2020年08月16日「喜びと祈りと感謝」
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喜びと祈りと感謝
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テサロニケの信徒への手紙一 5章12節~22節
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聖書の言葉
12 兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者と して導き戒めている人々を重んじ、13 また、そのように働いてくれるのですから、愛をも って心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。14 兄弟たち、あなたがたに勧めま す。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たち を助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。15 だれも、悪をもって悪に報 いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも 善を行うよう努めなさい。16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなこ とにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでお られることです。19“霊”の火を消してはいけません。20 預言を軽んじてはいけません。 21 すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22 あらゆる悪いものから遠ざかりな さい。テサロニケの信徒への手紙一 5章12節~22節
メッセージ
8月も半ばを迎えました。夏の時期は、子どもにとっても、大人にとっても様々な思い 出や楽しみが詰まっていることでありましょう。教会もキャンプや修養会など、たくさん の集会があります。また、今、牧師になるための備えをしている神学生たちは夏期伝道の 真っ只中です。私も神学校の2年目と3年目の夏に、夏期伝道に遣わされました。最後の 3年目に遣わされた教会は、和歌山県にある和歌山伝道所でした。当時、無牧で10名に も満たない小さな群れでした。
おもな奉仕は、水曜日の祈祷会と日曜日の説教奉仕です。祈祷会には、未信者の方です が、教会の隣に住んでおられたご高齢の女性の方が出席してくださいました。その時に、 先程共に聞きました御言葉から勧めの言葉を語ったことがあります。「いつも喜んでいなさ い。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにお いて、神があなたがたに望んでおられることです。」奨励の後、御言葉を分かち合う時間を 少し設けまして、自由に語っていただくのですが、その時、その女性の方が、「『いつも喜 んでいなさい...』とてもいい言葉ですね。」と嬉しそうに語ってくださいました。よく聞く と、以前、和歌山伝道所におられた牧師からこの御言葉が記されたカレンダーを貰って、 家に飾っておられたそうです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これはど こか不思議な魅力を持つ聖書の言葉だと思います。だから、未信者の方の心をも魅了する のでしょう。そして、キリスト者の方も、この御言葉を自分の愛唱聖句として、いつも心 に刻んでおられる方は多いのです。私自身も愛している御言葉の一つです。幼い頃から教 会に育った人間として、信仰告白し、クリスチャンになったところで、自分がどう変わる のかが正直分からなかったところがありました。「よし信じよう!」と思って信仰告白をし たというより、もう既に信じていたことを神様と教会の前で確認したと言ったほうがよい かもしれません。だから、自分の中でこれから何か新しいことが起こるのか、どこかあま りピンときていませんでした。
信仰告白の準備をしていた丁度その夏に、中高生の修養会がありました。「喜んで生きる」 というテーマでした。講師の先生がこんなことをおっしゃってくださいました。「クリスチ ャンになると生きることが喜びになるよ!」クリスチャンになっても何か大きく変わるこ とがないと思い込んでいた私にとって、新鮮に心に響いたことを今でも覚えています。し かも、その喜びというのは、「普通は喜ぶことができないところで、なお喜ぶことができる 不思議な喜び」だとその講師の先生は続けておっしゃいました。当時、自分の人生に思い 詰めていたわけでも何でもないのですが、これからは喜んで生きることができるのだとい うことを知り、嬉しく思ったのです。それからの数十年の間、どれだけ自分がいつも喜ん で生きることができたのか。心許ない部分もありますが、しかし、絶えず「喜び」という ことが心に引っ掛かっていたのは紛れもない事実です。だから、喜べない時、苦しい時、 「喜びって何なのだろうか?」と、神様に問わずにはおれなかったのです。それが自分で も気付かないうちに、神への祈りの言葉になっていたのかもしれません。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、 キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この御言葉は、 多くのキリスト者に愛されている御言葉です。でも、いわゆる「処世訓」というものでは ありません。確かに、美しく、力強い響きを持っている言葉でしょう。しかし、御言葉に じっくりと耳を傾けるならば、ここで言われていることは、ずいぶんと厳しいことである ということに気付かされるのではないでしょうか。明らかに嬉しいと思えるような出来事を経験すれば、喜ぶことができるのは当然です。そして、このような喜びを与えてくださ った神様に感謝し、賛美をささげることでしょう。でも反対に、試練に遭った時、悲しみ を経験した時、果たして喜ぶことができるのでしょうか。喜べる時は喜ぶことができるし、 悲しい時は喜べない。そのように、喜びと悲しみを当たり前のように区別しています。「い つも喜んでいなさい」という言葉ではなく、「苦難の時にはわたしを呼びなさい」という祈 りへの招きの言葉であるならば、ある程度受け入れることができるでしょう。でも、「いつ も喜んでいなさい」という言葉は、下手をすると私どもを苦しめる言葉になってしまいま す。そもそも、「喜んでいなさい」というのは、文法で言えば命令形です。喜びというのは、 誰かに命令されて、生まれるものなのでしょうか。喜んでいる振りをすることはできるか もしれません。しかし、心から喜ぶことできなければ、虚しいだけです。でも、私どもは どこかで、いつも喜んでいられたらいいのにと思うのです。どうせ叶わないことかもしれ ないけれども、いつも喜んでいることができたら、いい人生を送ることができるのにと、 どこかでそう思っているのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」そう語っ たのは、使徒パウロでした。パウロ自身もまた、いつも喜びということを心に留めながら 伝道者としての歩みを重ねました。このテサロニケの信徒への手紙は、パウロが伝道を始 めた最初期に記された手紙だと言われています。そのパウロが、晩年になって、フィリピ の町にある教会に宛てた手紙があります。パウロが書いた手紙でもあり、遺書でもあると 言われています。そのフィリピの信徒への手紙第4章4節以下(〜6節)に次のような御 言葉があります。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがた の広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなこと でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めて いるものを神に打ち明けなさい。」ここでもパウロは繰り返します。「主において常に喜び なさい。重ねて言います。喜びなさい。」しかも、この時パウロは、世の権力者によって捕 らえられ、牢屋の中に閉じ込められていました。次、牢から出る時は、自分が殺される時 だといつも覚悟していたのです。新約聖書を読みますと、パウロという人が、伝道者とし てどれだけ苦労したかがよく分かります。キリスト者以外の人たちから迫害を受けただけ でなく、教会の中にある様々な問題に正面から向き合い、その度に、教会の人たちから衝 突するということが幾度もありました。また、パウロ自身、病を患い、苦しんでいたこと も記されています。決して、順風満帆とは言えないパウロの生涯ですが、彼の歩みの中に いつも響いていたのは、喜びという音色でした。
しかも、自分が生み出した喜び、自分の力で手に入れた喜びではなく、イエス・キリス トが与えてくださる喜びが彼の人生を貫いていたのです。ですから、本日はお読みしませ んでしたが、第5章10節には、次のような御言葉が記されています。「主は、わたしたち のために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共 に生きるようになるためです。」「目覚めていても眠っていても」というのは、朝に目を覚 まして、夜になったら眠りに就くということではありません。目覚めていても眠っていて もというのは、「生きている時も死ぬ時も」という意味です。「死」というのは、喜びと対極にあるものと考えられます。自分が死のうとしている時、死んだ時、あるいは、愛する 者が死のうとする時、死んだ時に、私どもは喜ぶことができるでしょうか。そんなことし たら、不謹慎の極みでしょう。しかし、パウロは死を前にした時も、死んだ時も、なお喜 び得るということを信じていました。主イエスが私たちのために死んでくださったからで す。甦ってくださったからです。復活の主に結ばれて生きる時、私どもは死んでも、神と 共に生きるのです。
パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」 と語った後、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる ことです。」と言いました。なぜ、私どもがいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感 謝しないといけないのでしょうか。その理由は、神様が望んでおられるからです。神様の 御意志だからです。そして、神様が心からそのように望んでおられるということは、私ど もがどのような状況に置かれたとしても、必ず喜びを見出すことができるという約束を与 えていてくださるということでもあります。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神 があなたがたに望んでおられることです。」とパウロは言いました。「キリスト・イエス において」というのは、直訳すると、「キリスト・イエスの中で」ということです。自分 の中に喜びを見出そうとするのではありません。すべてが上手く行っていると思える時は、 自分の中にある喜び、自分の中にある素晴らしさをたくさん見つけることができるでしょ う。しかし、苦難の中にある時、死を前にした時、自分の中に、自分を誇るものを見出す ことはできません。例えば、死を前にした時に、自分の中を覗き込んだところで、自分を 支える喜びも力も見出すことはできないでしょう。少しは支えになるかもしれませんが、 死の力を前にした時、自分の中にあるもので太刀打ちすることはできません。しかし、キ リストを見つめ、キリストの中にある喜びを見出すならば、たとえ、地上の生涯を終えよ うとする時も、主の喜びに支えられ、永遠のいのちの希望に最期まで生きることができる でしょう。神様がキリストをとおして与えてくださる喜びは、どのような悲しみや苦しみ の中にあっても、確かに届けられていくのです。私どもが喜びに生きることのができるそ の根拠はただキリストの中にあるのです。
神様の御意志として、最初に「いつも喜んでいなさい」という言葉が挙げられていまし た。その後に続いて、「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」とありました。 2番目に、つまり、3つの内、真ん中にあるのが、「絶えず祈る」ということです。私ども が、いつも喜び、どんなことにも感謝して生きていくために、その要、中心となるものが、 「祈り」です。福音書には、熱心に祈っておられる主イエスのお姿とともに、絶えず祈る ように勧めておられる主イエスのお姿をも見出すことができます。誘惑に陥らないように、 目を覚まして祈るように勧められました。祈りにおいて、目を覚まし、見るべきものを見 つめます。もし、祈りをやめてしまい、眠りこけてしまうならば、サタンの虜となり、神 様の恵みを見ることができなくなります。祈りにおいて、私どもは信仰の戦いを続けます。 試練の中にある時、迫害の中にある時、深い悲しみの中に放り込まれる時、なおそこで目 を覚まし、祈り続けるのです。そうすると見えてくるものがあるというのです。
先程、「いつも喜んでいなさい」と命じておられるということは、神様がどんな時も喜び を与えるという約束をしていてくださることだ、と申しました。「どんなことにも感謝しな さい」というのも、それと重なる面があります。つまり、神様はどのような状況の中にも 感謝することができる何かを必ず備えていてくださるということです。その感謝が何であ るのか。その喜びが何であるのか。すぐにそれが分かれば、問題ないのですが、時に中々 見出すことができずに、困ってしまうことがあります。でも、神様は不思議なお方で、私 どもに与えたいと願っておられる喜びを土の中に隠しておられることがあるのです。すぐ に明らかにされない時があるのです。私どもが日々、ささげる祈りは土の中にある神の喜 びを掘り起こす作業のようなものです。
私どもの人生には様々なことが次々と起こってきます。自分の弱さを思い知らされ、大 きな挫折を経験することもあります。理由がまったく分からない苦難に襲われることもあ るでしょう。一般的に、人はそういう中で、何とか自分の弱点を克服したいと懸命になる のではないでしょうか。競争社会の中にあって、弱さは弱さでしかなく、苦しみも苦しみ でしかありません。だから、それらを克服し、何が何でも喜びを見出すことができる強い 人間になりたいと願い、そのことにエネルギーを注ぎます。聖書が語るように、「いつも喜 んでいる」とか「どんなことにも感謝する」生き方というのは、そういう人たちから見れ ば、愚かに思われるのかもしれません。自分の弱さを誤魔化しているだけだとか、本当の 自分を生きようとしていないことだと言って、批判されることでしょう。しかし、聖書が 伝えるメッセージは、キリスト・イエスの中で、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことに も感謝する生き方こそ、幸いな生き方であり、どんなものにも打ち勝つことができる強い 生き方だと言います。決して、喜んでいる振りをしたり、強がっているのではないのです。 心からいつも喜び、祈り、そして感謝する生活が、キリストにおいて、いつも備えられて いるのです。
キリスト者でもあり、日本で最初にホスピスを始められた柏木哲夫という先生は、ある 本の中で次のようなことを記していました。周りの人に惜しまれながら、それでも「あり がとう」と周りの人に感謝しながら亡くなって言った患者さんのことを紹介しながら、最 後にこう言うのです。「周りに不平ばっかり言って生きてきた人は、不平ばっかり言って亡 くなります。人は生きてきたように死んでいくのです。だから、良き死を死すために、良 い生を生きなければならないと思うのです。」「『良い生』を生きる」。このことを心から望 んでおられるのは神様です。「このように生きてほしい」と願っておられる神様は、ただ願 うだけではなく、御子イエス・キリストを与えてくださったお方です。愛を込めて、私ど もに「良い生」を与え、最後まで導いてくださるのです。私どもは喜びの時も悲しみの時 も、神に心を向けて祈りをささげます。祈りの中で、神様が備えてくださる喜びや感謝を 見出すのです。また、祈りというのは、「訓練」という側面があります。だから、1回では なく、「絶えず」祈るのです。神に祈ることが、自分の生き方と一つになるほどに、祈る訓 練を重ねる中で、感謝できることが示されていくのです。
さて、次の19節では、「“霊”の火を消してはいけません。」と勧めています。「霊」というのは「聖霊」のことです。そして、聖霊はしばしば、「火」に譬えられてきました。火 に近づくと熱さを感じるように、聖霊の炎が私どもの心を熱くします。私どもが喜ぶとい う時、また感謝するという時、心が凪のようにどんよりとしているということはまずない でしょう。カッカと炎が燃え上がるように、私どもの心は踊るのではないでしょうか。も ちろん、一人静かに心の内に燃える喜びを味わうということもあるでしょう。しかし、い ずれにせよ、私どもに与えられた聖霊の火が燃え続けているということ。その中で、私ど もは神様に対して心を真っ直ぐに向けることができ、そこでキリストにある喜びを見出す ことができるのです。また、この聖霊の働きと深く結びつくこととして、次の20節に、 「預言を軽んじてはいけません。」と記されています。「預言」というのは、「御言葉」のこ とであり、今で言う礼拝における「説教」のことでもあります。牧師、説教者をとおして 語られる御言葉において、聖霊が豊かに働いてくださいます。聖霊によって心開かれ、御 言葉をとおして、主イエスのお姿が鮮やかに示される時、私どもはそこに生きる喜びを見 出すことができるのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、 キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この御言葉は、 多くのキリスト者の愛唱聖句となっています。それは、この御言葉を愛する人たちが、単 に「いい言葉だな」「こういうふうに生きることができたらいいな」と言っているのではな いと思います。実際に、この御言葉によって、慰め励まされてきた経験があるから、愛す べき御言葉となったのではないでしょうか。それは、喜びに生きることができなくなり、 祈ることも、感謝することもできなくなる経験をしたのでしょう。しかし、そこで神様が 私どものことを忘れることなく、喜びと感謝を備えていてくださいました。祈ることがで きるように、御霊を与えてくださり、御言葉を繰り返し語り続けてくださったのです。そ の神様の恵みの中で、もう一度立ち直る経験をしたのだと思います。自分自身はいつも神 様の恵みに気付くことができるとは限りません。でも、私どもが気付いていようが、気付 いてなかろうが、神様は日々、恵みを注いでいてくださいます。聖霊の火を灯し続けてく ださるのです。
そして、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する生き方は、自分一人で生き る生き方ではないということです。もちろん、個人の愛唱聖句にしていただいても何の問 題もないのですが、この手紙を書いたパウロは、もう少し広い視野をもってこの手紙、こ の御言葉を記しています。それは、「教会」という視点です。「教会」という言葉は今日の 箇所に出てきませんが、代わりに、「兄弟たち」という言葉が、12節、14節に。その後 の25節以下にも繰り返し記されています。パウロは、一人の人だけが、いつも喜んでい ればそれでいいというふうには、まったく思っていません。願っていることは、兄弟たち、 つまり、教会全体がいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する、そのような群れ として成長していってほしいということです。そして、自分一人のためではなく、教会の 兄弟姉妹たちを配慮するために、あなたがた一人一人が、喜びと祈りと感謝に生きてほし いと言うのです。
14節を見ますと「怠けている者たち」がいます。「怠ける」というのは、軍隊用語です。 隊列から外れてしまい、足並みを揃えて歩むことができなくなった者たちです。具体的に 言うと、主イエスがもう一度来てくださるという再臨の教えを誤って理解してしまった人 たちです。イエス様が来てくださるのだから、真面目に仕事をすることをやめてしまった のです。また、「気落ちしている者たち」がいます。「弱い者たち」がいます。大きな出来 事を前にして、気落ちし、自分に与えられている信仰に自信を持てない者たちがいます。 そのような者を励まし、助けるように勧めるのです。一対一による信仰の対話の中で、慰 め励まされる経験もするでしょう。それと同時に、教会の兄弟姉妹が神様の御前に一同に 集い、礼拝をささげる中で、私どもは喜び、祈り、感謝をささげます。御言葉と礼典をと おして働く聖霊が、私どもの心を燃え立たせてくださいます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、 キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この御言葉に、 この私もまた生きることができる。その幸いを教会の仲間と共に歩みを重ねる中で、味わ っていきたいと願います。またキリスト・イエスにおいて、神が望んでおられる生き方は、 まだ神を知らない者たちにとっても、たいへん魅力ある生き方です。この世にはない、神 様だけが与えてくださる生き方です。御国の前進のために、喜んで神と教会に仕えていき たいのです。お祈りをいたします。
神様、いつも御言葉の糧を与えてくださり感謝いたします。神様がどのような時も、喜 ぶべきこと、感謝すべきことを備えていてくださいます。御霊を与えてください。祈りに おけるあなたとの交わりの中で、神様の恵みを見出し、ますますあなたを賛美することが できますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。