2023年02月26日「わたしたちを建て上げてくださる方」

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わたしたちを建て上げてくださる方

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 127編1節~5節

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聖書の言葉

1【都に上る歌。ソロモンの詩。】主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。2朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。3見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。4若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。5いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。詩編 127編1節~5節

メッセージ

 夕礼拝では、詩編第120編から始まる「都に上る歌」「巡礼歌」と呼ばれる御言葉に耳を傾けています。神の民であるイスラエルの人たちが、エルサレム巡礼の際に歌ったと言われるものです。時代や場所は違いますけれども、今ここに生きる私どもにとっても「人生は旅のようである」と言うことができるでしょう。

 本日の詩編第127編ですが、例えば、教会の結婚式の時に、この詩編を読むように勧められているのです。1節の家を建てるということであるとか、3節以下に神様から与えられた子どもについて言及していることなどから、詩編第127編、また次の第128編が合わせて朗読されます。神様が結び合わせてくださった男女が、神の御前で夫婦となり、新しい旅路を始めていきます。新しい家庭を築き、建て上げていくのです。そして、夫婦の結婚式の誓約の言葉の中にあるように、結婚生活の中には、お互い「健やかな時も、病む時も、順境の時も、逆境の時も」ということが実際に起こるわけです。その途中、子どもが与えられるということもあるでありましょう。子どもが与えられるというのも、夫婦にとって、家庭にとって、とても大きな変化の一つでありましょう。大きな喜びであるに違いありませんが、親として新しい責任が与えられる時でもあります。家族が夫婦だけであっても、子どもが与えられていても、様々なことをそこで経験します。

 また、この詩編第127編は、教会堂が新しく建てられる際に読まれる御言葉の一つです。1節にはエルサレム神殿を建てたソロモン王の名が記されていることから、「家を建てる」ということは「神殿」を建てること、今でいう「教会を建てる」ことだというふうに理解してきたのです。ですから、「家を建てる」というのは、一軒の家屋を建てるということよりも、教会を建て上げることであったり、家庭を築き上げていくことだと理解してきました。神の神殿である教会を建てるという場合、それは単に建物のことだけではないことは明らかです。教会に連なる一人一人の信仰がキリストにあって、互いに結び合わされ、成長していくことです。このこともまた、すぐにできることではありません。教会もまた長い歴史と共に様々な経験をします。試練をも経験します。しかし、その中で信仰が確かにされ、キリストの体である教会が立て上げられていくのです。

 そのように今日の詩編は夫婦の喜びを語り、子どもが与えられた家庭の喜びを語り、兄弟姉妹と共に教会を形づくる喜びを語ります。けれども、たった5節の短い詩編の中に、「むなしい」という言葉が1〜2節にかけて3度用いられていることは、たいへん興味深いことですし、それだけに「むなしい」という言葉を無視することはできないのです。もちろん詩人は「むなしい」「むなしい」「むなしい」と3度も連呼して、嘆いているのではありません。「むなしい」ということを強調しつつも、そのむなしさから解き放たれ、充実した夫婦、家庭、教会生活を送るにはどうしたらいいのかを語るのです。また、2節の「焦慮してパンを食べる人よ」というのは、苦労して仕事をして糧を得るということです。つまり、「仕事」のことが言われています。生きるためには仕事をし、働かなければいけませんが、その仕事がむなしいものではなく、本当に満たされたものとなるためにはどうしたらいいかということです。仕事をしてもむなしいし、楽しくない、しんどいことばかり。けれども、「食べていくためには文句など言っていられないから仕方なく働く」ということなのでしょうか。「そんなはずはない」と思いたいのです。

 キリスト者に限らず、「あなたにとって生き甲斐とは何ですか?」と聞かれたら、きっと多くの人が自分の家族のことや仕事のことをあげるに違いありません。仕事そのものが好きだという人もいれば、愛する家族を養うために仕事に励むという人もいると思うのです。もちろん、家族と生きることも、仕事を続けていくことも楽なことではありませんし、複雑な問題が色々と絡み合っているということもありますから、すべての人にとって、家族や仕事が生き甲斐だと言えない面も確かにあると思うのです。しかしそういう人であっても、喜びに満ちた家庭に憧れ、生きるために多くの時間を費やしている仕事、生きていくためにしている仕事に対して、大きな喜びを感じることができたらいいのにと、どこかで願っているのではないでしょうか。

 「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。朝早く起き、夜おそく休み/焦慮してパンを食べる人よ/それは、むなしいことではないか/主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。」詩人は決して難しいことを言おうとしているのではありません。家庭や仕事、教会生活が充実したものとなるために必要なことは、それほど多くはありません。いや、たった一つのことにかかっていると言ってもいいのです。それは、主なる神様が私たちのために働いてくださるということに尽きるということです。家を建て、教会を建て、家族を造り上げていくという業、あるいは、仕事をするということは、私どもの人間がする業でもありますし、私どもの努力も求められます。けれども、その背後で私どもを支えておられるのは神様です。家庭も仕事も教会も、その根底から支え、生かしてくださっているのは神様のお働き、神様のご支配によるのだということです。決して、私ども力、努力によって、今の自分、今の家庭、今の教会があるのではありません。罪から救われるということだけではなく、家庭や仕事といった日常の営みにおいても、神様が働いてくださらなければ、すべてはむなしいのです。ソロモンとも深い関係がある「箴言」の中にもこのような御言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」(箴言10:22)

 また、1節の終わりには、「主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい」とありました。これはエルサレムの町を囲む城壁の上に立ち、敵の侵入を見張る務めにある人でしょう。絶えず、目を覚ます必要があります。特に、夜の時間帯は闇の中、全神経を集中しなければいけません。町の安全が守られているのは、心身共に鍛え上げられた守衛の働きによるとも言えるのですが、その根本にあるのは神の守りです。私どものいのちも平和もまた、神の守りなしに考えることはできないのです。

 仕事においても、2節にあるように、朝早く起きて、夜遅くまで働くのです。過酷な労働です。心身共に疲れ果てたところで、やっとパンにありつける。食べるためには、働かないといけないのは分かりながらも、なぜこれほどに疲れ果てて、嫌な気持ちになるのか。仕事だけでなく、人生そのものがよく分からなくなってしまいます。こういう問題はよくニュースで耳にし、その度に、心痛めますけれども、何も今に始まったことではなく、遥か昔から人々が抱いていた苦しみであり、人生の問いであったということです。また、仕事が生き甲斐だという人も、そこで大きな成功を収めたり、たくさんの収入を手にすると、すぐに自分の力を誇らしげに思ってしまうということもあると思います。自分の力で稼いだのであって、神様が与えてくださったなどとは思わないのです。でもそういう生活はむなしいだけだと言います。2節の終わりの「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」というのは、文字通り、仕事の疲れの中でも睡眠を与えてくださるという意味もありますが、さらに言えば、「眠り」というのは魂が平安であるということです。日々、たいへんな仕事をしながら、なおそこで平安でいられるということ。ここにむなしさはありません。満たされているのです。しかし、そういう生活がどこから与えられるのかということです。自分が一所懸命努力をし、労苦を重ねて、初めて安心することができるのでしょうか。そうではないというのです。神様が眠りを、平安を私どもに与えてくださるのです。

 人間の生活にとって、家庭と仕事はなくてはならないものですし、お互いが深く結びついています。あるいは、家庭がいくつも集まれば、そこは町となり、国となります。町の安全、平和とは何であるのか。何をもって、私たちの町、そこに生きる一人一人のいのちは守られるのかということです。それもまたすべては神様にかかっているというのです。私どもの生活のすべては、神様のお働きにかかっているということ。このことは、神様をまだ信じていない人ならよく分からないことかもしれませんが、既に信仰に生きている者たちにとっては、改めて言われなくても分かり切ったことであると言えるでしょう。しかしなぜ、「主御自身が建ててくださるのでなければ」「主御自身が守ってくださるのでなければ」「主は愛する者に眠りをお与えに(ならなければ)」、それはむなしいことだと強調するのでしょうか。

 それはおそらく、旧約の時代の信仰者たちの経験が反映されているのではないかと言われています。つまり、神の民とされながらも、神を忘れて歩んだ歴史が一度だけはなく、幾度もあったということです。旧約聖書の中に幾度も語られている人間の罪の歴史です。またこういうことがありました。男女が結婚に導かれ、子どもが与えられ、家庭を形成していく中で、様々な経験をしたということです。思い描いたとおりにいかなかったということです。仕事においても同じです。そこで、自分の力を嘆いたのです。自分たちの能力のなさ、努力の足りなさ、あるいは、運のなさを嘆いたのです。もっと自分たちに力があれば、上手くいったに違いないと思ったのです。確かに、自分の力が足りないということが原因となって、悔しい思い、辛い思いをすることはたくさんあります。そうならないためにも、力をつけて、強くなるということも、家庭や仕事、また信仰生活を続けていく上で大事なことでありましょう。自分の弱さにあぐらをかいて、開き直っているだけならば、それは怠けているだけ、諦めているだけです。だから、自分には力がないと嘆きたくなるところで、どのような姿勢を取るのかというのは大事なことなのです。けれども、そこで実は肝心なことを、また忘れてしまっていたのです。神様なしに、自分たちの力で道を切り拓こうとしたことです。自分たちにないもの、自分たちが持っていないもの、それを自分の力、人間の力で満たそうとしたことです。生活の中で生じる思い煩いを、自分たちの力で癒そうとしたことです。けれども、信仰に生きるというのは、本来、自分や人間の力に頼ることではなかったはずです。神様が働いてくださり、神様が満たしてくださるのです。そのようにして、日常の中に生じる問題が解決されたり、それに立ち向かう力が与えられたり、忍耐しながら、それらの問題を担う力が、神様のほうから与えられるのです。私たちが願い、私たちが望んだような仕方で、すべてが前に進んでいったわけではないかもしれません。しかし、神様がいてくださり、神様がすべてを与えてくださったから、今の私がある。今の家族がある。今の仕事も支えられている。そのように私どもの思いを超えた不思議な仕方で、神を賛美する生活に導かれるのです。

 主イエス・キリストはマタイによる福音書に記されている「山上の説教」の中で、弟子たちに「思い悩むな」「思い煩うな」と命じられました。マタイによる福音書第6章25節以下の御言葉です。主は、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」とおっしゃいました。生きていくために、食べることも、着ることも必要です。それらを手に入れるために、お金や富が必要ですし、そのためには苦労して働かなくてはいけません。明日のことを考える余裕がないほどに、私どもが苦労しながら働き、家族を養っていることを主イエスはよく知っていてくださいます。「今日もよく働いたね、本当にご苦労様」と労ってくださる主イエスが、そこで私どもに告げてくださったのは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」という御言葉であったということを私どもは忘れてはいけません。何があなたのいのちを真実に生かし、あなたの家庭を祝福で満たすのか。それは食べ物でも、着る物でも、住む家でも、お金でもない。あなたの頑張りでもない。あなたのために、あなたの家族のために細やかな配慮をし、すべてを与えてくださる神様の恵みによるのだと、主は教えてくださいました。詩編第127編は、主イエスの言葉を先取りするような仕方で、主なる神様によって、日々の歩みが満たされる幸いを語ります。

 さて、最後にもう一度詩編の御言葉に戻ります。3節以下です。「見よ、子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い。若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。いかに幸いなことか/矢筒をこの矢で満たす人は。町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない。」詩編第127編の後半は、夫婦に与えられた「子ども」ということに焦点が向けられます。3節の「嗣業」というのは神様から与えられた土地を意味する言葉ですが、ここではそれが「子ども」に当てはめられています。子どもは、夫婦がつくったものではなく、神様が与えてくださったものです。昔は、子どもがたくさん与えられることが、その家庭の祝福を意味しました。4節、5節では、子どもたちのことが「矢」にたとえられています。矢のように勢いがある、元気があるということです。5節の「町の門で敵と論争するときも/恥をこうむることはない」という言葉ですが、これは親が町の門で論争をする、裁判をするという時も、子どもたちが声援を送って力づけてくれるということです。子どもの存在が、弱さを覚える親を力づけるというのは、例えば、親が年老いた時、子どもたちが支えてくれる。介護をしてくれる。そういう場面を思い浮かべることもできるでしょう。親にとって子どもというのは神様から与えられた存在でした。同じように、子どもにとって親もまた神様から与えられたものなのです。

 家庭というのは、神様が与えてくださった子どもたちと、また神様が与えてくださった親と共に生きる場所です。そこには、子育ても介護も、学業のことも、仕事のことも、お金のことも、将来のことも、つまり、人生の初めから終わりまで、すべてが含まれているような大切な場所です。そして、その家庭の中で、それぞれや健やかであったり、体調を崩したり、上手くいったと喜んだり、反対に試練を共に味わったり様々な経験をいたします。そのような一つ一つの家族が、主の日に「教会」という神の家に共に集い、この教会を、そして、私たち家族を真実に建て上げてくださるお方を仰ぎ見ます。日常の歩みにおいて、むなしさを覚え、力のなさを嘆くようなことがあっても、神様に信頼し委ねつつ、神様の恵みのご支配の中で、与えられた生活、遣わされた働きに一所懸命励みます。どれだけ頑張っても克服できない弱さや貧しさというものもあるかと思いますが、それでも、むなしい思いに捕らわれることなく、むしろ神様のために喜んでいのちを注ぎ出すことができます。

 主イエスは、「わたしはぶどうの木」とご自分のことを紹介してくださったことがありました。「わたしはぶどうの木。…わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:1,4)家庭はもちろんのこと、学校や職場をはじめ、あらゆる人間関係において大切なのは絆です。つながっているということです。そこで、私どもは多くの悩みに捕らわれるのですが、キリストに結ばれ、キリストの体である教会に連なるものであるということを、それぞれの場所で覚えながら、キリストによって豊かな実を結ぶことができる。そのような教会の歩み、家庭の歩みをここから始めていきたいのです。お祈りをいたします。

 父なる御神、あなたは御子を遣わし、私どもを罪から救ってくださっただけではなく、家庭や仕事といった日々の生活をも豊かに祝福してくださるお方です。神様との関係だけでなく、隣人との関係においても、一喜一憂する私どもですが、そのような私どもの歩みの真ん中にいてくださる主が、確かな仕方で導いてくださることを信じさせてください。「もう思い煩ったり、むなしさを覚えることはないのだ」と約束してくださる驚くべき主の言葉に、これからも私どもを生かしてくださいますように。生活のすべての領域において、主にある豊かな実りを見ることができますように。

主の御名によって祈ります。アーメン。