2023年08月13日「渇いた者にいのちの水を」

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渇いた者にいのちの水を

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 4章1節~26節

音声ファイル

聖書の言葉

1さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、2――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――3ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4しかし、サマリアを通らねばならなかった。5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」ヨハネによる福音書 4章1節~26節

メッセージ

 たいへん暑い日が続いています。肌が焼きつくような暑さです。少し外に出ただけで、少し動いただけで、たくさんの汗をかいてしまいます。そして、喉に渇きを覚えます。渇きを覚えるということですが、これは体だけのことではありません。私どもは苦難を経験する時、心や魂においても、渇きを覚えることがあるのです。それは今自分が置かれている状況が苦しいからでしょう。今の生活に満足できないという面があるからでありましょう。あるいは、「生きたい」という魂の叫びが、「渇く」ということの中に現れ出ているのかもしれません。良くも悪くも、人は絶えず何かを欲して生きている存在だと言うことができるのです。私どもはどうでしょうか。特に、心や魂において渇きを覚えてはいないでしょうか。もし「私は今渇いている」というのであれば、その渇きはどのようにして満たされるのでしょうか。誰もが一度は向き合わなければいけない人生の課題がここにあります。

 先ほど、ヨハネによる福音書第4章の御言葉を聞きました。次週も同じ箇所から御言葉に聞きますが、今朝は特に15節までの御言葉に心を留めたいと思います。御言葉の舞台となっていますのは、サマリアのシカルという町です。より詳しく申しますと、シカルにある「ヤコブの井戸」の傍らで起こった出来事です。井戸というのは、その町に住む人々が生活する上でなくてはならない存在です。水がなければ、水源がなければ、そこに町を築くことはできません。水がないと人は生きていくことができないからです。毎日のように、町の人々はこのヤコブの井戸と呼ばれる井戸にやって来ては、生きるために必要な水を汲んでいたのです。けれども、この時、井戸の側にいたのはおそらく主イエスだけだったでありましょう。なぜなら、その時間帯は6節に「正午ごろ」とあるように真昼間であったからです。一日の中で一番暑い時間に、わざわざ水汲みという重労働をする人などいません。普通は、朝の早い時間に、少しでも涼しい時に人々は水を汲みに井戸にやって来るのです。ただこの時は正午でした。しかも主イエスは旅でお疲れでした。一刻も早く水を飲んで体調を整える必要がありました。しかし、水を汲むつるべを持っておられませんでした。ある資料によりますと、このヤコブの井戸の深さは30メートルもあったと言います。もう少し浅い井戸であったとしても、何も持っていない自分の手で水を汲むことができないことは明らかでした。主イエスも困ってしまったことでしょう。

 そこにやって来たのがサマリアの女性でした。井戸に水を汲みにやって来たのです。主は彼女にお願いします。「水を飲ませてください。」主イエスもまた渇きを知っていてくださるお方です。わたしは神の子なのだから、疲れることも渇くこともないのだ、というのではないのです。神でありながら、同時に人でもあられる主イエスは、私たち人間が生活の中で経験するあらゆる渇きや苦しみ、疲れを知っていてくださるお方です。そして、ここで興味深いのは主イエスのほうから、「わたしは渇いています」「水を飲ませてください」とお願いしていることです。初めから、サマリアの女に対して、「さあ、あなたに生きた水をあげよう」とおっしゃったのではないのです。主イエスの願いから、主イエスの渇きから女との対話が始まっているのです。「水を飲ませてください…」いったいこの主イエスの言葉は何を意味するのでしょうか。

 この時、井戸にやって来たのはサマリアの女でした。この物語を理解する上で一つ大事なのが、「サマリア」という地名です。そこに住むサマリア人です。主イエスはユダヤからガリラヤへと北上する旅を弟子たちとしておられました。しかし、4節にあるように、「サマリアを通らねばならなかった」というのです。「通らなければならない」という言葉の背後には、「本当は通らなくてもいいのに」という意味が込められています。でも、「通らないと目的地に行けないから」というのです。この「サマリア」という地域に住むサマリア人とユダヤ人は元々同じ血を分け合っていた者たちでした。同じ神を信じていた者たちです。けれども、歴史的ないきさつによって、お互い別れることになり、仲違いするようになりました。信仰さえも大きな違いが生じるようになったのです。サマリア人は、律法が禁じていたにもかかわらず異邦人と結婚をし、その結果偶像に惑わされることになります。あるいは、バビロン捕囚が終わり、エルサレム神殿を再建しようとした時に、邪魔をしたのもサマリア人でした。そして今、サマリア人はユダヤ人が大切にしているエルサレム神殿に対抗して、ゲリジム山を聖なる山とし、そこに自分たちの神殿を建てました。聖書理解においても、モーセ五書、いわゆる旧約聖書の最初の5つの書物しか重んじることをしませんでした。ユダヤ人からすれば、サマリア人は異教徒そのものでした。だから、9節終わりにあるように、ユダヤ人とサマリア人が交際することはなかったのです。

 主イエスはユダヤ人です。しかし、ここではそのような歴史的な壁、民族的な壁、また宗教的な壁さえも越えて、今、井戸の前で出会いが与えられています。しかも主イエスとの出会いが与えられているのです。彼女がサマリア人だから、わたしは声をかけないというのではないのです。どんな壁が目の前にありましても、その壁を乗り越え、あるいは突き破るようにして、主は言葉を発してくださいます。「水を飲ませてください…。」この主の言葉から救いに導く対話、いのちの対話が始まっていくのです。

 サマリアの女にとりましては、主イエスのこの言葉というのはたいへん驚くべきものでした。直接記されているわけではありませんが、主イエスのように聖書を教える教師が女性に声をかけるということは当時あり得ないことだったと言われています。さらに9節ではこう言っています。「『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」先ほども申しましたが、交わりを持つことのないユダヤ人から声をかけられるなどということは考えてもいませんでした。9節の「交際する」という言葉も、これは「器を共にする」ということです。サマリア人が用いた器をユダヤ人が用いると汚れるということでしょう。でも主イエスはそんなこと何も気にしておられないのです。あなたが汲んだ水をわたしに飲ませてくださいというのです。

 それにしてもなぜ、このサマリアの女は正午という暑い時間帯に、「ヤコブの井戸」と呼ばれる井戸に水を汲みに来たのでしょうか。シカルという場所からヤコブの井戸までは2キロから3キロほどの距離があったと言います。普通、そこまで歩かなくても近くに他の井戸があったと思われます。それでも、わざわざ数キロも歩いてやって来たというのは、その井戸がただの井戸ではなくて、「ヤコブの井戸」と呼ばれる特別な井戸だったからでしょう。旧約聖書・創世記に登場するヤコブという人物に由来する場所です。ヤコブの別名がイスラエルでありまして、彼の子孫からイスラエルの12部族が生まれます。サマリア人にとって信仰の一つの源泉がここにあると言っても過言ではありません。そして、12節にもあるように、生活面においてもこのヤコブの井戸から水を得て、たくさんの恩恵を受けてきたのです。だから自分もその恵みにあずかりたかったのでしょう。もう少し違う言い方をすれば、名もない井戸よりも、有名な井戸のほうがご利益があると思ったのでしょう。

 ただそうは言っても暑い中、往復4キロも6キロも歩かないとけないことは相当辛いことです。帰りは水の重さもありますからなおさらです。それでもヤコブの井戸から水を汲みたいというのであれば、朝早く行けばいいじゃないかということになります。けれども、多くの人が井戸に集まる朝の時間帯に、彼女は外に出ることができませんでした。ここに彼女が抱える深い問題、特別な事情がありました。彼女は誰とも顔を合わせたくなかったのです。ですから、こっそり隠れるようにして生きていたのです。おそらく周りの人たちも彼女の事情をよく知っていたと思います。どういう女性なのかを知っていたのです。サマリアの女も周りから自分がどう思われているかを知っていました。それは決して誇らしいこと、喜ばしいことではありませんでした。彼女には隠しておきたいこと、後ろめたいことがあったのです。でも、隠し切ることなどできず、周りから恥とされてきました。

 具体的にどういうことかと言うと、それが16節以下の主イエスとの対話の中に記されています。「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 つまり、彼女はこれまで結婚しては別れということを5回も繰り返してきたということです。そして、今同棲している男性も結婚するというところまでは決心することができていないのです。また別れるかもしれないとどこかで思っているのです。今お付き合いしている人を自分が愛せなくなるかもしれないし、反対に相手の人から愛してもらえなくなるかもしれないと思っているのです。愛を信じながら、愛に生きることに怯えて生きているということです。そのような事情を町の人たちもよく知っていたのだと思います。だからと言って、何か助けてくれるわけでもありませんでした。人々は依然として冷たい目で彼女をじっーと見つめていたのです。彼女はその視線に耐えることができませんでした。それで人気が少ない正午という時間帯に外に出て、それもヤコブの井戸までわざわざ行って水を汲んでいたのです。

 サマリアの女は、心や魂において渇きを覚えて生きていました。彼女は男性をはじめ、人間関係において深い傷と痛みを負って生きていました。彼女は人を愛することの尊さと喜びを知っていたに違いありません。そして、愛することは、相手を信じることだということもよく知っていたことでしょう。それだけに、愛の関係が破綻した時の痛みというのは計り知れないものだったことでしょう。相手に大きな原因があったのか、自分に原因があったのかは分かりませんが、これ以上、婚姻関係を続けていくことができなくなり、別れた後も、なお愛することの喜びに生きたいと願いました。今度こそは上手く行く、次こそは、という思いがあったのではないでしょうか。しかし、何度繰り返しても思うようにいかないのです。ほとんど愛に絶望し、愛に飢え渇き、倒れ伏してしまう寸前であったかもしれません。それでも、今、ある男性と一緒に暮らしながら、愛を信じ、愛に望みを置いているのです。しかし、自分の愛を支える土台がどれほど脆いものであるのかを、彼女はどこかで知っていたことでしょう。今度こそは上手くいきますようにという思いと、次もまたダメになるかもしれないという思いが、彼女の心の中を交差していました。

 主イエスははじめに、「水を飲ませてください」とサマリアの女にお願いしました。主はお願いをしながら、隔ての壁を乗り越えてくださいました。主イエスは彼女のことを、人を愛することもできない貧しい女だとか、罪深い女だというふうには見ておられません。主は彼女のことを必要としていてくださいます。つまり、あなたのことを救いたいと願い、実は招いてくださっているのだということです。サマリアの女はそのことに気づいていませんから「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と驚くことしかできませんでした。

 主は言葉を重ねられます。10節です。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」ここで何が起こっているかと申しますと、最初に「水をください」とサマリアの女にお願いなさった主イエスが、ここでは女に水を与えるお方として立っておられるということです。立場が逆転しているのです。しかも、その水というのは、ただの水ではなく「生きた水」を与えるというのです。しかし、ここでもサマリアの女は主の言葉を理解できていません。「生きた水」のことを新鮮で冷たい水くらいにしか考えていないのです。その水は深い井戸の底にあるのに、あなたは水を汲む道具を何も持っておられないではないですか、と不思議がるのです。女はまだ、10節で言われていた「神の賜物」が何であり、イエスが「だれ」であるかということに気づいていません。神の賜物というのは、「生きた水」のことであり、14節の言葉で言えば「永遠の命に至る水」のことです。さらに、「水」というのは、ヨハネ福音書の中で象徴的な意味を持つ言葉として用いられます。つまり、これは「聖霊」を意味する言葉だということです。神そのものである聖霊の働きによって、神様の御心が示されるということです。その御心の中心にあるのは、私たちを罪から救いたいという思いです。今日の箇所と重ねるならば、魂の渇きからあなたを救いたいということです。そのことを伝えるために神の御子イエスがこの世に、あなたのもとに遣わされました。

 ですから、主イエスから与えられた生きた水を飲むというのは、救いの恵みを味わうということです。そうすると、どうなるのでしょうか。主イエスはおっしゃいます。13〜14節。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」13節の「この水」というのは井戸の水のことです。要するに、この世が与えるものということです。今、あなたが抱えている渇きを癒すのは何かということです。主イエスは、この世にある何ものかによっても、あるいは、自分の力によっても心の渇きを癒すことはできないのだとおっしゃいます。自分の心の奥をどれだけ深く掘ったとしても、そこからは何も出て来ないのです。結局、深く掘っただけ無駄だった、虚しかったということで終わってしまうのです。

 また、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と主はおっしゃいました。これは神様に救われたら、心がずっと潤って、二度と渇きを覚えなくて済むというのではありません。洗礼を受けてキリスト者になったら、苦しいことがまったくなくなるということでもないのです。また、「永遠の命に至る水がわき出る」とありましたが、これも決して死ぬことはないと約束している言葉ではないのです。生きた水を味わい、キリスト者として生きながらも、その歩みの中で、渇くような苦しい経験をすることがあります。そして、私どもは定められた時に、地上の生涯を終えるのです。死ぬ時が必ず来るのです。

 ではなぜ「決して渇かない」と主は断言なさったのでしょうか。気休めでそうおっしゃったのでしょうか。もちろんそんなことはありません。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」というのは、私ども心や魂が渇くことがあったとしても、キリストに結ばれている私どもの内には泉があって、そこから絶えず生きた水が、永遠の命の水がわき出るのです。だから渇かないのです。「永遠の命」というのも、長寿とか不死の命ではありません。死を超えて、神と共にあるいのちのことです。死を前にしたとしても、十字架で死に、復活してくださった主イエスのいのちが自分に宿っていることを思い起こし、平安を覚えることができます。私の内に、キリストといういのちの泉があることを知る時、たとえ渇きを覚えることがあっても、そこで神を慕い求めることができます。ある人は「聖なる渇望」というふうに言いました。普通、渇きを覚えることは人間として健やかなことではないと考えてしまいます。けれども、その渇きが神に向かう時、それは祈りとなり、礼拝となり、それゆえに聖なるものとなるのです。それぞれが色んな渇きを覚えるかもしれませんが、結局のところこの渇きを癒し、生きる喜びの中に再び立たせてくださるのは神様だけである。教会はそのことを信じています。

 さて、サマリアの女は、渇くことのない生きた水があることを、主イエスから教えていただくわけですが、まだ主がおっしゃることをよく理解できていないようですね。15節で「また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と答えました。暑い中、長い距離を、人目を気にしながら水汲みをしなければいけない、その労苦が解けるならば、こんなにありがたいことはないというのです。これまでの対話にもあったように、女は主イエスの言葉をまったくと言ってもいいほど理解していません。主の言葉を聞いてはいますが、霊的なこと、信仰的なこととして理解できていないのです。依然として人間的なこと、地上の事柄として主の言葉を聞いています。けれども主イエスは彼女を叱ることも、突き放そうともなさいませんでした。彼女と向き合って対話を続けてくださるのです。

 サマリアの女は、主の言葉に対して、とても鈍感でした。しかし、そんな彼女でも、今、対話をしているお方について少しずつ分かり始めています。例えば、12節では自分たちが尊敬している先祖ヤコブよりも偉いのかと問うています。これは主イエスに対して「あなたは偉そうですね」と言っているわけではありません。私と対話をしているこのひとは、あのヤコブよりも優れたものを秘めておられるのではないか?そのように思い始めているということです。だから、彼女の無理解さを表していた15節の言葉の中にも、「主よ」という呼びかけがあるのです。この方こそ、私の主であり、私の救い主ではないだろうか?という彼女の心を表しているような言葉です。

 振り返れば、私どもも始めから主イエスの言葉を十分に理解できていたわけではないと思います。私の救いのために、主は一所懸命、神様の御心を語ってくださっているのですけれども、ただ圧倒されて終わってしまうことがあります。主の言葉に、きちんと答えたいと願いながらも、おかしなことを言ってしまうのです。上手く言葉にできないのです。でも、そのような愚かさ、不器用さの中に、実は神様を信じる思い、信じようとする思いが芽生え始めているのです。主は、その小さな芽をご覧になって、「お前は愚かだ」と言って、握りつぶすようなことはなさいません。不十分な信仰の言葉であっても、主はその言葉を最後まで聞いてくださいます。そして、御言葉を語り続けてくださいます。

 サマリアの女は言いました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」改めて、彼女の言葉によく耳を傾ける時に、単純に愚かだと言い切れないところがあるのではないでしょうか。むしろ、心から「主よ、渇くことがないように、その水をください。」そのように告白することができるならば、もうそれ以上何も必要ないのではないでしょうか。救われるために、渇きが満たされるために、これ以上の言葉はいらないのではないか。そのように思えてならならないのです。主イエスとサマリアの女との対話はまだ続きます。主が彼女の言葉を救いを求める言葉として受け止めてくださったからです。お祈りをいたします。

 生きた水、永遠の命に至る水を、私たちにも与えてください。渇きを覚えるこの世の現実にあっても、絶えずいのちの水が流れ、泉のようにわき出ていることを思い起こすことができますように。そのために、今も生きておられる主が語りかけてくださる御言葉に耳を傾け、あなたの御心を知ることができますように御霊をもって導いてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン