2023年03月26日「キリストのまなざしの中でいのちを問う」

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キリストのまなざしの中でいのちを問う

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マルコによる福音書 10章17節~31節

音声ファイル

聖書の言葉

「キリストのまなざしの中でいのちを問う」
17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」マルコによる福音書 10章17節~31節

メッセージ

 イエス・キリストというお方を理解する上で、大切なことは何でしょうか。主イエスだけではく、聖書全体を理解する上で欠いてはならないものとは何でしょうか。別の言い方をすれば、この一つのことさえ、心に留めて、聖書に聞けば「分かる!」「イエス様のことが分かる!」ということが、実はちゃんと存在するのだということです。今朝も先週に引き続き、マルコによる福音書第10章の御言葉を私どもに与えられた御言葉として聞きたいと願います。ここで主イエスが何をお語りになったのかということももちろん大事ですが、それと同時に、主はここで何をなさっているのでしょうか。主イエスの動作、仕草と言ってもいいでしょう。そこに聖書を理解する秘訣があり、救われるための秘訣があると言うことができるのです。

 今日の物語をとおして、一つはっきりと言えることは、主イエスのまなざしが注がれているということです。主イエスは一人の男を見つめておられるのです。例えば、21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。23節では「イエスは弟子たちを見回して言われた」とあります。そして、27節には「イエスは彼らを見つめて言われた」とあるのです。「見つめる」「見回す」という言い方が三度繰り返されています。主イエスは見つめておられるのです。金持ちの男を、弟子たちを見つめておられます。しかも、その主イエスのまなざしは、いかなるまなざしなのでしょうか。一番分かりやすいのが21節の言葉でしょう。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。「慈しんで言われた」とあります。「慈しむ」と訳してもいいのですけれども、ここははっきりと「愛する」という言葉が用いられています。そのまま訳すと、「イエスは彼に目を注がれて、愛を抱かれた」と言うことができます。主イエスの心の中に愛の思いが燃えたのです。その激しく燃えた愛で、一人の男を見つめ、その愛の中へと招いておられます。そして、これは言うまでもなく、福音書に出て来る一人の金持ちの話だけではなくて、今ここに生きる私どもにも向けられ、私どもの誰もが例外なく、主イエスの愛の中に招かれているのです。この主イエスの愛のまなざしを忘れたところで、いくら聖書を読んでみても、本当は何も分かったことにはならないのです。

 「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」「イエスは彼に目を注がれて、愛を抱かれた」。意外に思われるかもしれませんが、福音書の中で、主イエスがたった一人の人に対して、「愛する」という直接的な言い方をしているのは実はここだけなのです。それだけに特別な物語と言えるかもしれません。主イエスの愛における出会いがここに起こっているのです。けれども、私どもはこの物語を読みながら、どうしてもやり切れない思いになってしまいます。主イエスが愛をもって、この金持ちの男を見つめるのですけれども、たいへん残念なことにその愛が届かなかった。愛と赦しに満ちた主の言葉、救いに招く言葉が彼に届かなかったのです。そして、彼は気を落として、悲しみながら立ち去って行きました。気を落とすというのは、暗い顔になるという意味です。顔が曇るということです。絶望したと言ってもいいでしょう。主イエスのもとを訪ね、主イエスとの出会いが与えられながら、そして、愛のまなざしを注いでいただきながら、喜びも希望も救いも何も生まれない。深い悲しみしか残らず、主の前を立ち去る他なかったというのです。こんなに辛い話は他にないと言ってもいいほどです。そして、何よりも深い悲しみを覚えておられたのが主イエスご自身だったのではないでしょうか。

 私どもはどうでしょうか。主イエスと出会い、礼拝をささげ、御言葉に聞きつつ歩んでいます。しかし、26節で弟子たちが、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言って、途方に暮れたように、私どももまた「本当に救われるのだろうか」「本当に救われているのだろうか」という思いの中に立たされることもあるのではないでしょうか。主がおっしゃること、主がなさること、その厳しさを前にして、「いったい私たちはどうしたらいいのだろうか」と考え込んでしまうことがあるのだと思うのです。ではそこで悲しくなって立ち去ってしまうのでしょうか。私どもはそのようなところでも忘れてはいけないのです。私どもを見つめ、愛していてくださる主イエスのことを。この主イエスの愛の招きに答えることを。神様の恵みの中に飛び込み、身を委ねることを。「どうしたらいいのだろうか」と立ちすくむところで聞こえてくる主イエスの言葉があるのです。

 今日の物語は、「富める青年」の物語として知られています。それゆえに、学生や青年の時には、よく教会や修養会の中で聞くことも多いでしょう。一方、ルカ福音書では、主のもとにやって来たこの人は、青年ではなく、議員となっています。では、マルコによる福音書ではどうなのでしょうか。17節に「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」とあるだけです。この人が男性であったことは確かですが、彼が青年であるとか、議員であるかどうかは分からないのです。マルコが、「ある人が」という言い方をしているのは、青年や議員に限らず、あるいは、金持ちであろうがなかろうが、すべての人の物語がここにあるということを伝えたかったのではないでしょうか。まさに、あなたのことがここで語られているのだということです。そして、マルコが願っていること、主イエスが願っていることは、主の前から立ち去らずに、主の愛に留まってほしいということです。主の御言葉に聞き続け、主に従う者となってほしいということです。

 「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」この人は真剣な思いで主のもとにやって来ました。主を試したり、罠におとしめるために、質問したのではないのです。ひざまずくという動作も、これは礼拝をささげる姿勢を意味する言葉です。彼がどうしても主に尋ねたかったことは、何をすれば「永遠の命」が与えられるのかということでした。「永遠の命」というのは、23節以下で言われているように、「神の国」というふうにも言い換えることができますし、もう少し分かりやすく言えば、「救い」ということです。だから、「どうしたら救われるでしょうか」と真剣に主に尋ねたということです。そして、「永遠の命」と言う時に、この人は自分の人生が「死」で終わってしまうことをよく知っていたのだと思います。死によって自分のいのちは永遠ではないということを知っていた。しかし、死を前にして虚しく終わってしまう人生ではなく、死に打ち勝った確かないのち、永遠の命の希望に生きたいと願ったのです。

 主はお答えになります。18節。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」主イエスはご自分が神であることを否定しておられるわけではありません。主がここでおっしゃりたいことは、この男の心を神に向けさせることです。いくら自分の心を覗き込んでみたとしても、永遠の命のことも、救いのことも分からないからです。永遠の命は、唯一の善いお方である神から与えられるのです。あるいは、神様との正しい関係の中で与えられるのです。だから神を見るように。そして、その神の御心が示されているのが、「十戒」と呼ばれる神の掟です。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」19節の言葉は、十戒の中でも後半部分、つまり、隣人との関わりについて教えている部分です。そして、19節に記されている順番は、十戒本文の順番とは違っているのですけれども、私どものいのちというのは、神様との関わりはもちろんのこと、隣人との関わりの中で輝きを増すのだということでしょう。そして、主イエスは隣人との関係を考える上で大事のが、初めに言われている「殺すな」という戒めであるとお考えになったのかもしれません。なぜ私どもはいのちある者として、今ここに生かされているのか。それは人を殺すことではありません。殺さないでお互い支え合い、お互いを生かし合うことです。そこに人間のいのちの尊さがあるのです。

 自分の問いに対して、答えてくださった主の言葉を聞きながら、男はもしかしたら少しがっかりしたかもしれません。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言うのです。十戒を守って生きることが大事である。そういうことは、もう自分が子どもの頃からとっくに知っています。小さい時からちゃんと守って生きてきましたと自信をもって答えます。十戒はもう十分に守ってきたけれども、それでも救いを確信できない。だから、なお男は主イエスから、十戒以外に何か新しい教えを期待したのでしょう。その新しい教えに生きることができたら、ついに永遠の命が与えられると期待したのかもしれません。けれども、主がおっしゃったことは十戒の戒めであったのです。

 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」この男の言葉は決して誇張してそう言ったというのではなく、本心でそう言ったのだと思います。一所懸命神の掟に従って歩んできました。けれども、救いの確信を得ることができませんでした。依然として、不安の中にあったのです。先生、私は十戒の掟を真面目に守って生きてきました。けれどもまだ、自分のことが不安なのです。死が怖いのです。虚しさの虜になるのが怖いのです…。

 そう男が言った時、21節にあるように、主は彼を見つめ、慈しみの思いを抱かれました。主の心に彼に対する愛の思いが燃え上がったのです。愛のまなざしをもって見つめられた主は、こうおっしゃいました。「あなたに欠けているものが一つある。」主イエスは愛の中で、この男が持っていた一つの「欠け」を見つめておられます。一つの欠けと聞きますと、90パーセントまで到達しているけれども、あとの10パーセントがまだ欠けていると思ってしまうかもしれませんが、ここはそういう意味ではないのです。この男もまた自分は永遠の命を得るために、90点までは取れている。けれども、あと10点が足りない。だからその10点をどうしても主イエスに教えていただきたい。そういう気持ちで主のもとに走り寄ってきたのでしょう。けれども、ここで主がおっしゃった「あなたに欠けているものが一つある」というのは、「決定的な一つ」という意味です。どれだけ点数を重ねても、90点でも、95点でも、この一点が欠けたらすべてが崩れ去ってしまうほどに大切な一点であるということです。男は17節で、「何をすればよいでしょうか」と問うていました。救われるために、私が、自分が何かをするということに心を奪われていたということでしょう。救いに到達するための、あと10点をどうしたら手にすることができるでしょうかというのです。しかし、ここに彼の決定的な問題がありました。なぜなら、永遠の命を得るというのは、人間にはできないからです。神からしか与えられないものだからです。

 「あなたに欠けているものが一つある」。では欠けている一つのもの、その決定的に欠けているものを満たすためにはどうしたらいいのでしょうか。続けて主はおっしゃいます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」ここで言われていることは、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すということですが、大切なことは「わたしに従いなさい」と招いておられる主の愛の中に飛び込んで行くこと。そして主に従うことです。23節以下で、財産がある者、金持ちは、神の国入ることが難しい、不可能だというのですけれども、これはこの世の富を持つことがいけないということではありません。お金も財産も神様から与えられた賜物です。しかし、その恵みの賜物であるはずのものが、主に従うことを妨げるということが、この世では実際に起こるのです。お金や財産が偶像の神になるのです。主イエスが男の中に見抜いておられた問題はまさにこのことでした。たくさんの財産を持っているということが、主イエスに従うことを妨げていたのです。そして、「持ち物を売り払い、貧しい人々に施すように」主から言われた時、男はどうしても財産を手放すことができない自分であることに気づかされ、深い悲しみを覚えました。もう主の言葉が耳に入ってこないほどの悲しみでありました。

 永遠の命を得ること、神の御国に入れられ、救われるということはどういうことなのでしょうか。救われる時、私どもにはどういう喜びがもたらされるのでしょうか。それは解き放たれること、自由にされることではないでしょうか。私どもは色んなものに縛られ、不自由になり、苦しんでいます。あるいは、色んなものに支配されながら、生きづらいと嘆いています。この世の富もそうかもしれませんが、この世で経験する貧しさや悲しみといったマイナス的なことにも、いつまでも捕らわれ続け、それによって不自由になってしまうことがあるのではないでしょうか。貧しいがゆえに、どうしても今持っているものを手放したくないという思いが強くなることもあるでしょう。この男も主に言われるまでは気づいていませんでしたが、確かに捕らわれていたのです。だから不自由でした。だから永遠の命を得て、解き放たれたいと願っていたのです。しかし、財産を握りしめて生きていたことが、まさか救いの妨げになるなどということは、主の言葉を聞くまでは考えてもいなかったのです。

 ところで、この物語を聞きながら、私どもはついこの金持ちのことを批判のまなざし、裁きのまなざしで見てしまうことがあるかもしれません。十戒を子どもの頃から全部守ってきたと言っているけれども、御言葉に完全に従うことができる人間など一人もいないのだ。私たちは罪人なのだから。その証拠に、実際この男も財産を最後まで握りしめ、主に従うことができなかったではないか。どれだけこの男は心が鈍かったのか。そのように言いたくなるのです。一方で私たちはこの男とは違うのだ。私たちは主の前に低くなり、主によって解き放たれ、自由にされた。そして、今主に従って歩んでいるのだと考えてしまいます。けれども、主イエスご自身はこの金持ちの男のことを一つ一つ採点し、裁いておられるのではありません。この男を見つめ、慈しみ、愛しておられるのです。神のことも、自分のことも何も分かっていない。何て愚かなのだ。その批判はそのとおりかもしれません。けれども、一所懸命、神に従い、救いを求めて生きているこの人のことを、主は決して突き放そうとはなさいません。むしろ、愛してくださり、その愛の中に招いておられるのです。そして、私どもも本当は自分自身の姿を知っているのだと思います。主に従ってはいるものの、本当は不十分であるということを。本当は主イエス以外の別のものに捕らわれてしまうことがよくあるということを。それゆえに、本当はこの金持ちの男を批判する権利などないといことを。また、自分だけでなく、周りからも自分の信仰者としてのあり方について色々と言われることもあるかもしれません。しかし、それでも一所懸命、自分なりに主に従いたいと思っているのです。主イエスはそのような私ども一人一人の歩みを見つめていてくださり、愛してくださるのです。

 ここで主イエスが求めておられることは、どんなことがあっても、主のあとについて行こうとする決意です。主の愛のまなざしの中に立ち、主の愛の中に飛び込んで行こうとする決心です。

男に欠けていたのはこのことでした。けれども、この男だけの問題ではありません。もし主の愛の招きの中に飛び込んで行くことを妨げるものがあるならば、それは皆邪魔な財産なのです。だから、それを売り払うように、捨てるように、そしてわたしに従うようにと言うのです。主に従うようになったら、いつの間にか、気づかないうちに財産を手放していたというのではありません。捨ててから、捨てるという決心をしてから、わたしに従うように招いておられます。その握りしめている手を開いて、主に信頼し、お委ねし、従うように招いておられるのです。

 主イエスと金持ちの男の対話は、近くにいた弟子たちにもたいへんな衝撃を与えました。悲しみにながら、主のもとを去って行った男の背中を見ながら、どのような気持ちになったのでしょうか。主は弟子たちを見回して言われます。愛に満ちたまなざしがここにも注がれています。しかし一方で、愛に招くわたしの言葉があの金持ちの男に届かなかったという、深い悲しみと痛みを覚えながら、弟子たちを見つめ、お語りになるのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」主は心の底から嘆くようにおっしゃいます。本当に難しいのだ…。財産を握りしめている者が救われることは、本当に難しいのだ…。難しいというのは、難しいけれども、わずかな可能性が残されているということではありません。財産に捕らわれている者が救われるということは絶対にあり得ない。不可能な話だということです。らくだが針の穴を通る方がよっぽど簡単だというのです。

 弟子たちは主の言葉を聞いて驚きます。「驚いた」ということが、24、26節で二度繰り返されます。「それでは、だれが救われるのだろうか。誰も救われないではないか」、そう思ったのです。大きな壁にぶつかるような思いだったことでしょう。弟子たちは、皆豊かな財産を持っていたわけではないでしょう。けれども、額の多いか少ないかという話をしておられるのでないということが、弟子たちもよく分かったのです。主の言葉を聞いて、「ああ、自分たちにも心当たりがある」と思ったのです。自分たちは、主に従って今歩んでいるけれども、まだ主の愛の中に自分自身を委ね切ることができていない。まだ主に従うことを妨げている、別の財産を握りしめているということに気づかされたのです。では、いったい誰が救われるのだろうか…。

 途方に暮れる弟子たちに向かって、もう一度主は、愛をもって見つめ、そして語られます。27節。「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』」「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。この言葉は目の前にいる弟子たちだけではなく、悲しみながら立ち去って行った男に聞いてほしい言葉でありました。そして、私ども一人一人に対しても、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と告げておられます。そのように神の愛に招き、永遠の命、救いの喜びを与えようとしておられるのです。「神には何でもできる」という恵みの中に、私どもを引きずり込もうとしておられるのです。

 このあとすぐに弟子のペトロは、私たちは何かも捨ててあなたに従ってきましたと、自信ありげに言うのですけれども、そのペトロが主の十字架を前にして、「私はイエスなど知らない。何の関係もない」と三度も、つまり、完全に否定したのです。ペトロも、ペトロだけでなく他の弟子たちも、「神にはできる」という言葉を、この時点ではまだ十分に聞くことができないままでいます。まだ、「人間の力でできる」ということの中に縛られている。まだ主に従う道を妨げる様々な意味での財産から自由になることができていないのです。

 しかし、そのような弟子たちのためにも、主イエスは十字架の道を進まれます。「神には何でもできる」というその全能の御力を、神様は罪人を救うために注いでくださいました。御子イエス・キリストを十字架につけるということの中に、全能の御業を示されたのです。今日お読みしたすぐ後、32節にはこうありました。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。」主イエスの並々ならぬ決意が、この言葉に込められています。弟子たちではなく、主ご自身が先頭に立って歩んで行かれます。「神があなたを救うのだ」という御心を実現するために、わたしは十字架の道を行くというのです。そして、もう一度、ご自分の十字架と復活の出来事について、弟子たちの前で明らかにしてくださいました。

 そして、主は今日の最後のところでこうおっしゃいました。29〜31節。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」改めて問われますのは、主に従って行くとはどういうことでしょうか。主に従うために、財産を捨てる、すべてを捨てるということはどういうことなのでしょうか。「主に従う」という時に、私どもは暗い顔をして従って行くのではありません。罪と死の力から解放され、永遠の命に生かされている喜びのうちに主に従います。もう他の何者でもなく、ただ神の愛だけが私を捕らえ、支配しているとの感謝のうちに、すべてを捨て、主に従う者とされます。29節でも「わたしのためまた福音のために…捨てた者は誰でも」とあるように、主イエスのために、救われた喜びのゆえに、すべてを捨てて、すべてを献げて主に従います。

 ただその時に誤解していただきたくないのは、主イエスというお方は、私どものこの世の生活を否定しておられるわけではないのです。主イエスのために、救いの喜びのゆえに、例えばここで言われているように、「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」を捨てるというのはどういうことなのでしょうか。洗礼を受けたら、家族とは関わるな。何も持たないで貧しく生きろということなのでしょうか。主イエスはそんな滅茶苦茶なことをおっしゃっているのではありません。それに、本当に家族を捨ててしまったらならば、19節で主がおっしゃっていたように十戒の戒めに背くことになるでしょう。主イエスのために、福音のために捨てるというのは、自分の手で家族や財産を握りしめるのではなくて、すべてを天におられる神様にお委ねしなさいということです。21節では、「天に富を積むことになる」と主はおっしゃいました。天に富を積むということ、それが、実は主のためのすべてを捨てるということなのです。

 天にも銀行があって、そこにこの世の財産を預ける、お委ねするのです。興味深いのは、「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑」というふうに、ここで言われているほとんどのことが家族に関わることだということです。家族ほど、自分の手で握りしめたい存在は他にないかもしれません。悪い意味で、家族を束縛する、支配するということもあるかもしれませんが、愛するがゆえに、私の力で何とかしたいと普通は思うものです。特に、家族の誰かが辛い思いをしている時は、より一層「自分が」何とかしなければ、「自分が」頑張らなければという思いが強くなります。ただ自分で何とかしないとと思って、一所懸命やるのですけれども上手く行かない。願ったとおりのことが何も起こらない。そういうことが多々あるわけです。けれども、「それらを天に預けてご覧なさい」というのです。そして、天の銀行というのは、いわゆる利子というものが、この世の銀行とはまったく違うのです。「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」利子は100倍なのです。天の銀行はどんなことがあっても、まったくの不況知らずなのです。私どもの想像の遥かに上回る豊かさをもって、神様は私どもに答えてくださいます。心配だ、どうしよう、自分で何とかしなくてはと焦ってしまうこともあるでしょう。自分のことも、家族のことも、その家族一人一人の将来のことも…。彼らの救いのことも…。あるいは、家族の中で自分だけキリスト者であるがゆえに、正直肩身が狭く、嫌な思いをすることもあるかもしれません。けれども、そこで仕えて生きてご覧なさい。あなたと共に生きる人たち一人一人を、天に委ねてご覧なさい。そしてわたしに従いなさい。わたしの愛の中に立ちなさい。その時に、自分だけではなく、共に生きる者たちとの間にも与えられる、本当の豊かさを今ここで見ることができるというのです。

 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」この主の言葉に私どもの救いがかかっています。この御言葉が真実であることを明らかにしてくださるために、主は私どもの先頭を歩んでおられます。わたしに従いなさい!お祈りをいたします。

 主よ、あなたは私どもを愛してくださいます。一筋の心で、主を愛することができなくても、「神にはできる」との御言葉をもって招き、救いの喜びの中に立たせてくださいます。私どもを罪から救い、永遠の命に生かしてくださるために、主は十字架について死んでくださいました。解き放たれた喜びの中で、握りしめている手を開き、それらをすべてを主にお任せし、お委ねすることができますように。主のもとに留まり、主の言葉によって豊かに生かされる道をこれからも歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。