を差し伸べてくださいます。そして、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束の御声を聞かせてくださいます。どうか、主の御声に耳を傾けつつ、あなたの弟子としてなすべき働きを喜んでなしていくことができるように守り支えてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。