2023年09月10日「十字架の愚かさに徹しよう」
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十字架の愚かさに徹しよう
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コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節
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聖書の言葉
18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。19それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」20知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。コリントの信徒への手紙一 1章18節~25節
メッセージ
私どもはどのような人間になることを目指して毎日を生きているのでしょうか。子どもたちも、若い人たちも、大人の人たちも心のどこかで「こういう人間になりたい」という人間像、理想像というものを持っていることでありましょう。「こうなりたい」「ああいうふうになりたい」と、そこまで強く願うことがなかったとしても、周りの人たちの様子を見ながら、「ああ、私はこう生きないといけないのかな?」と漠然と思うこともあるでありましょう。何か一つそういう理想のようなものを持っていないと生きることが楽しくなくなるからです。また、小さな子どもがいる家庭におきましては、キリスト者の家庭であるなしにかかわらず、「我が子にはこう育ってほしい」「このように育てていきたい」という願いをどの親も持っているものであります。そうしないと子どもを育てることはできないからです。
先ほど使徒パウロがギリシアにあるコリントの教会に宛てた手紙を読みました。第1章18節以下の御言葉ですが、朗読される言葉を聞きながら、あるいは、目で聖書に記されている文字を追いながら、どこに心が留まったでしょうか。何が心に響いたでしょうか。正直、一つに絞るのは難しいかもしれません。けれども、その一つに「知恵」という言葉がいくつもあったことに気づかれた方が多いことと思います。それに関係する言葉として「賢さ」とか「力」とか「強さ」という言葉もありました。一方、「知恵」という言葉と対照的なのが「愚かさ」という言葉です。これも今日の箇所で幾度も記されています。それは私ども人間が、知恵ある存在として生きるのか。それとも、愚かな人間として生きるのか。そのことを問いかけているからのではないかと思います。
最初に「知恵」「賢さ」「力」「強さ」ということですが、これらはどれも私どもを魅了する言葉ではないかと思うのです。誰もが知恵ある人間として生きたいのです。知恵があるというのは、賢いということです。では、何をもって賢いというのでしょうか。人によって、知恵や賢さの定義は違うかもしれません。ある人は、偏差値が高い学校に入ったり、誰もが羨む仕事に就くことだという人もいるでしょう。ある人は、誰も発見したことがないことを発見し、誰も生み出したことのないものを生み出すことだという人もいるでしょう。つまり、それは誰も手にすることができない地位や名誉を手にすることでもあり、「あなたは立派だ」と称賛されるほどに見事なことを成し遂げることでもあります。また、知恵を蓄え、賢くなるためには、力や強さを身につけなければいけません。必ずしも1番を取る必要はないのです。結果はどうであれ、いつも努力を惜しまず頑張る人こそ、人間として素晴らしい人間なのではないか。そのように思っている人たちも多いことでしょう。
反対に誰かから「あなたは愚かだ」などと言われたらすぐに腹を立ててしまいます。知恵ある人間、賢い人間になりたいと願うのは、自分だけは愚かな人間になりたくないと強く願っているからでもあるでしょう。愚かな人間にならないために、人一倍努力をし、賢く、強くなりたいと願うのです。そういう意味で、人は自分と誰かをいつも比較しているとも言えますし、26節以下を読みますと「誇り」という言葉がありますように、人間というのは誇り、プライドの塊でできていると言っても過言ではないと思うのです。そして、厄介なのは「私にはプライドがある」と言いながら、全然強い人間ではないということです。本当にもろい人間なのです。ちょっとしたことですぐに傷つき、「プライドを汚された」と言って落ち込むのです。自分は「恥」をかきたくないと思っているのです。「あなたは愚かだ」などと言われるのは耐えられないのです。だからどんなことをしてでも、知恵を手に入れ、賢くなりたいと願うのです。愚かさとは無縁の中に生きたい!知恵ある人間として生きたいのです!
愚かであるというのは、どこからどう考えても褒め言葉にはなりません。けれども、たった一つだけ愚かであることが素晴らしいと言えるものがあるのだと聖書は語ります。それは人間の理屈では説明できないのですけれども、その愚かさは人間の知恵を上回る力、強さがあるというのです。それどころか人間を救うというのです。愚かさが徹底的に肯定されることの中に、私どもの救いがあるというのです。この手紙を書いた使徒パウロは言います。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」
生きる上で、知恵ある者として賢く生きるか?それとも、愚かなことをして生きていくのか?分かり切った話かもしれませんが、とても大切なことです。でもそれよりも、ここにいる私どもにとってもっと重要な事実があります。それは、私どもがイエス・キリストの救いの恵みにあずかっている者であるということです。自分を説明する上で、またこれからどのように生きるのかということを考える上で、主イエスとの関わりを無視することはできません。御子イエス・キリストを遣わしてくださった神様の御心を無視することはできないのです。
私どもの群れには、自分は教会に来たばかりという方も、洗礼を受けた方もおられます。信仰告白をしていない若い方もおられます。そのような方たちには関係ないのでしょうか。そうではありません。24節では「召された者」と語ります。手紙の最初からパウロは自分が神の御心によって召されたことを語り、コリントの教会の人たちについても「召されて聖なる者とされた人々へ」と語ります。「召される」というのは、「呼ばれる」とか「招かれる」という意味です。あなたも神に呼ばれ、神の招きの中にある。この点において、大人も子どもも同じです。教会員である方もまだ洗礼を受けていない方も同じなのです。皆、神様が召していてくださるから、今朝もここに来ることができました。何の目的もないのにただ呼んだというのではありません。あなたの歩みを祝福するために、今朝もここに呼び集めてくださいました。
イエス・キリストを思い、キリストとの関わりを考える時、真っ先にどのような出来事を思い浮かべるでしょうか。福音書に記されている心に残るいくつもの物語を思い起こす方もおられるでしょう。主がそこでお語りになった言葉を思い出し、その度に慰めを受ける人もいるでしょう。パウロはこのように語りました。18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」この手紙全体の中心となる言葉、そう言っても良いでありましょう。事実、多くの人々がこの御言葉によって励まされてきました。2千年近くにわたって、キリスト教会がこの御言葉によって支えられてきました。「十字架の言葉」によって支えられてきたのです。
パウロは、単に「十字架」とか「キリストの十字架」というふうには語りません。ここでは「十字架の言葉」と言っています。キリストの十字架の出来事が、今、ここに生きる私どもに伝えようとしているメッセージがあるということです。聞いてほしい言葉があるということです。キリストの十字架というのはただのお飾り、ただのシンボルではありません。確かに、屋根に十字架があれば、「ここはキリスト教会なのだ」と気づいてもらいやすい面はあるかもしれません。礼拝堂に十字架が掲げられていたら、初めて教会に来た人にとってはどこか神聖な雰囲気がするかもしれません。でも、そこで十字架の言葉が語られなければいけないのです。だから21節では「宣教」、23節では「宣べ伝える」とありました。教会の礼拝で十字架の言葉、キリストの福音が宣べ伝えられます。ここには、「あなたを救いたい」「あなたを救わなければならない」という神様の思いが込められています。別に礼拝堂に十字架を掲げてもいいのです。でも、私たち改革派教会の多くは礼拝堂に十字架を掲げることいたしません。それには理由があります。礼拝において十字架の言葉が語られること、キリストの福音が語られ、その御言葉が聞かれるところに教会が立つということを信じているからです。
なぜパウロが「十字架の言葉」ということをここで強調したのでしょうか。すぐ前の17節にはこうありました。「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」パウロの願いは、キリストの十字架がコリントの教会の人たちにとってむなしいもの、無意味なものになりませんようにということでした。ということは、コリントの教会で、キリストの十字架がむなしくなっていたということです。キリスト者にとって、主の十字架が意味を持たないなどということがあり得るのでしょうか。あり得るのだというのです。
様々な問題を抱えていたコリントの教会です。その問題一つ一つにパウロは丁寧に答える形で手紙は進んでいきますが、その一つがいわゆる「分派争い」と呼ばれるものです。パウロ以外に色んな伝道者がコリントの教会を訪れ、福音を宣べ伝えました。そして、洗礼を受ける者が与えられたのです。けれども、途中から「私は〜先生につく」「いや、私は〜先生のほうが立派だと思うから、〜先生を支持する」「いや、私はイエス様自身につく」というふう言い争いが起き、仲違いするようになりました。「キリストがそんなに幾つもに別れてしまったのか。そんなはずはないだろう。なぜ〜先生がいいとか、〜先生から洗礼を受けたとか、そんなことで言い争うのか?あなたがたの中からキリストはどこにいってしまったのか?何のためにキリストは十字架にかかって死んでくださったのか?そのことが分かっていないではないか?キリストの十字架がむなしくなっているではないか。そんなことがあってはいけない。」そう言った後に、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」パウロはそう語るのです。あなたがたにとって十字架の言葉とは何か?神の力そのものではないか。その力の中に本当に生きているのか?
パウロはキリストの十字架の言葉へと思いを集中させようとしています。教会の問題を対処し、解決するために十字架の言葉にそれぞれが心を向ける必要がありました。今日も私どもは様々な問題を抱えて生きています。自分の生活や家庭においても、そして、教会においても真剣に向き合わなければいけないことがたくさんあることでしょう。それぞれの問題に見合った具体的かつ適切な仕方で対処する必要があります。でもある人が言っていました。結局、私どもの色んな問題というのは、キリストの十字架をむなしくしているところに大きな原因があるのではないかというのです。私どもはキリストの十字架なしに生きていくことができない存在であるはずです。けれども、私の生活のこの部分においては十字架の言葉は別になくてもいいと考えるのです。あるいは、十字架の言葉が私のこの問題とどう結びつくのか。何の役にも立たないではないかと思ってしまうのです。
私どもは十字架の言葉を私どもはどう思っているのでしょうか。十字架の言葉が神の力だと本当に信じることができているでしょうか。「力」というギリシア語は後に「ダイナマイト」の語源になった言葉です。ですから、十字架の言葉が神の力だという時、色んな問題や不安をすべて吹き飛ばしてしまうということです。それは、イエス様の十字架を信じさえれば、病気が治るとか、人間関係がすぐに良くなるとか、志望校に合格できるとかそういうことではありません。でも、私どもは自分の進路のことも、就職のことも、家庭やあらゆる人間関係、あるいは、老後や病気、罪や死のこと、そして、教会のことも。そういったありとあらゆる事柄や問題を抱えながらも、そこでキリストの十字架をとおして神を知り、そこで神と出会うという経験をしてきたのだと思います。そこで神の力を味わい、生きる力を事実与えられてきたのです。
ところで、この十字架というのはすべての人に受け入れられているわけではありませんでした。むしろ、十字架で死んだキリストを「救い主」と信じることなど、実に愚かなことであり、馬鹿げたことであり、つまずきに過ぎないと思われてきました。どうしてでしょうか。初めにも申しましたが、人は知恵を持ち、知恵を蓄えて賢く生きていきたいと願っています。努力をし、力を手にします。下から上へ上へと上り詰める生き方こそ、この世が称賛する生き方だと思っているのです。だから、キリストの十字架を受け入れることなどできないのです。十字架のどこに知恵があり、賢さがあるというか?十字架の死のどこに、私たちを救う力があるというのか?人々は問いました。ご存知の方も多いと思いますが、十字架というのは極悪人を処刑するための道具です。救い主が極悪人として死ぬなどということはあり得ないことです。罪人の中の罪人として十字架で死ぬ。それは救い主の名にまったく値しないのです。旧約聖書の申命記にも「木にかけられた者は皆呪われている」という御言葉があります。人間からだけでなく、神からも忌み嫌われ、呪われた死。それが十字架につけられるということでした。その十字架につけられて死んだイエスが私たちの救い主であり、神であるなどということは、人間が知恵を振り絞って考えるまでもなく、実に愚かなことでした。
22節には、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが」とありました。ユダヤ人が求めていた「しるし」ですが、これは「奇跡」のことです。人が驚くような奇跡を見せてくれたら、あるいは、自分の求めに答えてくれたならば、あなたが神だということを信じてあげようというのです。ギリシアが探していた「知恵」とは何でしょうか。ギリシアは哲学が盛んでした。哲学というのは、知恵を愛するという意味があります。神の知恵を愛するというのではないのです。人間が考えた知恵を愛するのです。そして、22節はユダヤ人やギリシア人だけでなく、日本人もすべての人間にとって共通することが言われています。つまり、それは、人はどのようにして神を知ることができるか?ということです。別の言い方をすれば、人はどのような時に神の臨在を覚えることができますか?ということです。神の臨在を感じるというのは、神が本当に生きておられるということがどこで分かりますか?どうしたら分かりますか?ということです。皆様はどうでしょうか。自分の願いが全部適った時でしょうか。誰もがびっくりするような奇跡を見た時でしょうか。日本人の場合は、美しい自然を見た時に、神様が生きておられると思う人が多いかもしれません。もっとも日本人の場合は、自然世界そのものが神に成り代わってしまっているのです。
先ほどのしるしによって、知恵によって神を知るという場合、結局神がおられるかどうかを判断しているのは自分自身であるということです。私の目に適ったら、あなたを神と認めてあげようという姿勢です。でもそれは自分がまるで神や審判者となって、まことの神を見下しているということではないでしょうか。そのような心では、神と真実に出会うことなどできないのです。決して、知恵があること、賢くなることが決して悪いわけではありません。2千年前に比べたら、人間の知恵は驚くべき進歩を成し遂げてきました。科学技術も発展してきました。ひと昔だったらできなかったことが、今では当たり前のようにできるようになっている。そういう部分がたくさんあります。
医療の面でも同じではないでしょうか。少し前は助からなかった病でも、今は治るものとなりました。素晴らしいことです。でも、そこで神を忘れた時、人はどうなるのでしょうか。ある人々は言うかもしれません。かつて自分たちは神に頼っていたかもしれない。神に祈ってあの問題、この問題を何とかしてほしいと願っていたかもしれない。しかし、今はもう神に祈る必要などない。なぜなら、自分たちの知恵で神の領域を手にすることができたのだから。そのように言うのです。
またこういうこともあります。それは何年経っても解決されない深刻な問題もあるということです。例えば、死の問題です。医療や科学の進歩によって、その時、病は治ったとしてもやがては死ぬのです。昔より長く生きることができた。その分、有意義に生きることができたいと言っても、やがては死ぬのです。死んだらそのあとどうなるのでしょうか。他にも自然災害があります。また、世界の至る所で戦争やテロなど、憎しみ合いがまだ続いています。知恵をつけて、人を殺す道具を作っているのです。戦争とまでは言わなくても、家庭をはじめ、人間との付き合い方が上手くいず悩んでいる人がいます。そもそも、何を目指したらいいか分からず思い悩む人がいるかと思えば、目指していた自分を手に入れたにもかかわらず、まだ満たされないと言って、落ち込む人もいるのです。いついかなる時も人間が苦しんできた問題です。つまり、人間が抱える根本的な問題がいつも存在しているのです。その根本的な問題に対して、世の知恵は何の力も発揮しないのです。それは罪の問題と深く関わるからです。そして、罪というのは、神を見失っているということです。自分はいわゆる犯罪を犯していないから罪人ではないというのです。神を見失ったまま自分を生きるならば、それは罪なのです。さらに、キリストの十字架をむなしいもの、無意味なものにしているならば、その人生のむなしいものになるのです。
だから、神様はおっしゃいます。19節〜21節前半。「『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」神様は私ども人間の傲慢さを打ち砕かれるお方です。打ち砕くというのは、私どもを恥に落とすとかがっかりさせるというのではありません。その罪を裁き、滅ぼされるということです。しかし、神様はそのような罪人を招いてくださいました。召していてくださるのです。神が本物の神であるかどうかを試したり、神のなさることを愚かだと笑ったり、自分もまた神の力を手に入れたと自惚れて見たり、しかし、そういう人間を、つまり私どもを救ってくださるというのです。
どのようにして救ってくださるのでしょう。21節後半をお読みします。「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」「宣教という愚かな手段によって」というのはキリストの十字架のことです。人間から見れば愚かだと言われる「十字架」という手段によって、私どもを罪から救おうとされる。それが神様の知恵なのです。上へ上へ昇り詰めようとするこの世の知恵ではなく、天の上から地上へ、さらには十字架の死へと低く下へ下へ降って行くことこそ、神の知恵であり、そのために神様はご自分の力を注いでくださるのです。25節で言われているとおり、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」21節の終わりに、「お考えになったのです」という言葉がありました。これは「意に適う」「喜びとする」ということです。私どもを罪から救うこと、そのために御子イエス・キリストを遣わし、十字架で死ぬことさえも良しとし、喜びとしてくださいました。それほどに私どものことを愛していてくださるからです。
十字架の言葉は、この世から見れば、愚かに見えます。十字架について死んでくださったお方を救い主と信じる私どもの生活もまた、周りから見れば、たいへん不思議に思われることでしょう。時に愚かだと言われることがあるかもしれません。しかし、十字架の愚かさに徹して生きることによって、私どもはそこで罪から解き放たれ、自由な者とされます。十字架の主を信じることは、私どもの生き方を窮屈にするものではないのです。色んな問題を抱えている私だけれども、十字架の主に結ばれて生きるなら、「何の不安もない」と言って、自分を喜ぶことができます。これは嘘でも、強がりでも何でもないのです。人の目から見たら、お前は何も強くないとか、不幸なことばかり続いていて、キリスト者だけれども状況は何も良くなっていないではないかと思われることもあるかもしれません。自分でもキリスト者としての自信を失うようなことがあるかもしれません。でも、私どもは十字架の言葉によって救われた者たちです。罪も死もどんなものも吹き飛ばしてしまうほどの神の力を受けた者であるということを思い起こしたいのです。私どもはこれからもキリストの十字架をとおして、神を知り、神と出会い続けることができます。神は私どもを選び、ご自分のもとに召してくださいます。キリストの十字架にあって、私どもは本当に賢い者として最後まで生きることができるのです。このことこそ私どもの喜びであり、生きるべき本当の自分の姿なのです。お祈りをいたします。
知恵ある者、賢い者として生きたいと願いながらも、あなたの前に如何に愚かな者であったか。如何に自分中心の生活をしていたかを、今思う者であります。そのような私どもを滅ぼすのではなく、御許に招いてくださり、キリストの十字架という驚くべき救いの中に入れてくださったことを感謝します。世にあって、私どもは様々な知恵や力を必要とする者ですが、何にも勝って十字架の主を誇って歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。