2023年09月24日「あなたの勝ち」
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エレミヤ書 20章7節~9節
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聖書の言葉
7主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。8わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。9主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。エレミヤ書 20章7節~9節
メッセージ
私ども人間は、自分の人生を振り返った時、今の自分を見た時に、「勝ったのか?」「負けたのか?」というふうに、いわゆる「勝ち負け」によってその価値を見出そうとするところがあるのかもしれません。いい学校に入ることができたから私の人生は勝ち、自分のしたい仕事をすることができたから私の人生は勝ち、良い伴侶と出会い、たくさんの子どもに恵まれたから私の人生は勝ちというふうに…。もちろん、勝利ばかりの人生というのはないでしょう。勝ち負けの基準は個人によるのかもしれませんが、冷静に分析するならば、辛うじて勝利数のほうが上回っているという人もいれば、負け越しているという人もいるかもしれません。自分の願ったとおりに生きることができなかったとか、大きな過ちや失敗を重ねてきたという人もいるでしょう。あるいは、深い悲しみを経験するとき、自分の人生は勝利の人生などとはなかなか言えないかもしれません。勝ったり、負けたりの繰り返しの人生をこれまで過ごしてきたかもしれません。でも今の私どもの状態はどうなのでしょうか。今は負け知らず、連勝続きの真っ只中なのでしょうか。それとも、連敗中でそのトンネルを抜け出せずにいるのでしょうか。今は連敗中だけれども、人生の最後には大逆転・大勝利を収めてみせると意気込んでいるのでしょうか。いずれにせよ、私どものうち誰もが敗北を好む人などいないということです。できればずっと勝ち続けたいし、最後は勝利の花道で飾ることができたらと願っているのではないでしょうか。
こういう話を聞きながら、勝ちだとか負けだとか、そんなことはどうでもいい。そう思う人もここにはたくさんおられるでしょう。むしろ、そうあってほしいと私は願っていますが、どうしてかと言うと、私どもはもう身も心もイエス・キリストのものとされているからです。この世の生活において勝つか負けるかということも少しは気になるかもしれませんが、そういう価値観を超えたもっと素晴らしい恵みの中に生かされていることを知っています。罪の問題も、人生の最後の試練である死でさえも、もはやキリストのゆえに問題にはならないのです。ある人が、キリスト者というのは「ゆとりをもって生きている人だ」と言いました。実際は、キリスト者も切羽詰まった問題を前にすることも当然あるわけですが、でも神様の圧倒的な祝福の中に置かれているのですから、本当はいつも安心して生きることができるのです。余裕をもって生きることができるのです。神にすべてをお委ねして、私どもはなすべきことをなしていけばいいのです。主イエス・キリストは辛うじて罪と死に勝利したのではありません。主は十字架で死に、お甦りになられました。それはまさに圧倒的な勝利でした。その有り余る勝利の恵みにあずかる私どもの人生もまた、勝利の人生であり、もう負けを見ることはないのであります。
その神の勝利にあずかる私どもに与えられている使命とは何でしょうか。神様が私どもに「このように生きてほしい」と願っている大切な使命とは何でしょうか。それは救いの勝利の恵みを多くの人々に語り伝えることではないでしょうか。今朝はエレミヤ書の御言葉を聞きました。エレミヤという人は旧約聖書に登場する預言者の中でもたいへん有名な人の一人です。「預言」というのは未来のことを言い当てる人という意味ではありません。そうではなくて、神の言葉を真っ直ぐに宣べ伝える人のことです。今日で言うと、牧師のような働き人です。ただ福音伝道は牧師一人というよりも、教会全体に与えられている働きです。説教というのも、牧師一人が話していると思われている方が多いかもしれませんが、そうではないのです。神の言葉であると同時、教会がこの世に向けて語っている言葉でもあるのです。説教は教会の言葉なのです。また、もっと身近なところでは、皆さんもまた家族や友人、学校や職場での交わりの中で御言葉を語るということがあるかもしれません。御言葉を直接取り上げなくても、その真理を伝え、その真理にお一人お一人が生きておられるのだと思います。
ただそういうところで経験いたしますのは、皆が皆、自分の話に耳を傾けてくれるかと言うと、そうでないこともたくさんあるということです。預言者というのは、神が「語れ!」とおっしゃったことを語ることです。自分の考えや自分の思いを語るのではありません。神様はこうおっしゃっているけれども、聞く側にとってはあまりにも厳しい言葉だから、もう少し柔らかい別の表現にして伝えよう。そう言って、「これが神の言葉だ」と言って伝えること。これは預言者の務めを果たしたとは言えないのです。預言者にとって辛かったのは、今申しましたように、人々が聞きたくないような言葉、具体的には罪を指摘し、裁きの言葉を語らなければいけないということでした。「神の前に立ち帰れ!そうしないと滅びる!」などと言えば、必ず人々から反発を受けるからです。それよりも、「将来、こういう素晴らしいことが起こる」というふうに、誰もが喜んでくれそうな言葉を語ったほうがお互いのためにも良かったのです。実際そのようなことを語る偽預言者も当時多く存在しました。でも真の預言者はそういうわけにはいきません。エレミヤが活動していたイスラエルの南ユダという国は、王をはじめ人々も神様に背を向け、罪を犯し続けていたのです。神は悔い改めを迫ります。「立ち帰れ!イスラエル!」「わたしのところに戻って来なさい!」神の愛の招きがここにあります。でも招きだけではありません。立ち帰ることを拒むならば、災いが降るだろうというのです。
エレミヤは語れと神様から命じられたことを語ります。当然エレミヤは人々から反発を受けるのです。神の言葉を語ったがゆえにエレミヤはどうなったのでしょうか。7節以下にこうありました。「わたしは一日中、笑い者にされ/人が皆、わたしを嘲ります。わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり/『不法だ、暴力だ』と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中/恥とそしりを受けねばなりません。」何をバカなことを言っているのかと笑われるだけではなく、人々に捕らえられ、暴力を振るわれ、死にそうな目にも遭いました。今日の箇所のすぐ前の1節以下にも、神殿の祭司パシュフルに捕らえられ、拘束されたということが記されていました。お読みしませんでしたが、10節でもこのように記されています。「わたしには聞こえています/多くの人の非難が。『恐怖が四方から迫る』と彼らは言う。『共に彼を弾劾しよう』と。わたしの味方だった者も皆/わたしがつまずくのを待ち構えている。『彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう』と。」自分を非難する者たちの中には、自分と親しくしていた者さえもいたというのです。仲間さえもエレミヤが語る神の言葉を拒み、恨まれることになったと語ります。また時代はだいぶ後になりますが、先立って朗読していただいたコリントの信徒への手紙の中でも、著者のパウロが様々な苦難を経験したことが書かれています。投獄され、鞭打たれ、彼もまた死にそうな目に遭ったのです。
なぜそんな目に遭わないといけなかったのか。その理由はただ一つです。神の言葉を語ったからです。キリストの福音を宣べ伝えたという理由でそうなったのです。エレミヤも同じです。預言者、伝道者というのはある覚悟が必要です。御言葉を語ることによって、それを拒否する者たちによって苦しみを受けるということです。御言葉を語ることおはイコール、手放しに喜びだと言うことはできないのです。預言者だけではありません。キリスト者は皆、苦しみを深く経験する中で、喜びの知らせである福音に生きるとは何かを問われるのです。エレミヤも預言者として召された時、強い覚悟をもってその働きに立ったことでありましょう。
ただ、興味深いことにエレミヤという人は、自分で預言者になりたくてなったのではありませんでした。どんな困難があっても、私はどうしても福音を宣べ伝えるのだという気持ちは大事です。いやいや神の言葉を話しても、あるいは本人が心動かされていない言葉を聞かされても、聞き手は何も変わらないでしょう。違う言葉で言えば、やる気が大事なのです。でも預言者にとって大事なのはそれだけではありません。本人の気持ちは本質的なことではないのです。大事なのは神の召しであるということです。召命、あるいは、選びと言ってもいいでしょう。はじめの第1章に、エレミヤが預言者として召される場面が記されています。エレミヤ書1章5〜8節です。
「『わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』 しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す』と主は言われた。」
生まれる前から、永遠のうちに神様はエレミヤを預言者として立てるとお決めになっていました。これは何も預言者だけに限らないと私は思います。この世に生まれてくるすべての者たちに対して、神様はご自分のご計画を初めから持っておられるというのです。私どもは初めからそのことに気づくことができる訳ではありませんが、確かに神様はご自分の形に似せてお造りになり、いのちの息を注がれたすべての者に対して、「このように生きてほしい」という明確な願いを持っておられるということです。私どもは時に自分自身を見失います。何のために生きているのか、こんなことをして何になるのか、そのように思ってしまうこともあるのです。今はまだ見えないこと、分からないこともあるのです。でも神様は私ども一人一人を生まれる前から選んでおられるということです。
エレミヤは「お前を預言者として立てる」という言葉を聞いた時、断りました。「私は語る言葉を知らないから」「私は若いから」というのです。何のために生きるのか、そのことを教えてくれるのが神の言葉です。でも、エレミヤも最初はそうでしたし、私どももそうかもしれませんが、私どもの生きる道を示してくれる大切な神の言葉を聞き損なってしまうのです。いや本当はエレミヤのように聞いてはいるのかもしれませんが、色々と言い訳を考えて、聞かなかった振りをするのです。そして、自分の生きたいように生きようとするのでしょう。そのような人生こそが、勝利の人生なのだと思っているのかもしれません。
しかし、神はそのことをお許しにはなりませんでした。神はエレミヤを預言者として立て、遣わすのです。その結果どうなったのでしょうか。人々から嘲られ、捕らえられ、暴力を振られ、死にそうになったというのです。神様はエレミヤを預言者として召してくださった時、恐れるな!わたしが共にいる!必ず救い出す!と力強い励ましを与えてくださいました。その約束を信じ、今まで、主の召しに応え、忠実に御言葉を語り続けてきたのです。自分の思いを捨て、神の言葉を運ぶ器に成り切って生きてきたのです。けれども、エレミヤの目に神の助けの御手は見えなかったのです。覚悟はしていたけれども、どうして自分はこんな目に遭わなければいけないのか?神に選ばれ、何のために生きるのかを明確に教えていただいたのに、こんな苦しい目に遭うならば、神様に選ばれなかったほうがよかった。預言者にならないほうがよかった…。生まれて来なければよかった…。
エレミヤはでそこまで追い詰められているのです。自分が分からなくなり、自己分裂をここで経験しています。その思いがエレミヤの言葉の中にはっきりと表れています。7節「主よ、あなたがわたしを惑わし/わたしは惑わされて/あなたに捕らえられました。」エレミヤは自分が預言者として召されたことを、「惑わされた」と言い換えています。よいふうに訳すと、「神が私を説得した」「神が私を圧倒した」となりますが、ここはそのような意味合いよりももっと激しい言葉遣いがなされています。他の訳では、「欺いた」と訳されています。「あなたはわたしを欺いたのだ!騙したのだ!」と神様に対して言うのです。さらに惑わすというのは、女が男を誘惑する。男が女を誘惑する。あるいは、性的暴行をするといった意味もあります。神様に対して、そのような言葉遣いをするというのは、普通の信仰者の感覚からすれば驚くべくことだと思います。神様に対する暴言とさえ思うのではないでしょうか。私どもはなるべく言葉を整理して、綺麗な言葉で祈ったり、賛美したいと思うからです。感情に流されたり、思いつきで発するような言葉は神様の前に相応しくないと考えるのです。でもこういう言葉が聖書にはいくつも記されているということです。エレミヤの嘆きや祈りだけではありません。他にもヨブ記や詩編などを読むと、信仰者が心の嘆きを神にぶつけている、そのような祈りを幾度も見ることができます。私どもも苦しみの中から嘆くことができます。自分に向かって嘆くのではありません。私の神でいてくださるお方に向かって嘆くのです。そのことが許されているということです。
苦難や理不尽さを経験する時、私どもは何をしても意味がないのではないか。何もできないのではないか。何もできないままこの運命を受け入れる他ないのではないかと、すぐに諦めてしまいます。あるいは、こういう選択をする人もいるでしょう。ここでエレミヤが苦しみから解放されるためにはどうしたらよいのでしょうか。それほど難しいことではないと思うのです。預言者として働くことを辞めたらいいのです。エレミヤ自身も言っています。9節「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい」もう預言者として神の言葉を語らなければ、この苦しみから解放されるのです。私も何が何でも苦しみの中にと留まり続けなさいなどと言うつもりはありません。場合によっては苦しみから逃げることも大事です。でも逃げること、離れることができないもっと深い事実、真実が私どもにはあるということです。どんな苦しみを経験しても、変わることのない関係があるのだということです。それが神様との関係です。
苦しい目に遭うくらいならば預言者を辞めてしまえばいい。それはエレミヤにとって何を意味するのでしょうか。それは神を信じることを辞めることと等しいことであり、自分ではない人間を生きるということを意味しました。キリスト者として生きることは、神の使命に生きることと一つだからです。エレミヤの思いとしては、預言者を辞めたい、神との関係を絶ったほうがいい。そう思いたくなるほどに追い詰められているのは事実です。でもエレミヤはそのような道を選択することはしませんでした。私の神であられるお方に嘆き、祈る道を選びました。自分で選んだというよりも、エレミヤがご自分から離れることをお許しにならなかったと言ったほうがいいでしょう。神の選び、神の召しというのは、それほど確かだということです。私どもの思いで自由にできるものではないのです。だからこそ、そのような主の御手に捕らえられていることがどれほど幸いなことであるかと思います。
エレミヤは言いました。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」エレミヤは預言者として生きることを辞めようとしました。神からの使命を放棄しようとしました。しかし、神の選び、神の召しは自分の思いによって左右されるものではありません。そして、私は神に選ばれているという確信を与えてくれたのが「神の言葉」でした。「もう御言葉を語りたくない。」そのエレミヤの思いをとどめたのが、神の言葉でした。「主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」御言葉を語りたくないと願っている者が、御言葉によって再び捕らえられる。矛盾しているように思えるかもしれません。でもこれこそが御言葉の本当の力なのではないでしょうか。そのような御言葉の力をエレミヤは苦難と絶望の中で経験することとなりました。嘆きの中、祈りの中で御言葉が響いたのです。御言葉が響くというのは、そこに神が生きておられるということを知るということです。神の助けがあるというということを知るということです。もしエレミヤが嘆くことも祈ることもせず、「私は預言者を辞める」などと言って、簡単に諦めてしまったならば、御言葉の力を知ることはなかったでしょう。神と再び出会うこともなかったでしょう。しかし、神様は「こんなところで神に出会えるはずはない。」そのように嘆くところで、エレミヤと、そして、私たちとも出会ってくださり、ふさわしい助けを与えてくださるのです。
私どもはこのような御言葉体験、聖霊体験を生涯続けていくのです。だから神の前に立ち続けることができるのです。第15章16節にも次のような御言葉があります。「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって/呼ばれている者です。」エレミヤは預言者として誰よりも先に御言葉を聞くことができました。その中には罪を指摘し、裁きを告げる言葉もありました。でもそれだけではありません。愛と恵みに満ちた言葉がたくさんあったのです。いや、裁きを告げる言葉さえも、裏を返せば、愛と赦しに満ちた言葉に他ならないのです。御言葉をむさぼり食べるほどに、自分の人生においてなくてはならないもの、自分の人生だけでなく、すべての者を喜びで満たす力があることを、身をもって経験していたのです。
そして、エレミヤは言います。「押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」エレミヤは神様の前に自分の負けを認めます。惜敗ではありません。まさに完敗です。けれども、喜んで自分の負けを認めたに違いありません。普通、負けることを喜ぶ人はいません。また7節の「惑わす」という言葉にもあったように、誰かに惑わされたり、欺かれたりすることを喜ぶ人もいないでしょう。でも肝心なのは「誰に」欺かれるかということではないでしょうか。また、惑わされる・欺かれるというのは、この場合、誰の前に負けを認めるのかということと同じことを意味します。神様が私に勝ってくださったのです。圧倒的な仕方で勝ってくださったのです。神様の召しに忠実に生きることができなかったり、苦難の中で神様との関係を断とうとする私どもの闇に、神様は勝利してくださったということです。だから、神様に負けることはこの上ない喜びなのです。神に負けることは、私の救いを意味するからです。
だから、11節以降でエレミヤは神を賛美します。「しかし主は、恐るべき勇士として/わたしと共にいます。…主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を/悪事を謀る者の手から助け出される。」コリントの信徒の手紙の中でもパウロはこう言いました。病の苦しみから早く解放してくださいと祈り続けた場面です。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」神に向かって嘆くこと、神に祈ることは弱いことなのでしょうか。人生の敗北を意味するのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら、そこで神の言葉を聞き、神に出会うからです。強がりでも何でもなく、「私の負けです」「弱い時にこそ強いのです」と喜んで告白することができるのです。
そして、嘆くこと、祈ることは、自分一人だけですることではありません。神様は私たち一人一人に御言葉を与えてくださるだけでなく、教会共同体の中に御言葉を語ってくださるお方です。だから、教会の礼拝の中で、共に神に祈り、共に御言葉を聞き、共に神様を賛美します。この世における勝ちだとか負けだとか、そういうしがらみの中でもがき苦しむ私どもです。しかし、キリストにあって、神様は私どもが抱える深い闇に打ち勝ってくださいました。今も勝利し続けてくださいます。だから、安心して共に嘆き、祈ることができます。私たち教会が、本当に神が生きておられるのだということを、そのような形で証しすることができたら、どれほど幸いなことでありましょうか。そのために私どもは神に召されているのです。お祈りをいたします。
キリストにおいて私どもを選び、いのちを与えてくださった主よ、私たち一人一人に、またこの千里山教会に確かな使命をお与えくださり感謝いたします。主に従うことの喜びと同時に苦しみをも経験します。自分のことが分からなくなってしまうほどの試練をも経験します。しかしそこで一人うずくまるのではなく、主に向かって嘆くことを学ばせてください。信仰の仲間のために、この世のために嘆くことを教えてください。そこで響く御言葉と、そこにある神の助けを信じ、御名をたたえることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン