2022年11月13日「あなたは滅んではならない」

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あなたは滅んではならない

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章9節~21節

音声ファイル

聖書の言葉

9イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。10すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。11そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。12人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」13そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。14ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。15イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、16御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。18「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。19彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。20正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。21異邦人は彼の名に望みをかける。」マタイによる福音書 12章9節~21節

メッセージ

 日曜日、主の日の礼拝毎に、私どもはここに集います。皆様はいったいどのような気持ちで毎週ここに集っておられるのでしょうか。同じキリスト者、同じ教会員であっても一人一人がまったく同じ気持ちでここに集っているということはあまりないでしょう。それは、教会員の思いが一致していないということではありません。むしろ、様々な生活、働きをし、そこで色んなことを感じながらも、教会の頭であられるイエス・キリストが今朝も御自分の体である教会に結び合わせてくださる。その不思議さ、神秘を驚きと感謝の思いをもって受け取り直します。そのうえで、特に悲しみや苦しみを覚えながらここに集われている方のことをいつも忘れてはいけないのだと思います。なぜなら、私たちの主でいてくださるイエス・キリストがそのようなお一人お一人に目を注ぎ、心を砕いておられるからです。主イエスはあなたを探し、あなたを見つけ出し、あなたと出会いたいと願っておられます。その神の御心がはっきりと映し出される場所こそが、何よりも日曜日、主の日であり、今、ここでささげている礼拝です。

 今朝は、マタイによる福音書第12章9節以下の御言葉を共に聞きました。1節から朗読してもよかったかもしれませんが、舞台となっているのはユダヤ人が最も大事にしている「安息日」と呼ばれる日です。安息日を巡る出来事が9節以下でも続いているのです。安息日というのは、今日のキリスト教会で言えば、主の日のこと、まさに今日のことです。しかも、9節で主イエスが「会堂にお入りになった」とありますから、教会堂における礼拝に焦点が当てられているということです。その日、多くのユダヤ人たちが神を礼拝するために会堂に集っていたことでしょう。私どもと同じように、様々な思いを抱えながら、しかし、礼拝と御言葉の恵みにあずかりたいという一心で会堂に集ったのでありましょう。

 そこに「片手の萎えた人がいた」と10節に記されています。病気か事故か何かで片手が動かなくなってからも、何度も安息日毎に会堂に来ては礼拝をささげていたことでしょう。他の福音書では、動かなくなった片方の手というのは、「右手」だったとはっきり記されています。要するに利き手が不自由になったということです。またある伝説では、この人は元々「石工」、つまり、石を削る仕事をしていたというのです。利き手である右手には石を削ったり、彫ったりする道具を持ち、毎日一所懸命仕事をしていたのです。その仕事を生き甲斐とし、家族がいたのであれば、家族の生活、いのちを養っていたのです。ところが突然、手の自由を失い、仕事を失い、生き甲斐を失いました。もうこれからどうしたらいいか分からない。自分の将来も家族の将来も突如真っ暗になったのです。しかし、それでも一筋の希望の光を求めて、これまでどおり安息日には会堂に集い礼拝をささげていたのです。推測して話した部分もありますが、この片手の萎えた人についてまったく間違ったことを言っているとは思わないのです。それに、当時、大きな病や障がいを負うということは、その人は過去に赦されがたい大きな罪をおかしたから、神様から罰や裁きが下ったのと普通考えられていたのです。そういう思いを周りの人たちは持っていましたら、おそらくこの人は日常の生活においてだけでなく、安息日に神を礼拝するその場所においても、人々からの冷たい目線を感じながら過ごしていたことでありましょう。しかし、そういう場所に主イエスは安息日にやって来られるわけです。生きる望みを失い、確かな助けを得ることができず絶望している。そのうえにさらに、冷たい目線を浴びさられ、心も体も痛みを覚えている。そういう人のいるところへ主はやって来られ、この人を見つめられます。

 ただこの時、片手の萎えた人、魂に深い傷を負っているこの人をまったく違う角度で見つめていた人たちがいました。それが、先週の御言葉の中にも出てきましたが、「ファリサイ派」と呼ばれる人たちです。10節の「人々」というのはファリサイ派のことで、安息日を巡る彼らと主イエスとの対話は第12章の初めから始まっていました。彼らは、片手の萎えた人が会堂にいることを知っていました。彼のこと見ていました。でもこのように主に尋ねるのです。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」私たちには分からないので、先生、教えてくださいということではないのです。「イエスを訴えようと思って」とあるように、訴える口実をつくるために、わざとこのような質問をしたということです。

 安息日というのはユダヤ人にとって特別な日です。神様が「この日にわたしと会おう」「この日にわたしはあなたがたを祝福する」と特別に定めてくださった日だからです。だから、仕事があろうと何があろうと、いったん、その手を止めて、神様の御前に集い、御言葉に集中するのです。しかし、どこかでおかしなことになってしました。安息日、本来の豊かさが見失われ、如何に休むかということばかりに焦点が置かれるようになりました。こういうことをしたら「労働」と見なされるからしてはいけないという、細かい掟がいくつもつくられるようになりました。それを定めていたのが、ファリサイ派と呼ばれる人たちでもあります。安息日に医療行為をするというのも、立派な労働ですから、もしイエスがここでこの人の手を治したら、律法違反だと言って訴えることができると思っていたのです。いのちの危険の際など緊急の場合は助けたり、治したりする行為は許されていたのです。安息日の治療行為については、どこからどこまでが労働なのか休みなのかということについてははっきりしない部分があったのも事実だと言われています。いずれにせよ、ユダヤ人の信仰にとって大切な安息日の問題に主イエスを巻き込もうとしたのは確かなことです。そして、ファリサイ派は主イエスに対して明らかに敵意を持っていました。その憎しみがついには、14節にあるように殺意へと変わっていきます。安息日の会堂において、神の子に対する殺意が生まれる。それも、誰よりも御言葉に従っていると自信を持っていたファリサイ派が神の子のいのちを奪おうとする。本当に恐ろしいことです。しかし、それが人間の罪であるということです。

 ファリサイ派の人たちはただイエスをおとしめることができればそれでいいと考えていました。片手の萎えた人のことなど、本当はどうでもいいのです。彼が癒されようが癒されまいがどうでもいいのです。自分たちには何も関係ないのです。ただ、イエスを訴える口実として、道具としてでしか、この人を見ていなかったということです。ファリサイ派の人たちは、自分たちは他の人たちとは違って正しい生活をしているということをいつも意識していた人たちです。しかし、その自分たちの正しさ、正義を貫くところで、神の御心を見失ってしまうということが起こるのです。それゆえに、神を軽んじ、主イエスを殺そうという思いに捕らわれてしまいます。また、目の前で苦しんでいる信仰の仲間の痛み、いのちすら平気で軽んじるということが起こったのです。

 「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねてきたファリサイ派に対して、主イエスは毅然として、このようにお答えになりました。11〜12節、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」主は、「あなたたちのうち、だれか」とおっしゃいました。作り話でもなく、他人の問題でもなく、あなたたちのうちだれかが、いや、あなた自身のうちにこういうことが起こったらならば、どうするだろうか問われるのです。一匹の羊を持っています。百匹のうちの一匹というのではなく、その人が持っている羊は、その一匹だけだということです。もしかしたら、一匹しか羊を持つことができないほどに貧しかったかもしれません。それだけ尊い一匹の羊なのですが、その羊が働いてはいけない、休みなさいと言われている安息日に穴に落ちたら、あなたはどうするか。主イエスは当然、安息日でもあっても、そうでなくても助けるだろうと言うのです。まして、穴に落ちいのちの危機に瀕しているのが、羊ではなく、自分に与えられているたった一人のかけがえのない子どもであったならば、人間であったならばどうだろうか。今日は安息日だからという理由で、翌日まで待つことができるだろうか。できるはずなどないのです。人間は羊よりもはるかに価値があるからです。

 ただファリサイ派の人たちは、主イエスにそのように言われても、「いや、自分たちは掟に従って助けることなどしない。翌日まで待ってから助ける。それまでは、えさを穴に落としてあげれば十分生き延びることができるではないか。」もしかしたら、本気でそう答えたかもしれません。主イエスはここで穴に落ちた一匹の「羊」を見つめておられますが、同時にそのかけがない一匹を失った「人間」のことをも見ておられます。大切な一匹の羊を失ったということがこの人をどれだけ悲しみませ、苦しませているだろうか。そして、失ったことによって生じるその人の心の痛みを見つめておられるだけではなく、さらには、その痛みの中にある人をじっと憐れみのまなざして見つめておられる神様のことを、主イエスは見ておられるのです。危機に瀕する人間のいのちを放っておくことなど神様にはできないのです。その神様の憐れみの心が最も鮮やかに示される日こそが、神様が私どもに定めてくださった安息日です。それゆえに、7節で旧約聖書の御言葉を引用しながら、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とおっしゃられたように、いけにえを献げるという儀式的なこと、形だけにこだわるのではなく、まさに隣人に対する憐れみを示すことこそが安息日に相応しいことだとおっしゃるのです。

 しかし、ファリサイ派の人々はその神の憐れみを見つめようとはしませんでした。神様だけでなく、神様の前に立っている片手の萎えた人を真実に見つめるまなざしを失っていました。その人のことを、イエスを訴える口実、道具、物としか見ていないのです。人間を人間として見ることができないのです。まるで物のようにしか人を見ることができません。役に立つか立たないかという基準でしか人を見ることができないのです。それが安息日という日、神の会堂で起こりました。神の光が最も輝く場所において、人間が抱えている闇がますます深くなったのです。これは2千年前の話ではないのです。今も私どもが生きる社会にある深い問題ではないでしょうか。一人の人間の価値、一人の人間のいのちが軽んじられているということが、私どもの生きる世界の中にもまだあるのです。

 「人間は羊よりもはるかに大切なものだ」と主イエスはおっしゃいました。主イエスという方は、よく自然世界に生きる動物や植物を見つめながら、人間の価値や神様の愛というものをお語りになるお方です。他にも同じマタイによる福音書第6章26、30節に次のような御言葉があります。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」また、第10章29〜31節ではこうおっしゃいました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」羊よりも人間が大切、野の花や雀よりも人間のほうが価値がある。そんなことは当たり前だと誰もが思うのです。「動物と自分を比べてくれるな」と怒る人もいるでしょうか。でも本当に誰もがそう思っているのでしょうか。羊や花よりも遥かにあなたは尊いのだと言われて、慰めを覚える人は意外に多いのではないでしょうか。それだけ一人一人のいのちが軽んじられている現実がこの世界にはあるからです。羊や花といった動物や植物のいのちを軽んじているわけではもちろんありませんが、では、なぜ人間のほうが羊よりも尊いと言えるのでしょうか。ちゃんと説明できるでしょうか。よく考えると、羊も花も人間もやっぱり同じようなものではないかと思う人もいるかもしれません。それは、その一人の人間に注がれている神様の憐れみがどのようなものであるかということを、私どもがまだ知らないからです。

 安息日は神が私どもに豊かな憐れみを注いでくださる時です。だからこの日を他の日と一緒にするのではなく、取り分けるのです。それを聖別すると言います。分かりやすく言うと、ちゃんと休んで神を礼拝するということです。しかし、神様御自身は、安息日だからといって休むようなことはないさいません。御自身の御業をやめてしまわれるようなお方でありません。失われた一匹の羊を探し出し、発見し、新しいいのちの中に立つようにと呼び掛けておられます。私ども一人一人が、神に造られた人間としての価値を取り戻し、回復する日。キリストのゆえに新しく創造された人間として立ち上がる日。それが安息日であり、主の日なのです。この時会堂にいた手の萎えた人も、主イエスとの出会いによって、失われていた人間としての価値、いのちの価値を回復したのです。「手を伸ばしなさい」と主はその人に呼び掛けます。いのちの呼び掛け、いのちの御手が差し伸べられます。そのいのちの声に導かれ、手を伸ばします。そうすると、萎えた手は元どおり良くなったのです。動かなくなった手が動いたということだけに留まらず、安息日、ただ神の憐れみによって自分のいのちが生かされていること、このことこそ神からいのちが与えられた人間として、一番健やかな姿、一番自然な姿であるということを知ったのです。

 ところがファリサイ派の人々は癒された人と一緒に神を喜び、たたえようとはしませんでした。この出来事をきっかけに、イエスを殺そうと企んだというのです。彼らは神が与えてくださる安息を軽んじました。神の言葉である律法というのは、元々人のいのちを生かすために与えられたものです。しかし、人間のいのちが二の次になってしまったのです。そのような御言葉の聞き方、生き方をしてしまった。まさに本末転倒です。主イエスは問うておられるのです。神の憐れみの中で、人間のいのちこそが真ん中に立つべきではないかと。

 安息日、会堂において、主イエスは片手の萎えた人に向かって、「手を伸ばしなさい」と呼び掛けました。この出来事は他の福音書も記していることですが、マタイの特徴は17節以下に記されているように、この主イエスの御業は預言者イザヤの御言葉の成就であると言って、信仰を告白していることです。あるいは、イザヤの言葉をもって、神を賛美していると言ってもいいでしょう。イザヤの言葉というのは、先に朗読していただいたイザヤ書第42章1〜4節の御言葉です。少し言葉が違っている部分もありますが、同じことが18〜21節にかけて記されています。もう一度お読みします。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」

 このイザヤ書第42章は、第53章などと並んで「苦難の僕の歌」と呼ばれています。やがて来るべき救い主について証しし、その救い主がどのような仕方で私たちに救いをもたらしてくださるのかを語る大切な御言葉の一つです。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」「僕」というのは「奴隷」ということです。「子ども」と言い換えることもできます。神に愛され、神に喜ばれた奴隷であり、子ども。それがイエス・キリストです。主イエスは父なる神の御心をよく知っておられるがゆえに、その神様の御意志が実現するためにひたすら仕えるような生き方をなさいました。

 また、引用したイザヤの御言葉において、一つ大事になってくる言葉は18節、20節にある「正義」という言葉です。旧約聖書のほうでは「裁き」となっていました。正義も裁きも基本的には同じ意味です。白黒はっきりさせるという意味があります。ファリサイ派もそういう意味では正義に生きていたような人たちでした。ただ、ここで言われている正義というのは、いかなる正義なのかということです。例えば、ファリサイ派の敵意に対して、これが正義だと言って、力づくで抵抗するということなのでしょうか。どうもそうではないようです。自分を殺そうとする思いがここにあるということを知った時、主イエスは15節にあるように立ち去られました。ここではもう立ち向かって行くようなことはしないのです。そのような主イエスの姿は、19節にあるように「彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。」とあるとおりです。十字架を前にした裁判での出来事、また、ののしられてもののしり返さない十字架上の主のお姿を思い起こすこともできるでしょう。神の僕であり、神の子であられるキリストが示す正義というのは十字架に示されているように、徹底的にへり下り、苦しみを負うところに見えてくる正義だということです。

 20節の最初にあるように、私どもはキリストの正義によって勝利へと導かれることが約束されています。終わりの日、主が再び来てくださる時、救いが完成し、神の栄光があらわされます。その救いの勝利がもたらされるまで、主イエスは今も傷つき、弱り、衰えて力を失っている者たちのいのちを大切にし、守り導いてくださいます。その歩みの中心に主の十字架があるのです。だから、「この人を見てほしい」「十字架の道を歩まれた主イエスを見てほしい」と御言葉は私どもに語りかけます。ただ一人、神から見捨てられた人を。この人を見よ!ここに世界の望み、あなたの望みがあるというのです。

 もう一度20節をお読みします。「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。」主イエスは私どもを勝利に導く日まで、今も生きて働いていてくださいます。その働きは、ここにあるように、傷ついた葦を折らないこと、くすぶる灯心を消さないことです。葦というのは水際に生えている高さがある草のような植物です。でも傷ついて折れかかっているというのです。強い風や波が襲って来たら、すぐに折れてしまい、二度と真っ直ぐ立つことができなくなります。灯心もまた消えそうなのです。ちょっとしたことで火は消え、いのちの光を失うことになります。まさに、安息日の時、会堂にいた片手の萎えた人そのものでした。

 また18節、20節を見ますと、「異邦人」ということが言われています。「彼は異邦人に正義を知らせる」「異邦人は彼の名に望みをかける」。異邦人というのは、ユダヤ人ではない外国人のことですが、当時は救いから遠い人たちと考えられていました。隔ての壁があるということです。しかし、彼らにも救いの喜びが届けられるというのです。片手の萎えた人はユダヤ人でしたが、同じユダヤ人でも救いから遠いと思われ、交わりからはみ出るように生きていた人です。しかし、彼もまたキリストとの出会いによって救われたのです。彼を救う正義の御手が差し伸べられたのです。 

 「傷ついた葦」「くすぶる灯心」。それはこの片手の萎えた人のことでもありますが、同時に私どものことでもあります。ファリサイ派の人たちのことでもあるでしょう。彼らには消えかかり、くすぶっている人間のいのちに目を注ぐことができない闇がありました。私どもの中にあるかもしれませんし、また違う仕方で深く傷つき、今にも消えそうないのちを何とか生きているということがあるかもしれません。自分のような者は、まさにくすぶる灯心、周りを明るくどころか煙たくしているような厄介な存在だ。そう思い始めた時に、自分や隣人に対してだけでなく、神に対しても心を閉ざします。「自分は傷つけられた」とひがみ続け、やがて自己中心的な人間になってしまう。いや、もう自分のことも何も考えるのが嫌だということもあるのです。そういうところで、自分のいのちの価値を見出すなどといことはできないのだと思います。余程、羊や鳥や花のほうが伸び伸びと与えられたいのちを生きていると思ってしまうのです。

 しかし、本当はそうではないのです。羊より遥かにあなたのいのちは尊いです。神様はその傷ついた葦を折り、くすぶる灯心を消すようなことはなさいません。むしろ、傷つき、滅んで当然の者を神は再び生かそうとなさったのです。自分でもこんな自分は厄介だ、扱いにくいと思う、そのあなたのことを神様は受け止めてくださるのです。愛と憐れみの御手、そして、赦しの御手を差し伸べてくださるのです。もし神の正義が貫かれ、「あなたについて白黒はっきりさせよう」とおっしゃったならば、私どもは皆黒なのです。それが神に対する罪ということです。私どもは裁きを受けないといけないのです。でも裁かれるというは、傷ついた葦が折れ、くすぶる灯心が完全に消えるということです。再びいのちを吹き返すなどということはないのです。しかし、そのような仕方で神様は正義を貫こうとはなさいませんでした。愛する僕であり、愛する子であるイエス・キリストをこの傷ついた世界に送ってくださいました。主イエスは、決して痛んだ葦を折ることなく、力づくでもなく、大声もあげず、静かな愛をもって、ただ人を真実に生かす正義をもって、この世に一つの明るい道を開いてくださったのです。

 そして、私どもの罪に対する正義が貫かれるために、主イエスは十字架の道を進まれました。十字架の苦しみ、十字架の傷によって、私どもは罪赦されたのです。マタイによる福音書第16章に次のような主イエスの言葉があります。第16章26節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」驚くべき言葉です。「あなたのいのちは全世界よりも重い」というのです。羊や鳥や花どころか、それらをすべて包み込む全世界よりもあなたのいのちは重く、価値があるというのです。そしてもっと驚くべきことは、その全世界にも勝るあなたのいのちを買い戻すために、キリストのいのちが十字架でささげられたということです。あなたのいのちは、神の御子であるイエス・キリストのいのちの重さ、そのものだということです。信じられないようなことがここで言われています。でも真実なのです。イエス・キリストの十字架というのは、まさにあなたのいのちが測り直された出来事です。

 主の日の礼拝において、私どもは主の十字架を見上げます。そこで、私どもはキリストのいのちと同じ価値、同じ重さのいのちに生かされていること知るのです。キリストが十字架であなたのために死んでくださった、そのいのちに生かされていることは本当に素晴らしいことです。21節にありましたように、私どもも「イエス・キリストの名」に望みをかけます。「イエス・キリストの名」に私どもの救いがあり、いのちがあり、望みがあります。キリストの名によって罪赦された者たちの集う場所が教会であり、礼拝をとおして、もう一度救いの恵みを覚え、新しく創造された人間として歩み始めるのです。

 そして、ここでいつも十字架の言葉に耳を傾けます。主イエスの呼びかけがなければ、私どものいのちは折れ、消えていきます。しかし、主は葦をおらず、灯心を消さないために、今朝もここに来てくださいました。あなたのいのちは折れてはいけない。あなたのいのちは消えてはいけない。あなたのいのちは滅んではならない。そのために、復活の主は今朝も主の日の礼拝をささげている私どもの真ん中に立っていてくださいます。交わりの中心におられる復活の主、いのちの主が手を差し伸べておられます。「あなたも手を伸ばしなさい!」私どもはその主イエスの手を取るのです。私どもは今、主イエスのいのちの御手の中にあるのです。お祈りをいたします。

 神様が与えてくださる安息の中に憩わせてください。自分のいのちの重さを見失ってしまうような時にも、十字架の主が今も愛を注いでくださり、神と共にある喜びの中に立たせてくださるのだということをこの場所で知ることができますように。傷つき、消えそうないのちを、主イエスが御自分のいのちをもって再び明るく灯してくださいます。そのいのちの光が傍らにいる兄弟姉妹にも向けられていることを心に留め、信仰の仲間が抱えている痛みや苦しみにも心を砕くことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。