2023年04月02日「ほんの一瞬」

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ほんの一瞬

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
イザヤ書 54章4節~10節

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聖書の言葉

4恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。5あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。6捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。7わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。8ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。9これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと/あのとき誓い/今またわたしは誓う/再びあなたを怒り、責めることはない、と。10山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。イザヤ書 54章4節~10節

メッセージ

 スイスの神学者にカール・バルトという人がいました。「20世紀最大の神学者」とも言われています。それだけ世界の教会に大きな影響を与えた人物でありました。牧師としての働きもしてきましたが、そのほとんどは大学でキリスト教神学を研究し、教えてきました。戦時中は、ナチス・ドイツに抵抗する「告白教会」と呼ばれる教会の指導者でもありました。それゆえに、ナチス政府から教授職を罷免されるということも経験しましたが、それでも最後まで信仰の戦いに生き抜いた人です。バルトは数多くの著書を残していますけれども、説教者としてもたいへん評価された人物でした。日本語に訳された説教全集は全部で18巻にもなります。特にその中でも評価されている説教は、晩年の10年間、スイス・バーゼルの刑務所で行った説教です。最初期の説教に比べると、とても分かりやすい説教だと言われています。言葉がシンプルになったというのもそうかもしれませんが、福音について鋭く語ることができるようになったのでありましょう。罪をおかし、刑務所という暗い場所で、毎日自分の罪と向き合う囚人たちの心に、バルトは赦しと喜びの福音を告げるのです。バーゼルの町では、「バルト先生の説教が聞きたければ、刑務所に入らなければいけない」と言われていたほどでありました。

 1961年4月2日、バルトはバーゼルの刑務所で、私どもも先ほど聞きましたイザヤ書第54章7、8節から説教をしています。62年前の4月2日、その日はイースターでした。説教題は「わずかの間」という題です。「ほんの一瞬」と訳されているものもあります。7節の御言葉から取られたものです。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」7節の「深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」ということ、そして、8節の「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」ということ。このことがまさにイースターの日に起こったのです。神様は、憐れな散らされた私どもをご自分のもとに引き寄せ、集めてくださいました。私どもを支配する、罪から、死から引き離し、私どもイエス・キリストの恵みの中に引き寄せてくださったのです。

 イザヤ書第54章の御言葉はどのような響きを持っているでしょうか。イースターの喜びに相応しい、恵みと力に満ちた言葉に溢れているのではないでしょうか。例えば、こういう言葉がありました。4節では、「恐れるな」「うろたえるな」「もはや辱められることはないから」。6節では「(あなたを)見放せようか」。他にも「慈しむ」「憐れむ」「贖う」という言葉があります。お読みしませんでしたが、1節では「喜び歌え」とあります。13節以降も、「あなたの子らは皆、主について教えを受け/あなたの子らには平和が豊かにある。あなたは恵みの業によって堅く立てられる。」(13〜14節)そのように、聞く者を励まし、慰めを与える言葉が全体に散りばめられています。まさに福音が、喜びの音色が全体を貫いているような箇所ではないかと思います。

 ただそれだけに、第54章7節、8節の御言葉は、聞いていて、時に恐れを覚え、時に不思議に思い、時に疑問に思うような、そういう言葉ではないかと思います。「わずかの間、わたしはあなたを捨てた」と言います。「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠した」というふうにも言います。下手をしたら、つまずきを与えてしまうような言葉であるかもしれません。神が私を捨てたというのです。神が怒りのあまり顔を隠したというのです。それゆえに、私どもは神がどこにおられるのか分からなくなってしまったのです。なぜ神様はこのようなことをなさるのでしょうか。「こんな神様は神様らしくない!私たちの神は、救いの神なのではないですか?いつも共にいてくださる神なのではないですか?」そのように反発したくなる方もおられることでしょう。

 神様がわずかの間、ほんの一瞬、私を捨て、御顔を隠された。これはどういうことでしょうか。最初に紹介したカール・バルトという人は言います。ここにイースターを喜び祝う鍵があるのだと。驚くべきことに、ほんの一瞬、神様が私を捨てられた。このことの中に、実は私どもの救いがあるというのです。普通、神様に捨てられたら、もうどうしようもないのですが、なぜ神様に捨てられることが救いだと言えるのでしょうか。それは、ほんの一瞬、神様に捨てられ、神様が御顔を隠された出来事、それがイースターの三日前に起こった出来事。つまり、金曜日に起こったキリストの十字架の出来事であるからだというのです。バルトとはイザヤ書の御言葉と主の十字架の出来事を重ね合わせながら説教を語ります。主イエスは十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)主イエスの十字架は私どもに何を伝えようとしているのでしょう。私たちの罪を背負って死んでくださったとか、神様の愛のしるしであるとか、主イエスはまことの人として最後まで神に対して従順であったとか、色々と言うことができるでありましょう。けれども、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの叫びから、はっきりと分かることは、神が主イエスを本当に見捨てておられるということです。神が主イエスの前からご自分の顔を、つまり、ご自分の存在を隠しておられるということです。主イエスに対する激しい怒りのゆえに、ご自分を隠しておられるのです。しかし、なぜ神の御子が、父なる神様から捨てられないといけないのでしょうか。そして、なぜそこに私どもの救いがあるのでしょうか。

 本日お読みしたイザヤ書の御言葉は、第40章から第55章までの大きな区分の中に含まれています。ここは「第二イザヤ」と呼ばれるところです。神の民イスラエルは敵国バビロンとの戦いに敗れ、その多くは捕囚の民とされました。故郷を失った彼らは、異国バビロンに連れて行かれます。神の民の歴史を語る上で、これほど辛く、屈辱的な出来事は他にありませんでした。何年経っても、何十年経っても、捕囚から解放されません。故郷エルサレムの地に帰ることができませんでした。しかし、捕囚の出来事から70年が経とうとしている時、預言者の言葉をとおして、ついに、エルサレムに帰ることができるという喜びの知らせを聞くこととなります。

 第54章でも、エルサレム帰還の約束が告げられています。そして、ここでは神様とイスラエルが、夫と妻の関係で譬えられています。5節では「あなたの造り主があなたの夫となられる」とあります。ここで言われている「夫」とは神様のことです。6節では「捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようか…」とあります。「妻」とはイスラエルの民のことです。しかし、1節から読んでいきますと、どうもこの夫婦の関係は健全ではなかったようです。妻のことについて、1節では「不妊の女」「子を産まなかった女」「夫に捨てられた女」、そのように言われています。子どもを産めない女性・妻というのは、当時、神様の祝福から漏れている人だと理解されていました。それゆえ、社会からも差別され、肩身の狭い思いをして生きていたのです。一番頼れる夫からも、励ましてくれるどころか、なぜ子どもが産めないのだ、お前は恥だと言われてきたのでしょう。そして、離縁され、やもめの身分となり、ますます苦しい生活を強いられるようになった。実際に、そういうことがイスラエルの社会の中であったのでありましょう。

 しかし、ここでは子どもが産めない妻のことが、イスラエルの民全体のこととして語られています。神から祝福されず、神から恥とされ、ついに、神から見放されてしまった存在。それが神の民イスラエルなのだと。そして、神に捨てられている状態こそが、今、あなたがたが置かれているバビロン捕囚という出来事なのだということです。イスラエルにとって、子どもが産めないというのはどういうことなのでしょうか。なぜそれで神様から見捨てられなければいけないでしょうか。今の社会では、そのような理由で離縁されるというのは、許されないことでしょう。バビロン捕囚は表面的には敵との戦争に敗れたからという理由ですが、信仰のまなざしをもって見ると、そこにはイスラエルの罪がありました。本当は夫である神が、イスラエルの民を捨てたのではないのです。妻であり神の民が夫である神を捨てたのです。イスラエルは別の男性に、つまり、偶像の神々に心を奪われました。私はもう神などいらない。他の男、他の神々と共に生きるほうが、どれだけ楽しいことだろうか…。

 だから、人々は神に捨てられたのです。捕囚の民となり、恥と屈辱を味わいました。しかし、神様は驚くべきことをおっしゃいました。私の妻であるあなたを見放すことなどできない。確かなに、あの時、あなたを捨てたかもしれない。あなたの裏切りのゆえに、激しく怒り、顔を隠したかもしれない。しかし、それはほんの一瞬。わずかの間なのだ。そして、もう一度、あなたをわたしのもとに連れ戻すというのです。5節、8節には「贖う」という言葉が用いられています。イザヤ書の中でも大事な言葉の一つです。「贖う」というのは、代価を支払って、自分のものとするということです。いったいどれだけの代価を払ってくださったというのでしょうか。この時のイスラエルの民だけではありません。私どもが、すべての者が神様のものとされ、神様のもとに帰ることができるために、何が支払われたのでしょうか。そこに神の御子イエス・キリストのお姿が、十字架の上でご自分のいのちを代価として支払われた主のお姿が見えてくるのです。

 「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」イスラエルの民は確かに、その罪のゆえに、わずかの間ではありますが、神様から捨てられたのです。しかし、本当の意味で、彼らは神様から捨てられたわけではなかったのです。なぜそんなことが言えるのでしょうか。時間的に言えば、「わずかの間だったから」なのでしょうか。70年は短すぎる。だから、「捨てられた」というのは大袈裟だということでしょうか。そんなことはないでしょう。70年はあまりにも長過ぎる時間です。そして、今日の私たちも経験するのではないでしょうか。もしかしたら、自分は神様から見捨てられているのではないかと思ってしまうことが…。あるいは、心が暗くなるような時に、神様を必死に求めるのですけれども、神様の御顔・お姿が見えてこない。祈っても、聖書を開いても、私の心にスッーと入ってくる言葉を見出すことはできない。依然として自分は孤独に感じられる。その時に、「わたしは顔をあなたから隠したのだ」などと神様から言われると、もうどうしていいか分からなくなるのです。また、「わずかの間」「ほんの一瞬」と神様おっしゃるのですけれども、実際私どもが苦しみの中に置かれている時というのは、結果としてその苦しみがすぐに終わったとしても、苦しんでいるその時は「いつまでこの苦しみが続くのだろうか」と不安に思うものです。苦しみは決して一瞬では終わらないのです。何日も、何ヶ月も、何年も続くということがあるのです。

 「わずかの間、わたしはあなたを捨てた」「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠した」。このことが私たちを慰め、私たちを救う言葉になるのは、やはりここにイエス・キリストのお姿を見出すことができるからではないでしょうか。先ほど申しましたように、主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれ、息を引き取られました。主イエスは十字架の上で神に捨てられたのです。主は決して神に捨てられるだけの大きな罪をおかしたのではありませんでした。主は私ども人間の罪をご自分の罪として引き受けてくださったのです。本当は私どもが受けるべき裁きを、主は十字架の上で代わりに受けてくださいました。それはもう私どもが神から見捨てられないためです。罪ゆえに、神様から捨てられ、神様が共におられないという現実がどれほど悲惨であるかを味わわなくて済むためです。

 宗教改革者にジャン・カルヴァンという人がいました。彼が子どもたち、若者たちに向けて、『ジュネーヴ教会信仰問答』という信仰問答を記しています。信仰告白に備えるためのテキストだと言われています。問いと答えを積み重ねながら、聖書の真理を説き明かすのです。今礼拝の中で告白しているハイデルベルク信仰問答も同じ類のものです。カルヴァンは、その中で「使徒信条」についての解説をします。興味深いのは、主イエスの十字架について、特に「陰府に降り」という一句についての問答です。カルヴァンは十字架の出来事こそが、まさに「陰府に降り」なのだと理解をします。イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」と重ね合わせるようにして、神の御子イエスはわれわれ罪人に代わって、「十字架という陰府」に降られ、神から裁かれ、打たれたのだと。そしてこう言うのです(問68)。「しかし、神自身である彼が、あたかも神から見棄てられたかのように、それほど恐れることがどうしてありえましょうか。」答えはこうです。「彼はその人性によって、この境地に立たれたこと、またこのことのために、彼の神性はしばらくの間、いわば隠れていて、その力を表わさなかったことを理解すべきであります。」

 カルヴァンは、驚くべきことに、十字架において、「(主イエスの)神性はしばらくの間、隠れて、その力を表わさなかった」と語ります。言い換えれば、「一瞬の間、主イエスは神であることをやめられ、完全にまことの人となって、神から裁かれた」というのです。文字通り理解すれば、非常に危険な考え方です。しかし、なぜカルヴァンはそんな危険をおかしてまでして、「主イエスは十字架の上で神であることを一瞬やめられた」などと言ったのでしょうか。それは、主イエスが十字架の上で罪人に徹するためです。主が本当の罪人になられたのだということを伝えたかったからです。聖書は、私どものことを繰り返し「あなたは罪人だ、罪人だ」と言います。でもどうでしょうか。「ああ、なるほど私にも悪い部分がたくさんある」「隣人を愛することができず、悲しませてばっかりいる」「私は自分のことばかり考えている」そのように自分の罪を認めることはできるかもしれません。しかし、変な言い方ですけれども、本当の罪人にはなり切れていないのです。なぜなら、罪のゆえに神の怒りを受け、裁かれ、捨てられるということがどれほど恐ろしいものであるのか。言葉では理解していても、本当の意味で知ることができないからです。どれだけ大きな苦難を経験しても、また罪の重荷に苦しむことがあっても、私どもは神様を知らなくても生きていけると、どこかで思っているのです。

 しかし、主イエスは十字架の上で、私どもの代りに、まことの罪人として死んでくださいました。神に捨てられ、罪に対する怒りのゆえに神が御顔を隠されるということが、どれほどの絶望を意味するのか。この恐怖を主は十字架の上で味わわれました。それゆえに、私どもは罪から救われたのです。神から捨てられるという絶望を味わわなくてよくなったのです。

 それだけではありません。信仰の歩みにおいて、日々の生活において、私どもは罪の問題をはじめ、心が暗くなる経験をしばしばいたします。こんなに最悪なことはない。こんなに空しいおことはない。こんなに絶望的なことはないと思ってしまうことがあるのです。けれども、こういう言い方がいいかどうか分かりませんが、あまり大袈裟に、そしてあまり深刻に思い悩まなくてもいいのです。怒られるかもしれませんが、そんなことでいちいち絶望しなくてもいいのです。なぜなら、主イエスがあなたのために死んでくださったからです。あなたのために、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでくださったからです。これほどに最悪で絶望的なことは他にない。これほど悲惨なことない。そう思うことがあっても、そのもっと深いところ、もっと暗いところに主イエスの十字架が立ち、主の十字架の叫びが聞こえてきます。その十字架の御声が私どもを生かし、救うのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 事実、キリスト者たちは主の十字架の叫びを信仰の心で聞き取り、いのちの道に生かされてきました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。これはアラム語ですけれども、なぜ、主が十字架の上で叫ばれた肉声をマルコはそのまま記したのか。それは初めの教会の人たちが、この主の十字架の肉声を本当に大事にしたいと思ったからでしょう。一字一句聞き逃すまいと思ったらかでしょう。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。それは、きっと十字架の主と同じように、叫びたくなる現実があったからでしょうか。迫害の苦しみをはじめ、もう絶望だと思うことを幾度も経験したのです。しかし、その度に、十字架の言葉が彼らの心に響き、迫ってきたのです。代々のキリスト者たちもまた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈ったことでしょう。十字架の主の叫びと重ねるように。そのように、神様に叫び、祈ることをとおして、絶望の中でも神を見失うことなく、信仰の戦いを最後まで戦い抜くことができたのです。

 「わずかの間」「ほんの一瞬」。このことが主イエスの十字架において起こりました。ほんの一瞬、神に捨てられたのです。神が主イエスに対して御顔を隠されたのです。しかし、「ほんの一瞬」というのは、その先に驚くべき出来事が待っていることを意味しているということでもあります。イザヤ書の文脈の中で言われていたのは、捕囚が終わり、イスラエルの民が神の都エルサレムのもとに、何よりも神様のもとに立ち帰ることができるという約束でした。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」「深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」という神の約束が語られている。このことが十字架の主に起こった時、そこに何が起こるのでしょうか。主イエスの十字架はどこを目指しているのでしょうか。主の十字架が私どもに告げたいことは何なのでしょうか。それは主の復活の出来事、イースターの出来事です。主は十字架で死に、墓に葬られ、陰府に降られました。しかし、三日目の朝、日曜日の朝に主はお甦りになられました。死の力は主イエスを墓の中に永遠に閉じ込めることなどできませんでした。

 では、永遠に私どもを支配するものとは何なのでしょう。どのようなことがあっても、死を前にしても、揺らぐことのないものとは何なのでしょうか。私どもを神のものとしてくださるために、ご自分のいのちを代価として支払ってくださった十字架の主はおっしゃいます。「とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむ」と。「とこしえの慈しみ」という言葉は、「永遠の真実の愛」というふうにも訳されます。神の愛が永遠であり、神の愛が真実であるという時、それは死の力をも打ち破り、私どもを生かします。神様と私どもの関係というのは、死をもって途絶えてしまうものではありません。死んでも、神様との愛の関係は変わらないのです。永遠なのです。これが聖書の語る救いということです。

 今まで触れていませんでしたが、9節、10節にこう記されていました。「これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと/あのとき誓い/今またわたしは誓う/再びあなたを怒り、責めることはない、と。山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと/あなたを憐れむ主は言われる。」旧約聖書・創世記第6章以下に記されている「ノアの洪水」「ノアの箱舟」と呼ばれる出来事について言及されます。「見よ、極めて良かった」と神様がお喜びになられた世界が、罪と悪によって満たされてしまいました。わたしはこの世界を造ったことを「後悔する」と言われるほどに、深い痛みを覚えたられた神様は洪水によって、その世界を滅ぼしてしまいます。

 しかし、「もう滅ぼすことはしない」と約束してくださいました。この平和の契約がノアの時代の人たちだけでなく、イスラエルの民にも、そしてキリストのゆえに私どもにも与えられています。山が移り、丘が揺らぐというような苦難を経験しても、私どもが神様に背を向け、罪を重ねても、この平和の契約は揺らぐことはりません。キリストに示された神の愛は永遠なのです。何があっても真実が貫かれるのです。それゆえに、今も神様は私どもを招いておられます。そして、まだ洗礼を受けていない者たちを招き、御許に集められます。

 神様はノアと平和の契約を結ばれた時、空に美しい虹をかけてくださいました。神様が与えてくださった目に見えるしるしです。今、キリストのゆえに救いに入れられた私どもは、十字架を掲げて歩んでいます。十字架の言葉によって救われ、生かされています。十字架の主を仰ぐ度に、私どもは神様の永遠の愛の中にあることを覚えます。私たちの罪も、苦しみも、死の力も、「そんなものは一瞬だ」と簡単に吹き飛ばしておしまいになる、キリストの確かないのちに私どもは生かされています。

 今から共にあずかります聖餐、そこにおけるパンとぶどう酒もまた神の愛のしるしです。主イエスは弟子たちに、「この杯は罪の赦しを与えるために、わたしの血で立てられた『新しい契約』である」とおっしゃくださいました。聖餐を祝いつつ、そこでもう私どもはもう神から捨てられることはないということを信じることができます。「神が御顔を隠された」などと言って、恐れることはないのです。復活の主は私どもの真ん中にいつも立っていてくださり、「平和があるように」

と告げてくださるからです。たとえ、神を見失うような深い絶望に陥ったとしても、私どもの贖い主である主イエスの御顔は、私どもを照らし続けていてくださいます。主の愛のまなざしは闇の中にいる私どもを見つけ出してくださるのです。お祈りをいたします。

 父よ、あなたは私どもを罪から救うために、御子を十字架で捨て、そして、三日後に甦らせてくださいました。この朝も、復活の主のいのちの中に招いてくださり、その確かないのちをもって、この日も神様を賛美する者とされていることを覚え感謝いたします。私どもも、キリストと比べることはできませんが、「神様に捨てられたのでは」と思いたくなるほどに、暗く、孤独な思いに捕らわれる瞬間があります。しかし、そのような時にも、ただキリストに示された十字架の愛が私どもを捕らえ、私どもにいのちの光を与えてくださるのだということを思い起こすことができますように。主イエスの十字架の叫びが、いつも私を生かしているのだという喜びを見出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。