2023年05月07日「さあ、喜びの食卓へ!」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

さあ、喜びの食卓へ!

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 21章1節~14節

音声ファイル

聖書の言葉

1その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。ヨハネによる福音書 21章1節~14節

メッセージ

 どうしても今の人生をやり直したい!私どもはそのような思いで心がいっぱいになってしまうことがあります。もう一度、やり直したい。もう一度、ゼロから、新しい気持ちでスタートをしたい。もう一度、立ち直りたい。なぜ、私どもはやり直したいという気持ちになるのでしょうか。それはこれまでの自分の生き方に満足できないところがあるからかもしれません。あるいは、大きな挫折や失敗を経験してしまったということもあるでしょう。なぜあの時、あんなことをしてしまったのか。なぜあの時、あのような道を選択してしまったのか。そのような後悔の思いを抱いているからかもしれません。もう二度とあのような過ちをおかすわけにはいかない。今度こそ!次こそは!そのような強い意志をもって、自分の人生をやり直そうとするのです。けれども、人生をやり直すという時に、私どもの心は依然として暗いままなのではないでしょうか。ずっと引きずっていたこと、抱えていた思い悩みが綺麗さっぱり解決されて、喜びのうちに「さあ、新しい人生を歩もう!」とは、なかなかならないのです。どちらかと言うと、受け入れることができない過去の自分を引きずりながら、しかし、「さすがにこのままではいけない」と自分で自分に言い聞かせるようにして、新しい道を歩み出していくということが多いのだと思います。その足取りはまだ重いままなのです。

 主イエス・キリストは、私どもを罪から救い出すために十字架の道を最後まで歩み抜いてくださいました。その主イエスの背中を見つめ、主の後ろにいつも従っていたのが、十二人の弟子たちでした。しかし、彼らは主イエスの十字架を受け入れることができませんでした。そして、主が十字架につけられる前に、皆、主イエスを見捨てて逃げ出してしまいました。先週は、十二弟子の中の一番弟子とも言えるペトロが主イエスと出会い、弟子として召し出された場面を共に聞きました。主イエスがお語りになる神の言葉の力に圧倒され、罪を告白しました。主はペトロにおっしゃいます。「恐れることはない」「あなたの罪は赦された」。この主の言葉に押し出されて、ペトロは魚を獲る漁師から人間を獲る漁師へと変えられていったのです。思いもしなかった主イエスとの出会い、そして人生の大転換でした。すべてを捨てて主に従ったペトロ、主が十字架を前にした時には、「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ったペトロでした。しかし、その決意は数時間しか持ちませんでした。主イエスが捕らえられ、周りにいた人々から「お前はイエスの弟子だな」と問われた時、「違う」「イエスなど知らない」「イエスとは何の関係もない」と三度にわたって、つまり、完全に主イエスとの関係を否定したのです。

 ペトロをはじめ弟子たちは皆、主イエスを裏切り、見捨ててしまいました。悔やんでも悔やみ切れない罪をおかした。私たちは何ということをしてしまったのか…。これまでに経験したことのないような深い挫折を味わいました。この時の弟子たちもまさに人生をやり直したい。そう思っていたのです。しかし、晴れ晴れとした気持ちで、「さあ今から新しいことを始めよう」というのではありません。主イエスを裏切ってしまったという、自分たちのあまりにも大きな罪を抱えたまま、失意の中、自分の人生をやり直さなければいけなかったのです。

 主イエスの十字架の出来事の後、弟子たちはどこに向かったのでしょうか。シモン・ペトロをはじめ、7人の弟子たちが向かったのはガリラヤでした。十字架の出来事が起こったエルサレムからガリラヤまでは約100キロ以上ある道のりです。そして、ガリラヤというのは彼らの故郷でもありました。ガリラヤに帰った弟子たちはそこで何を始めたのでしょうか。何をもって、これからの人生をやり直そうとしたのでしょうか。それは漁師の仕事に戻るということをとおしてでした。この時いた7人全員がという訳ではありませんが、ペトロをはじめ主イエスにお会いする前、彼らはガリラヤ湖(ティべリアス湖)の漁師でした。ガリラヤに戻り、主イエスと出会う前の仕事に再び戻るということ。これは何を意味するのでしょう。生活をしていくために仕事をしなければいけないという思いもあったでしょう。これからどこへ帰っていけば分からないという時に、故郷ガリラヤという場所を彼らは見出しました。かつてしていた漁師の仕事を思い出した。ここに帰れば、これをすれば、生きていける。それがガリラヤという故郷であり、漁師という仕事だったのです。

 でも本当にそれだけが理由だったのだろうかと思います。単に安定した生活を得るためだけに故郷ガリラヤに帰って行ったのでしょうか。ガリラヤに帰って行ったということの中には、まるで主イエスとの出会い、これまで主に従ってきた日々を、すべてなかったことにしたい。そのような思いが少なからずあったのではないでしょうか。そもそもあの時この湖で主イエスに出会ってさえいなければ、このような挫折、屈辱を味わうことはなかったのではないか。なぜあの時、主は私に声をかけられたのだろうか。あの出来事さえなければ…。そのようない思いの中で、故郷ガリラヤに帰り、漁師の仕事に戻っていったのではないかと思います。漁師としてはおそらく素人であったトマスやナタナエルもペトロらについて行って、一緒に漁をしていたのです。その結果、どうだったのでしょう。たくさんの魚を獲ることができたのでしょうか。こんなにもたくさんの魚がいつも獲れるのであれば、ここで十分生きていける。別にイエス様がいなくても大丈夫という結論に至ったのでしょうか。そうではありませんでした。一晩中、漁をしました。しかし、何も獲れなかったというのです。失意の中にあったものの、とにかくやり直すしかないのだと自分で自分を鼓舞しながら、漁に出かけます。しかし何も獲れなかったのです。虚しかったと思います。体も心も疲れるだけ疲れて、そこで何も得ることができませんでした。弟子たちは失意の中、さらに失意を経験することになります。ここでなら挫折した自分たちももう一度やり直せると思った。しかしそれも上手く行きません。いったいどうしたらいいのか。私たちはもうやり直しがきかないのだろうか…。

 しかし、その弟子たちをずっと見つめておられたお方がおられます。復活の主イエス・キリストです。4節「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」復活の主は先立ってガリラヤに向かわれました。そして、この時も、夜通し湖の岸辺に立っておられたのではないでしょうか。復活の主のまなざしは弟子たちに向けられています。主を裏切ったという罪の苦しみを抱え、挫折を経験し、失意の中、今ここにいる弟子たちを見つめておられます。やり直したいと願いつつも、そこでも一匹も魚が獲れないという虚しさに支配されてしまっている弟子たちを、主はじっーと見つめておられるのです。

 一方で、弟子たちは主イエスのまなざしに気づいてないのです。8節に「二百ぺキス」とありました。約90メートルです。ある程度距離はありますし、まだ辺りも薄暗いがゆえに主イエスに気づかなかったのかもしれません。でもそれだけが理由なのでしょうか。距離が近ければ、太陽の光が射せば、あそこにおられるのは復活の主だということが分かるのでしょうか。主イエスのことが本当に分かるというのはそういうことなのでしょうか。14節にこういう言葉が記されています。「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

この時初めて復活の主にお会いしたのではないというのです。三度目だというのです。それは一度出会っても、二度目に出会っても、復活の主イエスのことが分からなかったということです。復活の主のお姿はこの目で見ているのです。第20章19節以下にあるように、主イエスと対話も交わしているのです。そこで主イエスのことを喜んでいるのです。主の十字架と復活のゆえに罪赦され、神様との間に平安が与えられていることも知ったのです。しかしそれでも主イエスのことが分からない、分からなくなるということがあるというのです。ルカによる福音書第24章に「エマオ途上」と呼ばれている物語があります。復活の主は、十字架の出来事が起こったエルサレムから離れようとした二人の弟子に近づかれます。そして、一緒に歩んでくださいました。なぜそんなに暗く、悲しい顔をしているのか。何を悩んでいるのか。丁寧に尋ねてくださり、彼らの思いに耳を傾けてくださいました。でも、二人の目は遮られていて、今失意の中にある自分たちと一緒に歩んでくださっているお方が、復活の主イエスであることをこの時はまだ気づくことができなかったのです。心の目が遮られていたからです。まだ心が鈍かったのです。

自分たちの力で人生を立て直そうとする限り、復活の主のことはいつまでも分からないままなのです。やり直そうと思えば、それなりに自分の力で新しい生き方をすることができるかもしれません。新しい仕事や生き甲斐になるものを見つけて、ああ、これでやっと立ち直れたと思うかもしれません。しかし、やり直すとか立ち直るというのはそういうことではないのだと聖書は語るのです。本当の意味で、人生をやり直すというのは、私どもの罪を赦すために十字架に死に、復活してくださった主イエスにお会いすることだからです。主イエスというお方はこの私のために十字架に死に、復活してくださったのだということが本当に分かるということ。これこそが、私どもがもう一度人生をやり直すということです。その時に知る思いは、伝道者パウロが言いましたように(ガラテヤ2:20)、「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる」という驚くべき恵みです。そのために、復活の主はどうしても弟子たちの心の目を、信仰の目を開かれなければいけませんでした。そのために、主は何度も弟子たちの前に、そして私どもの前に現れてくださるのです。

 ある方の言葉を思い出します。ドイツの牧師ハンス・リルエという人の言葉です。1935年に今朝の御言葉の箇所を黙想した「海辺のキリスト」と題する本を書いています。ヒトラーが率いるナチスへの抵抗の闘いの中で書かれたものです。リエル牧師はこう言います。「神はわたしたちを孤独のままにしておかない。神の民の一人が、孤独と悲しみの中に一人でいる時、また苦しい戦いを失意の中に戦っている時、いつでも神は、私どものお側に来て、傍らに立ち続けてくださる。その神こそ、神が人となられた主イエス・キリストである。人間が無駄な骨折りと徒労の夜から、その人生があらゆる敗北から帰って来た時は、いつも甦られた主イエス・キリストが岸に立ち続けてくださる。」私どもが信ずべきこととは何なのでしょう。主イエスを信じるということ、主イエスのことが分かるということは、いったいどういうことなのでしょうか。今朝の御言葉に導かれて言うならば、それは復活の主が岸辺に立っておられること、私どもの傍らに立っておられるということ。このことを信じるということです。それも孤独と悲しみにある時、苦しみと戦いの中にある時、挫折と敗北を味わい、何をしても無駄だったと虚しさの虜になる時、まさに復活の主はあなたの傍らにおられるということ。このことを信じるのです。そのようなところでこそ主イエスと真実にお会いし、私にとって主イエスというお方が誰であるのかが分かるというのです。

 そして、信じるという時に、それは自分の中にある基準や物差しに従って「これは信じることができるけれども、こんなのは信じることができない」「これは分かるけれども、これは理解できない」。そういうことではないのです。違う言葉で言えば、信じるというのは、今の自分には到底信じることができないようなことを信じるということです。望みを抱けないようなところで、なお望みに生きるということです。十字架も復活も、主イエスを信じるというのはいつもそういうことなのです。これだったら私にも信じられるかなという話ではないのです。「信じられるはずなどない」という状況にあっても、そこでなお信じるということです。いったい誰が孤独や悲しみや虚しさの中に神がおられるなどと思うのでしょうか。むしろ、神などいないと思うのが普通ではないでしょうか。でもそこで信じるのです、望みを持つのです。またここで間違ってはいけないのは、信じるとは自分の「信心」のことではありません。こんなこと信じることなどできないけれども、我慢して、気持ちを強く持って信じよう。信じたことにしようということではないのです。信心というのは、実は何も信じていないことと同じなのです。結局自分次第なのです。結局自分の思いが一番大切であることに変わらないのです。でも、主イエスを信じるというのはそういうことではありません。信じられないようなことを信じているのですけれども、ちゃんと喜んで心から信じることができるように、主ご自身が私ども一人一人と向き合い、信じる者へと私どもをつくり変えてくださいます。今日の箇所のすぐ前で、最後まで主の復活を信じることができず、疑いの中に閉じこもるトマスという弟子に向かって、並々ならぬ思いでおっしゃったのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい!」(ヨハネ20:27)

 復活の主は私どものために何をしてくださるのでしょう。主は失意の中にある弟子たちに語りかけてくださいました。「子たちよ、何か食べる物があるか。」弟子たちは答えます。「ありません」。主は言葉を続けられます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」弟子たちは不思議に思ったことでしょう。漁師でもないあなたに何が分かるのか。プロの私たちでも何も獲れなかったのに。でも、弟子たちはそこで自分の思いを捨てて、主の言葉に従いました。すると何が起こったでしょうか。「網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」というのです。先週共に聞きましたルカによる福音書第5章とたいへんよく似ていることに気づかされます。たくさん獲れた魚をとおして、ペトロは神の言葉の力に触れました。今日のところではペトロだけでなく、他の弟子たちも御言葉の力にあずかっています。そして、この時ペトロは主イエスと湖で出会い、神の言葉の力を知り、主の弟子とされたあの日のことを思い出したのではないでしょうか。ペトロにとっての救いの原点と同時に、主の弟子として歩み始めた原点がここにありました。でもそれは心の中の良き思い出の一つとして記憶が甦ってきたというのではありません。網に入ったたくさんの魚を引き上げた時に自分の体全体に感じた、あの魚の力強さ、勢いというものを、この時、一緒に思い出したのです。心の中、頭の中だけではなく、まさに全存在をもって思い出したのです。「御言葉は本当に生きているのだ」「御言葉は私を生かすのだ」といういのちの手応え・救いの味わいというものを、存在の最も深いところで、存在そのものをもってペトロは知ったのです。その同じ出来事が今ここでもう一度起こっています。「主イエスなど知らない」といって、裏切ってしまった罪深い私の中にも神の言葉はいのちの言葉、救いの言葉として力を発揮するのです。

 神の言葉の力に触れることは、罪を示されることであり、同時にその罪を赦してくださる主イエスに出会うことです。そして、主イエスの十字架と復活がこの私のためのものだったということが分かるということです。この時、真っ先に岸辺に立っておられたあの方が復活の主であることに気づいたのは7節にあるように、「イエスの愛しておられる弟子」と呼ばれる人物でした。この福音書を記したヨハネだとも言われます。ヨハネはあそこにおられるのは「主だ」ということを確信します。そのヨハネの声に、ペトロも信仰の目を覚まします。確かにあそこに立っておられるのは復活の主イエスだ。裸同然だったペトロは上着を着て、急いで主のもとに向かいました。他の弟子たちも獲れた魚がたくさん入った網を引いて、岸に戻って来ます。

 復活の主が弟子たちのためにしてくださったことが、まだありました。主イエスがあなたにとって誰であるのかが本当に分かるために、信じない者ではなく、主を信じる者となるために、復活の主は弟子たちのために、私どものために真剣に向き合ってくださるのです。主を信じてもすぐに主イエスのことを忘れて生きようとしてしまう私どものために、主は豊かな恵みをもって確かな信仰へと導いてくださいます。そう思って9節以下を見てみますとたいへん興味深いことが記されています。9節、10節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、『今とった魚を何匹か持って来なさい』と言われた。」要するに、漁をして空腹であろう弟子たちのために、復活の主は朝食の用意をしてくださっていたというのです。もしかしたら、何でもないようなこと、日常に溢れている風景の一コマだと思うかもしれません。でも聞き逃してはいけないのです。ここで朝食を用意してくださっているのは、誰かと言うと「復活の主」であるということです。復活というのは、普通、非日常的なことだと考えてしまいます。私どもの日常において復活などあり得ないということです。復活してほしいという願いはあるのだけれど、そんなこと願うだけ無駄だということです。死んだら終わりなのであって、いのちが死に勝利するなどということは絶対にあり得ないと思っているのです。しかし、主イエスが復活されたというのは、その当たり前だと信じていたこと、いのちよりも死のほうが確かだと思っていたことが全部崩れたということです。主の復活のいのちに生きること、しかもその確かないのちをもって日常の生活を生きるということ。例えば、食事も勉強も仕事も家事も子育ても介護も教会の業も、そういった生活のすべての場面において、復活の主のいのちの息吹が息づいているということです。そうであるからこそ、日々の歩みを決して無駄にはできないのです。何でもないよう小さなことでも、毎日が同じことの繰り返しでつまらないと思ってしまうようなことであっても、でもその小さなことを大きなこととして喜べるのだということです。それが復活の主と共に歩むということでもあります。

 福音書を読みますと、ここだけではなく主イエスが色んな人たちと食事をなさったという場面がたくさん出てきます。徴税人や罪人たちと食事をしてくださり、そこで救いの真理をお語りなりました。友なき者の友となってくださいました。5つのパンと2匹の魚で5千人以上もの人を養ったという奇跡をなさったこともありました。弟子たちもその時、一緒だったのです。そして、弟子たちにとって、一番忘れることができない食事の場面がありました。それが「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。主が十字架にかけられる前の夜、主は弟子たちを集め、最後の食事をなさました。このヨハネによる福音書では第13章から16章にかけてそのことが記されています。最後の晩餐、それは主イエスの愛がこの上なく満ち溢れた時でした。師匠である主イエスが弟子たちの足を洗ってくださいました。十字架の出来事に先立って、主は本当に身を低くして、愛を示してくださいました。そして、あなたがたも互いに愛し合うようにと命じられました。他にも遺言説教、告別説教と呼ばれる大切な言葉をいくつも語ってくださいました。また、主イエスは、パンとぶどう酒の杯を弟子たちに与え、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、新しい契約の血である。そのためにわたしは十字架に向かう。わたしを記念してこれを行うように。」主はそのように命じられました。私どもが今日に礼拝で行なっている聖餐式の原型がここにあります。

 

 しかし、その愛に満ちた食事の場で、主は弟子たちの裏切りをも予告なさいました。「まさか、私ではありませんよね。イエス様?」弟子たちは互いに言うのです。ペトロは、「他の弟子たちがあなたを裏切っても、私だけはあなたについて行きます。あなたのためならいのちを捨てます。」たいへん勇ましい信仰の決意をしました。でも、ユダが主イエスを裏切り、他の弟子たちも、そしてペトロも、十字架を前にした主イエスを見捨てて逃げてしまいました。弟子たちにとって絶対に思い出したくない記憶です。主イエスを裏切ったというこの苦い経験と、主イエスとの食事の経験が一つに重なっていました。

 しかし、復活の主は、弟子たちのために朝食を用意してくださいました。思い出したくもない嫌な過去をわざわざ思い出させるためでしょうか。そうではありません。復活の主と共にあずかる食事は、弟子たちの罪を思い出させるものではなく、その罪と死に勝利した救いの喜びがここにあるということを味わうためのものです。わたしがあなたがたに備えたもうこの食事をとおしても、もう一度、あなたがたは、やり直すことができる!ここに赦しがあり、救いがある!あなたがたに救いを与える「わたし」が、今、あなたがたの間にいるのだから!だから、これは悲しみの食卓ではない、まさに喜びの食卓である。わたしが与える救いの恵みを味わいなさい。これと同じ恵みを私どもは今、聖餐をとおして味わっています。

 「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」そのように復活の主から言われた時、弟子たちは誰も、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかったというのです。主であることを知っていたからです。復活の主が用意してくださった食事をいただく中で、心の目がはっきりと開かれたということです。「問いただそうとしなかった」黙り込んだということでもあるでしょう。悲しみの沈黙ではありません。これ以上にない喜びに触れる時、もう何も言うことがない。すべては満たされた。ここから本当にやり直せるという確信を得たということです。

 ただ自分自身の信仰の歩みを振り返ってみてもそうですが、せっかく復活の主の恵みの中で立ち直ることができたのに、繰り返し、過ちを重ねてしまいます。神様から与えられた恵みを十分に受け止めることができず、本当にもったいない生き方ばかりしてしまっている。しかし、私たちは、本当はよく知っているのです。主イエスなしには生きていくことはできない自分であるということを。「あなたはどなたですか」と問いただす必要がなくなったというのは、イエス様のことは十分分かったからもういいというのではなくて、主の恵みなしには片時も私は生きていくことはできません、ということです。信仰の歩みにおいて、私どもは何度もやり直します。日々、主の十字架に立ち帰り、愛と赦しの中で新しい歩みを始めることがゆるされています。やり直しばかりの人生というのは、ダメな人生だと思われるかもしれません。何も成長してない、学んでいないということになるからです。この世的に見れば、芯がとおっていないブレブレの人生だと言われてしまうことことでしょう。でも、復活の主の恵みの中でやり直すということは、決してダメな人生ではありません。むしろ、これほど素晴らしい人生はないのです。死の壁をも打ち破るいのちの道を、主イエスと共に、教会の仲間たちと共に真っ直ぐ歩んでいるのです。ここから、もう一度やり直しましょう。主は喜びの食卓を用意してくださっています。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」祈りましょう。

 主よ、あなたは生きておられます。あなたが生きておられるからこそ、私どももまた生きることができます。復活の主の恵みの中で、新しい歩みを始めさせてください。どれだけ惨めな思いをすることがあっても、主よ、あなたの愛と赦しが届かない場所はどこにもありません。だから、復活の主を信じることができますように。私どもの望みはただあなたにのみあります。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。