2023年05月21日「主は正しい」

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主は正しい

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 129編1節~8節

音声ファイル

聖書の言葉

1【都に上る歌。】イスラエルは言うがよい。「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが2わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが/彼らはわたしを圧倒できなかった。3耕す者はわたしの背を耕し/畝を長く作った。」4主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。5シオンを憎む者よ、皆恥を受けて退け。6抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。7刈り入れても手を満たすことはないように。穂を束ねてもふところを満たすことはないように。8傍らを通る者が/「主はあなたがたを祝福される。わたしたちも主の御名によって/あなたがたを祝福する」と言わないように。詩編 129編1節~8節

メッセージ

 私どもキリスト者にとりまして、過去を思い起こすということは何を意味するのでしょうか。昔の日々を思い起こし、若い日のことを思い起こす。このことは何を意味するのでしょうか。過去の歩みを振り返る時に、「ああ、あの時は良かったなあ」と良き思い出に浸る人もいれば、できるならばあの過去はなかったことにしたい。もう二度と振り返りたくないという人もいるかもしれません。ただ過去の日々が良きにしろ、悪しきにしろ、どちらにせよ私どもは、前に進んでいかなければいけないのです。キリスト者の歩みもそういう意味では同じでありまして、前進するということであったり、心を高く上げるということの大切さを強調します。これは精神論ということではなくて、神様に心を向けて、ひたすら主イエスの御跡に従うという信仰の姿勢です。主に従うからには、後ろを振り返るわけにはいきません。ただ主と共に、御国の前進のために仕えていくのです。救いの完成を含む、私どもの確かな将来というのは、私どもが歩んでいくその先にあるのです。

 しかし、その一方で、過去の日々を振り返ることは本当にいけないことなのでしょうか。確かに過去の自分の栄光に浸ったり、どうしても過去に経験した悲しみに再び引きずり込まれるという恐れももちろんあると思います。でも本当に過去の歩みは、私どもにとって意味を持たないのでしょうか。日々、前へ前へと歩んでいる私どもです。しかし、その私どもの歩みを確かなものとし、私どもの歩みを後ろから前へと力強く押し出しているということがあるのではないでしょうか。過去のあの大きな出来事があったから、今の私がある。将来の私がある。そのように言えるものが、私どもキリスト者にはあるのです。それは主イエス・キリストとの出会いであり、主との出会いをとおして救いに招かれたことです。主イエスの十字架と復活の出来事、また、洗礼の出来事。そのように、神様が私のためにしてくださった一つ一つの出来事が今の私を真実に生かしているのです。そして、あの日、私を救いに招いてくださった神様は、決して過去におられたお方というのではなくて、今も生きておられ、私どもを今も望みに満ちた将来へと招いておられるのです。

 夕礼拝では、詩編第120編から始まります「都に上る歌」と呼ばれる詩編を順番に読み進めています。神の都エルサレムに巡礼をする際に、あるいはエルサレムに到着し、神殿での礼拝において歌った歌と言われています。そこで信仰の詩人はこのように歌うのです。1〜2節。「イスラエルは言うがよい。『わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けたが…』」神様の御前で詩人は、自分が「若いとき」のことを思い起こしています。ただ、ここで言われています「わたし」というのは、自分一人のことではなくて、イスラエルの民全体を指す言葉として用いられています。ですから、「若い」というのも単に年齢的に若かった時のことや、自分の青年時代や少年時代を指しているのではありません。イスラエルが若かった時というのは、神の民イスラエルのこれまでの過去の歴史を指している言葉です。詩人もまた神の民の一人ですから、イスラエルの歴史を振り返りつつ、自分の歩みをもう一度見つめ直しているのです。

 そして、イスラエルの民が過去を振り返る時に、真っ先に思い浮かんだことがこのことでした。「彼らはわたしを苦しめ続けた」「彼らはわたしを苦しめ続けた」。2度繰り返して強調されています。「彼ら」というのは、イスラエルの民を苦しめた敵のことです。神の民の歴史を丁寧に辿れば見えてくることですが、主な出来事を振り返りますと、例えば、エジプトの国で何百年も奴隷として苦しんでいたこともありました。バビロンの国で何十年も捕囚の民として苦しんでいたこともありました。捕囚解放後もなおエルサレムは周りからの攻撃の対象となりました。また、外国だけではなくて、同胞の仲間たちが、例えばイスラエルの王たちが過ちをおかしたり、偶像の神々を自分の国に持ち込んだりというふうにして、人々を混乱に陥れたこともありました。バビロン捕囚もイスラエルの王だけではく、民全体の罪が問われたのです。エジプトを脱出した時も、約束の地に到着するまで荒れ野を40年旅しなければいけませんでした。その歩みの中で、神様に不平を述べたこともありました。敵は自分たちの外側にも内側にもいたのですが、それでもはっきりと言えることは、神の民の歴史を振り返ります時、自分たちは苦しめ続けられたということです。苦しかったということです。

 また3節にはこうありました。「耕す者はわたしの背を耕し/畝(うね)を長く作った。」この言葉も神の民の苦しみを表す言葉です。「耕す者」というのは自分たちを苦しめる者、敵のことです。実際に彼らの歴史を振り返ります時に、戦争によって土地を奪われた経験をしてきました。奪われた土地が畑となり、耕されて、実りが与えられるものの、それらの実りは自分たちの口に入ることはなかったのです。ここでは、耕す者である敵が、「わたし」という畑を耕します。ここでは畑が「わたしの背」(私の背中)と言い換えられています。「人間の背中を耕す」などという言い方は普通ありません。でも畑に鋤を入れるように、人間の背中に鋤を入れるとどうなるでしょうか。それは深い傷を負うことになります。畝(うね)を長く作ったというのは、耕した土を山のように盛ることです。その土の山が短いのではなく、とても長いのです。敵がわたしの背中を耕し、それによって傷を負ったのです。少しだけ、一瞬だけというのではなく、長い間自分たちは背中に傷を負い続けなければいけませんでした。それがイスラエルの民の歴史なのだというのです。

 この詩を歌った人がどういう人であったのかは分かりません。けれども、イスラエルの民の歴史、彼らが経験してきた苦しみを思い起こしながら、もしかしたら自分自身が経験してきた過去、苦しめ続けられてきた過去を思い出していたのかもしれません。民全体の歩みと自分の歩みは決してバラバラではないのです。深く結びついているということがあるのです。しかし、自分たちは「苦しめ続けられてきた」ということで終わってしまうならば、過去を思い出すことにいったい何の意味があるのでしょうか。思い出す度に嫌な気持ちになって終わってしまうだけではないでしょうか。

 けれども、詩人は、「わたしが若いときから/彼らはわたしを苦しめ続けた」と繰り返した後に、また「耕す者はわたしの背を耕し/畝(うね)を長く作った」という痛みを語った後に、このように言うのです。「彼らはわたしを圧倒できなかった。」敵は私たちを呑み込もうとした。私たちもそれでたいへん苦しみ、実際に傷を負った。けれども完全に呑み込むことができなかったというのです。圧倒できなかったというのは、圧勝とはではいかないけれども、敵は勝利を収めた。私たちは負けてしまったということではありません。敗れたのは敵であり、勝利したのは神の民なのです。神の民が勝利したというよりも、神が私たちのために勝利してくださったのだというのです。

 だから、次の4節でこう言います。「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。」「主は正しい」というのはどういうことでしょうか。神様が正しくて、敵が間違っているということでしょうか。そういう意味もありますが、ここで言われている「正しい」というのは分かりやすく言うと「救ってくださった」ということです。だから、同じ正しいという字でも、「正義」の「義」という文字を当てはめて「義しい」と訳している聖書もたくさんあります。神様の義しさが貫かれる時、罪や敵に対する「裁き」ということにもなりますが、同時にそこに「救い」というものが与えられます。そして、神様の恵みの力によって「義」とされるというのは、神様との関係が正しいものとなる。神様との関係が健やかにされるということです。救われるというのはそういうことです。結局、苦しみの中で信仰者が問われていること、また私どもが本当に願っていることは、そこでなお神様との正しい関係に生きるということではないでしょうか。神様の救いの恵みを知る者として、苦しい時も上手く行っていると思える時も、神様との関係に不具合が生じてしまうことほど恐ろしいことはないのです。

 しかし、私どもの神は正しいお方であり、いつも救いの神でいてくださいます。「主は正しい。主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。」「束縛」というのは、奴隷を縛りつける「綱」のことです。もう少し丁寧に申しますと、畑を耕す際に牛などの動物をつなぐ「軛」のことす。エジプトの奴隷とされていた時代は、まさに綱で縛られていたのでしょう。自由が奪われ、自分たちのことをまるで物や道具のように扱う王様や主人のもとで過酷な労働を強いられました。しかし、神がその束縛、綱、軛を断ち切ってくださり、苦しみから解放してくださいました。神が私どもを救い、勝利してくださいました。出エジプトの出来事だけでなく、バビロン捕囚からの解放の出来事もまた、神様が束縛から解き放ってくださった出来事であり、この神こそがあなたがたのまことの王であり、主人であるということが明らかになった出来事でした。神の民の歴史を振り返ります時に、決して、「苦しみなど何一つありません」ということではないのです。苦しみがあり、深い傷を負ったのです。敵の力によって苦しめられたこともありました、自分たちがおかした罪が災いを招いたこともありました。苦しみはあるのです。でも、神の民がその歴史から学んだことは、苦しみだけではないということです。あるいは、苦しみは永遠に続くことはないということです。苦しみには必ず終わりが来るということです。神様ご自身が決着をつけてくださり、勝利してくださるからです。私たちを敵からの束縛、罪の縄目から解き放ってくださるからです。その正しい神、救いの神により頼んで、終わりの日まで耐え忍ぶこと、希望を持つこと。キリストの教会は、このような確かな生き方へと召されているのです。

 そして、この詩編が歌われた時、詩人は何の苦しみもない状態にあったのではありません。後半の5節以下の言葉からも分かるように、明らかに今も「苦しい」という状態の中に置かれているということです。敵の力によって、精神的にということはなく、肉体的にも痛みを負っていたのかもしれません。敵を呪うかのような激しい祈りをささげています。5節以下です。「シオンを憎む者よ、皆恥を受けて退け。抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。刈り入れても手を満たすことはないように。穂を束ねてもふところを満たすことはないように。」また8節は翻訳がややこしいのですけれども、「主を信じる者は祝福される」という祝福の宣言がなされている一方で、敵は祝福されない。つまり、呪われるということが言われているのです。とても激しい祈りでもあります。しかし、敵を打ち倒すのは、自分たちがすることではありません。「復讐をするな」という教えにもありますように、復讐は神がなさることです。敵に対して呪いとも言えるような厳しいことを言うことがあっても、私どもを祝福するのも呪うのも神がなさることです。

 「シオンを憎む者」というのは、シオン、つまりエルサレムの神殿に臨在してくださる神様を憎む者ということです。そのような者たちは「屋根の草」のようになれというのです。雨季になれば屋根の上にある土から草が生え出します。でも、乾季になれば、根も浅いですから、すぐに枯れてしまいます。草が生え出たとしても一瞬のことであって、まして実をみのらせることなどないのです。詩人は苦しみの中で、敵のことを「屋根の草のようだ」と言って、冷静な目で見ることができました。自分たちの信仰や存在を脅かす者たちが出て来るかもしれない。いや、実際に今苦しめられている。しかし、必ずこの苦しみが終わり、解放される時が来る。過去においても、神様は私たちの信仰の先輩たちを救い出してくださった。私たちの神は救いの神であられるのだから、正しい裁きをしてくださり、私たちをも救ってくださるに違いない。詩人は確信をもって信仰を言い表し、そして祈ります。

 私どももまた、教会として、個人として様々な苦しみを過去においても重ねてきたことでしょう。今も苦しみの中にあるという方がたくさんおられます。私どもを苦しめる敵の存在そのものが、つまり、病だったら病という苦しみそのものが、私どもを苦しめるのですけれども、さらに私どもを悩ませるのは、この苦しみがいつまで続くのかということです。いつまでこの重荷を背負って、不自由な生活を続けなければいけないのかということです。先が見えないのです。まったく見通しが効かないのです。明るい将来が見えないのです。しかし、キリスト者の生き方はそうではありません。過去に起こった神の救いの出来事を思い起こすことができます。あの時、救われたように、神は今も私たちを救ってくださる。御心にかなった時に必ず救ってくださるのだから、今この時を主に支えていただきながら耐え忍ぼう、来るべき救いの日を待ち望もう。そのような思いへと駆り立てられるのです。

 この世では、「二度あることは三度ある」とか、反対に「三度目はない」などと言われることがあります。では、信仰に生きる者にとって、過去の出来事に支えられて、将来に向かって生きるとはどういうことなのでしょうか。この世で言われているように、「過去にあのようなことが起こったのだから、今回も同じことが起こる確率が高い。」そのように偶然の奇跡を願うことでしょうか。もちろんそんなことではありません。私どもは偶然起こるような出来事によって支えられるのではありません。過去に起こった救いの出来事、今日の私どもにとってはイエス・キリストの十字架と復活の出来事というのは、過去のあの日々においては意味があったけれども、今はあまり意味がない、力がないというのではありません。あるいは、過去の苦しみにおいては慰めをもたらしたけれども、今回の苦しみばかりは、さすがに主イエスと言えども無理だろうということでもないのです。主イエスをとおして与えられた救いの恵みは、私どもの過去においてだけではなく、今も、これからも私どもを真実に生かす救いの力です。過去の出来事で主の十字架の出来事と復活の出来事ほど確かな出来事は他にありません。だからいつも主の前に立ち帰ります。苦難の中でもなお、神様と離れることなく、健やかな関係に生きることが許されるのです。だから、望みを持って生きることができるのです。神の民は昔も今もこれからも「苦難・忍耐・救い」という信仰のリズムを刻みながら歩んでいきます。「苦難、忍耐、救い」という確かなリズムを、かつての信仰の民が残してくださったからこそ、私たちもこのとおりに歩んでいけば大丈夫だ、救われるという確信を持つことができます。

 そして、ここで忘れてはいけないことは、私どもの救い主であられる主イエスのことです。主イエスこそ、敵から苦しめ続けられたお方でした。主イエスの地上の歩みはお生まれになった時から苦難そのものでした。3節には、敵が私の背中を鋤で耕したという言い方がなされていましたが、主は十字架においてご自分の体に傷を負い、血を流されました。主に敵対し、主を十字架につけたのは当時の権力者や民だけではありません。私どもの罪がキリストを十字架につけたのです。しかし、主が十字架で血を流してくださったからこそ、苦しみを最後までに担ってくださったからこそ、そこに神様の正しさが示され、私どもは救われたのです。

 私どもを縛りつけていた罪の束縛、縄目を、主イエスは十字架の御苦しみをもって断ち切ってくださり、罪と死から解き放ってくださったのです。4節の「<束縛>から断ち切る」という言葉は、「軛」から断ち切るという意味だと申しました。そこで多くの人が、主イエスがお語りになった慰め深い言葉を思い出すことでありましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)重荷を負う者を招いて、休ませてくださるという言葉に深い慰めを覚えますが、主イエスはどのように休ませてくださるのかと言うと、「わたしの軛を背負い、わたしから学ぶことだ」とおっしゃいました。せっかく重荷から解放されたと思ったら、また別のイエス様の重荷を背負わないといけない。そう思ってがっかりしてしまうかもしれません。でも宗教改革者カルヴァンという人は、今日の詩編の御言葉を説く中で、「神様は私たちが安らかな心で、軛を受け入れることができるようにしてくださった」と言いました。軛を負うことは、普通嫌なことです。心穏やかでいることはできません。けれども、私どもキリスト者は、救いの喜びを知り、苦しみを経験することがあっても、それが絶対的なものではないこと、必ず終わりが来ることを信じることができます。罪や死をはじめ、あらゆる苦しみに打ち勝った確かな恵みによって、後ろから支えられ、押し出されるようにして、前に進むことができる幸いを知っています。だから、安心して軛を受け入れることができるというのです。安心して、主イエスと共に苦しみの中を最後まで生き抜くことができるのだと言うのです。

 また、カルヴァンはキリストの教会が大人になるというのは、「災いや艱難をとおして、神に対して従順な者になることだ」と言いました。信仰的に大人になる、信仰者として成長するとはどういうことなのか?色々と考えさせられるわけです。あるいは、信仰的に至らない点にいつも気づかされては、まだまだ自分たちは信仰的に幼い、全然成長できていないと言って落ち込むこともあります。しかし、神様は私どもを幼子から大人へと、つまり、教会を成長へと導いてくださるお方です。その時に、私どもがこの世で経験する災いや艱難といったものが、無関係ではないということです。むしろ大いに関係あるのです。苦しみの中で、いったい私どもは何により頼み、何を信じて生きるのか。問われているのはそのことだけです。神様にどこまでも従順であるというのは、決して、私どもの行いの立派さとか熱心さということではないと思うのです。「私どもは神様なしには、決して生きることができないのだ」ということでしかないのだと思います。そのように生きることがキリスト者として大人になるということであり、この世に対して証しすべき教会の使命なのです。お祈りをいたします。

 過去の日々を振り返ることはとても勇気のいることです。恐ろしいことでもあります。しかし、そのような私どもが今、キリストにあって、神のものとされています。私たちの若い日々においても、神様は共に歩んでいてくださいました。何よりも、御子イエス・キリストが私たちを罪から解き放つために、十字架に死に甦ってくださいました。色んな経験を積み重ねてきた私どもですが、キリストを与えてくださるほどの神様の愛によって、支えられ、今の私があること覚え感謝いたします。そして、過去や現在だけではなく、将来においても私どもは希望を持つことがゆるされています。礼拝を中心とした私どものこれからの歩みを祝福してください。主の恵みを忘れやすい私どもですから、いつも支えてくださり、主の十字架のもとに立ち帰る歩みを大切にすることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。