2022年11月06日「涙とともに主イエスを愛し続けて」

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涙とともに主イエスを愛し続けて

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 7章36節~50節

音声ファイル

聖書の言葉

36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。37この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。39イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。40そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。41イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」43シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。44そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。45あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。46あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。47だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」48そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。49同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。50イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。ルカによる福音書 7章36節~50節

メッセージ

 聖書は過去に起こったことをただ告げているだけではありません。聖書に記されていることは、今、ここにおいて、あなたの中にも同じように起こっているということです。過去の物語をとおして語られていた神の真理がここにいる私どもにも告げられ、事実ここで同じ出来事が起こっているのです。しかし、それは聖書物語そのものが持っているストーリー性が、今はまったく意味を持たないかというと、決してそうではありません。例えば、こういうことを考えてみたらよいと思います。今日、礼拝が終わった後、皆で愛餐会をするとします。最近はなかなかできていないのですが、コロナ前は礼拝の後、よく食事の交わりをしていたものです。食事を楽しんでいると、急にある女性が会堂にやって来ます。それだけで、「この人は誰だろう?」と思うものですが、その女性が急に泣き始めて、大粒の涙をこぼします。もう皆食事どころではないでしょう。「この女の人はどうしたのだろう?」と心配になります。そうしますと、私でも構いませんが、誰かの足もとに来て、私のその足に涙を流し、長い髪の毛でぬぐい始めるのです。さらに、足に接吻をし、高価な香油を塗るのです。1分、2分で終わったわけではないでしょう。何十分も足もとに涙を流し続け、自分の髪でぬぐうのです。涙を流し続ける音がこの礼拝堂に響き渡り、香油の香りが会堂一杯に満たされます。もしこういうことが本当に私たちの交わりの中で起こったとしたならば、私どもはあっけにとられることでしょう。せっかくの交わりを台無しにしてと言って、怒りを覚える人もいるかもしれません。しかも、急に教会にやって来たこの女性が、町や国のほとんどの人が知っているほどの大きな罪を犯した女性だったどうでしょうか。「どなたでも教会にお越しください」と言いながらも、どこか身構えてしまうかもしれません。教会に来ていただくのは大いに結構だけれども、あまりにも非常識な行動はしないでほしいと思うかもしれません。

 「罪深い女」と呼ばれているこの女性が、ファリサイ派のシモンの家で主イエスにした行為は、誰が見ても異常な行為であるとしか言いようがないのです。家の主人であるシモンはもちろんのこと、食卓を囲んでいた人々は驚いたことでしょう。誰も彼女のしたことを受け止めることができないのです。彼女が流した涙も、主イエスにした行為一つ一つも、それがいったい何を意味するのかが分かりませんでした。しかし、彼女の涙の意味をただお一人のお方だけが知っていてくださいました。彼女の涙をしっかりと受け止めてくださった方がおられたのです。それが主イエス・キリストです。そして、主イエスは招いておられるのです。44節で、主はシモンに「この人を見ないか」とおっしゃいました。この女を見てほしい。この女の涙を、この女がわたしにした一つ一つのことを見てほしい。決して、この女から目をそらすようなことがあってはいけない。この女の涙を見るだけではなく、この女が涙する心とはいかなる心なのか。その心を知り、あなたもこの女と同じ涙を流すような心に生きてほしいというのです。

 私どもは様々な時に涙を流します。小さな子どもと一緒に生活をしていると、毎日泣いています。毎日涙を流しています。お腹が空けば泣き、転んでケガをしては泣き、思いどおりにいかなかったり、親に怒られると激しく泣いて涙を流します。でも涙というのは子どもだけが流すものではありません。自分が幼かった時、大人になれば、子どものようにすぐに泣く人間にならないことだと思っていたところがありました。どんなことがあっても、泣くのをじっとこらえること。それが大人になることであり、強い人間になることだと。しかし、大人になって思うことは決してそんなことはないということです。確かに、子どもの時ほど泣く回数は減ったかもしれませんが、ちょっとしたことで涙を流すこともなくなりました。けれども、心や体に大きな痛みを覚えたりする時、目に涙が溢れることがあります。幼かった時よりも激しく泣き、たくさんの涙を流しているのではないかと思うほどです。そして、それはどうも自分一人のことではないのです。私どもは自分以外の多くの大人や子どもたちが、涙を流す姿を見てきました。教会生活をしていても、同じ信仰の仲間たちが、色んな場面で涙を流す様子をたくさん見てきたのではないでしょうか。その涙は悲しみの涙でもありますし、喜びに満ちた涙でもあります。涙を流すから子どもだとか、泣くのを我慢できるから大人だという定義はもはや当てはまりません。大人でも子どもでも、自分の心、自分の存在が大きく揺らぐ時、涙が溢れます。今、起こっていることを自分の心が受け止めることができない時、私どもは涙を流すしか他ないのです。そして、それらの数々の涙の中に、人が生きる上でなくてはならない何かがある。決して無視することができない何かがあるのではないかと、どこかで思うものであります。

 今朝の物語に登場します罪深い女が流した涙もそうですが、福音書記者のルカは同じ第7章において、もう一つの涙を記しました。11節以下に記されている物語です。ナインという町に住むやもめが流した涙です。彼女は夫を失い、愛する一人息子と一緒に生きていました。やもめという社会的に厳しく貧しい立場に置かれながらも、子どもを養うために日々、身も心も削るようにして生きていたのです。しかし、その息子が死んでしまいました。亡くなった息子が納められている棺が町の外へと運ばれようとしています。「泣き女」と呼ばれる、いわば葬儀の場で悲しみを演出する女性たちが泣く泣き声が聞こえていたことでしょう。しかし、真実の涙を流していたのはもちろん母親です。その葬儀の列を、そして母親をじっと見ておられる方がおられました。それが主イエスです。母親を見て、主は深く憐れまれました。腸がちぎれるような激しい痛みを覚えられた主は、母親に対して「もう泣かなくともよい」とおっしゃいました。もう泣くな!もう涙を流すな!とおっしゃったのです。愛する息子を亡くした母親に「もう泣かなくともよい」と言うのは驚くべきことというか、あまりにも不謹慎であると言うことさえできるのです。しかしそれは、決して、もう大人なのだから、泣くな!とか、強くなれ!ということではありません。ハンカチで涙をぬぐって、「大丈夫か?」とただ同情してくださっただけではないのです。主イエスが「もう泣かなくともよい」と言われる時、その人が流す涙が止まるだけではなくて、私どもの存在そのものが大きく変えられるのです。涙をもたらす悲しみの現実を、確かな喜びへと変えてくださるからです。ですから、「もう泣かなくともよい」と言って、主イエスは母親に涙をもたらした死の現実に打ち勝ってくださいました。主は棺の中にいる息子に向かって、「若者よ、あなたに言う、起きなさい」と命じられました。主イエスのいのちの声は死んだ息子に届き、母親のもとに返されたのです。

 一方で、本日の36節以下では、ナインのやもめのように「もう泣かなくともよい」とはおっしゃいませんでした。御自分の足を涙でぬらし、髪でぬぐう女の行為を何もおっしゃることなく、じっと見つめておられるのです。それは、「泣きたいだけ泣いて、すっきりしなさい」というのではなく、彼女の流す涙の中に込められていた意味を主イエスだけがご存知だったからです。47節で、主イエスは食事に招待したシモンにこうおっしゃっています。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」彼女の涙、それは主イエスの前で罪を悔いる涙であり、その罪が赦されたことへの感謝と喜びの涙であり、それゆえに主イエスを愛する涙でした。ここで率直に思うことは、自分はこの女ほどに主イエスを思って激しく涙することがあるだろうかということです。主の十字架によって罪赦され、「主を愛します」と告白しながらも、私どもの心は、もしかしたらちっとも動いていないということはないでしょうか。最初に主の十字架の意味を知った時は嬉しかったけれども、その涙するほどの喜びが毎日を生かす力となっていないとしたならば、その愛は本物なのか、その信仰は本物なのかと、問わざるを得ないのではないか。どこかでそう思ってしまうのです。もちろん、私どもの主イエスに対する愛は紛れもなく真実ですし、涙を流さないと主を愛したことにはならないなどとは決して思いません。けれども、この女性が主イエスの足もとに流した涙、また接吻をして、香油を注いだ行為は、この女性だけにしかできない特別なことというよりも、主イエスを愛するすべての者が知り、同じように流すことができる涙であると思います。この女性は他の人に比べて、特別に涙もろい人だったという話ではないのです。主イエスは今もこの女の涙を見つめながら、私どもを招いておられます。「この女を見ないか…。この女の涙を見てほしい…」

 主はシモンに招かれて食事をされていたのです。当時は今のように椅子に座って、テーブルに料理を置いて、食事をしていたのではありません。片方の肘を床について、足は後ろに投げ出すようにして、利き手で食事をしていたのです。座るというより、床に横になって食事をしていました。そして、食事の席には正式に招待されていない町の人々も自由に出入りして、そこで交わされている対話を聞くことができました。人々の信仰を導いていたファリサイ派のシモンと主イエスの対話です。いったいどういう対話がなされるのだろうか。町の人々は興味深かったに違いありません。そして、シモンは主イエスと対立しているファリサイ派の一人でしたが、どうも主イエスとは親しい関係にあったようです。今、シモンの家に主イエスがおられるという知らせを聞いた時、女性はどうしても主イエスにお会いしたいと思いました。この時が初めてというのではなく、以前、彼女は主にお会いしたことがあると考える人もいます。十分あり得ることだと思います。主イエスが与えてくださる赦し、その罪の赦しに込められた深い愛を知ったならば、一度どころか、何度でも主にお会いしたくなるはずです。また、もしお会いしたことがなかったとしても、主イエスの噂についてはこの女性も知っていたことでありましょう。

 この女性は、37節にあるように「罪深い女」でした。「罪深い女」と訳されています言葉は、本当はもっと短い言葉で、「罪の女」という言葉です。要するに、「罪の女」と言えば、町の人たちは皆、「ああ、あの女のことか」と分かったのです。町の人は彼女について、彼女の名前とか、どこに住んでいるとか、今何をしているとか、そんなことには一切関心がありません。彼女は罪の女なのです。「罪の女」という一言で、自分のすべてが言い表されてしまう。これほど辛いことはありません。辛いことですが、この女性は何も言い返すこともできませんでした。事実、彼女は罪の女でした。いったいどんな大きな罪をおかしたというのでしょうか。多くの人が推測するには、売春婦ではなかったかと言われています。自分の体、いや神から与えられた体をお金や生活のために売らなければいけなかった。いったい、どういう事情があったのでしょうか。人には言えない特別な事情があったかもしれませんが、ただ聖書には彼女が性的な過ちを犯したなどとは何一つ記されていません。たとえそうであったとしても、それはこの女性だけでなく、同じように男性も問われるべき罪であると思います。とにかく、誰の目にも明らかな大きな罪をおかした。あるいは、たくさんの罪をおかした。そのことだけは事実のようです。

 そして、主イエスの前で流した涙を見る限り、決して、彼女は自分がおかした罪について、何とも思っていなかったわけではないようです。「こうでもしないと生きていけない」と、どこかで開き直ったり、言い訳を重ねながら生きていたところは、もしかしたら少しはあったかもしれませんが、心の底では罪に支配されている自分を生きることが辛かったのです。自分の行いを正当化したくなる色んな理由があったかもしれませんが、それでも、どこかでこんな生き方をしている自分は惨めだと思っていたのです。自分だけではなく、周りの人からも明らかに「罪の女」と呼ばれ、後ろ指をさされながら、この町で生きていかなくてはいけない。いったいこれのどこが幸せなのだろうか。どこに行ったとしても罪人である私の居場所などない。そう思っていたのでしょう。

 その時に、彼女は主イエスのことを知りました。どうもこの主イエスという方は、自分と同じ罪人や罪人の代表と言われている徴税人たちを集めて食事をしているらしい。ただ食事をするというのは、一緒に食事の席についている人たちと仲が良いということを意味しました。罪人と仲良くする、食事を一緒にするなどということは、当時あり得ないことでした。神が罪人を見捨てておられるのだから、私たちも罪人を関わる必要はない。食事をするなどもっての他だと考えられていたのです。しかし、主イエスは周りから批判されようが、何度も罪人たちを招いては食事をしていたようです。お読みしませんでしたが、同じ第7章34節では「(イエスは)大食漢で大酒飲みだ」と人々から言われています。ただ何と言われようと、主は罪人たちを受け入れ、彼らと楽しい交わりを持ちました。何よりも、彼ら罪人たちを神の救いへと導く対話を丁寧に重ねられました。罪の女と呼ばれているこの女性が、罪人を招く主イエスというお方の存在を知った時、どれだけ嬉しかったでしょうか。私のような者をも招き、受け入れてくださる方が、私のすぐ近くにおられる。もうそれだけで、彼女にとっては、救いそのものであったに違いありません。まして、主イエスに直接お会いすることができたならば、どれだけ素晴らしいことだろうか。人々から「罪の女」と呼ばれながらも、主に一目お会いしたいという期待と希望に支えられながら、歩みを重ねてきたのではないかと思います。

 この女性は主イエスの足もとで、主イエスの足がぬれるほどの大粒の涙を流しています。しかし、いつも泣いていたわけではなかったのかもしれません。もしからしたら、もう何十年も泣くことができなかった人ではなかったのか。そのように思うことさえあるのです。人々から「罪の女」と呼ばれ、冷たい視線を浴びながら生きるというのは、一所懸命自分で自分の心を固くして、心を冷たくして耐えてきたと言うこともできるのです。人間というものは、自分の罪に気付けば気付くほど、ますます頑なになるものです。ますます罪深くなるものです。けれども、そんな彼女が、主イエスを知り、主イエスの前に立った時、心が温められて、初めて悔い改めるということを知ったのです。初めて神のもとに立ち帰る喜びを知ったのです。そして、涙を流すことを知ったのです。主イエスというお方は、私の罪を知り、それを受け止めて、赦してくださる。この人の前でなら、私は安心して涙を流すことができる…。ある人が、こんなことを言っています。「彼女が主イエスの足もとで流した涙、その一粒一粒に、彼女の物語が込められていた。深い悲しみ、苦しみ、心の渇き。何よりも、ここには彼女の罪を悔やむ思いが込められていた。」その人はそのように言うのです。この女性は主イエスの前で人生全体が凝縮したような涙を流しました。何よりもその罪を悔やんで流された涙が、主イエスを愛する感謝のささげものとなって、その足もとに注がれました。

 今朝は、ルカによる福音書と合わせて詩編第56編の御言葉を聞きました。その9節に次のような御言葉がありました。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」慰めに満ちた言葉です。私どもが神と真実に出会った時に知る思いは、まさにこの御言葉が語る思いなのではないでしょうか。ああ、神様という方は、私の嘆きの日、悲しみの日、涙を流した日々をちゃんと覚えていてくださったのだ。自分はもう思い出したくもないし、なかったことにしたいと思っていた日々でさえ、神様はきちんと記録に留めていてくださる。どんな人生を生きたとしても、神様の救いにあずかっているという、この一点において大きな意味を持つ。過去においても、これからの歩みにおいても、そこで流す涙は無駄ではない。なぜなら、神様が御自身の革袋に蓄え、受け止めてくださるのだから。悲しみの涙も、罪を悔いる涙も、神が受け止めてくださる時、それは赦しとなり、喜びとなります。死を超えたいのちになります。それゆえに、主を愛する涙に変えられるのです。

 ただ繰り返しになりますが、この時、主イエスを招待したファリサイ派のシモンはこの女性が流した涙の意味を知りませんでした。彼女について知っていたことと言えば、39節に記されていることくらいです。シモンは心の中で思ったのです。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」福音書を読んでいますと度々、「ファリサイ派」という言葉を目にします。この「ファリサイ」という言葉には意味があります。「分離する」「区別する」という意味です。「私たちと他の人とは違う」と言って、区別をするということです。当時ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。その中で人々の生活はいい加減なものになっていったのです。しかし、ファリサイ派と呼ばれる人たちは、神の民であるという誇りを忘れることはありませんでした。他の人たちが神の掟を守らなくても、「私たちはあの人たちとは違う」と言って区別をしました。他の人と違って、神殿での礼拝も献金もちゃんとするのです。何よりも神の言葉である掟を重んじる人たちを「ファリサイ派」と呼びました。また彼らは人々の信仰を導くリーダー的存在であり、尊敬のまなざしで見られていましたが、それに気をよくして、いつの間にか神様よりも人の目を気にしたり、自分の行いを誇り、反対にそれができない人々を見下しました。まして、この女性のような罪人を蔑みました。そのような信仰を鋭く指摘なさった主イエスとファリサイ派は度々、衝突していたのです。シモンは主イエスと親しい関係にあったようですけれども、やはりファリサイ派根性というものが残っていたようです。この罪深い女のことも、この女を受け入れている主イエスのこともシモンにとっては理解できないことでした。本当の預言者であり、神の知恵を持ち、言葉を持つ方であるならば、自分の足に触れている女がどんな女か分かるだろう。それを受け入れているとはどういうことか。涙を受け入れているとはどういうことか。シモンは心の内でそう思ったのです。

 主イエスはシモンの心のつぶやきを知っていました。それでシモンに向かって一つの譬えをお語りになるのです。「シモン」と、親しみを込めて彼の名前を呼びながら、「あなたにどうしても言いたいことがある」というのです。ここにいる私ども一人一人に向けて、同じように愛を込めてお語りになっておられる譬え話でもあります。どうしてもあなたに伝えたいことがある。だからよく聞いてほしい…。41節以下です。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」デナリオンという単位は、1日の賃金に値すると言われています。分かりやすく理解するために1日1万円で計算しますと、一人が約500万円のお金を、もう一人が50万円を借りていたのです。しかし、二人とも返すことができなかった。それで普通はあり得ないことですけれども、その金貸しは借金を帳消しにしてあげたというのです。これと似た譬え話がマタイによる福音書第18章にも記されています。そこでは王様が家来に1万タラントンのお金を貸していたというのです。約6千億円というあり得ない額のお金です。王は返済するように迫るのですが、家来は一生働いても返すことなどできません。何のあてもないのに、「どうか待ってください。必ず返しますから」としきりに願う家来を見て、王様は憐れに思い、借金を帳消しにしてあげたというのです。

 莫大な借金を背負うというのはどういうことでしょうか。苦しいことに違いありませんが、借金がある限り、自分がどれだけ前に進もうと思っても、前に進むことができないということです。前に進んでいるように思っても、それは借金を多少減らすようなことに過ぎないということです。自分が本当に立つべきスタート地点にすら立つことができないのです。神からいのちを与えられた人間として本来立つべきところにすら立つことができていないのです。なぜなら、主イエスがここで語っておられる借金というのは、私どもの「罪」を意味するからです。普通の借金であるならば、ちゃんと返していけば、その額を日ごとに減らすことができます。時間は掛かりますが、ついに返済をし終えたということはいくらでもあることです。しかし、罪という負債は、私どもはどれだけ頑張って働いても、真面目に生きようとしてしても返せるものではありません。むしろ日ごとに罪の負債は増えていくのです。本当は50万円とか500万円とか6千億円という数字の大小という問題ではなく、私が神の前に罪人であるというのは、厳しい言い方ですけれども、もう何をしても虚しいということです。金貸しも王様も神様のことを表していますが、神様によって、罪の借金を帳消しにしてもらわない限り、私どもの罪が救われるということがないのです。罪の女と呼ばれるこの女性は自分の罪深さに涙する心を持っていたかもしれませんが、もうこんな借金など返せないと諦めて心を頑なにしていたのでしょう。しかし、この私を受け入れ、罪の負債を帳消しに、罪の赦しを与えてくださる主イエスと出会うことができたのです。

 主がお語りになった譬え話を聞いたシモンは理屈ではよく分かったのです。借金を帳消しにしてもらった額の多い人のほうが、当然、金貸しを多く愛するということがよく分かりました。シモンは正しい答えを口にすることができました。でもまだ気付いていないのです。まだ分かってないないのです。だから、主イエスは女性のほうを振り返りながら、「この人を見ないか」とおっしゃいました。そして、彼女がしたことと、シモンとを比べるようにしてこう言うのです。44〜47節です。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」主イエスもまた足もとにいる女性をじっと見つめておられます。彼女がした一つ一つの行いを、何よりも涙で足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐった行為をじっーと見つめながら、そのことを喜んでおられたに違いありません。この女性は激しく涙するほどまでに、自分の罪を悲しむと同時に、神の赦しを心の底から確信していました。また、涙とともに足をぬぐい、接吻し、香油を注ぐこの女性の愛を、主イエスは喜んで受け止めてくださったのです。

 一方で、シモンは譬え話の中で、まさか自分のことが語られているとは思わなかったでしょう。神様の掟を誰よりも正しく守って生きている自分が、神様に対して、返済することができないほどに罪の負債を背負っているなどとは思ってもみなかったことでしょう。神様に憐れんでいただかなくても自分の立派さで自分を救うことができると信じていたからです。そして、自分とあの罪深い女とはまるっきり違うと思っていたシモンにとって、「この女を見るように。あなたもまた、この女と一緒なのだ」などと言われたら、到底、受け入れることなどできなかったはずです。主はシモンにお語りになります。「この人を見ないか。あなたはこの女を見ていない。この女の涙を見ていない。表面的には見ているかもしれないが、真実の女の涙を見ていない。この女の過去のこと、過去に犯した罪ばかり見つめていて、今、女の傍らにわたしがいること、そして神の赦しの中にあることを見ていない。」主イエスはシモンだけにではなく、私どもに対しても求めておられるのです。この女性の流れる涙とその意味をじっと見つめることを。この女性と私たちは何が違うのでしょう。違いなど何もないのです。私どももまた神によって罪赦されなければ、生きていくことのできない罪人であるということです。

 そして、今度は女性に告げられるのです。「あなたの罪は赦された。」彼女だけではありません。私どもに対しても、主は罪の赦しを確かに宣言してくださいます。私どもは普段どのような神様の言葉を聞きたいと願っているのでしょうか。聖書を開くと豊かな言葉で満ちていますが、その真ん中を貫く言葉、福音の言葉こそが、ここで主イエスがお語りになった言葉です。「あなたの罪は赦された。」いつも聞くべき言葉、この主イエスの言葉なしに私は生きていくことはできない、その言葉がここにあります。あなたの罪は赦された!

 続けて主はおっしゃいます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」「安心して行きなさい」というこの言葉は、一種の意訳です。そのまま訳すと、「平安の中へと行きなさい」となります。安心して、ホッとして外に出て行くというのではないのです。もちろんそういう意味もあるかもしれませんが、主が与えてくださる平安というものはもっとしたたかで、確かなものなのです。どういうことかと申しますと、私どもが歩み出すその先に平安というものがあって、その中に向かって出て行くということだからです。平安がここにあるだけではなく、ここから一歩外に出たその世界や生活の中にもあるということです。礼拝の最後に告げる祝福はまさにそういうことなのです。ここでいったんホッとして、それでおしまいというのではなくて、どこに向かって歩んで行っても、神様が与えてくださる平安、また祝福というものが、私どもを取り囲んでいるのです。

 この女性は、主イエスから罪の赦しの宣言を聞き、平安の中へと押し出されて行きました。けれども、その歩みは何の痛みも辛さも伴わなかったかと言うと、決してそうではありません。依然として、彼女を見つめる人々の冷たい視線は変わることはなかったと思います。「罪の女」という一度貼られたレッテルはそう簡単に取れることはないのです。厳しい歩みを、なお強いられたのだと思います。私どもの信仰の歩みも同じではないでしょうか。わざわざ説明してみせなくても、それぞれが自分の十字架を背負って生きています。聖書も労苦し、涙を流さざる得ない現実というものが信仰者の歩みの中にもあるということを知っています。ヨハネの黙示録という聖書の一番最後に収められている書物のその終わりのほう、第21章に次のような慰めに満ちた言葉があります。終わりの日、ついに救いが完成する、その時に与えられる祝福を約束する言葉です。ヨハネの黙示録第21章3〜4節。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」再び天から来たり給う主イエスによって救いが完成する時、私どもの涙はぬぐわれるのです。涙をもたらす死も悲しみも労苦も、もはや神の救いの前で何も意味を持たなくなるのです。ただ、それは同時にこの地上にはなお涙する現実があるということです。その嘆きの日々を神様に数えていただき、流れ出る涙を革袋に蓄えていただき、受け止めていただきながら、地上の歩みを最後まで歩んでいきます。それらの歩みの中で聞こえてくる主の言葉に日々支えられながら、信仰の旅路を続けていきます。「あなたの罪は赦された!」「安心して行きなさい!」自分を取り巻く様々な厳しさの中にあって、なお私ども生かすいのちの言葉が響いています。この主イエスの言葉に、主が与えてくださる平安に、日々、生かされながら、与えられた信仰の歩みを私どもも重ねていきます。

 そして、そのようないのちの言葉に触れ、神の赦しと平安に満ちた場所こそ、今私どもが集っている「神の教会」です。私どもには教会が必要なのです。主の十字架の前で安心して涙することができる教会という場所が必要なのです。ここに集う私どもは、神様の前で自分の罪を涙するほどに悲しむことを知っている人間です。同時に、その罪の負債を主の十字架によって帳消しにしていただき、赦していただいたことを心から感謝し、それゆえに主イエスを愛し、主を喜び、たたえている者たちです。大袈裟でも何でもなく、激しく涙するほどに、心と存在が激しく揺さぶられるほどに主イエスによって新しく変えられた一人一人です。私どもが主イエスのものとされるというのはそういうことです。私どもはもう惨めでも何でもありません。涙を我慢する必要も、自分でぬぐう必要もありません。安心して主イエスの十字架の前で涙を流すことができます。愛に飢え渇き、自分の愛の貧しさに深く落ち込む時も、他人や自分を呪ったり、憎んだりしなくてもいいのです。主イエスの十字架の前に立ち帰って、いつでも新しくやり直すことが許されているのです。

 このあと、聖餐の恵みにあずかります。「この女を見ないか」「この女の涙を見ないか」とおっしゃられた主イエスは、今ここで「このわたしを見るように」「女の涙を受け止めているこのわたしを見るように」「(そして、)十字架と復活をとおして示された神の愛を見るように」、そう言って、私どもを聖餐に招いておられます。私どもを神のものとするために、涙を流すほどに心と体を大きく揺さぶられながら、十字架に向かわれました。いや涙どころではありません。十字架の上で血を流し、御自分のいのちを私どものために注いでくださったのです。聖餐は祝いの時です。しかし、騒がしくするのではありません。今一度、心静かにして、救いの恵みを、イエス・キリストが注いでくださった大きな愛を、しっかりと受け止めたいのです。そして、主イエスを愛する思いを新たにしたいと思います。お祈りをいたします。

 いつも主イエスを愛する喜びに生かしてください。主の十字架と復活によって、罪赦された喜びを魂と存在の深いところで受け止めることができますように。主の御言葉に導かれ、主にある確かな祝福を信じ、望みを持って最後まで歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。