2023年05月14日「もう一度、愛の中へ!」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

もう一度、愛の中へ!

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 21章15節~19節

音声ファイル

聖書の言葉

15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ヨハネによる福音書 21章15節~19節

メッセージ

 私どもはどのように自分の人生を形づくっていくのでしょうか。将来、自分が何をしたいかとか、自分は何に関心があるのかとか。そのように自分の中にある今の気持ちを大切にして、それを実現していくことによってでしょうか。確かに、色んなことに関心を持ち、そこに生き甲斐を見出していくことは大事なことでありましょう。聖書は、「生きることは喜びである」ということを語ります。ですから、自分自身が喜びを感じることができるような生き方をするということは、素晴らしいことに違いないと思うのです。何を喜ぶのかということも大切なことですが、「これが私の生き甲斐だ」と言えるようなものを自分でちゃんと見つけること。あるいは、周りの大人が見つけることができるように導いてあげること。これも大切なことであるかと思います。

 しかし、あえて俗っぽいことを言うようですけれども、「人生はそんなに上手く行かないよ」ということです。自分が思い描いていたよう、人生のプランを前に進めることはできないということです。失敗すること、挫折することがあるということです。それももう自分は立ち上がることができないのではないかと思ってしまうほどに深く落ち込むことがあるということです。挫折と一言で言いましても、本人に問題があるのかもしれませんし、周りに責任があるのかもしれません。でも、生きるうえで大事なのは、もうダメだと思うところでどう生きるかということです。「自分はこう生きたい」という願望や計画がすべて崩れ去り、もう何も考えられないというところでどう生きるかということです。そこで、「負けるな」とか「志を高く持て」と言ってところでどれほどの意味があるというのでしょうか。

 挫折したり、落ち込んだりする経験は、無いことに越したことはありません。「試練を経験したほうがいい」という人もいます。「試練を乗り越えたら人間的に成長することができる」という人もいます。あとで振り返ってみたら、そうだったと思えたのでしょう。でも本当に苦しい時は、そういう言葉は本当に綺麗事に過ぎないのです。私どもの思いを超えたところで色んなことが起こるのです。自分もそれに呑み込まれるのです。でもそこで立ち止まって、どれだけ時間がかかってもいいからゆっくり考えるということ。自分一人で、親しい者たちと共に、そして神様と向き合いながら。いったいこれは何を意味するのかをよく考えるということです。

 何が言いたいかと申しますと、私どもの人生というのは、自分が「ああしたい」「こうしたい」ということだけではなくて、様々な形で問いかけを受けることあるということです。そして、実はそれらの問いに応えることによって、私という人間が形づくられていくということがあるのではないでしょうか。すらすらと応えることもできれば、その問いを前にして立ちすくんでしまうこともあるでしょう。あるいは色んなことに気づかされることもあるかもしれません。自分のこれまでの考えや価値観、生きる姿勢が打ち砕かれ、そこで方向転換をし、新しく生き直すことができるようになるということもあると思います。問いかけられない人生というのはないのです。

 信仰生活においても同じことが言えます。例えば、信仰を一から学ぶ時に、「教理問答」というものをとおして学ぶことがあります。礼拝では、以前、ハイデルベルク信仰問答を告白しました。今日からはもう一度ウェストミンスター小教理問答を告白します。問いと答えを積み重ねながら、聖書をとおして神様が語られる救いの真理を学ぶのです。とは言え、問いがあってもすぐ下のほうを見れば答えが載っていますから、問いだけを見て立ち止まって考える人はあまりいないと思うのです。ウェストミンスター小教理問題も、信仰生活が長い方はもう答えをよく知っていますから、「人のおもな目的は何か?」と問われてもすぐに答えることができるのです。ハイデルベルク信仰問答では、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」と言われても最初の数行ぐらいはすらすらと言える方が多いと思うのです。すぐに言えることも大事ではありますが、本来はそれらの問いの前に一人静まって考える時が必要なのではないかと思います。私どもは何のために生きているのでしょうか。生きている時だけではない、死ぬ時も、なお「私の慰めだ」と言えるものは何なのでしょうか。実はものすごいことを最初に私どもに問うているのです。

 信仰というのは、私どもが神様にお願いをしたり、色んなことを尋ねたりすることだと思っているかもしれません。そういう一面もあるのです。けれども、信仰生活において、「一番肝心なのはあなた次第なのだ」と言われたらどうでしょうか。「あなた自身がどう考え、どう生きるのか。」そのことが信仰においても決定的に大事なのだと言われたら、いったいどうなってしまうのでしょうか。到底最後まで信仰を貫くことなどできないでありましょう。神様を信じているつもりかもしれませんが、結局は自分が信じられる範囲だけでで信じて、終わってしまうのです。結局、神様よりも自分のことしか考えないで終わってしまうのだと思います。

 先ほど、先週に続きましてヨハネによる福音書第21章の御言葉を共に聞きました。ここで復活の主イエスは、弟子のペトロに問うておられます。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」主が問われていることは「愛」です。一度だけではありません。「わたしを愛しているか」と、三度もペトロに問われるのです。私どもにも同じように問うておられるのです。復活の主、今も生きておられる主は問うておられます。「わたしを愛しているか。」私どもを信仰に導き、救いに導く究極的な問いかけがここにあるのです。あなたは復活の主イエスを愛しているか?ということです。そして、この時のペトロや他の弟子たちはそうであったように、十字架を前にした主イエスを見捨て、挫折を味わっている者たちを、立ち直らせる問いがここにあるのです。あるいは、人生をやり直したいのだけれども、正しくやり直す方法が分からない。自分なりの考えに従ってやり直そうと試みるもののダメだった。さらに深い失意に陥ってしまった。そういう者たちをも真実に立ち直らせる問いがここにあるのです。「あなたはわたしを愛しているか?」復活の主は、ペトロに対して、「わたしを信じているか?」とか「わたしに従うか?」と問われたのではありませんでした。復活の主に対する「愛」を問うておられます。「わたしを愛しているか?」

 愛を問われること、愛を問うこと。これは私どもが生きる世界において、絶えず交わされている大切な対話の一つではないでしょうか。「あなたはわたしのことを愛しているの?」しかし、大切であるがゆえに、私どもは愛における挫折というものを知っています。愛し、愛されることにおいて傷を負うこと、破れを経験することがあります。だからこそと言ってもいいかもしれませんが、あなたに対する私の愛が真実であるということを証しするために、私どもは何をするのでしょう。必死に自分がしてきたことをアピールするのではないでしょうか。あなたのためにこんなことをしてあげた。あんなことをしてあげた。あなたが喜んでくれるなら、私は自分を犠牲にしてもいい。それぐらいあなたのことを愛しているのだと言って、その人のためにしてきた一つ一つの愛の証しを、その人の目の前に並べるのだと思います。

 しかし、主イエスの弟子であったシモン・ペトロはどうだったのでしょう。「わたしを愛しているか」と問われて、「もちろんです。他の弟子よりも誰よりもあなたを愛しています。イエス様、私はあなたのためにこれだけのことをしてきました。見てください。私のイエス様への愛は本物だということが分かるでしょう。」そのようにペトロは胸を張って言うことができたのでしょうか。かつてのペトロでしたらそのように答えていたかもしれません。でも今はそうではないのです。「わたしを愛しているか」と主から問われて、こう答えるのです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」三回とも同じように答えるのです。主を愛しているなら、なぜ「愛しています」と真っ直ぐ言うことができないのでしょうか。どこかぎこちないと言いましょうか、自信のない返事のように聞こえます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」そして、三度目に主から愛を問われた時、17節にあるように「悲しくなった」というのです。主イエスを愛することは信仰に生きる者たちにとっては喜びそのものなのではないでしょうか。主を愛するところに生まれる悲しみとは何なのでしょうか。

 先週は14節までをお読みしました。弟子たちは、主を見捨ててしまった罪を悔い、もう一度故郷に帰り、漁師の生活に戻ることをとおして、もう一度人生を新しくやり直したいと願いました。けれども、一晩中、漁をしても一匹も獲れませんでした。本当の意味で人生をやり直すというのは、元の仕事に戻るとかそういうことではないからです。新しくやり直すというのは、何よりも私たちの罪を贖うために十字架に死んでくださり、復活した主イエスと真実にお会いすることなのです。だから復活の主は、夜通し、湖の岸辺に立ち、弟子たちを見守ってくださいました。そして、弟子たちに声をかけ、朝の食事を用意してくださったのです。この出来事をとおして、弟子たちは再び神の言葉の力を知り、主イエスと真実に出会うことができました。主イエスとの食事というのは、「最後の晩餐」の席にも見られるように、主の恵み深さと同時に、自分たちの罪の闇が深まった時でもありました。ですから、主イエスとの食事というのは良い思い出ではなかったのです。忌まわしい思い出であり、思い出したくないものでありました。けれども、復活の主は弟子たちのために朝食を用意してくださいました。悲しみの食事ではなく、彼らを立ち直らせるための喜びの食卓であり、赦しの食卓であるということを明らかにするために。そして、復活の主が目の前で、弟子たちのために食事を用意してくださったように、今も主イエスはまさに生きておられるお方として、豊かに臨んでくださるのです。

 このような恵みに満ちた食卓の後、復活の主はペトロ一人に向かって問われるのです。ペトロと一対一で向き合う必要がどうしてもありました。ペトロが本当の意味で立ち直ることができるために、どうして問わなければいけないことがあったのです。それが復活の主イエスに対する愛を問うことでした。愛を問うということは、言い換えれば、愛に招いておられるということです。主を愛することにおいて、深い傷を負い、破れを経験したペトロをもう一度、真実の愛の中に招かれるのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」

 ヨハネによる福音書の御言葉に先立ってイザヤ書第50章の御言葉を朗読していただきました。短い言葉です。余計な説明をするつもりはありません。「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」「お前たちのうちにいるであろうか」。そう問われるのは、神様が私どもを捜しておられるからです。私どもは闇の中で、つい自分ひとり分の松明を灯して生きようとしてしまいます。松明どころかマッチ一本ほどの小さな火を灯し、光を得て、自分ひとりで温まり生きようとしてしまうのです。しかし、それはすぐに消えてしまうのです。結局虚しさしか残らないです。だから、私どもが光のない場所を歩く時も、出口の見えない暗闇を歩く時も、神を信頼する者たち、神を支えとする者たちを捜しておられるのです。私どもは光があるから神様を信頼するのではありません。明るい見通しがあるから神様を信頼するのでもないのです。神様は捜しておられます。そして、見つけ出してくださいます。光のないところで、神を信頼する者たちを。そして喜んでくださるのです。「ああ、ここにいた!ここにわたしに信頼し、わたしを支えとしたいと願っている者たちが、ここにいた!あそにもいた!」復活の主の言葉に言い換えるならば、「ああ、ここにわたしを愛する者がいた!」ということでしょう。そして、神様は、復活の主は私どもの聞きたいと願ってくださるのです。「神様、ここにいます。闇の中でも、光のない時でも、あなたを信頼し、あなたを愛している者が今ここにいます。」

 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」復活の主は三度、ペトロに愛を問われました。ペトロは三度目に問われた時、悲しくなりました。それはなぜイエス様は私を信頼してくださらないのだろう。三度も問われるということは、私の愛を疑っているということなのだろうか。ペトロはそう思って悲しくなったのでしょうか。そうではないのです。復活の主がペトロに三度、愛を問われたのは、かつて三度、「主を知らない」と言ってしまった過去があったからです。ペトロがここで抱いた悲しみは、三度、主イエスを否んだ過去を思い出したからです。

 お手元に聖書がある方は一緒に開いて見てみましょう。一つ目は、最後の晩餐の席で、主がペトロの裏切りを予告する場面です。ペトロはそんなことは絶対あり得ないと言い張り、勇ましい言葉を口にします。第13章36〜38節(新約196頁)。「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 そして、「主を知らない」と言う場面です。一つ目が第18章15〜18節(新約204頁)。「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。』ペトロは、『違う』と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」少し飛んで、同じ第18章25〜27節(新約205頁)。「シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。『園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。』ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。」

 主イエスの予告通り、ペトロは鶏が鳴く前に三度、「主を知らない」と言って、主イエスを否み、主イエスとの関係を拒みました。「三度」というのは、回数の問題というよりも、「完全に」という意味です。私とイエスとの関わりは一切ありません。完全にイエスと私は何の関係もないのです。そして、イエスのことを知らないというのは、イエスなど愛していないということでもありません。イエスなど何一つ愛していない。イエスを愛する理由など何一つないということです。ついさっき、「イエス様、あなたのためならいのちを捨てます」と言った言葉はいったい何だったのでしょうか。他の弟子よりも主イエスを愛することにおいて自信を持ち、いのちまで惜しまないと言うことができるほどに自信に満ちたペトロはどこにいるのでしょうか。一瞬にして姿を消したのです。自分もまたイエスのように捕らえられ、殺されてしまうのではないかと思った時、つまり、死を恐れた時、ペトロの愛は一瞬で崩れ去りました。自分は誰よりも主イエスを愛していると、自信に満ちていたまさにそのところで、ペトロは大きな挫折を経験したのです。

 主イエスに対する愛の根拠を、自分の中に置くならば、その愛は真実の愛にならないのだということを知りました。だから、「わたしを愛しているか?」と問われて、「愛しています」と答えたところで、その愛の応答、愛の告白がいかに虚しいものであるのかをペトロはよく知っていたのです。主に対してどれだけ立派な決意や意志を表すのか、そのことが主イエスへの愛を支えるのではありません。そうではなくて、「わたしを愛しているか」と問うてくださる復活の主イエスご自身の中にある愛によって、私もまた主を愛する者とされていくのです。こんな罪深い私だけれども、すぐに主を捨ててしまい、主を悲しませてしまうような私だけれども、しかし、それでも主は私をどこまでも捜し求めてくださり、私の中にある小さな愛を見つけ出してくださる。この復活の主イエスの愛が確かであるからこそ、私は主の愛にすがって、主を愛する者とされる。だから、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」というふうに答えたのです。そのようにしか答えることができなかったとも言えるのですが、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うことの中に、私の救いがあるということをペトロはこの時、初めて知ったのです。

 また、三度復活の主が「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに新しい信仰の体験をさせるためでもありました。私は三度「主を知らない」と言った人間ではなくて、私は三度「主を愛します」と言った人間であるという、新しい信仰の体験へと導かれます。主イエスと弟子たちの食事が、彼らの罪だけを思い起こさせて、それで終わってしまう「悲しみの食卓」ではなく、今共にいてくださる復活の主によって「喜びに満ちた食卓」に変えられました。同じように、ペトロは確かに三度主を否みました。しかし、十字架と復活の出来事をとおして、私は主の愛の豊かさを知った人間であり、主を愛する者へと変えられた人間なのだということ。このことを新しい記憶として心に刻み、主イエスに従っていくことになるのです。

 さて、もう一つここで大切を主はおっしゃっています。復活の主は三度ペトロに対して愛を問われ、ペトロも三度答えました。ペトロが答える度に、主は三度このようにペトロに命じられました。「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」。わたしの羊、わたしの小羊とは何なのでしょうか。主イエスはまことの羊飼いであられ、その羊飼いのもとで生きているのが羊です。つまり、これはキリスト教会に生きる一人一人のことです。わたしの愛する教会とそこに生きる一人一人を、「ペトロよ、あなたに託す」と主はおっしゃいました。主イエスを愛することと、主イエスの羊を愛し、お世話をすることは一つのことなのです。また、羊というのは、教会員のことであり、既に洗礼を受けた者たちのことですが、第10章を見ますと、囲いの中に入っていない羊もおり、彼らを導かねばならないと主はおっしゃっています(ヨハネ10:16)。まだ洗礼を受けていないのだけれども、救われなければいけない羊はたくさんいるということです。伝道の働きにも召されているということです。ペトロはもう一度、主の弟子として、最初弟子として召された時のように「人間を獲る漁師」として召し出されて行くのです。そして、やがてペトロは初代教会の指導者として大きな働きをすることとなりました。

 これらのことから、この聖書の御言葉は牧師・伝道者にとって決定的な意味を持つ言葉となりました。また長老、執事も羊である教会員をお世話する働きに召されていますから同じように言えるでありましょう。なぜ、自分はこの教会、この場所で、今この働きをしているのだろうか。そのように考える時、それは自分に向いているからとか、自分に才能があるからとか、皆からこれをしてとお願いされたからというのではないのです。理由はただ一つです。主イエスを愛しているからです。教会のために奉仕する動機はそれだけです。主を愛しているからです。主を愛しているからこそ、主がご自分の羊を私に委ねてくださったのです。

 そのように言いますと、自分は牧師でも長老でも執事でもないし、あまり関係ないのかなと思われるかもしれません。主イエスは愛しているけれども、羊の世話をする務めには召されていないのだと。でも本当にそうなのでしょうか。確かに、牧師は牧師としての固有な働きがあると思います。けれども、復活の主イエスはここで明らかに「教会」の姿というものを見ておられます。そして、教会がキリストの教会としてこの地上に立つために、何が大事であるのか?そのことをも問うておられると思うのです。それは、ペトロが問われましたように、主に対する愛です。そして、その主に対する愛をもって、教会全体を見つめ、教会員一人一人を見つめる信仰のまなざしが求められているのです。

 主イエスは最後の晩餐の席において、弟子たちに繰り返しお語りになり、命じられたことがありました。このようにおっしゃいました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)復活の主イエスは、私たち教会が「愛の共同体」としてここに立ち、成長し続けることができるように願っておられます。私どもが召され、遣わされている世界は喜ばしいことばかりが起こるわけではありません。愛するということにおいても、常に傷つき、自分もまた誰かを傷つけてしまっているということがあります。もう立ち直れないと思うほどに、自分の愛の貧しさに絶望してしまっています。何よりも大きな問題は神の御心を拒み、自分の手元にある光だけを頼りにし、支えとして生きようとすることです。それは神様が今の自分に何の役に立つのかと言っているようなものです。

 でも、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)という御言葉がありますように、神様はこの世界を見捨てるようなことはいたしませんでした。私どもが神を捨てても、神は私どもを捨てなかったのです。私どもが神など知らないと言っても、神は私どもを深く知り、愛し抜いてくださったのです。だから私たちが生きる世界は、どんなことがあっても、キリストの十字架が指し示しますように、神に愛されている世界であるということです。キリスト者は、他の人たちに先立ってこのことを信じているということです。信じることに召されているのです。

 疑いや迷いで心がいっぱいになる時に、復活の主は私に近づいて、「わたしを愛しているか」と問うておられます。そして、「わたしに従いなさい」と招いておられます。なぜ今ここでそんなことを尋ねられるのですか?と不思議に思うこともあるでしょう。しかし、主が愛を問われるのは、あなたがもう一度立ち直ってほしいからです。復活の主を愛し、主に従うところに私どもが生きる目的があります。生きる時だけでなく死を前にした時も、私は復活の主から愛され、私もまた復活の愛している。このことが最後まで本当に慰めとなり支えとなるのです。地上の歩みに留まらず、死の中からも立ち上がることのできる希望に生かされるのです。だから、ペトロもまたも殉教したと言われます。自分が死に打ち勝った望みに生かされたからです。主から遣わされた場所が、たとえ自分が望んだ場所でなかったとしても、そこに主の御心があると信じて、最後まで神と教会に仕えたのです。最後まで復活の主を愛し抜いたのです。復活の主の愛に支えられて、私どもも主を愛し、互いに愛し合う共同体としての教会がここにあるということ。この祝福が自分自身や教会の中だけに留まらず、共に生きている仲間や家族、そしてこの世に対しても大きな意味を持つのです。復活の主は今朝も私どもに問うておられます。そして招いておられます。「わたしを愛しているか」「わたしに従いなさい」。お祈りをいたします。

 復活の主であり、教会の頭であられる主よ。私があなたを愛するよりも先に、あなたは私のことを愛してくださいました。自分の心を覗き見るならば、愛とは到底呼ぶことができない思いで満ちている私どもです。しかし、それゆえに、主よ、あなたを愛さずには、私は生きていくことができないのです。主の前に色んな言い訳をしたり、自分の願いばかり申し述べたり、都合がわるくなればすぐに主を否んでしまう私どもです。それでも主を愛し、慕い求める者として、私どもを今ここに招いてくださいました。復活の主を愛し、ここから立ち直ることができますように。私たち教会が、キリストにある「愛の共同体」として、互いに愛し合う群れとして成長していくことがゆるされ、ここで神様の御栄えを表し、主の恵みを証しすることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。