2020年08月30日「ここは広い場所」
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ここは広い場所
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創世記 26章1節~33節
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聖書の言葉
1 アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。2そのとき、主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。3あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。4わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。5アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」6そこで、イサクはゲラルに住んだ。7その土地の人たちがイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。8イサクは長く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めると、イサクが妻のリベカと戯れていた。9アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、10アビメレクは言った。「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」11アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」12イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、13 豊かになり、ますます富み栄えて、14多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった。15ペリシテ人は、昔、イサクの父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸をことごとくふさぎ、土で埋めた。16アビメレクはイサクに言った。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」 17イサクはそこを去って、ゲラルの谷に天幕を張って住んだ。18そこにも、父アブラハムの時代に掘った井戸が幾つかあったが、アブラハムの死後、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていた。イサクはそれらの井戸を掘り直し、父が付けたとおりの名前を付けた。19イサクの僕たちが谷で井戸を掘り、水が豊かに湧き出る井戸を見つけると、20ゲラルの羊飼いは、「この水は我々のものだ」とイサクの羊飼いと争った。そこで、イサクはその井戸をエセク(争い)と名付けた。彼らがイサクと争ったからである。21イサクの僕たちがもう一つの井戸を掘り当てると、それについても争いが生じた。そこで、イサクはその井戸をシトナ(敵意)と名付けた。22イサクはそこから移って、更にもう一つの井戸を掘り当てた。それについては、もはや争いは起こらなかった。イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。23イサクは更に、そこからベエル・シェバに上った。24その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」25イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。彼はそこに天幕を張り、イサクの僕たちは井戸を掘った。26アビメレクが参謀のアフザトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからイサクのところに来た。27イサクは彼らに尋ねた。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」28彼らは答えた。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。そこで考えたのですが、我々はお互いに、つまり、我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです。29以前、我々はあなたに何ら危害を加えず、むしろあなたのためになるよう計り、あなたを無事に送り出しました。そのようにあなたも、我々にいかなる害も与えないでください。あなたは確かに、主に祝福された方です。」30そこで、イサクは彼らのために祝宴を催し、共に飲み食いした。31次の朝早く、互いに誓いを交わした後、イサクは彼らを送り出し、彼らは安らかに去って行った。32その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て、「水が出ました」と報告した。33 そこで、イサクはその井戸をシブア(誓い)と名付けた。そこで、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバ(誓いの井戸)といわれている。 創世記 26章1節~33節
メッセージ
私が神学校を卒業し、伝道者としての歩みを始めたのは、13年前の2007年の夏でした。神学校の卒業式の礼拝の後、当時、神学校の理事長をされていました岐阜県・多治見教会の小野静雄という先生が、祝辞の挨拶の中で、今、お読みした創世記第26章22節にある「レホボト」(広い場所)という言葉を紹介してくださいました。祝辞の言葉すべてを覚えているわけではありませんが、教会というのは、「広い場所」、つまり、「祝福された場所」であるということでした。この恵みを、御言葉をとおして、教会の方たちに伝えてほしい。そのような主旨だったと思います。教会という場所は、決して狭い場所、小さい場所ではないのです。それは礼拝堂や敷地が広いということではなくて、私どもが教会で神の祝福に生きている時、そこは広い場所になるのです。たとえ、苦しみや悲しみによって押しつぶされそうなことがあっても、そこで神の言葉を聞く時に、そこは祝福で満たされ、広い場所になるのです。解き放たれるような思いに導かれるのです。
先程、重ねて、讃美歌12番を歌いました。ジュネーヴ詩編歌の中にも、これと同じメロディーの歌がありまして、親しみを覚えている讃美歌の一つでもあります。その2番目の歌詞にこのような言葉がありました。「なやみせまるときも み名を呼ばわれば/主はこたえたまいて、 この身をばすくい、/いとひろきところに いこわしめたもう。/主ともにましませば われにおそれなし。」とても良い歌詞だと思います。思い煩いによって、「もうどうしようもない」と言う時、神の名を呼んで、祈りをささげたらいいと言うのです。なぜなら、主は必ず答えてくださるのだから、救ってくださるのだから。そして、救われるということは、私どもをとても広い所で、休ませてくださるということです。しかも、広い所で、私をひとりぼっちにさせるようなお方でありません。そこにも神は居てくださるのです。だから何も恐れる必要はないと歌うのです。
さて、この創世記第26章ですが、ここには「イサク」という人物を中心にして物語が展開されていきます。神様が御自身のことを紹介なさる時、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言って、ご自分の名を明らかにされることがよくあります。しかしながら、真ん中に登場する「イサク」という人物について、聖書の中で詳細に記されることはありません。キリスト者であるならば、「イサク」について名前を知らない人はいないでありましょう。聖書の中では有名な人物です。しかし、よくよく考えてみますと、確かに、イサクという名前は、聖書に出てくるには出てくるのですが、果たしてどういう場面で出てくるのでしょうか。例えば、アブラハムの息子であるイサク。ヤコブの父であるイサク。そのように、自分の父や自分の息子にくっついたかたちで出てくるケースがほとんどなのです。あるいは、アブラハムからヤコブへと橋渡しするために、真ん中にちょこっと登場してくるだけなのです。しかし唯一、このイサクが、言わば主人公となって話が展開されていくのが、この創世記第26章なのです。そして、このたった一つの章に、イサク自身の人生が凝縮されている。そのように言ってもよいでありましょう。
イサクの父は、今申しましたアブラハムです。「信仰の父」と呼ばれ、祝福の源となるために、神の約束の言葉だけを信じ、信仰の旅を始めた人です。そして、神様の救いが人々に広がるために、まず、アブラハムとサラの間に、子どもが与えられなければいけませんでした。神の約束から25年という長い月日を経て、ついに、生まれたのが「イサク」でした。私どもも、自分の親が、自分の祖父母がキリスト者の場合、「私は何代目のクリスチャンです」と言って、自分のことを紹介することがあります。イサクの場合は、2代目のクリスチャン、信仰者ということになります。最初の世代の人たちは、色々と苦労する面も多いのですけれども、2代目、3代目となりますと、最初の労苦というのは、すべて省かれて、生まれた時から、その恩恵にあずかることができます。イサクもまた、生まれた時から神の祝福の中に置かれていたのです。私どもの教会でも、「未陪餐会員」というのが、それに当たりまして、信仰についてまったく認識のないうちに、幼児洗礼を受けます。神の救いというのは、自分がどれだけ神様のことを知っているか。そのことが大きな意味を持つのではありません。何もできない幼子が、ただ神の恵みによって、洗礼へと、救いへと導かれるということです。このように、信仰の家庭に生まれるということは、それ自体が、本当に大きな祝福です。しかし問題は、生まれた時から与えられている神の祝福を、本人が如何に自覚的に担って歩んでいくかということです。もう、この時、父アブラハムは死んでいます。祝福は、息子イサクへと受け継がれているのです。この祝福を、イサクがしっかりと自覚しながら生き、今度は次の世代に渡していかなければいけませんでした。
この創世記第26章が語っていることは、一つは、イサクがどのように信仰者として成長することができたのかということです。信仰の成長というのは、何も信仰告白していない方や求道者だけに当てはまるわけではありません。年を重ねていても、信仰歴が長くても、絶えず信仰の成長というのは求められます。神様の祝福に満たされ、もう十分ですという思いがある一方、もっと神様のことを知りたい。そのような2つの思いがきっとあるに違いないと思います。では、イサクの信仰成長の鍵は何だったのでしょうか。1節を見ますと、イサクが住む場所に飢饉が起こりました。イサクは遊牧民です。家畜と共に、牧草などを求めて移動する生活を繰り返していました。飢饉が起こり、場所を移動する必要があったのです。それで、まずはゲラルという場所に行き、ペリシテ人の王であるアビメレクのところに行きました。イサクの予定では、その後、エジプトに下る予定だったのです。その時に、神様が語りかけるのです。「エジプトに行くな!」「この土地、つまり、ゲラルに留まるように!」神様がここでイサクにおっしゃっている一つのことは、「留まれ!」ということです。イサクにとっては意外な言葉であったかもしれません。ここに留まったところで、いいことがあるのだろうか?エジプトに行ったほうが、安心して豊かな生活ができると考えていたからです。しかし、神様は「留まる」ようにおっしゃいました。たとえ、困難なことがあっても、ここを離れず、留まるようにと言うのです。ここにあなたが信仰者として成長する鍵があるのだと言うのです。
なぜなら、この場所に神の祝福があるからです。「この土地」というのは、かつて神様が、アブラハムに、「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。」(4節)と約束された場所の一つでもあるということです。エジプトに行くことは、その約束の地の外に出て行ってしまうということです。そうではなくて、約束の地に留まって、ここに生きるようにということなのです。つまり、神様の祝福の約束を信じて、そこから逃げ出すことなく、しっかりと留まるようにということです。「留まっていなさい」というのは、言葉の響きだけを聞くと、何が何でも自分の足でしっかりと留まってという印象を受けますが、違う言い方をしますと、「ここに居れば大丈夫だ」という励ましの言葉として聞くことができるのではないでしょうか。もうどこに行ったら、人生の意義を見出せるのだろうか、どこに行ったら幸せになれるのだろうかというふうに、思い悩まなくてもいいのです。ここに居れば、たとえ、たいへんなことがあっても、神様の祝福の約束があることを信じることができるのです。
そんなイサクですが、6〜11節を見ますと、ここにはイサク自身の不信仰や罪について語られています。ゲラルの人たちに、自分の妻であるリベカを妹と偽って紹介したのです。美しいリベカを奪いたいがゆえに、自分が殺されるのではないかと恐れたからです。父のアブラハムもかつて、エジプトの地で、神と妻のサラに対して罪を同じような過ちを犯しました。イサクの嘘は簡単に、王アビメレクに見破られてしまいます。イサクは、神様が与えてくださった妻リベカとの夫婦関係を軽んじました。それだけでなく、「あなたの子孫を天の星のように増やす」と約束してくださった神様御自身をも裏切る不信仰の罪を犯しました。このように、イサクは父アブラハムから受け継いだ神様の祝福のもとにしっかりと踏み留まることができませんでした。しかし、11節にあるように、神様は王アビメレクを通し、イサクとリベカを守ってくださったのです。
神様の憐れみと計らいの中で、イサクはゲラルの地に留まることになります。12節以下を見ますと、作物が豊かに育ち、「百倍もの収穫があった」と記されています。13〜14節には、「豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようにな(った)」とあります。この場所で生きていくことができるのだろうかという不安は一切なくなりました。しかし、神様はこの富をとおして、イサクに試練をお与えになりました。富自体は神様から与えられた賜物ですから良い物ですが、一歩間違えると大きな誘惑となり、心が神様から富へと簡単に移ってしまいます。富めば富むほど、自分が手にしている富を奪われまいと必死になります。富を与えられながら、心はまったく穏やかでいることができないのです。また豊かに富み栄えるイサクの様子を見ていたペリシテ人たちは、あまりいい気がしませんでした。現地の人間でもない、よそから来た者が、どうしてこんなに豊かな生活をしているのだろうか。そう考えると、腹が立ち、イサクをねたむようになりました。イサクに好意的だった王アビメレクも、事を大きくしたくなかったのでしょう。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」(16節)と自分の気持ちを伝えたのです。
イサクは反論することも争うこともなく、その地を出て行くことになりました。それは、元の遊牧民の生活に戻ることを意味しました。イサクはゲラルの地で、豊かにされる経験とその豊かさをすべて失う経験をすることになります。神様は、3節で、「これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え(る)」と約束してくださっていますが、現実には、まだ「私の場所」と呼べる場所は、一坪も持っていませんでした。それどころか、そこは人々のねたみと敵意に取り囲まれている場所、決して、居心地のいいとは言えない場所だったのです。このような経験から、イサクは何を学んだのでしょうか。それは、信仰の歩みを支えるものは、ただ神の約束の言葉に信頼するということです。この世における富が豊かなのか、豊かでないのか。そういうことが生きていくうえで問題になるのではありません。たとえ、豊かでなくても、敵対する人たちがいても、自分が罪を犯しても、まだ神の約束が成就していなくても、信頼すべきものは神様の言葉だけである。イサクはこのようにして、信仰を養われ、信仰者として成長していくことができました。
さて、イサクは、これまでいた場所を離れ、ゲラルの谷に天幕を張って住むことになりました。そこでまずしたことは、井戸を掘る作業でした。つまり、水を確保することによって、生活を支える基盤を得ようとしたのです。元々、この場所はアブラハムが掘った井戸がいくつもあった場所でした。しかし、ペリシテ人がそれをすべて塞いでしまったのです。その塞がれた井戸をもう一度、掘り起こそうとしたのです。ただ、ここでも思わぬことが起こります。ゲラルの羊飼いが、「この水は我々のものだ」(20節)と言い張り、イサクの羊飼いと争いが起こります。それで、もう一つの井戸を掘り当てたのですが、これについても争いが生じます。しかし、イサクは、力づくで争うことなく、次の井戸に掘るために移動します。それは諦めが早いとか、自分の力に自信がないというよりも、神様のことを心から信頼していたがゆえに、必ず平和的な仕方で井戸を与えてくださるに違いないと信じていたからではないではないでしょうか。
実際、最後に掘り当てた井戸は、これまでのように争いが起こることはありませんでした。その井戸を「レホボト」と名付けました。意味は、説教の最初にも申しましたように「広い場所」という意味です。イサクは、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」(22節)と神様をたたえました。この「広い場所」ということですが、これは元々その場所が広かったということではありません。神様が広げてくださったという意味です。ですから、元々そこは狭く、小さな場所だった。そういう意味が「広い場所」という言葉の中には隠されているのです。今居る場所を広くしたのは、人間ではなく、神様であるということです。
私ども人間は、自分がいる場所を広くするために何をしてきたのでしょうか。ゲラルの羊飼いとイサクの羊飼いが争ったように、力によって「ここは私たちの場所だ」と言い張り、奪い取っていく。そのような仕方で、人は自分の居場所というものを広げてきたのではないでしょうか。時に、暴力や武力を使って、相手のいのちを奪ってでも、自分の場所を広げようとする。そのような愚かなことを、人間は歴史の中で繰り返してきました。そこには自分たちの場所を奪われた悲しみがあります。奪った者たちも、なぜかこれだけではまだ足りない。まだ満たされない。そういう思いに捕らわれてきました。奪われても、奪ってもまったく何も生まれないのです。悲しみや虚しさしか残らないのです。また、自分は力などなくても、ただ自分の居場所があり、そこで安心して憩うことができならば、それでいい。そう願いながら、実際はその居場所をいつまでも見出すことができずに、苦しんでいるということもあるのだと思います。
しかし、神様はイサク広い場所をお与えくださったように、信仰の歩みを重ねる私どもにも広い場所をお与えくださるのです。広い場所、そこは神様によって祝福されている場所です。この神様の祝福とは具体的にどういうことなのでしょうか。本日の創世記の御言葉から分かることが一つあります。広い場所の特徴、それは井戸から水が湧き出るということです。生活を支え、いのちを支える水が絶え間なく湧き出てくるのです。だから、いのちが枯れることはありません。いつまでも、瑞々しいいのちに生きることができるのです。
また、聖書全体の視点、とりわけイエス・キリストとの関わりで見ていく時に、「水」が持つ祝福の大きさを改めて知ることができます。本日は、創世記の御言葉に先立って、ヨハネによる福音書第4章に記されている御言葉を読んでいただきました。主イエスとサマリアの女が井戸の側で対話する場面です。サマリアの女は、暑さが増す日中に人目を避けて、井戸に水を汲みに来なければいけない女性でした。町の人からの冷たい視線を浴び、肩身の狭い生き方をしていました。異邦人でありまことの神を知らないということもありましたが、彼女の生活のもう一つの大きな問題は、愛すること、愛されることに飢え渇いたということです。過去に5人もの男性と結婚するものの、別れることを繰り返し、今一緒にいる男性も同棲しているだけで、結婚はしていないのでしょう。結婚しても、また同じようなことになると愛することの恐れを抱いていたのかもしれません。彼女にとっての本当の問題は、水によって喉が潤されることではありませんでした。もちろん生きていくうえで水は大事です。しかし、本当に欲していたのは、心と魂が潤されるということです。だから、決して渇くことのない水が欲しかったのです。主イエスは、女に言います。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主イエスが与えてくださる水が、泉のように私どもの内から湧き出るのです。何があっても、たとえ死ぬということがあったとしても、永遠の命に至るいのちの水が、その人を生かすのです。
創世記第26章は、最初、「飢饉」という問題から始まりました。富を得たこともありましたが、それを失ったこともありました。色んな人たちにうらまれ、争いに巻き込まれることもありました。しかし、最後には、神様はイサクに井戸を与え、溢れるばかりの水を与えてくださいました。生きているまさにその場所を、「広い場所」(祝福に満ちた場所)に変えてくださったのです。この様子をすべて見ていたのが、王のアビメレクでした。かつて、ペリシテ人のイサクへの敵意が大きくなった時、「ここから出て行っていただきたい」と言った人です。しかし、このアビメレクがイサクの人生に起きた様々な出来事を振り返った時、一つはっきりと気付かされたことがありました。再びイサクのもとを尋ねたアビメレクはこう言います。28節です。「主があなたと共におられることがよく分かったからです。」そして、互いに契約を結んだのです。
私どもが生きる場所はどのような場所でしょうか。人間的な目で見るならば、苦しいことがたくさんある場所かもしれません。ゆっくりできる広い場所はどこにあるのだろうか、安心して憩うことのできる場所はどこにあるのだろうか。私どもは本当に祝福された場所がどこにあるかを探すことにますます疲れ覚え、倒れ伏してしまうという矛盾に陥っているのかもしれません。しかし、場所を与えくださるのは神様です。狭く小さな場所を、広く大きな場所に変えてくださるのも神様です。そこから尽きることなく、神様の祝福が湧き出てきます。
先週26日(水)O兄が90歳の地上の生涯を終え、天に召されました。いつもそうですが、先週も説教準備のために、次の主の日に語る御言葉が心にありました。とりわけ、心に留めていたのは、22節の「レホボト」(広い場所)という御言葉です。これまで、あまり気付かなかったことなのですが、死ぬということは、狭い場所に入れられることなのだなと気付かされたのです。人が死ぬと、その遺体を棺に入れ、火葬の後は骨を骨壷に入れます。そして、やがてお墓に納骨します。塵から造られたものは、土という閉じ込められた真っ暗な場所で塵に帰るのです。しかし、そのような現実の中で、神様の言葉は、思いもしなかった新しく祝福に満ちた世界を見せてくれます。神様は、イサクに水が湧き出る井戸を与えになったように、私どもにいつも「場所」を与えてくださるお方だということです。それも広い場所を与えてくださるのです。神様の祝福は死に打ち勝っているからです。
主イエスが十字架にかけられる前、弟子たちに対してこうおっしゃいました。葬儀の時によく読まれる御言葉です。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネによる福音書14章2,3節)神様が場所を用意されるというのは、私どもが生きている時だけではありません。地上のいのちを終えた後も、私どもの場所を用意してくださるお方です。そのためにイエス・キリストは十字架にかかってくださり、復活してくださったのです。だから、神様の祝福というのは生きている時だけ、健康な時だけ与えられるのではありません。病む時も、悲しみの中にある時も、自分の罪に苦しむ時も、そして死ぬ時も死んだ後も、いつも神様の祝福があり、赦しがあるということです。人間から見れば、棺や骨つぼやお墓といった、極めて狭い場所に一人閉じ込められているようですが、信仰の目をもって見る時に、そこは「広い場所」なのです。理由は復活の主が共にいてくださるからです。そこから、永遠の命の水が泉のように湧き出ているからです。やがて、来るべき日に、復活の主の声を耳にすることでしょう。「起きなさい!甦りの朝だよ!」そこで目にする御国の光景がどれだけ広く、素晴らしいものであるか。遥かに私どもの想像を超えたものでありましょう。
私どもが週ごとに教会に集って、礼拝をささげているのは、ここに復活の主がいてくださり、それゆえに、ここに祝福があることを信じているからではないでしょうか。神様の祝福の約束に留まるということは、キリストの御体である教会に留まることと一つのことです。私どもが、今日ここから遣わされて生きる場所は、必ずしも広い場所とは言い切れないかもしれません。悩みがあり、悲しみがあります。簡単に降ろすことのできない責任を負っています。あまりの重さに押しつぶされ、自分の存在さえも小さくなり、やがて消えてしまうのではないかと恐れを抱くこともあるでしょう。しかし、私どもが信じる神は、キリストをお与えになるほどに愛に満ちたお方です。そして、それぞれが生きる場所を広い場所につくり変え、祝福で満たしてくださいます。この神様の言葉のもとに留まるならば、神が今も私と共にいてくださり、まことの安らぎの中を生きることができるのです。お祈りをいたします。
神様、あなたは私どもに生きる場所を与えてくださるばかりか、その場所を広い場所、祝福に満ちた場所に変えてくださるお方です。この大きな恵みにいつも生かしてください。また、御体なる教会が、神を信じる者にとっても、まだ神を知らない者にとっても、安心して憩うことのできる場所であることを覚え、神と教会のために喜んでお仕えしていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。