2023年02月26日「神を父と呼ぼう」

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聖書の言葉

12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。ローマの信徒への手紙 8章12節~17節

メッセージ

 「祈りは呼吸をすることだ」と言われることがあります。呼吸することは生きることであり、生きることは呼吸することなのです。もし、呼吸ができなくなると、それは死を意味します。普段、健康な時は、特に意識をしなくても、呼吸をすることができるでしょう。呼吸すること、息をすることは、生きるうえで絶対に必要なものですが、普通に、当たり前のようにそれができる者とされている。このことは幸いなことでもあります。キリストによって罪から救われた人間として、「祈る」ということもまた、呼吸をするように、ごく自然なことであり、そこにキリスト者の健やかさ、人間の健やかさがあるのです。

 ところで、私どもは自分が初めて神様に祈った日のことを覚えているでしょうか。初めて「父よ」と神様を呼ぶことがでるようになった日のことを、その喜びを覚えているでしょうか。キリスト者の家庭で育った子どもたちは、物心つく前から親や教会の人たちがささげる祈りに「アーメン」と唱え、気づいたら祈ることができるようになっていたという人も多いことでしょう。大人になってから信仰に導かれたという人も、礼拝をとおして、牧師からの指導をとおして、祈りについて学び、実際に祈ることができるようになったと思います。祈ることは、キリストによって救われた人間としてごく自然なことです。けれども、自然だから当たり前のことだから、どれだけ祈っても、自分の心は何も動かない。何の喜びもないというのもおかしなことなのです。祈りの喜びと言われると、祈りが聞かれ、願いがかなえられることだと思う人もいるかもしれません。確かに、祈りが聞かれることは嬉しいことです。けれども、それよりももっと大きな喜びがあるのです。それは、「天の父よ」「神様」と言って、神様の名を呼ぶことです。15節にありますように、「アッバ、父よ」と呼ぶこと自体が喜びであり、祈りなのです。そういう意味で、私どもは祈りというのをあまり難しく考える必要はないのです。「アッバ、父よ」という一言の中に、生きる喜びがすべて含まれているのです。「アッバ、父よ」というのは、お祈りの最初には「父よ」という言葉をもって始めましょうという、いわゆる決まり文句ということではなくて、キリストによって救われた喜びが満ち溢れているような言葉であるということです。

 もう一度、14〜15節をお読みします。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」この手紙を書いた使徒パウロは、この手紙の中でずっと、私どもがどのようにして罪から救われたかを語ります。そして、洗礼を受け、キリスト者になった者には神の霊である「聖霊」が与えられるというのです。「霊」という言葉は、「息」というふうに訳してもいい言葉です。神の霊、聖霊が与えられることは、神の息が与えられることです。私どもはただ呼吸をしているのではなくて、神から与えられたいのちの息を呼吸しているのです。つまり、神様と共に生きているのです。罪から救われて、もう一度、神様と共にある人生の喜びを回復することができたということです。そのことを、祈りの度に実感することができます。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」キリストによって救われた私どもは「神の子」なのです。神の子というのは、本来、イエス・キリストただお一人だけのはずです。ですから、私どもが神の子とされたというのは、丁寧に言うと、「神の養子」にされたということです。けれども、神様は「お前は養子だからたいした価値などない」と言ったり、主イエスより劣った存在として、見下したりなどしないのです。私どもは神の養子ですが、養子としていただくために、本当の御子であられる主イエスが十字架でいのちをささげてくださったのです。神様はご自分の御子イエス様の中に、私どものいのちの価値を見出しておられるのです。また17節に、「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」とありますように、神の養子でありながら、御子イエス・キリストと共に神の栄光にあずかる者とされるという素晴らしい約束が与えられています。

 そして、神の子である私どもは、自分の父である神がどのような神であるかを知っています。14節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」とありました。神様を信じるというのは、奴隷のように嫌々信じることではありません。洗礼を受ける前だけでなく、洗礼を受けてキリスト者として歩む中でも、信仰に生きることが苦しいという思いに捕らわれてしまうならば、それは神様のお姿がはっきり見えていないサインであるかもしれません。キリスト者は神の僕であり、神の奴隷であるという言い方を、聖書は幾度も語るのですが、喜んでそのように告白しているのです。なぜなら、私どもの真実の主人であられる神様は、罪の苦しみから解き放ち、真の自由と喜びを与えてくださるお方であるということを知っているからです。今日の御言葉の中でも言われていることですが、キリスト者もまた罪との戦いがあり、苦難があり、やがて死を迎えるのです。決して、苦しみと無関係ではありません。けれども、そこでない自由と喜びに生きることができるように、あなたがたには「神の子とする霊」が与えられているではないかと、パウロはローマの教会の人々を励ますのです。

 そして、神の子とされた喜びに生きる私どもが、霊に導かれて、いつもすること、していること。それが、「アッバ、父よ」と呼ぶことなのだというのです。つまり、神様を「父よ」と呼んで、祈ることなのです。「アッバ」という言葉はヘブライ語ですが、より丁寧に言うとアラム語と呼ばれる言葉です。主イエスが地上におられた時に口にされていた言葉です。そのアラム語である「アッバ」という言葉が、新約聖書の原語であるギリシア語に訳されることなく、そのまま記されています。ただ、「アッバ」とそのまま記しても、ローマの人たちは分かりませんから、アッバの後に、「父よ」というふうにギリシア語で意味を補っているのです。けれども、なぜ「アッバ」という言葉がそのまま記されることになったのでしょうか。他にも祈りや賛美の最後に口にする「アーメン」という言葉があります。「真実です」「本当です」という意味です。また、「ハレルヤ」という言葉もあります。「主を賛美します」という意味です。「マラナ・タ」という言葉もあります。聖餐式の時によく歌う賛美歌の一つです。「主よ、来てください」という意味があります。このように、国も時代も違うにもかかわらず、今もなお、全世界の教会の人々が大切にしている言葉があります。敢えて母国語に訳し直さなくても、昔からキリスト者たちが大切にしてきた言葉の響きをそのまま受け継いでいるのです。そして、これらの言葉というのは、昔から礼拝の中で大切にされてきた言葉であるということです。キリスト者たちは、普段の生活と共に、礼拝においても兄弟姉妹と共に「アッバ」と言って、父なる神様を呼び、祈りをささげました。今日を生きる私どももまた神を「アッバ」と呼ぶ信仰の喜びに生かされているのです。

 この「アッバ」という言葉は、「父」という意味があるのですが、もう少し正確に言うと、言葉を覚え始めた幼子がお父さんを呼ぶ言葉なのです。英語で言うと、「パパ」という言葉に当たるのでしょうか。先程、アッバという言葉はアラム語だと申しましたが、ユダヤ人であろうが、日本人であろうが、子どもが親を呼び始める時、だいたいは「アッバ」という発音に近いものになるのかもしれません。息子が幼い頃に、私のことを「アッバ」と呼び始めて、「何でこの子はアラム語を喋るのだ」とたいへん驚いたことを思い出しますが、別に特別なことではなくて、子どもが一所懸命親を呼ぶ時、それは「アッバ」とか、「アブ、アブ」とか、「バブ、バブ」という言葉になるのではないかと思います。神様のことを「父」と呼ぶ信仰は、旧約聖書からあったことです。今日はイザヤ書の御言葉を読んでいただきました。「あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。」(イザヤ63:16)たとえどんなことがあっても、私たちにとって、神よ、あなたが父であるという事実は変わりません。それほど確かな絆の中にあるのですから、どうか天を裂いて私たちをお救いくださいというふうに、ずいぶん激しい祈りがささげられていました。ただ、イザヤ書でいう「父」という呼び名は、もっとかしこまった言い方なのです。「お父様」「父上様」という言い方です。けれども、新約聖書の中で言われている「アッバ」というのは、単なる甘えということではないのですけれども、幼子がお父さんを「パパ」と呼ぶように、どこか心がホッとすると言いましょうか、私の父でいてくださる神様に信頼し、丸ごとすべてをお委ねしている信仰者の姿を、またしっかりと私どものことを捕らえ、抱きしめておられる神様のお姿をそこに見出すことができます。

 私たちは用いています新共同訳聖書では、「アッバ、父よ」と呼ぶのですと訳されていますが、「呼ぶ」というのは、本来、「叫ぶ」と訳したほうがよい言葉です。叫ぶというのは、余程のことがない限りしないと思います。イザヤ書のように、たいへんな危機の中にあるということです。しかし、その中で「アッバ」と叫びつつ、すべてを父なる神様に委ねることができる平安に生かされているのです。ところで当時のキリスト者にとって、何が危機だったのでしょうか。ローマの教会の場合は迫害ということももちろんありましたが、例えば、12〜13節にこう記されていました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」これもずいぶん激しい言葉だと思うのです。まず、私たちキリスト者には「一つの義務」があるというのです。義務というのは負債ということでもあります。洗礼を受け、キリスト者になったら、もうあとは自由に、自分の好きなように生きていい。何をしてもいいということではありません。あなたがたは、ただ神の恵みによって救っていただいた。そのあなたがたが、神の救いの恵みに応えて生きるために、なすべきことが一つのこと、果たすべき一つの義務があるというのです。

 興味深いのは、「一つの義務」という言い方です。確かに、キリスト者としてなすべき働き、奉仕というのはいくつもあると思います。しかし、この一つの義務を怠るならば、すべては意味をもたなくなる。実を結ばなくなる。そういうキリスト者として大切な義務があるということです。それが、肉に従って生きるのではなく、霊に従って生きるということです。霊に生きることによって、肉の思いを絶つということです。肉というのは、欲望、貪欲のことです。パウロは、「貪欲は偶像礼拝」だというふうにも言いました。救われる前の罪ある生き方の虜、奴隷になってしまうこと、それが肉に従って生きるということです。貪欲の罪が膨れ上がる時、自分だけでなく、周りの者をも呑み込んでしまうことでしょう。とても恐ろしいことです。だから、救われた私どもは霊によって、肉の思いと戦わなければいけません。

 13節では、こう言われていました。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」「生きるか死ぬか」という究極のことがここで言われているのです。キリスト者として生きるか死ぬか、その鍵となる大切な一つの義務についてパウロはここで語ります。それこそ、神の霊によって導かれ、アッバ父よと祈りつつ、罪との戦い、信仰の戦いに生き抜くことです。だから、アッバと呼ぶというよりも、アッバと叫ばざるを得ない現実がそこにあるのです。私どもはつい祈ることを怠ってしまうことがあります。「アッバ、父よ」と一言神を呼ぶことさえ怠ってしまうことがあります。様々な要因があるのかもしれません。しかし、「祈ることを忘れてしまった」などと本当は呑気なことを言ってみたり、「どうせ罪人なのだから」というふうに、言い訳をしてはいけないのです。言い訳をしている暇などないのです。霊に導かれ、絶えず「アッバ、父よ」と祈ることは、キリスト者の生き死にかかわることであるからです。祈りといういのちの呼吸を絶やしてはいけない理由がここにあります。

 救い主であられるイエス・キリストは、私どもが神様から与えられたいのちを喜んで最後まで生き抜くことができるために、私どもの罪を背負い、十字架で死んでくださいました。罪赦され、死を超えたいのちに生かされていることを片時も無駄してはいけないのです。そして、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことを教えてくださったのは、主イエスご自身でもありました。弟子たちに「祈る時にはこう言いなさい」と教えられた「主の祈り」においては、「天におられるわたしたちの父よ」と神を呼びなさいと教えてくださいました(マタイ6:9)。

 また、この「アッバ、父よ」という祈りは、神様を呼ぶというよりも、神様に向かって叫ぶことであると申しました。そこで思い出されますのが、主が十字架にかけられる前の夜に、ゲツセマネと呼ばれる丘で、夜を徹して祈られた場面です。例えば、マルコによる福音書第14章33節以下を見ますと、主イエスはこれまでに見られないほどの恐れ、悶えを覚え、死ぬばかりの悲しさの中、息を荒くしておられます。そして地面にひれ伏して、祈られるのです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)主イエスは血が滴るような汗を流しながら、祈りつつ、何と戦っておられるのでしょうか。それは肉に支配された私どもの貪欲、罪に対してです。まことの神を忘れ、貪欲の神の奴隷となる時に、私どもは自由に好きなように生きているようで、本当は死んでいるのです。自分を見失っているのです。そして、愛すべき隣人さえも見失っているのです。そのような私どもが、神の霊によって生きることができるために、神の子とされるために、主は十字架を前にして祈ってくださいました。私どもに先立って、「アッバ、父よ」という祈りをささげてくださいました。

 生きるか死ぬかという、私どものいのちがかかった祈りを祈りつつ、十字架に向かわれました。「アッバ、父よ」これはまさに戦いの祈りです。まことのいのちを勝ち取るための祈りです。「アッバ、父よ。わたしの願うことではなく、御心が行われますように。」主イエスもまた十字架の恐怖、十字架で父なる神様から捨てられる恐怖とも戦っておられました。しかし、「御心に適うことが行われますように」と祈り、父なる神様から託された、果たすべきただ一つの義務を果たしてくださったのです。肉に対する義務ではなく、霊に対する義務を果たしてくださいました。そして、霊によって体の仕業を絶ち、神の霊に従って生きる道を切り拓いてくださいました。

 私どもが生きる世界には、先程申しました肉の罪、貪欲の力というものが満ちています。あるいは、18節以下に語られていることですが、うめくようなこの世の苦しい現実というものがたくさんあります。その中で、不安になったり、運命の虜になったり、諦めたりというふうに生きる喜びを奪う力というものが確かにあるのです。キリスト者もまたそのような大きな力に呑み込まれ、苦しめられることがあります。心の中だけでなく、本当に息をするのが苦しくなるということさえもあるのです。そこで本当に叫ばざるを得ないのです。声に出して叫ぶ力がなかったとしても、魂は叫びたがっているのではないでしょうか。

 神様の子どもとしていただいた私どもは、そこで、霊に導かれながら、「アッバ、父よ」と叫びつつ戦います。神が与えてくださったいのちの喜びに生き抜くために。その時に、覚えたいのは、私どもはそこで一人で祈り、一人で戦わなくてもいいということです。同じ神の子とされた教会の仲間たちと共に祈りをささげ、礼拝をささげます。何よりも、まことの神の子である主イエスが、私どもと共に祈り、共に戦ってくださいます。神を「アッバ」と呼んで、祈ることを教えてくださり、「アッバ」と祈りつつ十字架に向かわれた主イエスが、今も私どものために、「アッバ」と祈りつつ信仰の戦いを共にしてくださいます。また神の霊である聖霊ご自身が私どものために祈り、執り成してくださるのです。26〜27節にこうありました。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」私どもは主イエスと聖霊というこれ以上にない助け手に支えられながら、信仰の歩みを続けていきます。自分は信仰者として失格だ、自信がないと言って、落ち込んでしまいそうな時も、そこで「アッバ、父よ」と神様を呼ぶのです。祈りというよりも、ただ神様の名を呼んだだけ、叫んだけかもしれないような一言が、実は私どもを死からいのちへと導くのです。

 16節にあるように、祈る時、私どもは神の子とされていることがよく分かります。祈る時、聖霊が「あなたは神の子」だということを証しし、保証してくださるのです。ですから、反対に祈らないと、自分が誰か分からなくなるということです。自分を見失うのです。霊に導かれ、祈りつつ生きるならば、どのような戦いの中、苦しみの中にあっても最後まで望みを持って生きることができます。

 私どもは、イエス・キリストのゆえに、神の子とされました。神の子であるがゆえに、最後の17節にありますように、神の相続人なのです。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」キリストと共に、神様が与えてくださるいのちの財産を受け継ぐ者とされています。そのためにも、「キリストと共に苦しむなら」とありますように、苦難の中を歩んでいきます。けれども、「キリストと共に」とありますように、私たちの苦しみは自分一人だけの苦しみではなく、主イエスが共に担ってくださる苦しみでもあります。

 この世の苦難というのは様々ですが、中でも一番大きなもの、一番最後に私どもを襲う苦難というのは、「死」ということではないでしょうか。死んでしまえば、呼吸をすることはできません。けれども、私どもが神の霊に生かされているということは、地上において息途絶えるところで、なお生きることがゆるされるということです。お読みしませんでしたが、12節の直前10〜11節にこのように記されています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」キリストによって、義とされ、救われた私ども。その私どもに与えられている霊というのは、主イエスを甦らせた霊なのだというのです。主イエスが死者の中からお甦りになられたように、私どもも死に打ち勝って生きる。私どもが神の子とされているというのは、地上に限ったことではありません。死を超えて、永遠に神の子です。永遠に神様とのいのちの交わりに生きる者とされているのです。

 私どもは「アッバ、父よ」と祈る度に、自分の真の姿を見出し、喜びます。すべてが上手く言っていると思える時も、試練の中でたいへんな時も、そして、死を前にした時でさえ、私どもは「アッバ、父よ」と祈る度に、聖霊によって、自分は誰であるのかをもう一度教えられます。この先、どうなるのか分からないというような闇の中にあっても、死に打ち勝つほどの希望によってもう一度、生きる姿勢が整えられるのです。

 本当に苦しい時、死を前にした時などがまさにそうですが、自分ではもうどうすることもできないほどに衰弱することがあります。周りにいる家族も何もできません。牧師も何もできないのです。でも、「アッバ、父よ」と祈ることができます。死を前にした本人が「アッバ」と祈ることができれば一番いいのかもしれませんが、それができない時でさえも、傍らにいる信仰の仲間、牧師、家族が代わりに祈ることができるでしょう。何よりも主イエスご自身が、聖霊ご自身が、死からいのちに導くための執り成し手として祈ってくださいます。私どもがこの地上において、どういう最期を迎えるのか。それは分かりませんけれども、キリスト者にとっては「祈る」という姿が最後まで残るに違いないと思うのです。自分の死もそうですし、自分が信仰の仲間を看取る時も、それは本当にうめかざるを得ないような現実であるかもしれませんが、しかし、「アッバ、父よ」と祈り、祈られながら、喜びと希望に満たされて最期を迎えることができるということです。「アッバ、父よ」と神を呼ぶこと自体が喜びであり、希望であり、いのちなのです。そのいのちの呼吸である祈りを絶やさないこと。このことこそが、生きるということなのだと、神様は告げておられるのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様、私どもはあなたのことを「アッバ、父よ」と呼ぶ幸いに生かされています。キリストのゆえに神の子とされ、御霊なる神様の導きによって、どれだけ深い愛の中に置かれているのかを、祈る度に思い起こすことができますように。苦難の歩みの中にも、主が共にいてくださり、執り成していてくださる幸いを覚えながら、私どももまた、祈りつつ、信仰の戦いを最後まで戦い抜くことができますように。主の御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。