2023年09月24日「神の憩いの地」
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神の憩いの地
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詩編 132編1節~18節
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聖書の言葉
1【都に上る歌。】主よ、御心に留めてください/ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。2彼は主に誓い/ヤコブの勇者である神に願をかけました。3「わたしは決してわたしの家に、天幕に入らず/わたしの寝室に、寝床に上らず4わたしの目に眠りを与えず/まぶたにまどろむことを許すまい5主のために一つの場所を見いだし/ヤコブの勇者である神のために/神のいますところを定めるまでは。」6見よ、わたしたちは聞いた/それがエフラタにとどまっていると。ヤアルの野でわたしたちはそれを見いだした。7わたしたちは主のいます所に行き/御足を置かれる所に向かって伏し拝もう。8主よ、立ち上がり/あなたの憩いの地にお進みください/あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。9あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい/あなたの慈しみに生きる人々は/喜びの叫びをあげるでしょう。10ダビデはあなたの僕/あなたが油注がれたこの人を/決してお見捨てになりませんように。11主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。「あなたのもうけた子らの中から/王座を継ぐ者を定める。12あなたの子らがわたしの契約と/わたしが教える定めを守るなら/彼らの子らも、永遠に/あなたの王座につく者となる。」13主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。14「これは永遠にわたしの憩いの地。ここに住むことをわたしは定める。15シオンの食糧を豊かに祝福し/乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。16祭司らには、救いを衣としてまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は/喜びの叫びを高くあげるであろう。17ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。18彼の敵には、恥を衣としてまとわせる。王冠はダビデの上に花開くであろう。」詩編 132編1節~18節
メッセージ
私どもの生きる目的は、神を礼拝することです。目的までの旅路においても、常に神を礼拝しながら歩んでいるのです。夕礼拝では、詩編の「都に上る歌」と呼ばれている御言葉に聞いています。神の民イスラエルの人々がエルサレム神殿で礼拝する際の巡礼の旅の中で歌われた歌。また、神殿において歌った歌です。残すところ、今日を入れてあと3回となりました。教会行事の関係で、夕礼拝で「都に上る歌」を聞くのは今月が最後となります。
今夕の詩編第132編は「都に上る歌」の中で一番長い歌です。全部で18節ありますが、これを2つに分けることができます。前半が1〜10節まで。後半が11〜18節までです。二つに分けることができますが、両者バラバラなことを言っているのではありません。むしろ、深く結びついていると言えるのです。その鍵となる言葉が「誓う」という言葉です。2節にはこうありました。「彼は主に誓い/ヤコブの勇者である神に願をかけました。」「彼」というのは、イスラエルの王ダビデのことです。ダビデが神に誓ったというのです。その内容が後で見ますけれども、3節以下に記されていきます。そして、もう一つの誓いが11節に記されています。「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。」つまり、神様の誓いです。ダビデの誓いと神の誓い、両者が一つに交わりあっている、そのような詩編の歌であるということです。
私どもの人生そのものである「礼拝」ということについて、色んな言い方をすることができるかもしれません。今日の詩編の言葉から教えられることは、礼拝というのは人間の誓いと神の誓いが一つに交わり合うこと。そのことを喜ぶことです。誓ったけれども、途中でその誓いを忘れてしまったとか、その誓いを破ってしまったならば、当然そこには喜びは生まれません。神様に対する私の誓いも、神様の私に対する誓いも真実であった。そのことを知る時に、大きな喜びが生まれます。誓いに生き抜いた私のことを神様が喜んでくださり、私どももまた誓いに対して真実であり続けてくださった神様を喜びほめたたえます。
では、詩編の御言葉を順に辿りながら、ダビデの誓いと神様の誓いについて見ていきたいと思います。まずはダビデの誓いですが、詩人は初めにこう呼びかけています。「主よ、御心に留めてください/ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。」「御心に留めてください」というのは、「思い出してください」ということです。神よ、ダビデのことを思い出してください。神よ、あなたはダビデの主であり、ダビデは主の僕です。そして、私たちもまたダビデと同じように主の僕なのです。かつてダビデが受けた恩恵に私たちもあずかっているのです。そのように祈ります。
またここでは具体的にダビデの何を思い出し、御心に留めてくださいと言っているのでしょうか。「ダビデがいかに謙虚にふるまったか」と記されています。「謙虚」と訳してもしいいのですが、多くの翻訳聖書では「苦しみ」とか「労苦」と訳されます。苦しいからこそ、謙虚になり、柔和に生きることができるようになった。そのように理解することもできるでしょう。では、ダビデは何に苦心していたというのでしょうか。色んな苦しみを経験したダビデですが、10節までに記されていることは、エルサレムに神殿を建てることを誓い、そのための苦労をダビデ自身が負ったということです。実際に神殿を建てたのは息子ソロモンですが、最初に神殿を建てようと志し、情熱を注いで準備したのは父ダビデ王でした。
その頃の様子がサムエル記下第7章に記されています。先の王であったサウルからいのちを狙われ、幾たびも戦いを続けたダビデでしたが、神の助けによって平和を築くことができました。ダビデも王様らしく立派な王宮に住むようになったのです。その時、ダビデはこう言います。「王は預言者ナタンに言った。『見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ。』」(サムエル記下7:2)主の僕である自分だけが立派な宮殿に住み、主が共にいてくださることを表す「契約の箱」は粗末な天幕(テント)に放置されていたのです。そのことにダビデは耐えることができませんでした。それでダビデは神のために神殿を建てたいと願うようになるのです。
その時の誓いの言葉が、3〜5節に記されていました。「わたしは決してわたしの家に、天幕に入らず/わたしの寝室に、寝床に上らず わたしの目に眠りを与えず/まぶたにまどろむことを許すまい 主のために一つの場所を見いだし/ヤコブの勇者である神のために/神のいますところを定めるまでは。」家にも帰らず、眠ることもなく、ただ主のために家を建てたいとダビデは熱心に誓います。「上らず」「与えず」「許すまい」というふうに3度にわたって、自分を否定する言葉が並びます。主に対する熱心さとは何でしょうか。熱心であるとは、あれをしたい、これをしなければいけないということかもしれません。ダビデの誓いもまた、眠らずに、あれもする・これもするといって労苦を重ねるということだったのでしょう。でも、ダビデは一方で「こういうことはしない」というふうに否定する言葉を繰り返しました。このことも大事なことではないかと思わされます。神に対する熱心さというのは、よく聞く言葉に言い換えれば「献身」ということでもあります。献身はそれこそ身も心も神に献げることですが、私どもが何かを神様に献げる以前に、既に私のためにすべてを献げてくださった神様の御業を忘れてはいけません。その時に、自分がこうしたい、ああしたいという思いは消えて、ただ私の主でいてくださる神様の御心のみを考えるのではないでしょうか。
さて、次の6〜8節では、契約の箱を神殿に運び入れることが念頭にあるようです。「見よ、わたしたちは聞いた/それがエフラタにとどまっていると。ヤアルの野でわたしたちはそれを見いだした。わたしたちは主のいます所に行き/御足を置かれる所に向かって伏し拝もう。主よ、立ち上がり/あなたの憩いの地にお進みください/あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も。」契約の箱というのは、その中に十戒の2枚の石の板が収められています。御言葉がそこにあるというのは、生ける神がそこにおられるというしるしです。神様がイスラエルの民と共にあって、の荒れ野の旅路を導いてくださいました。その契約の箱がエフラタにとどまっているというのです。エフラタというのは主イエスがお生まれになったベツレヘムのことです。「ヤアルの野」というは、かつて契約の箱が置かれていたキリアテ・エアリムを指すようです。やがて契約の箱は完成したエルサレム神殿に安置されることになります。このことは、神様が「わたしは神殿に留まる」という約束を意味します。8節にあるようにエルサレム神殿を神様ご自身の憩い地としてくださいました。もちろん神様はどんなに立派で豪華な神殿であろうが、その中に収めることができるほどに小さなお方ではありません。ダビデもそのことは承知しています。
でも神様はそのことをすべて分かった上で、「わたしはここに留まる」「わたしはここを憩いの地」とすると約束してくださいます。憩いの地とありますが、神様はそこでゆっくり休んでおられるわけではありません。神がご自分の名をそこに留めてくださるのは、神殿に集まる者たちが神の臨在とまことの安息を覚え、神を賛美するためです。そのために神が働いてくださるのです。9〜10節「あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい/あなたの慈しみに生きる人々は/喜びの叫びをあげるでしょう。 ダビデはあなたの僕/あなたが油注がれたこの人を/決してお見捨てになりませんように。」礼拝を司る祭司は犠牲をささげ、義とされるために執り成します。そして、会衆は心から賛美をささげます。16節では、その賛美に神が応えてくださいます。「祭司らには、救いを衣としてまとわせる。わたしの慈しみに生きる人は/喜びの叫びを高くあげるであろう。」救いを与え、賛美の歌をあなたがたの口にさずけるとの約束です。10節までの前半の部分は、このようにダビデの働きが思い起こされ、その神に対する熱意の中に、巡礼する者たちを招こうとしています。そして、神の応答、神の誓いの言葉を待ち望むのです。
11〜13節「主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。『あなたのもうけた子らの中から/王座を継ぐ者を定める。あなたの子らがわたしの契約と/わたしが教える定めを守るなら/彼らの子らも、永遠に/あなたの王座につく者となる。』主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。」これは預言者ナタンをとおして与えられた神の約束です。これも先程少し触れた同じサムエル記下第7章に記されていました。ダビデは自分だけ立派な宮殿に住んで、神を天幕に放っておいていいのかと問いました。それに対して神様は、ダビデのために家を建て、ダビデの王座を永遠に保つと約束してくださったのです。「ダビデ契約」とも呼ばれます。人々はこの契約をいつも心に留めて旅をしていたのです。13節の「あなたの子らも」「彼らの子らも」というのはダビデの子孫のことです。つまり自分たちのことでした。時代はもうダビデ王の時代ではありません。ダビデのように国を治める王もやがて途絶えることになりました。しかし、ダビデに与えてくださった神の誓いが永遠に取り消されることがないということ。このことを信じ続けていました。
また11節で、神はご自分が誓われた契約を「思い返されることはない」とありました。思い返されることはないというのは、取り消すことはないということです。反対に、神の民はすぐに神との誓いを破ります。ダビデが築いた平和というものは永遠のものではありませんでした。人々は偶像の神々に心を奪われ、まことの神を捨てました。イスラエルの王として人々を導いて行かなければいけい者たちも、自分の思いを捨てることができずに不義に溺れました。そして、エルサレムの立派な神殿も戦争によってやがて滅びることになります。神様が誓って建ててくださった神殿が破壊されることは自分たちの信仰も壊れてしまうほどの衝撃を受けたことでありましょう。ただ、神殿崩壊の出来事、捕囚の出来事もまた自分たちの背きのゆえでした。信仰が崩れるならば、神殿もまたただの建物に過ぎないということを思い知ったことでありましょう。そのような神の民の歩みであるにもかかわらず、神様の契約は永遠であるというのです。それは私どもがどれだけ罪深く、どれだけ神様に対して不忠実であったとしても、大切なものを失ったとしても変わることはないということです。そして必ず約束したことを実現してくださるのです。神の誓いと人の誓いは対等な関係にあるのではないのです。すべては神様の誓い、神様の言葉にかかっているのです。
神様は次のようにも約束してくださっています。14〜15節ですが、13節からお読みします。「主はシオンを選び/そこに住むことを定められました。『これは永遠にわたしの憩いの地。ここに住むことをわたしは定める。 シオンの食糧を豊かに祝福し/乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。』」シオンというのはエルサレムのことです。エルサレムという場所はダビデがここに神殿を建てようと言って、用意した土地です。元々、神聖な場所だったということでもありません。いわば人の目によって選んだのがエルサレムという場所だということになります。けれども、本当はそうではないのです。信仰の目から見れば、神様がシオンを、エルサレムを選んでくださり、そこをご自分の居場所、ご自分の憩いの地としてくださいました。神殿に集い、礼拝をささげる者たちが、そこで神が生きておられることを知り、彼らもまた安息を得ることができるように、エルサレムを選び祝福してくださったのです。繰り返しになりますが、神様がどこにでもいてくださる自由なお方です。しかし、その神様が自らへりくだってここに来てくださり、千里山教会、めぐみキリスト教会をご自分の住まいと定めてくださいました。私どもを祝福し、まことの憩いを与えてくださるためです。人間の業が先行するのではなく、いつも神の御業が私どもに先立ってあるのです。人間の業のように見えてしまう事柄の中にも、神様の働きがあるのだという信仰のまなざしを与えられたいと願います。
最後に17〜18節に聞きましょう。「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。彼の敵には、恥を衣としてまとわせる。王冠はダビデの上に花開くであろう。」ここにはメシア、救い主の勝利の約束が歌われています。「油を注いた者」というのはメシアを意味する言葉です。10節にも同じ言葉が記されていました。ダビデの王座からやがて救い主が到来します。17節の「角」は統治する力を表し、「灯火」はいのちを表す言葉です。ルカによる福音書の中でも、祭司ザカリアが聖霊に満たされて次のように歌いました。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた。」(ルカ1:68-69)この約束が成就するために、神ご自身が責任をもって担って働いてくださいます。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というヨハネ福音書の御言葉がありますように、神様はこの世界をご自分の住まいとして定めてくださるお方です。それは神様の誓い、約束によって、もう一度、神様と人とが祝福に満ちた交わりを回復するためでした。闇の中に光を、死の中にいのちをもたらすために、この地上にお生まれくださった救い主こそ、ダビデの子であるイエス・キリストです。復活の主をとおして、今も神様は「わたしはあなたと共に住む」と語りかけてくださいます。この神の恵みに応えて、教会という神の家を熱しに建て続けます。私どもの熱心さを、神様の誓いが支えてくださいます。お祈りをいたします。
神よ、あなたは天から降り、この世界をご自分の憩いの地と定めてくださいます。イエス・キリストにおいて真実となった、神の誓いが私どもの歩みを終わりまで支えてくださいます。神の熱心さによって救われた私たちも身と魂とをささげ、神の教会を建て上げていくことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。