2023年07月09日「選ばれた人生を選ぶ」
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選ばれた人生を選ぶ
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ヨハネによる福音書 15章1節~17節
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聖書の言葉
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」ヨハネによる福音書 15章1節~17節
メッセージ
私どもの人生は選ぶことの連続です。いつまでも優柔不断なままではいけないのです。「これだ!」と言えるものを自分で見つけ、それを選び取り、その道を真っ直ぐに進んで行くことができるように努力します。他の誰かから「この道を行きなさい」「困った時はこうしなさい」というふうにアドヴァイスを聞くことは良いことかもしれません。でも、自分のことについて、あまり他の人から色々言われるのも嫌だと思うことがあります。私のためを思って言ってくれる気持ちは受け止めたいと思うけれども、この私を生きるのは他の誰でもない、この私なのだから、私に全部決めさせてよ!私がしたいように、私が生きたいようにさせてよ!そう思ってしまうのです。
この「選ぶ」ということですが、聖書全体に耳を傾け、理解する上で極めて重要な言葉になります。救いとは何か?信仰とは何か?このことを語る時、「選び」ということを抜きにして語ることはできません。旧約聖書から選びということが繰り返し語られますが、今朝の御言葉にもりましたように、主イエスご自身が十字架にかけられる前の夜、最後の晩餐と呼ばれる席でこのようにおっしゃいました。今日の説教の中心になる御言葉です。16節をもう一度お読みします。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
わたしの弟子であるあなたがたを、つまり、私どもを選んでくださったのは、主イエスであり、神様なのです。「あなたは神に選ばれている!」ということ。ここに神様が聖書をとおして私どもに伝えたいことがあります。あなたは神に選ばれているのです。私の人生、私の生き方について深く悩み、苦労し、行くべき道を自分で選び取っていくこと。このことが全部わるいとは言いません。与えられたいのち、人生を重く受け止め、自分でこうするのだと言って、最後まで担って生きていくことは大事なことです。でも、それがすべてではないのです。自分で自分の生き方を選び取ることが、私の人生の根っこにあるのではないということです。そうではなく、神様が、主イエスがあなたをお選びになった。このことが私ども歩み決定的な意味で支えるのだと聖書は語ります。
私どもは、選ぶことも、選ばれることも、それが尊いもの、価値があるものだと信じているからそうしているのだと思います。選ぶだけの価値、選ばれるだけの価値があるということです。この学校や仕事は、自分にとって価値があると思うからこそ、それを選ぶということをするのでしょう。この人は他にはない魅力があると思うからこそ、数ある人たちの中からその人を選ぶのでしょう。あるいは、試験など一定の基準をクリアーして選ばれるのでしょう。では神様は何を基準にして私どもを選ばれるのでしょうか。人間的に考えれば、選ばれるだけの価値があるから神様に選ばれたのだろうと考えます。でも本当にそうなのでしょうか。そうであるならば、神に選ばれるだけの価値とは何なのでしょうか。
ところで、16節を見ていただくと、主イエスがどうしてあなたがたを選んだのかということが記されています。ここではあなたがたを選んだ理由というよりも、「あなたにはこのように生きてほしい」から、わたしはあなたがたを選んだというのです。ですから、主イエスに選ばれるということは、そのまま私どもの生き方に結びつきます。あなたがたを選んだということは、あなたがたを任命したということでもあるのです。キリスト者の生き方、使命について言及されていると言ってもよいでしょう。「なるべくこういうふうに生きてほしいのだけれどもなあ」というちょっとした願いというのではなくて、「任命した」とおっしゃるのですから、主イエスに選ばれた人たちの生き方、そのいのちはたいへん重いものであることが分かります。
私どもを選んでくださった主イエス。そのお方が私どものために語ってくださる主のご命令、主の御言葉に従って生きる時、結果としてどうなるのでしょうか。自分の人生は自分で決めるのだという人も、一番に気になるのは、結局、最後はどうなるのかということではないかということに違いないのです。主イエスは約束してくださいます。それは「実を結ぶ」のだということです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…」「実を結ぶ」という言葉ですが、これは第15章の「わたしはまことのぶどうの木」という譬えの中で、繰り返し、主がお語りになっていたことであります。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:1-5)
さらに8節でもこう言われています。
「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:8)
主イエスの願いは私どもが実を結ぶ人生を送ってほしいのだということです。疲れたとか虚しかったというのではなくて、もちろん、生きていればそういうことは多々ありますが、それでも主イエスからいただくみなぎるいのちに支えられて歩んでほしいと願っておられます。ですから、5節には「単に実を結ぶ」というだけでなく、「豊かに実を結ぶ」のです。人生を振り返った時に、「あぁ、こんな自分でも一つ、二つの実を結ぶことができた」というのではなくて、豊かに実を結ぶというのです。それこそ、苦労多き人生を歩みながらも、そこで自分では数え切れないほどの豊かさを覚えながら、いのちの手応えを感じて生きることができ、そして、死ぬことができるというのです。
また、11節では、「喜び」ということが言われています。豊かに実を結ぶ人生と重なるところがあります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」不平や不満、あるいは恐れといった思いで心が支配されてしまうのではないのです。豊かに実を結ぶことができたという喜びと感謝で溢れた人生を生きることができるように主は願ってくださいます。願ってくださっているというよりも、「豊かに実を結ぶ」と既に断言してくださっています。確かな約束の中に置かれているというのです。そのためにわたしはあなたがたのところに来て、働くのだというのです。2節に、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とあるとおりです。
そうであるならば、「豊かな実を結ぶ」とはどういうことなのでしょうか。もし聖書の文脈を無視してこの言葉を理解してしまうならば、いわゆるこの世的な成功ということを考える人が多いのではないでしょうか。この世的な権力、富、繁栄を手に入れることです。いやもしかしたら何か目に見える大きな力や物質的なものに限らず、私どもの心に潜んでいる思い。つまり、自分の思いどおりに生きたいと願い、すべてとは言わなくても、それなりに満足して自分が選んだ道を生きているとするならば、それもまた豊かに実を結ぶということではないかと思います。
しかし、あとで改めて申しますけれども、主イエスはここでそのようなことをここでお語りになっているわけではありません。下手をすると教会の中でも、成功とか失敗ということを口にしてします。キリスト者の中にも成功者や失敗者がいるというのです。例えば、伝道の実りということを言う場合がありますね。今年は一所懸命頑張って伝道した。そして豊かな実りが与えられた。今年はこんなにもたくさんの新来会者や受洗者が与えられた。私たちの伝道は成功したのだ。かたや、色々工夫して頑張ったけれども全然上手くいかなかった。誰も教会に来てくれない。私たちの伝道は失敗だったと言って、落ち込むことがあるかもしれません。でも、本当は失敗も成功もないのです。数字的にたくさんの方が教会に与えられたとしても、神様によって実を結ばせていただいたに過ぎないのです。そこでこそ本当に謙遜になって神を畏れつつ、感謝をささげるのです。反対に誰も来てくれない、受洗者が与えられない場合もあります。悔い改めるべき点があるかもしれませんし、神様の大きなご計画のなかで豊かな実りが与えられるまで、まだ長い時間を要するのかもしれません。私どもは急ぎ過ぎてしまうことがあるのです。
そして、「実を結ぶ」ということを語る時、大事なことは、まことのぶどうの木である主イエスとちゃんと「つながっている」ということです。もし主につながっていなければ、どれだけ自分は成功したと思っても、逆に失敗したと落ち込んだとしても、それは虚しいだけのです。私どもが生きることは、主につながって生きることと一つことです。だからその人の人生は豊かな実を結ぶのです。実を結ぶだろうというのではなくて、必ず実を結ぶのです。また、この「つながる」という言葉は、10節にあるように「とどまる」と訳すことができますし、他には「泊まる(宿泊する)」「住む」というふうにも訳すことが可能な言葉です。主イエスとつながるというのは、一部だけつながるというのではなく、すべてにおいてつながっているということです。5節にあるように、主イエスの内に私のすべてが留まり、主イエスもまた私どの内にすべて留まっていてくださいます。つながるというのが、「宿泊する」とか「住む」と訳すことができる言葉であるというのも面白いですね。私もイエス様の内に住んでいるし、イエス様も私の内に住んでくださるのです。私どもは自分の居場所というものを常に気にしてします。例えば、進路のこと、将来のことを考えるのも、自分が居るべき場所はどこなのか、自分が住むべき場所はどこなのか。そのようなことと無関係ではないと思うのです。進路とか受験とか将来の話というのは、大袈裟でも何でもなく自分の一生に関わることです。だからこそ、皆必死になるのです。思い悩むのです。
でも、自分で自分を探す前から、実は私どもは自分の居場所を知っているのです。それは主イエス・キリストのもとに憩うということです。だから、そんなに慌てふためいて、心が不安でいっぱいにならなくてもいいのです。主イエスとつながっていればそれでいいのです。再び不安になったなら、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主イエスの言葉を思い出したらいいのです。では、「あぁ、自分はイエス様とつながっている」「あぁ、今日もイエス様と共にある」ということを真実のこととして実感し、喜ぶことができるのはどのようにしてかと申しますと、それは7節にありますように「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」とあるように、主がお語りになる御言葉をとおして、「わたしはイエス様とつながっているのだ」と実感できるのです。御言葉という霊的な栄養・糧をいただくことによって、私どもは力づけられ、生きる力が与えらます。
ところで、「主イエスとちゃんとつながりなさい」と言われると、必死になってイエス様を握りしめている自分の姿を想像します。何があっても、試練があってもその手を絶対に離すわけにはいかない。何としてもイエス様の手を自分が握りしめるのだと。でも、自分自身の信仰の歩みを振り返ってみてどうでしょうか。いつも主イエスの手をしっかりとつかむことができていたでしょうか。絶対に主の手を離さないぞ!と意気込んでみたはいいものの、大きな試練やちょっとしたことでもすぐに手を離してしまっているのです。あるいは、「私はキリスト者なのだから、つながっていないといけないと。頑張らないと」と自分で自分に言い聞かせて、責任感をもって真面目に歩んでみたものの、なぜか疲れてしまって、どうも喜びの生活とは言えないのではないか。そのような矛盾に陥ってしまうのです。そうであるならば、私どもはやはり取り除かれてしまうのでしょうか。枝のように捨てられ、枯れ果て、火で焼かれてしまうのでしょうか。そもそもなぜそのような私どもが主イエスによって選ばれたのでしょうか。
今朝はヨハネによる福音書に先立って申命記第7章の御言葉を朗読していただきました。ここは神の民イスラエルの選びについて語られているところです。なぜ神様はイスラエルをお選びになったのかということです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記7:6-8)
なぜ、世界のあまたある国、民族からイスラエルが選ばれたのでしょうか。どの者たちよりも優れていたからでしょうか。どの者よりも力があったからでしょうか。あるいは、どの人たちよりも神様に忠実だったのでしょうか。そうではありません。むしろどの民よりも罪深く、貧しい民。それがイスラエルでした。本来ならば、真っ先に滅ぼされてもおかしくないイスラエルの民が、なぜか真っ先に選ばれ、宝の民とされました。なぜイスラエルの民をお選びになったのですか?と尋ねたならば、「主の愛のゆえ」としか説明できないのです。その神の愛というのは驚くべきものでして、愛されるに値しない者たち、しかも、一番愛されるに値しない者たちが、一番最初に愛されたというのです。私どもが考える愛の概念とはまったく違うのです。
やがてこの父なる神様の愛の中で、御子イエス・キリストがこの世に遣わされました。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である。」主は弟子たちにおっしゃいました。最初に申しましたように、今日の御言葉は、十字架を前にした主イエスの言葉です。十字架こそ、神の愛の極み、頂点です。死ぬ必要がまったくない罪なきお方が、死ぬべき罪人である私たちのために十字架について死んでくださいました。なぜでしょうか。それはキリストにあって神に選ばれた人生が、どれほど素晴らしいものなのであるのか。この世のしがらみの中で、神様さも見失ってしまうような生き方ではなく、主イエスにつながり、主のいのちの御言葉に生かされることがどれほど頼もしいことであるのか。そして、どんなことがあっても、虚しさの虜になることなく、豊かな実を結ぶことが約束された中で、私どももまた12節、17節で繰り返されているように互いに愛し合い、平和を築き上げていく。そのような尊い生き方に召されていることを、喜びをもって受け止め、神様のために生きることができる者とされるのです。
選ぶこと、選ばれること。実を結ぶこと。成功か失敗か。これらは私どもが生きているこの世においていくらでも言われていることです。ある意味、常識とされていることです。でも教会は違うのです。少なくとも、今、教会に生きている私どもは自分で選ぶ生き方ではなく、主に選ばれて生きることの幸いを絶えず心に留めたいと思います。教会においても、そして、キリスト者一人一人の歩みに成功も失敗もありません。あるとするならば、皆、「豊かに実を結ぶ」という主イエスの約束に支えられている者たちであるということです。実を結ぶ生活が与えられているというだけなのです。このことを心から本当にそのとおりだと言って、心から信じ、互いに愛し合う交わりを形成していくことが私ども教会に与えられている使命です。自分一人で心に留めるのではなく、教会員同士、あるいは、家族の中で、私たちは神に選ばれた宝の民だということをいつも確認したいのです。
そして、この恵みを人々に伝える使命が与えられています。16節の実を結ぶというのは、これまでに語られていた内容とは少し違って、主から選ばれ、任命された者として、その使命を果たし、実りを結ぶということです。聖書はこの世とは違う「選び」を語ります。誰かを押しのけ、傷つけてまでして自分が選ばれた者になるのではありません。選ばれた者になるために、自分を見失うほどに疲れ果ててまですることではありません。むしろどんなに大きな挫折や失敗をしても、罪をおかしても、それでも神様は「あなたを愛する」と言ってくださるお方の言葉に耳を傾けます。私たちの主は十字架についてくださった主です。私どものことを「友」と呼び、友のために十字架でいのちをささげてくださったお方です。そうであるならば、私どもがつながっているぶどうの木とは、主の十字架そのものではないでしょうか。十字架の主につながり、十字架の主にとどまります。その愛の主、赦しの主が、私どもの内に共にいてくださるのです。
主の十字架の言葉は、まだ神様を知らない人、まだ教会に来たことのない人にとっては、たいへん驚くべき知らせであるに違いありませんし、反対にそんな愚かな話がこの世では通じないと言われるかもしれません。でも、私どもは主から与えられえた使命に生きるのです。16節最後の「任命する」というのは「立つ」という意味の言葉です。このように生きなさい!互いに愛し合いなさい!そう命じられて、私どもは福音を宣べ伝え、愛の実戦に私どもは励みます。ただそういうところで挫折し、膝をつき、座り込んでしまうことがあるのも現実です。でも主イエスというお方は私どもを選び、任命してくださいました。だから、何度も立つことがゆるされるのです。ここで生きるようにと私どもを立たせてくださるのです。この世的には、「もうお前など使い物にならない」と言われるほどに、幾度失敗しても、主イエスにとっては本質的な問題ではないのです。それゆえに私どもにとっても大きな問題ではないのです。大事なのは主イエスとつながっていることだからです。5節にありましたように、主から離れては何もできないのです。言い換えれば、どんなことがあっても主から離れなければ、何も問題がないことと同じだと言ってもいいのです。主から離れなければ、何でもできるのです。キリストの名によって祈れば、願いはかなえられるのです。私どもの歩みには、「もうどうしようもない」と絶望しそうになることが時として起こります。でも十字架の主とつながっていれば本当に大丈夫なのです。主イエスから離れてしまったと思っても、見えざる救いの手があなたを捕らえているのです。それが主に選ばれ、救われている者たちの幸いです。そのことを本人だけでなく、周りの人たちもいつも心に留め、励まし合う、祈り会う。それが互いに愛し合うということです。
そして、これは少し個人的な思いがないわけではないですが、特に子どもたちや若い方たちが、小さい頃から家庭や教会の中で繰り返し、今まで申してきましたように、神様に選ばれていることの幸いを覚えながら、成長してほしいと願います。大きくなるということは、その分だけ経験を積んだからと言って、生き易くなるのではありません。むしろ年齢を重ねれば重ねるほど、生きることのたいへんさを学ぶことではないかと思います。少しは大人になれたと思ったのに、どうしてまだ友達や人間関係のことで嫌な思いをしないいけないのかとか、どうしてまだ勉強し続けないといけないのか、どうしてこんなにもしんどい思いをして進路のことや将来のことを考え取り組まないといけないのか。まぁ色々と考えるわけです。若いのにこんな苦労して、大人になったらさらに苦労してと、じゃあ何のために生きるのかという話にもなるかもしれませんね。生きていてもたいして楽しくないし、希望もないということになってしまうのです。でも自分を見失い、自分を否定したくなるところでも、なおこの私を見出し、私を受け入れてくださるお方がおられるということです。たとえ、私が闇の中でうずくまっていても、「わたしにはあなたが見える」「さあ、光の中を歩もう!」と手を取ってくださるお方がおられるということです。なぜなら、あなたの神は、十字架についてくださったお方であり、復活のいのちの光の中に立ってくださったお方であるからです。
また誤解していただきたくないのは、私どもは自分で何かを選ぶことをしてはいけないのかというと、決してそんなことはありません。悩むこともあるでしょうが、自分の意志で色んなことを選んでいいのです。でもそれは自分の意志であると同時に、私とつながっている主イエスの意志でもあります。だから祈りつつ歩むことが大切です。絶えず祈るということです。また主につながっていることは御言葉をとおして知ることができますから、御言葉に聞きつつ祈るということです。このことを私どもは主の日の礼拝で共にしているのです。何よりも信仰というのは、私を選んでくださった主イエスを、私自身もまた感謝してこのお方を「救い主」として受け入れることです。私もまた主イエスを選ぶ者、信じるものへと導かれるということです。神に選ばれた人生を、私も選ぶのです。
そして、最後に「選ぶ」というのは、時に自分の思いを超えたものを選んで、それを受け止めなければいけないといことがあるということです。私をキリストにおいて選んでくださった神様が私をこの世に送り出してくださるわけですが、その場所が思いもしなかった場所だったということもあるでしょう。その場所から離れるというのも一つの選択かもしれません。でもそこに敢えて留まるという選択もあります。でも、先ほど申しましたように、主イエスとつながっていれば大丈夫なのです。主イエスの中に留まり、主の中に自分の居場所を見出すならば、私どもは驚くべき仕方で主が共にいるという恵みを味わい、そこで豊かな実りを実らすことができる者とされるのです。お祈りをいたします。
天の父なる神様、あなたはこの日もキリストにあって私どもを選び、ここに集めてくださり感謝いたします。選ぶこと、選ばれることに心悩まされることの多い私どもですが、神様が私を選び、罪から救い、そして、ご自分のものとしてくださっています。また実りある人生が与えられていますから、最後まで望みを持ち、安心して愛の業に励むことができますように。いつも主イエスにつながっていることを、御言葉をとおして知ることができますように。祈りつつ神様にますます信頼する中で、あなたの御心を悟り、具体的に歩むべき道を選ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。