2023年05月21日「聖書の中心メッセージ」

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聖書の中心メッセージ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
使徒言行録 8章26節~40節

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聖書の言葉

26さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。29すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。30フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。31宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。32彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。33卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」34宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。36道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」38そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。39彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。40フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。使徒言行録 8章26節~40節

メッセージ

 私どもの人生はよく「旅」に譬えられます。また「道」に譬えられることもあります。一人の男が、エルサレムから自分が住んでいるエチオピアに向かう道を進んでいます。また伝道者フィリポという人がエルサレムからガザへ下る道を進んでいます。そこは寂しい道、荒れ果てた道でありました。実際に人気(ひとけ)が少ない場所だったそうです。エルサレムからエチオピアに向かう道も、エルサレムからガザへ向かう道も、「道を行く」というのは、言い換えると、それは「旅をしている」と言い換えてもいいでしょう。特にエルサレムからエチオピアへの帰路にあった男は、この時どのような思いで旅をしていたのでしょうか。ある程度推測することは可能ですが、しかし最後は、39節にあるように、「喜びにあふれて旅を続けた」というのです。まだ旅は終わっていません。まだ続いているのです。でも確かなことは喜びにあふれて旅を続けたということです。エチオピアに着いた後も、まだ人生の旅は続くのです。その旅路においても、喜びにあふれて旅を続けたことでありましょう。この後、男はどのように生きたかまでは聖書は記していません。ある伝説ではエチオピア教会の伝道者、牧師になったという記録もあるそうです。具体的なことは分からないのですけれども、聖書のメッセージをとおして、イエス・キリストと出会い、洗礼を受け、救われて生きるというのは、喜びにあふれて生きることなのだというのです。

 私どもは今どのような道を歩んでいるのでしょうか。何の問題もなく平坦で広い道を歩んでいるのでしょうか。それとも、でこぼこだらけで、いつ躓いてもおかしくない危険な道を恐る恐る歩んでいるのでしょうか。それとも、きつい坂を一歩一歩登るようにして、歩んでいるのでしょうか。本当に今日を生きるのが精一杯、そのような苦しみを抱えながら歩んでいるのでしょうか。あるいは、もう道を歩くことすらできなくなった。立ち止まり、座り込んだまま、立つことができないでいる。そのように言ったほうが、今の自分に相応しいという方もおられるかもしれません。

 馬車に乗り、エルサレムからエチオピアに向かう道を旅していた男はどのような人物だったのでしょうか。2節に「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が」というふうに、この男についての説明がなされています。女王の「高官」というのですから、国の中ではそれなりの地位にあった人です。女王の全財産の管理を任されていたというのですから、相当信頼されていた人物だと思われます。いわゆる「エリート」と言っていい人です。幼い頃からどういう道を歩んできたかまでは分かりません。一通りの苦労を重ねてきたかとは思いますが、それでも思いどおりの道を進むことができたのでしょう。登る所まで登りつめた。来る所まで来た。そのように言っても、決して大げさではない「高官」という地位を手に入れることができました。もちろん人間でしたから、高い地位に立つことができれば、もう何も必要ないということではないでしょう。女王から厚い信頼を寄せられていましたが、一つのミスでその信頼を失ってしまうということも十分あったでしょう。その不安を紛らわすために、さらに何かもっと安心できるものを手に入れたいという欲望が強くなっていたかもしれません。

 いずれにせよ、男はエリートを目指して歩み、その目標に到達したにもかかわらず、なお満たされないという思いをどこかで抱いていたようです。これで人生のゴールだと思っていたのに、何か違うのではないか。生きる喜びというものが、もしかしたらどこか他のところにあるのではないか。そう思っていたのです。だから、27節の終わりにあるように、エルサレムで神を礼拝するためにわざわざエチオピアからエルサレムまで旅をしたというのです。おそらくユダヤ人が信じる神について、キリスト教について知っていたのでありましょう。エルサレムまで行けば、何か見つかるかもしれないという漠然とした期待を抱いたのかもしれません。それにしても、エチオピアからエルサレムまで約4千キロの道のりを遥々旅したというのです。日本で言えば、沖縄から北海道までの距離を馬車で旅したというのです。それほど熱心になって、生きる喜びとは何であるかを探し求めていたのです。

 しかし、多くの聖書学者たちが推測いたしますのは、せっかく遠くからやって来たにもかかわらず、神殿の中に入って、神様をちゃんと礼拝できなかったのではないかということです。神殿にはいくつもの隔ての壁がありました。女性はここまで入っていいけれども、この先は入ってはいけない。異邦人(外国人)はここまで入っていいけれども、この先は入ってはいけない。そういう隔ての壁がありました。どれだけ遠くから時間をかけて来たとしても、どれだけ熱心に神を求める思いがあったとしても、その壁の向こうには進んで行くことができませんでした。この男は、エチオピア人ですから異邦人です。また、27節には「宦官」という言葉がありました。去勢された男性のことです。女王の側で働くにあたって、男性としての過ちをおかしてはいけない。それで宦官になったのでしょう。男性として大きな代償を負うことになりましたが、高官という地位や幸せを手にするためには仕方がないことだったのです。私どももまた幸せを手に入れるために、大切なものを失ったり、犠牲にしなければいけないということは、よくあることなのではないでしょうか。ただ、この男は異邦人であるだけでなく、宦官でもありました。旧約聖書には宦官もまた礼拝の群れに加わることができないという掟が記されているのです。だから神殿に来ても、神を礼拝し、男が本当に求めていたものを手にすることができないまま帰って行ったのではないかということです。

 道はここで行き止まりとなってしまいました。まことの喜びを求める旅、神を求める求道の道は、神殿の壁を前にしてストップせざるを得ませんでした。男としてはせっかくここまで来たのに、どうして礼拝をささげることができないのか。こんな神様は本当の神様ではないと言って、腹を立てて、別の道を進んで行くことも十分起こり得たことでありましょう。けれども、がっかりしたというふうにも、神様に不満を抱いたというふうにも聖書には記されていません。自分は異邦人だし、宦官だし、神殿の中に入ることができなくて当然だと言って、このことを受け入れたというのです。そして、神様を求める思いを捨てたのではなく、むしろ求道の思いはますます熱くなっていったようです。

 その証拠に、28節にあるように、「彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」というのです。どこかで旧約聖書・イザヤ書の巻物を手に入れたのでしょう。当時の聖書というのは今のように綺麗に製本されているわけではありませんでした。一巻ごと巻物になっていましたし、たいへん高価なものでしたらから、神殿や会堂に集う皆一人一人が聖書の巻物を持つことなどできませんでした。ですから、今日のように、家に帰ってから、好きな時間や決まった時間に聖書を開いて読むということなどできなかったのです。それだけに、安息日や主の日の礼拝で語られる言葉を真剣な思いで聞いたことでありましょう。ただ、この男はお金もありましたら、イザヤ書の巻物をどこかで購入することができたのです。それで、エルサレムからの帰りの道で、イザヤ書を朗読し、ここに大切な真理があるのではないかと必死に探し求め、御言葉を自分で朗読しながら、自分の心に言い聞かせていたに違いありません。

 しかし、男は、自分でも31節で「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言っているように、自分の力だけで、聖書を理解し、神様が伝えようとしているメッセージを聞き取ることができませんでした。「手引きする」というギリシア語の中には、「道」を意味する言葉が含まれているそうです。「手引きする人」というのは、少しくどい訳になりますが、「”道”を行く歩みを導いてくれる人がいなければ」ということです。自分が歩く道だけではダメなのです。神様があなたのことをどのように導こうとされているのか。その「神の道」を知らなければ、聖書が分かったということにはならないというのです。だから、男は伝道者フィリポに「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。私に聖書のこと、神様のことを教えてください」と頼み込むのです。神殿の壁を前にして、そして、ここでは御言葉の壁を前にして、立ち止まらざるを得ない経験をすることとなりました。このように神を求める道には、いくつもの壁が存在し、何度も立ち止まるという経験をいたします。このことは洗礼を受けて、キリスト者として既に歩んでいる人にも同じように言えることではないでしょうか。色んな出来事をとおして、これまで歩んできた道、順調だと思っていた道の前に、大きな壁が突然現れて、それを前にして立ち尽くしてしまうということが幾度もあるということです。これからもそのように立ち止まるという経験をすることでありましょう。けれども、そのように神様の前に自分の限界を悟るということは、神様を求める上で、また信仰生活を続けて行く上でとても大切なことだということです。いくつもの壁があって、立ち止まってしまうくらいならば、信じるのをやめようというのではありません。道の途中で、立ち止まる経験をするからこそ、まさにそこで御言葉が私を生かし、私を救う言葉として響き渡るということが本当に起こるのです。

 そのような神の御言葉を宣べ伝える使者として、神様はフィリポという伝道者を男のもとに遣わしました。人々に伝道するにはあまりにも寂しい場所でありました。誰もいないような場所であり、「伝道しろ」と言われても、いったいどうしたらいいのですか?いったい誰に伝えたらいいのですか?そういう思いも正直あったかもしれません。でも伝道というのは、そこに人が多いから少ないからというのでもありません。そこが都会だから田舎だからというのでもないのです。神様がお遣わしになったところに行って、そこで伝道をするのです。そして、遣わしてくださるというのは、そこには、救われなければいけない者たちが必ずいるということです。だから、寂しく荒れ果てた場所に、神様は、熱心に神を求めて生きている一人の男を用意してくださいました。29節を見ると、聖霊がフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じます。「一緒に行け」というのは、「くっついて」とか「離れるな」という意味の言葉です。「フィリポよ、お前は立ち止まるな!前に進め!追いかけろ!」というのです。その声を聞いたフィリポは馬車に乗っている男に追いつくために、全速力で走ったのかもしれません。何としても追いつかなければいけない。何としても彼を捕えなければいけない。ここに、求道する者を、必死になって追いかけ、求めておられる神様のお姿があるのです。

 信仰の道に入るためにはどうしたらいいのでしょうか?救いの道を歩むためにはどうしたらいいのでしょうか?私たち人間のほうが神様を熱心に求めることでしょうか。例えば、主イエスはこのようにおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7−8)主がおっしゃるように、確かに私どもが一所懸命になって求めること、探すこと、門をたたくことを神様は願っておられます。神に祈り求めることを願っておられるのです。けれども、信仰というのは、私どもが神を求める熱心さという土台の上に立っているのではありません。誰よりも真面目に、誰よりも真剣に神を求めたから、その熱心さを神様から認めてもらって、救われるという話ではないのです。もちろん、一所懸命救いを求めることは大事です。でも救いを与えてくださるのは神様です。救いの真理を探すことも大事ですが、それを見出すことができるように導いてくださるのは神様です。救いの門をたたくことも大事ですが、その門を開き、救いの中に招いてくださるのは神様なのです。

 このような神様の熱心さ、神様の御心に気づくことが求道生活においても、信仰生活においても大切なことになってきます。けれども、なぜか自分が一所懸命になり過ぎてしまっている時、以外と神様の熱心さというものに気がつくことができない。そういうことがあるのだと思います。神様を追い求めながら、求め過ぎるあまり、神様を追い越してしまって、別の道に立っている。そして、気づいたら「あれ?神様はどこに行ってしまったのだろうか」という話になってしまうのです。だから、神様の前で、また御言葉の前で立ち止まるということが信仰生活の上でとても大事なのです。あるいは、色んな出来事を経験して、立ち止まってしまう時に、「この出来事をとおして、神様は何を私に伝えようとしているのだろうか」と、心を静かにして考えることがとても大事なことなのです。その時に、自分が神様を追い求める思いに勝って、神様が私を求めておられたのだということ。その恵みの事実を知ることになるのです。それだけではなく、既に私は神様の愛の御手によって捕らえられていたのだということにも気づくことです。人生の旅の途中で辛いことを経験したり、道の途中で躓いたり、そういうところで、私どもをすぐに神を見失うのです。神がいたとしても、神は私を愛してくれないのだと言って、神の愛を疑うのです。でもそうではないのです。私どもが神を見失っても、神は私どもが生まれるずっと前から愛してくださり、今もどのような時も愛し続けてくださるのです。私が神を愛したのではなく、神が先に私を愛してくださいました(ヨハネ一4:10)。私が神を選んだのではなくて、神が私を選んでくださったのです(ヨハネ15:16)。

 そのような愛に満ちた神様との出会いがどこで起こるのでしょうか。それは、御言葉を聞くことをとおしてだということです。また、教会には「伝道」という大きな使命が与えられていますが、「伝道する」「福音を宣べ伝える」という時に、そこで何をすればいいのでしょうか。それは聖書があなたに伝えようとしていることが何であるのかを理解していただき、信じていただくことです。もちろん、伝道の働きも神がなさることで、私どもはそれに仕えているだけなのです。私たち教会は、御言葉をとおして、御言葉が語られる礼拝をとおして、神様は本当に生きておられるということを知っていただきたいと願っているのです。男が乗っている馬車に追いついたフィリポは尋ねます。「読んでいることがお分かりになりますか。」男は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」それでフィリポを馬車に招いて、道を進みながら、イザヤ書から御言葉を聞くことになりました。

 ところでこの「使徒言行録」を書いたのはルカという人物です。このルカという人は使徒言行録に先立って「ルカによる福音書」を記しました。元々はローマの高官であり、求道者だったと言われているテオフィロという人物に宛てて書かれたものです。ルカによる福音書の第24章13節以下に、「エマオへの道」と呼ばれる物語があります。主イエスの復活を物語る御言葉ですが、実はこのエマオへの道と、今共に聞いています使徒言行録の物語は、読み比べてみると分かるのですがたいへんよく似ているのです。二人の弟子が暗い顔をして、エルサレムからエマオに向かう道を歩んでいます。どうしてそんなに悲しい顔をしているのかというと、この方こそ「救い主だ」と望みをかけていたイエス・キリストが十字架にかけられて死んでしまったからです。それだけでなく、十字架で死んだイエスが復活したという知らせを聞いて、何がどうなったのかよく分からなくなってしまい、途方に暮れたまま、何の目的もなくエルサレムから十数キロ離れたエマオの村に向かおうとしています。しかし、その道の途中、復活の主が二人の弟子に近づき、「何を話しているのですか」「何をそんなに悩んでいるのですか」と話しかけてくださいます。二人は心の目が遮られていて、一緒に歩いておられるお方が復活の主イエスだとは気づきません。そこで主は二人のために何をしてくださったのでしょうか。それは彼らと一緒に歩きながら、旧約聖書全体から、主イエスにご自身についてお語りくださったというのです。それは二人にとって心燃えるような出来事でありました。

 今朝の使徒言行録の物語においても、神から遣わされたフィリポは男に近づき、彼に話を聞き、最後には彼が乗っている馬車に乗って、そばでイザヤ書の手引きをするのです。あなたがどう生きるかという、「あなたの道」も大事かもしれないけれども、「神様の道」、神様があなたのことをどう思っておられ、どのような道に導こうとしているのかを知ってほしいというのです。なぜこの時、イザヤ書を読んでいたのでしょうか。この時、男が朗読していたイザヤ書第53章の御言葉でした。旧約聖書の中でも、救い主イエス・キリストを預言する大切な御言葉です。「苦難の僕の歌」と呼ばれている箇所です。だから、イザヤ書を朗読していたのかもしれません。でもそれだけではなく、イザヤ書には実はこういう御言葉があるのです。それがイザヤ書第56章1〜5節の御言葉です(旧約1153頁)。「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し/わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人/それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人/悪事に手をつけないように自戒する人は。主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」つまり、ここには「宦官」である自分のことが語られているのです。しかも、宦官は救いから遠いとか、礼拝する資格はないというのではなく、宦官であるあなたもまた救われる。その日は近いというのです。だから自分にはもう望みがないなどと言わないように。あなたもまた救いに招かれている!男は思いもしなかった言葉を発見し、イザヤ書全体を読みふけったのでありましょう。

 その中で、この時、朗読していたイザヤ書第53章の御言葉がどうしても心に引っかかったのです。32〜33節には、イザヤ書第53章7〜8節に当たる御言葉が記されていました。使徒言行録で引用されている言葉は多少訳が違うのですが、こう記されています。「彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』」男は何に引っかかりを覚えたのでしょうか。何が分からなかったのでしょうか。34節でこう言います。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」つまり、羊のように屠り場に引かれていく者は「誰か」ということです。屠られるために羊は毛を刈られるのですが、そこで沈黙し、最後には裁かれて、死んでいったというのです。ここで苦しんでいる僕は「誰なのか」ということです。

 イザヤ書第53章全体を見ますと、この屠られた小羊について、さらに次のようなことが言われています。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ53:2-3)ここには痛々しく、惨めな小羊の姿、僕の姿が描かれています。見るべき面影もないこの僕は、誰からも相手にされず、軽蔑され、無視されます。痛みと病を抱え、それだけでも辛いことですが、報われることなく、最後には捕らえられ、殺されていったのです。いったいこの僕は誰なのかということです。他にも読み進めていきますと、罪、咎、懲らしめ、傷、死。そういったことが一度にここで語られていきます。でもいったいこれほど惨めで醜いこの人は誰なのでしょうか。イザヤ書を読む限り、直接的な言い方で、「この人は誰々のことだ」と言われているわけではないのです。だから、これは預言者イザヤ自身のことを指しているのですか?それとも他の人ですか?と尋ねたのです。

 伝道者フィリポは、35節にあるように、「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」というのです。つまり、イザヤ書が語る屠られた小羊、苦難の僕と呼ばれる人物は、イエス・キリストのことだということです。まさか男は、神の子、救い主である主イエスがこのような目に遭わなければいけないなどとは思ってもみなかったことでしょう。ただ聖書を読む上で大事なのは、「これはこういう意味だよ」「これはイエス様のことを指すのだよ」というふうに、知識を得ただけで終わってはいけないということです。ここで語られている主イエスのことが、実は今ここにいる私と深い関わりがあることとして聞くこと。そして、信じることです。それも、とにかく頭ごなしに信じればいいというのではありません。「イエスについての福音を告げ知らせた」とありました。「福音」というのは「喜びの知らせ」という意味です。また「イエスについて」と訳されていますが、ここは「イエスご自身を告げ知らせた」ということです。イエスご自身があなたにとって喜びそのものなのだということです。「福音」という言葉は、元々、戦場から帰ってきた使いの者がもたらす「勝利の知らせ」を意味する言葉でした。私たちは戦いに勝った!もう恐怖に支配されることはない。死の恐れから解放され、これからはもう自由と平安の中を生きることができるということです。では、私どもにとって、イエス・キリストが福音(喜びの知らせ)となるというのは、どういうことなのでしょうか。キリストは私どものために何をしてくださったのでしょうか。キリストは私どものどのような勝利をもたらしてくださったのでしょうか。

 そのことがイザヤ書第53章4〜6節で語られています。イザヤ書第53章だけでなく、聖書の中心にあるメッセージがここにあります。

 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」

 なぜ、ここで語られている僕、つまり主イエスは、あれほど惨めな姿をさらさなければいけなかったのでしょう。僕自身が何か大きな罪をおかしたからでしょうか。だから、その裁きとして罰を受け、殺されたのでしょうか。そうではないのです。この苦難の僕は、自分にはまったく身に覚えのない病、傷、痛み、懲らしめ、咎、そして、罪を背負わされて、死んでいったというのです。神から見捨てられるようにして、死んでいかなければいけない病とは何であるのか?それは罪の病であり、死に至る病です。そして、この罪はあなた自身の罪なのだというのです。主イエスは、あなたの罪を、代わりに背負って、死んでいったのだ。あなたが神に捨てられることのないように。あなたが救われ、喜びに満ちた道を歩むために。その救いの出来事こそ、キリストの十字架の出来事でありました。「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」十字架で神から受けた懲らしめ、十字架で負われた傷、そしてそこから流れ出た主イエスの血潮によって、神様と私どもの関係が平和なものとなりました。まさに主の十字架の傷によって、決して、癒されることのなかった罪の傷が癒されたのです。主イエスの傷によって、私どもの罪の傷を癒す。まさに荒療治です。でも、本当に深い傷を負われ、神に捨てられた十字架の死を死なれたのは、主イエスだけでありました。イエス・キリストご自身が福音であるというのは、神様がキリストをとおして罪と戦ってくださり、圧倒的な仕方で勝利を収めてくださったということです。ここに私どもの救いがあり、喜びがあり、まことの平安があります。

 神様は十字架のイエス・キリストをとおして、救いの御力を発揮し、十字架のキリストをとおしてあなたを救いたいと願っておられます。私どもは自分なりの幸せや喜びを手にするために、限界をわきまえずに頑張ったり、色んなことを犠牲にしてまでして、喜びをつかみ取ろうしてしまいます。他の人が何と言おうが、神様が何と言おうがそんなものはお構いなし。周りを気にしていたら、自分は生き残ることができない。だから、一緒に生きる人たちのことなど真剣に考えずに、とにかく自分だけが上に登りつめること、最後まで生き残ろうとすること。このことがとにかく大事なのだと思い込んでしまっている。そういうところがあるのではないでしょうか。でも、自分が自分がと言って、独りよがりに生きてきた先に何があるのでしょうか。実は喜んでいるのは自分一人だった。気づいたら孤独だった。気づいたら周りの人は傷ついていた。そういうことはないでしょうか。まして神様はそのような私のことをどう思われているのでしょうか。その時に、自分のこれまでの生き方はいったい何だったかと悔やみながら、でもそこで生きること、生かされていることの意味を問うということが、私どもの人生において起こるのです。

 また、私どもは人生という旅路、また道のりにおいて、あらゆる苦難というものを経験します。そこで私どもが余計に辛くなるのは、今の苦しみがいつまで続くのか、この苦しみがどこまで深いのか。そのことが分からないということです。苦しみの底、苦しみの底辺が見えないのです。本当に「苦しい」というのはそういうことです。もし底辺が見えたなら、それは苦しみではなく、むしろ救いになると思うのです。主イエスの御苦しみ、その極みである十字架は、私どもの苦しみの底辺に立っています。だから救いなのです。キリスト教会は、目立つように教会堂の屋根の一番高いところに十字架を掲げますけれども、十字架というのは、本当は一番低いところにあるということなのです。そこから、主イエスの十字架というのは、そう簡単に見つけることができないものでもあるのです。見つけることが難しいというよりも、誰も見たいとは思わないと言ったほうが正しいかもしれません。低いところにあるもの、惨めなものを誰も見たくないのです。私どもはどうでしょうか。

 主イエスは、この地上にお生まれになった時から、馬小屋の飼い葉桶で寝かされたように、誰も居たいとは思わない場所を御自分の居場所としてくださいました。そして、十字架に至る苦難の道を最後まで真っ直ぐに歩んでくださいました。この主の十字架が私どもの一番深い底に立っているのです。この主の十字架が私どもの一番深い底に立っているのです。だから、絶望や空しさにいつまでも捕らわれることはないのです。あるいは、空しさや心の傷を埋めるために「偶像」を造って気持ちを紛らわしてみたり、まして「神などいなくても生きていける」などと言って、罪の上に罪を重ねるような愚かないことしなくてもいいのです。なぜなら、主イエスが私どもの罪を背負い、十字架で死んでくだったからです。そして、そのお方がお甦りになり、今、私どもの神となって、私どもの人生の道を共に歩んでくださいます。地上を歩む限り、なお罪や様々な問題に思い悩む私どもですが、その深いところに十字架の主イエスがおられることを、もう一度、心に留めたいと思います。この方を罪の中においても、あらゆる苦しみの中においても見出してほしいと願っておられます。もし、闇の中で主の十字架を見ることが難しければ、「神よ、あなたの救いを分からせてください」と祈ったらよいのです。求める者に、神は必ず応えてくださるのです。

 さて、イエス・キリストの福音を告げ知らされた男は、伝道者フィリポと一緒になお道を進んで行きます。すると水がある所まで来たというのです。男は言います。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」フィリポをとおして、聖書の手引きを受けた男は、主イエスを「救い主」と信じ、主と共に生きる道こそ、喜びの道、希望の道であるということを信じる者とされました。そして、洗礼を受けて、神の民の一員となりたいということを願い出ます。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」私どもの歩みを振り返る時に、本当に色んな妨げがあったことを思わされるのです。その度に自分の道が閉ざされ、辛い思いをしてきたのです。そして、おそらくこれからも様々な妨げによって、思い描いていたように道を進めなくなるということがあると思うのです。もちろんこの男が求道の歩みの中で経験したように、信仰的な良い意味で妨げを経験する、立ち止まることを経験するということもあります。それらの妨げを含め、洗礼を受けて、キリストのものとされるというのはどういうことなのでしょうか。それはこの男が自らの口で言い表していますように、たとえ私どもが何かによって妨げられる、立ち止まるということがあっても、神様の救いの恵みはどのような妨げを前にしても、その壁を突き破るようにして届けられるということです。私どもには限界があります。その道において躓きます。でも神様の救いの恵みを、あるいは、神様の愛を妨げるものはどこにもないのです。それほど神様の救いはしたたかであるということです。だから、喜びにあふれた人生を最後まで生きることができるのです。死を超えて、復活のいのちの望みに生きることができるのです。

 洗礼を受けてキリストのものとされる。それは私の人生は主イエスのものであり、私の人生の主人もまた主イエスであるということです。自分が自分の主人ではないのです。エチオピアの女王が主人なのでもないのです。洗礼を受け、救われたこの男は、自分があずかっていた女王の全財産よりも遥かに勝るまことの宝であるイエス・キリストと共に人生の旅を新しく歩み始めました。自分を信仰に導いてくださったフィリポ先生はもう目の前にいませんでした。寂しいことかもしれません。でも、これからは馬車の自分の席の横に、主イエスをお乗せして旅を続けていきます。のちに伝道者になったかどうかは分かりません。でも、洗礼を受けたというのですから、キリストの教会に生き続けたことは確かであります。復活の主のお姿は目に見えません。けれども、礼拝をとおして、御言葉と聖餐をとおして、今も生きておられる主イエスと出会い続けたことでありましょう。私どももまた、毎週ここで礼拝をささげては、また新しい旅路を続けていくためにここから出てい来ます。でも、私どもは一人でここを出ていくのではありません。主イエスが人生の旅の同伴者として、共にここを出て、共に歩んでくださるのです。だから、私どもの歩みはどのようなことがあっても、神の祝福の中に置かれているのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたは私どもを探し、私どもを追い求め、ついにはキリストによって捕らえ、ご自分のものとしてくださいます。私はもう自分のものでも、誰のものでもありません。まったく神様のものとされています。求道の旅路においても、信仰の旅路においても、その道において様々な経験をする私どもですが、御言葉をとおしてキリストの福音を聞かせてくださいますように。復活の主が共にいてくださるこの礼拝の場をこれからも豊かに祝福してくださり、あなたと共にある人生を喜ぶことができますように。御霊の導きを願います。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。