2023年02月12日「キリストからの推薦状をたずさえて」
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キリストからの推薦状をたずさえて
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コリントの信徒への手紙二 3章1節~11節
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聖書の言葉
1わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。2わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。3あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。4わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。5もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。6神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。7ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、8霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。9人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。コリントの信徒への手紙二 3章1節~11節
メッセージ
2月も半ばになりました。若い方にとっては、これからの進路を考える上で、特に大切な季節となりました。今、まさに受験シーズン真っ只中です。学生生活というのは受験だけがすべてではありませんし、まして人生のすべてでもありません。しかし、受験というのは、それぞれの人生においてそう簡単に避けることができるわけではないでしょう。受験勉強が楽しいという人はあまりいないと思いますが、しんどい思いをしながら、自分のこれからの歩みのために一所懸命備えます。自分のその後の人生に大きな意味を持つからです。また、大学や高校、中学だけではなく、今週は火曜日に神戸改革派神学校でも受験が行われます。どなたが受験するのか、詳しいことは知らされていませんが、伝道の働きのために献身者が起こされ、神学校での学びと奉仕をとおして、神様からの召しを、日毎に確かにしていただきたいと心から願います。
受験をとおして、試験をとおして若い方たちは多くのことを試されます。もうテストを受けるような年齢ではないという人も、自分や自分の身の回りで起こる試練をとおして、試されることがあるのです。配られたテスト用紙に書かれた問いに答えることができれば、それでいいというのではなくて、「そもそも私とは何であるか?」「何をするためにこの世に生まれてきたのか?」「私は本当にこの道を進んで大丈夫なのだろうか?」受験などのテストや試練というのは、思いがけず、生きることについて、これまで以上に深いことを考える機会となります。若い皆さんが、自分の第一志望の学校に行くことができたらと願いますが、もしそれがかなわなかったとしても、これまで努力してきた日々、また自分の歩みについて真剣に考えた日々というのは、決して無駄になりません。受験が思いどおりいかなかったという現実に立たされた時も、ではそれが自分にとって何を意味するのか?ぜひ考えてほしいのです。難しい問いですし、正直あまり考える気分にならないかもしれませんが、しかし、それでも心の片隅にでもいいですから、そっと置いていただきたいと思います。
教会生活をしている若い方にとって、いや、これはすべての世代の教会員の方にも当てはまることですが、自分の進路、自分の将来について考える時、自分一人で考えるのではなく、多くの人と相談してほしいということです。友達や親、学校や塾の先生、あるいは、教会の大人の人たちなど。そして、何よりも、神様と相談してこれからのことを考えてほしいということです。御言葉に聞くこと、祈ることの中で、自分の将来の道を尋ね求め、神様にお委ねしてほしいということです。受験の年になると、受験のことで頭がいっぱいになります。日曜日も他の試験などで礼拝に来られなくなることもあるでしょう。しかし、忙しいからこそ、神様のために、礼拝のために時間を取り分けてほしいのです。お祈りをすると、「この学校に行けば成功する」という声が急に天から聞こえてきたり、まして神様が合格を必ず保証してくれるわけではありません。しかし、私どもの生き方を根底から支え、どのような時も喜びに導こうとなさる神様の恵みの中で、受験や進路といった大切な時を過ごすことができます。神様と相談しながら、お委ねしながら生きていくということの大切さを受験の中でも学びます。このこともすべての人に言えることですし、そのように歩みながら、私どもは神様とますます親しくなっていくのです。
今朝は、コリントの信徒への手紙二第3章の御言葉を共に聞きました。使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙です。1節、2節を見ますと、興味深いことに、「推薦」とか「推薦状」という言葉がいくつか出てきます。受験においても、場合によっては学校からの推薦状が必要な場合があるでしょう。1節には「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」とありました。つまり、「自己推薦」ということです。自分で自分を推薦する。「私はこういう人間です。今までこのように生きてきました。このような立派な成績を残し、表彰されてきました。」そのように、自分の良いところや特技を相手にアピールする受験もあるようです。誰からから推薦してもらったり、自分で自分を推薦するのは、相手に信頼してもらうためでもあるでしょう。この人は立派な人間だと私たちが保証しますから、どうかこの人を受け入れてくださいというふうに。
今朝の聖書箇所で言われている推薦状というのは、いわゆる受験の際の推薦状ではありませんけれども、重なる部分も少しあるのです。推薦状というのは、この場合、「紹介状」と言い換えることもできるでしょう。当時、パウロだけではなく、多くの伝道者たちがいました。しかし、彼らに混じって、偽りの教えを説く偽教師もいたのです。両者の違いを明確にするためには、派遣する側の教会が、「私たちが派遣するこの先生は正しい福音を説く人です。私たちが保証しますから、安心して、この先生が語る福音に耳を傾けてください。」そのような「推薦状」を書きました。伝道者は教会からの推薦状を携えて、各地を巡回し、福音を宣べ伝えました。行った先々での教会でもまた推薦状をもらって、新しい場所で伝道を続けたのです。
伝道するという時に大事なことの一つは、伝道者と教会員の信頼関係です。信頼がないと、いくら伝道者・牧師が素晴らしい聖書のメッセージを聞いても人々は聞いてくれません。そして、御言葉が真実に聞かれないところでは、教会は決して立ちません。ですから、伝道者が推薦状を携えていたのは、伝道者と会衆の関係がスムーズにいくために、信頼して御言葉を聞くことができるようにというためでもあります。そのようにして、神様の御栄えがあらわされるように与えられたものでした。この点を理解いたしませんと、ただ自分の力を誇っているだけ、ただ自慢するために推薦状を持っていたり、自己推薦をしているだけということになります。
ただパウロをはじめ、パウロと一緒に伝道した仲間たちは、推薦状を持っていませんでした。ですから、コリントの教会の一部の人から、「本当にパウロは使徒なのか?」と疑われたのです。パウロ以外の「使徒」と呼ばれる人の多くは十二弟子と呼ばれる人たちで、何よりも、地上におられた頃の主イエスと出会っていたのです。主イエスのお姿を見、そのお方の言葉を聞き、共に歩んできたのです。けれども、パウロは違いました。復活の主と初めてお会いしたのは、主が天に昇られた後のことでした。それに、もっと大きな問題は、パウロがかつてキリスト教会を激しく迫害する側の人間であったということです。そのような人間に、キリストを宣べ伝える資格などあるのだろうか。あるはずなどない。教会の推薦状も持っていないではないか。だから、パウロは自分で自分を推薦し始めている。何か偉そうなこと、最もらしいことを言っている。パウロは偽者の伝道者だと言って批判したのです。
もちろんパウロはそのような人々に反発します。例えば、第3章のすぐ前の第2章17節ではこうありました。「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」「神の言葉を売り物に」する人というのは、偽の福音を説く人であったり、福音を語りながらも、結局は奇跡など自分の力を売り物にしているたちのことです。そういう人たちが実際にいたようですが、パウロは「いや、私は決してそのような者ではないと否定します。」それは、自分の名誉やプライドが傷つけられたからというのではないのです。伝道者としてパウロはこういったこと以外に、多くの苦しみを経験した人です。でも大切なのは、繰り返しになりますが、神の教会がそこに立つということです。「お前は偽者の使徒だ」などと言われたら、御言葉が聞かれませんから、教会は立たないのです。パウロのキャラクターや能力で人々がたくさん集まってくるかもしれません。彼は元々ユダヤ教のエリートでしたらから、人間としてもとても興味深い人物であったことでしょう。しかし、教会が立つというのは、人の力によるのでもないのです。ただ神の力によるのです。ただ御言葉によって立つのです。そうであるならばら、御言葉が正しく語られ、聞かれ、それに従う群れが、どうしても与えられなければいけませんでした。
ですから、推薦状というのは、人間関係を築く上で、あった方が便利な面もあったかもしれませんが、教会を立てるという時に、誰かが書いた推薦状、自分を推薦した文書が決定的に大きな意味を持つわけではないということです。「自己推薦」というのも、下手をすると自分を誇るためのものでしかなくなります。自分で自分を褒めるのです。それが全部悪いわけではありません。しかし、自分の力や立派さに心が傾く時、神様が自分のことをどう思うかということについて関心が薄くなります。神様の律法、御言葉をこんなにもたくさん守ることができた。あなたたちには私のような生き方はできないだろう。こんなにも素晴らしい生き方ができるのは自分一人だけだ。私こそ、神に救われるに相応しい人間。それがかつてのパウロでした。しかし、自分の力に頼りながら、神の御心を見失っていました。主イエスにお会いし、福音に触れた時、目から鱗が落ちるような思いがしたというのです。そして、自分の愚かさ、罪に気づかされ、神のもとに立ち帰ったのです。
そのような救いの経験をしているパウロですから、「なぜ私たちに推薦状が必要なのだろうか。別に必要ない」と言うわけです。けれども、そのパウロが2節で面白いことを言いました。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」私たちの推薦状は、コリントの教会の人たち、あなたがたのことだ。あなたがたコリントの教会の存在そのものが、私たちの推薦状となっているというのです。どういうことでしょうか。コリントの教会というのは、使徒パウロの働きによって生まれた教会です。もちろん、真実に働かれたのは神様ですが、その神様の業に仕え、教会を建て上げたのです。パウロをとおしてキリストの福音が語られ、その御言葉を聞いた人々は悔い改め、神様のもとに立ち帰りました。そして、洗礼を受け、教会に生きる者となったのです。今も、事実、彼らは福音の喜びの中に生きているのです。もしパウロたちが、偽の使徒であり、偽の福音を教えていたら、コリントの教会は存在していません。今、ここに教会があり、キリストのものとされているあなたがたがここにいるということは、パウロたちが本物の使徒であり、その働きが真実であったというしるしではないか。だから、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と言うのです。そして、私たちがコリント以外の町の教会を訪ねる時も、あなたがた自身が私たちの推薦状となり、私たちの働きが確かなものであるということを保証してくれているというのです。
そして、2節の「推薦状」という言葉は、「手紙」と言い換えることができます。「推薦する手紙」ということです。3節では、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙」というふうにも言っています。コリントの教会そのものが手紙である。キリストがパウロたちを用いてお書きになった手紙だというのです。興味深い言葉です。私は誰であるか?教会とは何であるか?聖書の言葉から様々な言い方をすることができるかと思います。ここで教えられることは、私たち教会は、「キリストの手紙」であるということです。でも「教会が手紙」「私が手紙」であるというのはどういうことでしょうか。あるいは、ここで言われている「手紙」はいったいどこにあるというのでしょうか。
もう一度、2節、3節をお読みします。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」私どもは「キリストの手紙」です。その手紙は、神の霊によって、私どもの心に書きつけられているというのです。「キリストの手紙」という場合、それは何を意味するのかと言うと、一つは、キリストご自身がお書きになった手紙であるということです。もう一つは、キリストが語られたこと、つまり、救いに導く福音のメッセージそのものであるということです。また、「生ける神の霊によって、書きつけられた手紙」とありましたように、手紙を書いた主体は神であり、キリストです。キリストはどのような思いで、私どもの心に手紙を書き記してくださったのでしょう。役所などから一斉に届くお知らせではありません。一方的に送りつけられてくる商品のチラシでもないのです。主イエスは、私たち一人一人の魂を見つめながら、心からの愛を込めて手紙を書いてくださったに違いありません。
3節に「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に」という言葉がありました。これは旧約聖書エゼキエル書とエレミヤ書の御言葉に基づいています。「生ける神の霊によって」というのはエゼキエル書第36章26節の御言葉です。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」これは救いの宣言、約束の言葉です。罪から救われるというのは、神様から与えられた新しい心、新しい霊によって、もう一度御言葉に生きる者へと回復することです。神の言葉を受け入れようとしない石のような堅い心ではなく、肉のように柔らかな心を与えると神様は約束してくださいました。また、「人の心の板に」というのは、先に読んでいただきましたエレミヤ書第31章33節の御言葉です。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エゼキエルの言葉にもありましたように、かつて私どもの心は石のような堅い心で、私どもを救おうとなさる神様の愛を受け入れようとはしませんでした。神の救いの恵みを経験しながら、すぐにそれを忘れ、人間の心に生きようとしました。
第二コリント3章3節に「石の板」とありましたが、これは十戒のこと、旧約の律法のことを意味します。また、6節の言葉で言えば、「文字」ということです。「新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格」「文字は殺しますが、霊は生かします」。決して、十戒を含む旧約聖書が古いからダメだというのではありません。ただ罪によって、本来いのちに導くはずの恵みの言葉が重荷でしかなくなってしまったということです。だから、「新しい契約」を結んで、今度は石ではなく、あなたがたの心に直接書き記す。新しい心、新しい霊を与えるというのです。どれだけ私どもが罪深くても、神は私どもを愛し、救おうとされるのだということを忘れることことがないようにするためです。そのために、神様は御子イエス・キリストを遣わすという御自身の救いのご計画を明らかにしてくださいました。
新約聖書では「27」の書物の内、「21」が手紙です。2千年前、まだ新約聖書が完成していない時代、手紙という手段を用いて、福音が人々に届けられていきました。その手紙が礼拝の中で神の言葉として聞かれました。また、手紙という形をとっていなくても、聖書全体が神の愛の手紙です。そして、私たちの内にもキリストの言葉、キリストの福音が書き記されました。そのような一人一人であることをもう一度心に留めようと、パウロはコリントの教会の人々に呼びかけています。ここにいる私ども一人一人も、神の愛によって「キリストの手紙」とされている幸いを思い起こし、キリストの手紙として果たすべき使命が何であるかということに心を向けます。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」私どもがキリストの手紙とされているのは、私一人のためだけではありません。教会のためだけもないのです。「公にされる」という使命、つまり、キリストによって遣わされる使命が与えられています。
パウロをはじめ伝道者というのは、キリストが手紙を書くための筆記具、あるいは書記として用いられました。彼らはそのことを心から喜びとしています。詳しくお話する時間はありませんが、7節以下を見ますと、何度も「栄光」という言葉があることに気づかされます。自分の働きに喜びを覚え、「栄光」と言えるほどに大きな価値あることを見出しています。また、かつて旧約聖書を熱心に読みながらも、イエス・キリストの存在に気づかなかった自分が、今や、キリストに見出されたという喜びが7節以下に表れています。自分の働きについて「栄光に満ちあふれている」と言うことができたのは、自分の力ではなく、ただキリストによって使徒として召され、伝道の働きに仕えることができているということに感謝していたからです。4節で、「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。」とあります。「キリストによって」ということに強調が置かれています。5節「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」ここでは資格ということが言われていますが、これもパウロ自身の力によって、使徒の資格を得たというのではありません。神から与えられたものです。独りで何かができるというのは、一般的には立派なことだと評価されるでしょう。でも信仰の歩みにおいて、救われることはもちろんのこと、教会のために仕え働くということにおいても、遣わされた場所で働くといことにおいても、自分一人でできるなどというふうに思い上がってはいけないのです。あるいは、一人ではなく、何人かと協力すればいいという話でもないのです。何人集まろうが、「神によって」「キリストによって」という思いがいつもないと、福音に生きる生活から遠く離れたものになってしまうのです。
「資格」というのもまた私どもが生きる世界では、本人の力、努力というものが求められます。例えば、伝道者・牧師になるためにも、神学校の入学試験があり、説教免許試験や教師試験があります。けれども、キリストによって、神によってというのは、先に自分を神様が召していてくださるということを確信しているからこそ、テストや試練にも立ち向かおう、努力しようという思いが与えられるのだと思います。自分がテスト用紙に正しい解答を書くよりも遥か先に、キリストが愛の手紙を私の心に記してくださった。私がキリストの手紙、推薦状とされている。キリストが十字架のゆえに、私の罪を赦し、神の前に立つに相応しい者として推薦してくださっている。いったい何のためか。公にされるためです。多くの人々に、私をとおして、教会をとおしてキリストの愛が公に宣べ伝えられるためです。そのために私は召されたのだというのです。このことは伝道者の働きだけを意味しません。教会全体がキリストの手紙とされているのですから、教会に連なる一人一人も遣わされた家庭や学校、職場、それぞれの生活の場で、キリストによって生きるのです。
それこそ私どもは様々な資格を持っていることと思いますが、神様が私どもに与えてくださった資格について、6節では「新しい契約に仕える資格」と言っています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」ここでの「新しい契約」という言葉もエレミヤ書第31章に記されていた御言葉です。そして、聖書における「契約」の特徴は、お互い同じ条件ではないということです。神様のほうから、一方的に、恵みとして与えられるものです。私どもの力では、神様の掟を守ることができないからです。
主イエス・キリストは、十字架にかけられる前の夜、弟子たちと一緒に食卓を囲みました。最後の晩餐と呼ばれます。聖餐式の原点がここにあります。その時、主イエスは弟子たちにおっしゃいました。「この杯は罪の赦しを得させるように多くの人のために流されるわたしの血で立てられた新しい契約である。皆、この杯から飲め。」キリストが十字架で流してくださった血潮によって、私どもの罪は清められ、新しい心、新しい霊が与えられたのです。「契約」と訳されていますギリシア語は、一般的には、「遺言」と訳されることが多い言葉です。主イエスは今も生きておられますが、十字架を前にした時、「どうしてもこれだけは聞いてほしい」と心を込め、愛を込め、いのちを注ぎ出すようにして、私どもをキリストの手紙としてくださり、人々を救いに導くための新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。
だから、私どもは自分の人生を、信仰の歩みを決しておろそかにはできないのです。私どももまた、キリストの名による「愛の手紙」を書き続けるのです。礼拝も伝道も人々の交わりも、手紙という形ではないかもしれませんが、言葉が用いられます。そこで言葉を伝えることの難しさ、自分が持っている言葉の貧しさも思い知ります。しかし、私どもはキリストによって、神の生ける霊によって記された手紙であるからこそ、必ず聖霊が語るべき言葉を与えてくださると信じることができます。新しい契約に仕えることは、霊に仕えることだというふうにもパウロは言っていました。祈りつつ、御霊の働きに委ねながら、与えられる言葉、語るべき言葉を待ちます。愛の言葉を磨く修練を重ねます。私たちを用いて、キリストがあの人の心にも、この人の心にも愛の手紙を記してくださることを願いながら、神様が委ねてくださった働きを喜んで共に担いたいと願います。お祈りをいたします。
自分の力がどれほどのものなのか。様々な場面で問われることがあります。その度に、喜んだり落ち込んだりする私どもです。自分で自分を正しく見ることさえもできなくなってしまうことがありますが、神よ、あなたいつも私どもを愛のまなざしで見つめていてくださいます。キリストの手紙とされ、こんな自分であったとしてもキリストが私を推薦し、神様の前に立たせてくださっていますことを心から感謝いたします。祈りつつ、御霊の働きにお委ねいたします。私たち教会をキリストの手紙として、この地に遣わしてください。与えられた働きをまっとうする力をもお与えください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。