2023年01月22日「すべては神のもの」
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すべては神のもの
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歴代誌上 29章1節~20節
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聖書の言葉
1ダビデ王は全会衆を前にして言った。「わが子ソロモンを神はただ一人お選びになったが、まだ若くて力弱く、この工事は大きい。この宮は人のためではなく神なる主のためのものだからである。2わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、鉄のために鉄を、木材のために木材を、縞めのうの石、象眼用の飾り石、淡い色の石、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を調えた。3更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。4建物の壁を覆うためにオフィル産の金を三千キカル、精錬された銀を七千キカル寄贈する。5金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、職人の手によるすべての作業に用いられる。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」6すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、7神殿に奉仕するために金五千キカル一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。8宝石を持つ者は、それをゲルション一族のエヒエルの手に託して主の神殿の宝物庫に寄贈した。9民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。10ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。11偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。12富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。13わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。14このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。15わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。16わたしたちの神、主よ、わたしたちがあなたの聖なる御名のために神殿を築こうとして準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてはあなたのものです。17わたしの神よ、わたしはあなたが人の心を調べ、正しいものを喜ばれることを知っています。わたしは正しい心をもってこのすべてのものを寄進いたしました。また今、ここにいるあなたの民が寄進するのを、わたしは喜びながら見ました。18わたしたちの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、これをあなたの民の心の思い計ることとしてとこしえに御心に留め、民の心を確かにあなたに向かうものとしてください。19わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと定めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください。」20こうしてダビデが全会衆に、「あなたたちの神、主をほめたたえよ」と言うと、会衆は皆、先祖の神、主をほめたたえ、主の御前と王の前にひざまずいて拝した。歴代誌上 29章1節~20節
メッセージ
先週、「生きることは、実に具体的なことである」ということを申しました。心や魂のあり方はもちろんのこと、肉体・体をもって、なすべき働きをなしていくということも、同じように大切なことです。決して体をもって生きること、地上的な働きに参与することはいけないことでも、汚れたことでもありません。むしろ尊いことです。私どもの救い主であられるイエス・キリストが、肉となり、私どもが耳で聞くことができ、目で見ることができ、触れることができるお方として来てくださいました。その主イエスを中心とした教会の交わりや働きもまた五感で確認できるほどに具体的なもの、確かなものです。終わりの日に招かれる天の教会に比べ、地上の教会は問題だらけだから、教会生活など真面目にしなくてもいいと考えることは明らかにおかしなことです。色んな弱さがあり、お互いの罪さえも明らかにされるような場所でありながら、そこで神様の御栄えを表すためにここに召されているということを、もう一度覚えたいと思います。
次週、午後から今年度の定期会員総会が行われます。本日、年報が配布されました。教会生活が長い方はもう見慣れているかと思いますが、ここに記されていることもまた実に具体的なことばかりであるということです。総会の中で何をするかということから始まり、昨年度の出来事であったり、またどんな集会が行われて、何人集まったということが丁寧に記されます。各会・各委員会の報告もあります。会計のことにも多くのページを割いています。そこに記されていることは、適当なことではなくて、本当の事実が書かれています。ただ信仰者というのは、こういった出来事や礼拝出席や会計の数字ばかり見ていると、どこかつまらないと思ってしまうかもしれません。会社などの他の組織の会議資料と同じではないかと思ってしまうのです。そんなことよりも、聖書のメッセージや一年間教会員が受けた恵みを証しとしてたくさん載せてくれたほうが余程、信仰的だし、霊的にもいいことだと思いたくなるかもしれません。そちらのほうが、読んでいて楽しいということもあるでしょう。けれども、こういう年報一つを読むというところにも私どもの信仰が問われているのではないでしょうか。出来事や数字だけ見ていても、余程大きなことがない限り、さらっと流してしまうところがあるかもしれませんが、本当はそうであってはいけないと思うのです。事実だけ、本当のことだけを淡々と記した年報を読み解くことは、正直簡単なことではありません。しかし、そこで聖書を読むように、心動かされるほどまでに読み解いてほしいのです。また、そのために会員総会の中で報告することになっている方も、限られた時間の中で、どのような言葉を用いて昨年のことを報告したらよいのか。どのようにしたら、年報に記されてり内容を恵みの言葉、信仰の言葉として伝えることができるのかをよく吟味し考えていただきたいと思います。この点においても、私どもは問われていることです。
会員総会の中で、様々な議事が取り扱われますが、なかでも大切なこと、より慎重になって神様の前で共に考えたいと思っているのは「教会会計」のことです。要するに「お金」のことです。昨年の決算と共に予算案も記されています。決算に関しては当然ですけれども、1円単位まで記されているのです。教会でお金のことと言うと、どこか信仰的でないと思う人がいるかもしれません。それはどこかにお金は汚れたもの、人をダメにするものというイメージがあるからでしょう。お金は自分や家族の生活のためにも、地上の教会を建て上げていくためにも重要です。そのことは皆分かっていますが、お金がトラブルとなった事件というのがいつも多発しています。お金によって人生が狂い、家族が崩壊したという話もよく聞きます。確かにお金というのは、扱い方を間違えると人をダメにします。教会もダメになります。お金が神になるのです。偶像の神となって、私どもを惑わすのです。その恐ろしさについて、聖書もまた至るところで私どもに警告をしています。しかし、私どもはそこでお金が持つ恐ろしさに注意しつつも、お金や色んな財産を持つことが悪であるとか、罪であるというふうには考えません。むしろ、お金もまた神様が私どもに与えてくださった大切なものの一つとして信じ、受け入れています。だからこそ、会員総会の中で丁寧に扱いますし、毎月、月報の中でも報告がなされています。お金は地上的なものに属するから、信仰的に考える必要はないとか、単純に教会を運営するためにお金が必要だからということではないのです。
昨年度の決算については、既に先週発行された月報において報告がなされましたが、会員総会で決議した額を満たすことができませんでした。このことを私どもは信仰的にどう受け止めるのかということです。満たされなくても、何とか新しいと年を迎えることができたら、まあいいではないかということなのでしょうか。あるいは、神様がこれだけの額は必要ないと思われたから予算が満たされなかったのでしょうか。もしかしたらそうかもしれません。あるいは、献げて生きるということにおいて、私どもは十分ではなかったということなのでしょうか。そうであるならば、神様の前に立ち帰り、悔い改める必要があります。このようなことを教会としても、また自分自身のこととしても、ちゃんと神様の前で考えなければいけません。
毎年、会員総会の前週は献金について聖書から御言葉を聞いています。先ほど、旧約聖書・歴代誌上第29章の御言葉を共に聞きました。この箇所は、イスラエルの王・ダビデが神の都エルサレムの神殿建設を人々に呼びかける場面であり、さらに言えば、神殿建設のために必要な献げ物、献金を呼びかけている場面です。エルサレムの神殿建設に深く携わったのは、ダビデの息子ソロモン王でした。千里山教会の献堂式の時も、神殿の完成を神様に感謝するソロモンの祈りから御言葉に聞きました。ただ、神殿建設のために最初に献身をし、情熱を注いだのはダビデ王でした。エルサレム神殿は周りの国の人々も驚くほどに壮大な神殿でしたが、建設の目的は、王の功績を讃えるためのものではありません。神殿というのは、旧約の民にとって「幕屋」がそうであったように、神様の臨在を表す場所を意味しました。ここに神がおられる。それゆえに、人々は共に神殿に集い、神を礼拝しました。神殿、今日で言えば、教会堂ということになります。教会というのは、ここに集う私どものために、まだ神様のことを知らない人々を招き伝道するために建てられているものですが、その先にある最終的な目的は神様の栄光が現されるためであるということです。1節の言葉で言えば、「この宮は人のためではなく、神なる主のためのものだからである」ということです。神様の栄光のために、私ども一人一人とともに教会堂も豊かに用いられることを願って、私どもも新しい教会堂建替を決議し、そのために改めて献身が求められました。
「献身」というのは、身を献げる、自分を献げるということです。言い方を変えると、自分を犠牲にするということです。ですから、献身という言葉を聞いてあまりいいイメージを持たない方もおられるのではないでしょうか。キリスト者であるならば、献身という言葉が何を意味するのかということをよく知っていますが、一般的には肯定的に受け取られていないかもしれません。献金という言葉についても、例えば、政治の世界でも用いられますけれども、政治献金というものもまたどこかに闇が潜んでいるのではないかと、つい疑いの目で見てしまうものです。事実政治とお金のトラブルというのはよくニュースになります。また、昨年、旧統一教会のことが大きく取り上げられていましたけれども、そこでも献金のことが問題になりました。さらには、献金だけではなくて、献身というものが旧統一教会でも求められるようでして、それは明らかに悪い意味で報道されていました。キリスト教会の中だけで用いられる信仰や神学の言葉がある一方、キリスト教会で用いられている言葉が、私どもの生きる世界の中でも普通に用いられる場合があります。しかも、キリスト教会とは違った意味で用いられるのです。もしキリスト者でない家族から、「あなたはクリスチャンになって、熱心にキリスト教会に通っていて、献金もしているし、献身もしているのでしょ?あなた本当にそれで大丈夫なの?騙されていないの?」などと言われたら、どのように答えることができるでしょうか。「そんなはずない」と反論するのものいいですが、そこでこそ私どもはより丁寧に、献金の意義、献身の喜びというものを語る必要があると思いますし、語ることができる大切な機会であると思います。
もし献身することも、献金することも、キリストによって救われたという喜びというものがなければただの義務と言いましょうか、教会から強制されてしているに過ぎないということになります。もちろん、献金や献身、また信仰生活そのものと苦難の問題を切り離すことはできません。だから、献身というのは自分を犠牲にするという一面もあるのです。また、キリスト者として生きる中であらゆる苦しみや試練、悲しみや痛みを経験します。このようないわゆるマイナスと思えるような出来事を信仰的どう受け止め、どう乗り越えていくのかということも決して無視することができない重要なことなのです。
神様への「感謝と献身のしるし」としての献金は、子どもたちにもお話しましたが、そのまま礼拝となります。教会には色んな献金の形があって、対外献金などは礼拝の中でというよりも直接銀行の口座に振り込むということもいたしますが、そういうお金もまた会員総会の中で決議されたものであり、祈りと感謝をもって献げられるものです。献身ということを考える上で大切な御言葉をもう一箇所、歴代誌の前に朗読していただきました。ローマの信徒への手紙第12章の御言葉です。もう一度、1節だけお読みます。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」こと、これが献身と呼ばれるゆえんであり、そのことがそのまま、私どもがなすべき礼拝となります。しかも「自分の体」をありますように、心だけでなく、体をも伴った形で、礼拝をささげるということです。そこに教会における交わりも生まれるのです。だからコロナ禍の中で、体をもって共に集まるということがいつも問われたわけです。
このような献身の心を生み出すものは何かと申しますと、1節冒頭に「こういうわけで」と一言記されていることが非常に重要になります。「こういうわけで」というのは、この手紙を書いた伝道者パウロが1〜11章まで心を込めて記した内容のことです。要するに、私ども罪ある者が、どのようにして救われたのかということです。それは私どもが一所懸命善いことをしたとか、誰よりもたくさん献金をしたから、神様に認めていただいという話ではありません。そういう意味で言うなら、私どもは1円も神様に献金することができない存在であったということです。救われるために、神様の前に私どもは無一文であった。無一文どころか返済し切れない罪という借金を負っていたのです。
そのような私どもが救われたのは、自分の功績ではなく、ただイエス・キリストが私どもの罪を代わりに背負って死んでくださったからに他なりません。恵みによって救われた。無料で、タダで救われたということです。そのためにキリストが十字架でいのちを献げなければいけませんでした。私どものいのちの価値は、神の子イエス・キリストのいのちと同じ重さ、価値があることです。そのように神は私ども一人一人のことをご覧になっておられるということです。ですから、パウロは「こういうわけで」と言って、前置きをし、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と語ります。私どもの歩みにいつも先立ってあるのは、神の憐れみであり、神の愛です。先週も次のような御言葉を紹介しました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネ一4:10)私どもが神を愛し、自分を愛するように隣人を愛すること、また教会を愛し、教会に仕え、献げることもまた、先立って存在する神の愛によるものです。今朝、私どもがこうして礼拝に集うことができたのも、神様が私どもを選んでくださり、招いてくださったからです。主日礼拝が生活習慣となり、自分の意志で教会に行くことももちろん大事ですが、実は私どもの目に見えないところで、神様がキリストにおいて招いてくださっているのです。だから、今日もここに集うことができました。体をもって集うことができました。そうであるからこそ、様々な事情で共に集うことができない兄弟姉妹方のことを忘れてはいけないのです。
さて、神殿建設を呼びかけたダビデは、自らが王として、率先して神のために献身してきた姿を人々に示しています。2〜5節です。「わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、鉄のために鉄を、木材のために木材を、縞めのうの石、象眼用の飾り石、淡い色の石、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を調えた。更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する 建物の壁を覆うためにオフィル産の金を三千キカル、精錬された銀を七千キカル寄贈する。金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、職人の手によるすべての作業に用いられる。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」金、銀、銅、宝石といった高価なものばかりです。お金に換算したら計り知れない額、途方もない額だと言われます。そういうことも大事なのですが、3節に「神の神殿に対するあつい思いのゆえに」とあるように、ダビデは神殿建設のために献身の心を新たにしました。2〜5節を見ますと、「力を尽くして」「あらゆる種類」「すべてに」「すべての」というふうに強調された言葉がいくつもあることにも気づかされます。
そのようにダビデは人々に自分の信仰者としての姿を模範として示し、あなたがたも神の神殿のために献身してほしいと説得に努めています。5節後半に「今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」と人々に呼びかけています。「手を満たす」という言葉ですが、これは、元々神のために特別な働きをする祭司などが任職する際に、自らを聖別するということを意味する言葉でした。聖別というのは、献身するといってもいいでしょう。神様のために自分自身を用いていただくのです。繰り返し、申していることですが、私どもは自分自身のものではなく、神のものであり、キリストのものです。それが救われているということであり、私どもの喜びです。ダビデはここで、祭司に向けてではなく、人々に自ら進んで手を満たすように、自らを聖別し、献身するように求めています。
また、「自ら進んで」とありますように、献身は自発的になされるものであって、嫌々することではありません。まず神様からの呼びかけがあり、教会では牧師や長老から献身や献金のお願いがあります。「教会のこういう働きのために、皆さんにぜひこういう働き、こういう献金をしてほしい」と言うのです。ですから、献金には当然、今朝の御言葉のように呼びかけに対する応答という一面があるわけですが、それらの応答もまた自ら進んで、自発的に、喜んでなされるべきだということです。献金をささげることにまったく痛みが伴わないかというとそんなことはありません。献金をささげた分、当然、自分の生活は苦しくなります。だから、悩むのです。真剣に祈るのです。そういう意味で、献金というのは一種の信仰の戦いです。しかし、その上で喜んで、自ら進んで献げるのです。この「自ら進んで」という言葉はこの後も幾度も語られていきます。ダビデの呼びかけに応えた人々、特に、各グループの長たちは神殿建設のために献金をささげました。6節、9節を見ますと、ここにも「自ら進んで」という言葉が3度記されています。また、今日の御言葉の後半、14節、17節に「寄進する」とありますが、これは単に寄付するとか、献金するということではありません。この寄進するという言葉もまた、自ら進んで献げる、喜んで献げるという意味を持った言葉であるということです。そのように、私ども一人一人のことを喜びとしてくださる神が共におられ、その神の喜びに私ども一人一人もまた喜びをもって応答する。この喜びの交わりが神の神殿を、キリストの教会を形づくります。
献金の祈りの際に、よく「あなたから与えられた恵みの一部をお献げします」と祈ることがあります。それはそのとおりで、全財産を献げるためにここに来た人はいないでしょう。与えられているものの一部しか献げることができないのです。また、謙遜の意味で、「ほんの一部しかここに持ってくることができませんでした」という人もいるかもしれません。しかし、たとえ一部であったとしても、そこには大きな喜びが伴います。矛盾するようなことかもしれませんが、一部しかを献げることができなくても、私どもを救い出してくださった神様に力を尽くした、すべてを献げたと言い得ることができる、そのような信仰が与えられているということを、喜びをもってもう一度受け取りたいと思います。
10節以下は、小見出しに「ダビデの祈り」とあるように、ダビデの祈りの言葉です。祈りであり、賛美であり、信仰告白と言ってもいいでしょう。何を祈っていいか分からないということが信仰生活の中であるかもしれませんが、聖書に記されているこのようなダビデの祈りを、私どもの祈りとし、また献金の際の祈りとすることもできるしょう。そのように祈り、賛美することを神様は求めておられます。初めの10節で、「ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った」とあります。「たたえる」という言葉は、「祝福する」という意味の言葉です。ただ神様が人間を祝福するというのは分かるのですが、人間が神様を祝福するという言い方は普通しません。ですから、神を「たたえる」とか「賛美する」とか「感謝する」という言葉に言い換えているのです。礼拝というのは、神様からの祝福を受ける場であり、同時に、私どもが神を喜び、感謝する場でもあります。神様は私どもの喜びと感謝をここで受け取ってくださいます。
10〜13節までをお読みします。「ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。『わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。』」ダビデはこのように祈りつつ、神を祝福し、賛美と感謝を表しています。13節までの祈りは、祝福の祈りであり、神を讃える祈りです。「頌栄」というふうに言うこともできます。
主イエスが教えてくださった祈りに、「主の祈り」というものがあります。その最後に、「国とちからと栄えとは、限りなくなんじものなればなり」という祈りの言葉、頌栄の言葉がありますが、実は聖書本文にはありません。「国とちからと栄えとは、限りなくなんじものなればなり」という言葉は、のちの教会が付け加えた祈りだろうと言われています。主の祈りに生かされている恵みを覚える時に、最後にどうしても神を賛美せずにはおれなくなった。その信仰者たちの喜びが、主の祈りの最後に表されています。そして、主の祈りの頌栄の言葉の元になったのが、この歴代誌の御言葉であると言われています。この頌栄の心をギューと凝縮いたしますと、11節の真ん中にある「すべてのものはあなたのもの」というこの一言に尽きるのです。私どもが着ている物も、食べる物も、住む家も、お金も、教会も、私どもの存在そのもの、いのちそのものも、家族も、すべては神のものです。神様から与えられたもの、神様からあずかっているものです。それらのものを賢く管理し、用いることが求められています。
14節以下でダビデはこう祈ります。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」ダビデは言います。私は何者か?私どもは何者か?あなたの偉大さの前にあって取るに足りない者であり、小さな者…。多くを献げることができたとしても、それによって私の価値が上がるのではない。すべては神様、あなたのものですと言うのです。決して自分を卑下しているのではありません。神様からいただいた圧倒的な恵みを覚える時に、自らの小ささを覚える他ないのです。神様の恵みによって打ち砕かれ、本当に神様の前にへり下るということがここで起こっているのです。しかし、自らの小ささを覚えながら、神を喜び、自分を喜んでいます。神のものとされた信仰の仲間たちとの交わりを喜んでいます。
15節、16節でもこう祈ります。「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民にすぎず、移住者にすぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません。わたしたちの神、主よ、わたしたちがあなたの聖なる御名のために神殿を築こうとして準備したこの大量のものは、すべて御手によるもの、すべてはあなたのものです。」私どもが小さな者であるということはどういうことでしょう。もちろん、神の前に罪人であったということもそうでしょう。あるいは、ダビデ自身、自分の人生を振り返ります時に、元々彼は羊飼いの少年に過ぎなかったということです。人の目から見たならば、将来イスラエルの王に選ばれ、やがてはその子孫からまことの救い主イエス・キリストが生まれるなどとは誰も思っていなかったのです。しかし、そのダビデを神様は選んでくださいました。また、ダビデはここで自分はあなたの前にあって「寄留者」「移住者」と言っています。「この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」とさえ言うのです。「神よ!あなたが私に目を留めてくださらなければ、私の人生は虚しいのです。影に等しく、何の希望もありません。しかし、主よ、あなたはそのような私に目を注いでくだいました。私を救ってくださいました。私がどれだけ罪深く、限りある存在でであっても、『あなたはわたしのものだ』と告げてくださいました。神よ、感謝します。」ここにダビデの心からの祈りがあります。そして、このダビデの祈りは私どもに与えられている祈りでもあるのです。
また、神様の恵みの中で自らの小ささを覚えるということは、私がしている働きが小さく、虚しいことだということでは、決してありません。小さい私どもですが、自分がしている働きに喜びと誇りを持つことができようになりました。神様の前にあって永遠の価値を持つ生き方、働き、奉仕に私どもは召されているのです。その時にも、私どもが忘れてはいけないことがあります。「すべて御手によるもの、すべてはあなたのものである」ということです。
次に17節の御言葉に目を向けましょう。ここで気づかされることは、「心」ということです。「人の心」「正しい心」「民の心」「全き心」。私どもの信仰生活は、体を伴う生活とともに、当然その心のあり方が問われます。17節の「正しい心」というのは、「真っ直ぐな心」ということです。18節の「全き心」というのは「誠実な心」とか「心を尽くして」と言い換えることができます。私どもの根性や忍耐力のことではありません。とても単純なことです。いつも心が神に向いているかということです。取るに足りない者であることを覚えながらも、そこでイエス・キリストのゆえに喜んで歩むことができているか?主のゆえに、希望を持って歩もうとしているか?ということです。その思いをいつも大切にしなさい。そして精一杯生きなさいと神様は私どもをいつも励ましてくださいます。「わたしたちの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、これをあなたの民の心の思い計ることとしてとこしえに御心に留め、民の心を確かにあなたに向かうものとしてください。」これは私どもの切実な祈りなのです。この祈りを祈りつつ、日々の生活をなし、神と教会のために生きるならば何も言うことはないのです。
最後の20節で、「こうしてダビデが全会衆に、『あなたたちの神、主をほめたたえよ』と言うと、会衆は皆、先祖の神、主をほめたたえ、主の御前と王の前にひざまずいて拝した。」とありました。余計なことかもしれませんが、神様の前にひざまずくのは分かりますが、ダビデ王の前に民衆がひざまずくというのはどういうことだろう?と思うわけです。これは歴代誌の特徴でもありますが、著者はダビデ王の中に、全き心で神様の前に献身した理想的な王の姿をダビデの中に見ようとしています。その先にあるまことの王、まことの救い主を予期しているのです。一方、サムエル記のほうではダビデの弱さ、罪をいうものをはっきりと語っています。
私どもは既に知っているのです。イエス・キリストこそまことの王であるということを。そして、主イエスこそ、正しい心、全き心をもって献身してくださったお方のです。誰にも真似することができない仕方で、すべてを献げてくださいました。ご自分の命を十字架の上でささげてくださいました。私どもを罪と滅びから救い、神の家を造り上げるために。そのようにして、神様の御栄えが現されるために。この主イエス・キリストの救いの御業、キリストの献身に支えられて、私どもはこの世に生き、共に教会を建て上げていきます。小さな者であり、影に過ぎないような儚い人生から、神様は救い出してくださいました。神様は喜びと希望を与えてくださるお方です。それゆえに、「今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか」と、ダビデをとおして呼びかけておられる神様の御声に、もう一度心を向けたいとのです。共に献身する心を、この年も新たにいたしましょう。お祈りをいたします。
神よ、すべてはあなたのものです。そのために、キリストのいのちをもって私どもを贖ってくださいました。感謝いたします。私どものいのちの原点、教会の歩みの原点に立ち帰り、神と教会のために新しい年も仕えていくことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。