2022年10月23日「小さなほころび、大きな喜び」

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小さなほころび、大きな喜び

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 2章1節~12節

音声ファイル

聖書の言葉

1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。12この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。ヨハネによる福音書 2章1節~12節

メッセージ

私どもが生きていて良かったと思えるのはどのような時でしょうか。それは喜びを感じる時ではないでしょうか。生きることは何か複雑で難しいということではなくて、単純にこうして生きていること、生かされていることが嬉しいと心から思うことができれば、その人は幸いなのだと思います。もちろん喜びは喜びでもどういう喜びかということも大事ですが、心が喜びで満たされ、楽しくなることは人間が健やかに生きるうえでなくてはならいものではないかと思います。洗礼を受け、キリスト者として生きることもまた、喜んで生きることと一つのことです。神様は決して、私どもの悲しみや苦しみを背負わせるために、いのちを与えられたのではありません。たとえ、様々な重荷を背負うことや悲しみで心が満たされることがあったとしても、それらを最後まで背負うことができる力が与えられ、また、どのような中にも届いてくる神の喜びに支えられて歩むことができるのだということを、御言葉は私どもに告げているのです。

 人生において様々な喜びの出来事を経験します。主イエスもまた喜びの中に生きたお方です。主イエスの地上の生涯と言うと、その中心は十字架に示されるように、お産まれになった時から苦難の歩みの連続であると誰もが思うのです。確かにそのとおりですけれども、苦難の先にあったものは私どもに喜びをもたらし、神様の栄光をたたえるための歩みでした。そして、苦難の歩みの中においても、苦しみや痛みや孤独を抱えている人々と出会い、喜びを与え、彼らの人生を大きく変えられました。そして、そのような主イエスが共におられるというのは、何も私どもが辛い思いをしている時だけでなくて、私どもが喜びに満たされている時にも共にいてくださるということです。主イエスは私どもの喜びを喜びとしてくださり、そこで豊かに祝福してくださるお方です。

 私どもキリスト者にとって、そこで特に考えなければいけないことは、どういう喜びをいつも喜んでいるのかということです。なぜかと言うと、喜びというのは、「喜び浮かれる」という言葉がありますように、喜びのあまり肝心なことを忘れてしまうからです。自分だけ、自分たちだけだけ大喜びして、神様を喜び、神様に感謝することを忘れてしまうことがいくらでもあるからです。私どもは大きなことから小さなことから大きなことまで様々な喜びを経験しますが、それらの一つ一つの喜びが神様とどう結びついているか。信仰生活とどう結びついているか。そのことをいつもよく考える必要があるのだと思います。

 今朝はヨハネによる福音書第2章の御言葉を共に聞きました。主イエスがお育ちになったナザレという村から少し離れた山間部にあるカナという場所で開かれた婚礼が舞台です。ここでは結婚式というよりも、そのあとに開かれる「披露宴」のような場面です。人生には様々な節目があり、結婚もまた大きな節目です。同時にこれ以上にない喜びに満ち溢れた時です。「世界はふたりのために」という結婚式の歌が昔流行ったようですが、まるで世界中が私たちふたりをお祝いしてくれているようだ。私たちふたりの結婚の喜びが成就するために、この世界は存在していたのだというのです。少し行き過ぎた歌ではありますが、それだけ喜びに満ちた出来事であるということでしょう。結婚の準備などたいへんなこともあったに違いありませんが、それこそふたりの愛と喜びの力で乗り越えることができたのです。そして、これからも将来に希望を抱いて乗り越えることができると信じて結婚の誓約をします。そして、結婚というのは、キリスト者だけに与えられている特権ではなくて、そうでない方も結婚をされます。しかし、それだけにキリストのものとされている私どもが結婚という大きな喜びに導かれ、これからをどう歩んでいくのか。そのことを神様との関わり中で真剣に問うていくことは、言うまでもなく大事なことです。

 そして、結婚という大きな喜びの出来事の中にも主イエスは共にいてくださるのです。結婚式の招待状を主イエスに出すわけではありませんし、披露宴の座席表に主イエスの名前が記されているわけでもありません。けれども、名前がないからといって一番忘れては困るのが主イエス・キリストです。主イエスがおられないと私どもが生きていけないように、結婚の場においても主イエスが共にいてくださらなければ、この方の祝福を受けなければ、どれだけ立派で楽しい祝いの時を過ごしてもやはりそれは虚しいのです。時にキリスト者はそのことをよく心に留めて置かなくてはいけません。

 この時も主イエスはカナという村で開かれた結婚式、披露宴に招待されました。母マリアや兄弟もこの時一緒でしたらから、もしかしたら、親戚の結婚式であったのかもしれません。そして、当時のユダヤの結婚の祝いというのは、今のように1日で終わるというのではなくて、7日間、一週間も祝われたのです。しかも町全体、村全体を巻き込む大きなものでした。準備するのもたいへんでしょう。でも結婚の喜びがその準備をも支え、ふたりはもちろん、家族や町の人まで本当に多くの人たちと一緒に結婚の喜びを分かち合いました。その場所に主イエスがいてくださるのです。

 しかも、今朝耳を傾けているヨハネによる福音書において、主イエスが救い主としての公の活動、お働きを開始なさった場面こそが、カナの婚礼という場面です。とても興味深いことです。病気や罪で苦しんでいる人たちのところに行って、助けの手を差し伸べる。ヨハネはそういうところから、主イエスにお働きを描いても良かったかもしれません。しかし、そうではないのです。結婚という喜びに満ちた場所において、主イエスがいてくださり、そこである一つの奇跡をなさった。そういうところから、私どもの救い主とはどのようなお方なのか。私どもの神とはどのような神なのかを語り始める。そのことを静かに思い巡らすだけで、心が熱くなるような思いがするのです。

 大きな喜びに満たされ、欠けているところが何も見当たらないかのように思える新郎新婦のふたりが婚礼の場にいます。しかし、そこで一つ困ったことが起こってしまったというところから物語は始まるのです。その異変にいち早く気づいたのは主イエスの母マリアでした。3節にこうあります。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」婚礼の場で困ったこと、それは、ぶどう酒がなくなってしまったということです。「何だそんなことか」と思う人もいるかもしれません。確かに、新郎新婦やそこにいた人たちの誰かが、体調を崩して倒れてしまったとか、そういうことではないからです。準備していたぶどう酒がなくなっただけの話です。小さなことと言えば小さなことです。一週間も結婚の祝いを続ければ、いくら準備してもなくなるかもしれないというのは予想がつきそうなものです。それで必要以上に食べ物や飲み物を準備するのですが、それでも祝いの席に欠かせないぶどう酒がなくなってしまいました。予想を超えた喜びがこの婚礼の場に満ちていたのでしょう。しかし、このままではせっかく来ていただいた方々に申し訳ないし、新郎新婦の顔も立たなくなります。しかし、ぶどう酒がなくなったならば、どこかで買ってこればいいではないかと思うのです。ぶどう酒と言っても、何百万円とか何千万円するということではなかったと思います。落ち着いて考えればすぐに対処することができたかもしれません。

 ぶどう酒がなくなったという一見、小さく見えるようなこと、小さなほころびが、この婚礼という大きな喜びの中に生じたというのです。これは何を意味するのでしょうか。色々考えさせられるのです。結婚というのは「人生の縮図」だと言われることがあります。結婚を機にこれまでの人生を振り返り、同時に将来の自分のこと、夫婦のこと、また子どもが与えられることもありますから家族のことなど色んなことを考えると思うのです。過去を振り返る時にたいへんな人生を歩んできたという人もいると思うのです。思いどおりに生きることができなかった、途中で挫折をしたという人もいると思うのです。けれども、今、結婚という大きな喜びが与えられた。これは本当に嬉しいことに違いないないのです。この喜びがこれから生きる原動力となるのです。けれども、「ぶどう酒がなくなった」という実に小さなことから、大きな喜びが台無しになってしまうということがあるのです。せっかく築き上げてきた喜びが、ほんの些細なこと、ほんの小さなほころびからダメになってしまう。そして、気づいたらたいへんなことになってしまっていたことがあるのです。当時、結婚というのは親族や町全体を巻き込むくらいにたいへん大きな喜びの出来事でしたけれども、しかし、その喜びにはやはり限界があり、決して永遠のものではないということを思わされます。そして、人間というのは喜びを妨げようとするほんの小さなほころびに対してでさえ、どうすることもできないということです。対処する術を持っていないということです。

 このことは昔のユダヤの話だけではなくて、今も同じではないかと思います。自分のこと、夫婦や家族のこと、そして、教会や信仰生活のことにおいても、この小さなほころびが事実として生じるのです。大きな問題はあまり起こらないかもしれませんが、小さなほころびならあちらこちらに生じている。大きなダメージを受けていないようかもしれませんが、本人にとってはたいへんなことだと思っているのです。そのほころびをどうしたらよいのでしょうか。結婚は人生の縮図だと申しましたけれども、そうであるなら、「結婚は信仰生活の縮図」ということもできるのではないでしょうか。洗礼を受けてキリスト者になったら、さあこれからは、いつも喜んで生きることができると言っていたけれども、ちょっとしたことでそれはやっぱり嘘だった。やはり、普段の生活のもように限度があるという話で終わってしまうのでしょうか。

 ぶどう酒がなくなったことが気づいたマリアは、「ぶどう酒がなくなりました」と主イエスに言ったのです。すぐにでも、ぶどう酒をどこかから調達してほしいと迫ったわけではありません。本当に困ってしまった、どうしよう…。そのような悲しい気持ちで、「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのでありましょう。ユダヤの地で30年もの間、生活してきた主イエスにとりましても婚礼の席でぶどう酒がなくなってしまうということが、どれだけたいへんなことかはよく分かっていたはずです。決して小さなこととは言い切れないし、ぶどう酒がなくなったという事態を放っておけばたいへんなことになるということを十分承知でありました。ただ私どもの救い主でいてくだる主イエスというお方は、そのような場所にも私どもと共にいてくださるということです。小さなほころびを前に、あたふたしてどうすることもできない。そのような私どもの側にいてくださるのです。

 それにしても、不思議なのは、4節に記されているマリアへの応答の言葉です。「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」「イエスよ、ぶどう酒がなくなってしまったの。何とかしてくれないかしら。」それに対して、「お母さん、それはたいへんですね。わたしの弟子たちもいますから、彼らにもお願いして今すぐ何とかします。少し待っていてください。」普通ならば、そのように答えるのではないでしょうか。けれども、実際の主イエスの言葉は実にそっけないと言いましょうか、どこか冷たい響きがありますね。そもそも、実の母に、「婦人よ」などという呼び方はしません。さらには「どんなかかわりがあるのですか」と言って、まるで他人事のようにさえ聞こえます。それはあなたの問題であって、わたしには関係ないと言っているようにも聞こえます。しかし、主イエスは本当にマリアを突き放すつもりで、冷たい言葉を言ったのでしょうか。「わたしには関係ない」とおっしゃりながら、でも、主イエスはマリアの願いを聞いてくださり、水を極上のぶどう酒に変えてくださったのです。それは母マリアが困っていること、悲しんでいること。今起こっているのは小さな問題のようだけれども、もし放っておけばたいへんなことになるということを主イエスはよくご存知だったからです。

 そして、4節の主の言葉を理解するうえで重要なのは、「わたしの時はまだ来ていません」ということです。この言葉との結びつきのなかで、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」という言葉を理解することが大切です。「わたしの時」とは如何なる時なのか。それは主イエスが十字架にかけられ、復活する時を指しています。つまり救いの時です。十字架に向かう歩みをしているのだけれども、今はまだその時ではないということです。例えば、同じヨハネによる福音書第12章23節、24節にこういう御言葉があります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」イエス・キリストが栄光をお受けになる時、それは、一粒の麦が落ちて死ぬ時です。それは、十字架の死を意味します。なぜ主イエスは十字架で死ななければいけなかったのか。それは、私どもが実を結ぶためです。主イエスに結び合わされて生きる人生というのは、虚しい人生ではない。豊かな実を結ぶ人生である。そのことを明らかにしてくださるために、主イエスは十字架で死に、甦ってくださったのです。でも、この時は、まだ十字架がまだ目の前にあったわけではありませんでした。だから、「わたしの時はまだ来ていません」と主イエスはマリアに答えたのです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」「お母さん、気にすることはありませんよ。わたしは、わたしが働くべき時がきたら、やるべきことを、ちゃんとやりますから」とおっしゃったのです。

 ただマリア本人にとっては、「わたしの時がまだ来ていない」などと言われても、よく分からなかったのではないでしょうか。あなたの時がいつかは知らないけれども、今、私たちが困っているのだから、よく分からないようなことを言っていないで、今何とかしてよ!そう思ったかもしれません。ただこの後、5節以降を読むと、主イエスに対して文句を言ったとか、そういうことは一切書いていないのです。召し使いたちに対して、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったというのです。つまり、主イエスを信頼したということです。主がお語りくださる言葉に信頼し、命じられたら、そのとおりにするように、主の言葉に従うように。そのように召し使いに言ったというのです。

 そうしますと、主イエスは「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召し使いに命じます。家の入り口には、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが置いてあったのです。神様の前に出るにあたり、その水で手を洗うことによって、自分の罪を清めるという意味がありました。そこに置かれていた一つの水がめが二ないし三メトレテスでした。これは80〜120リットルの量に当たります。その水がめが六つ置いていたというのですから、全部で500〜700リットルの量になります。それだけの量の水を、水がめいっぱいに入れないさいというのです。召し使いたちは言われたとおり、主の言葉に従うと、その水がすべてぶどう酒に変わっていたというのです。しかも、あとで世話役が驚いていますように極上のぶどう酒に変わっていたというのです。これは11節にあるように主イエスがなさった「最初のしるし」でした。「しるし」というのは「奇跡」のことです。主がなさった最初のしるし、最初の奇跡を水をぶどう酒に変えるということでした。他のところに記されているように、病人を癒すとか、死者を復活させるとか、嵐を静めたり、湖の上を歩いたりというような奇跡に比べれば、小さな奇跡であるかもしれません。主は水に直接手を触れてぶどう酒に変えられたわけではありませんし、「水よ、ぶどう酒に変われ」と大声で命じられたわけでもないのです。主が召し使いたちに命じたことを、彼らがそのとおりにしたら、いつの間にかぶどう酒に変わっていたというだけの話です。主イエスは御自分の姿をこっそりと隠されるような仕方で、最初のしるしを行なってくださいました。そして神の栄光を現してくださいました。あなたがたの神がどのような神であるのかを明らかにしてくださいました。そしてこのカナでの出来事をとおして、弟子たちは主イエスを信じるものとされたのです。この出来事の中に、神様の素晴らしさを見ることができたからです。そういう意味では、決して、小さい奇跡などとは言えないのです。私どもを救いに導く福音がここにあるということです。私どもの生活の中に生じる小さなほころびに対してでさえも、主イエスは真剣に向き合ってくださり、私どもの喜びの生活が、ただ主にあって永遠のものとされるために、主は一つのしるしを行なってくださいました。

 この物語の中で、一つ大きな鍵となっているのは「ぶどう酒」です。祝いの席において欠かすことができない飲み物であり、聖書においては、終わりの日にもたらされる救いの完成を指し示す特別な飲み物でもありました。ぶどう酒には私どもの救いがあり、希望があるということです。ですから、十字架にかけられる前の夜、主イエスは弟子たちを集めて、共に食卓を囲みました。その時、ぶどう酒の杯をとって、「これは罪の赦しを得させるように、あなたがたのために流すわたしの血で立てられた新しい契約である。この杯から飲むように。」主はそうおっしゃいました。そして、終わりの日まで、これを守るように命じられたのです。それが今、礼拝の中でささげられています聖餐式の原点です。

 この時、婚礼の会場に置かれていた六つの水がめは、6節に記されていましたように「清めの水」として用いられるものでした。水によって罪を清めるというのです。この清めの水を巡って、マルコによる福音書第7章において、ファリサイ派や律法学者と論争したことが記されています。学者たちは主イエスの弟子たちは、手を洗わずに食事をしていたので文句を言ったのです。衛生的に汚いということではなくて、信仰の問題として、罪人の一人として、手や体を清めないというのは如何なものかと言ったのです。しかし、主イエスに言わせれば、罪の汚れというのはいくら手を綺麗に洗ったからといって清められるものではないということです。外側をどれだけ綺麗にしても、罪の問題が解決されるはずなどないのです。罪は内側の問題、つまり心や魂の問題であるからです。けれども、ユダヤ人たちは手を洗うことが私たちの伝統であり、神の前に生きる者として相応しい行為だと胸を張っている。それは神の掟、神の御心を蔑ろにしているだけに過ぎないのです。しかし、人々は何も分かっていないのです。

 何によって、罪は清められるのでしょうか。それはぶどう酒が指し示すように、イエス・キリストが十字架の上で流されるその血潮をとおして、私どもの罪が洗い清められ、赦されるということです。水で手を洗うくらいで罪の問題が解決するならば、そんな簡単な話はないのです。とっくにこの世界は平和になっていたと思うのです。家庭や学校や職場など、隣人と間で起こる色んな問題もすぐに解決できるはず。でも実際はそうはなっていない。小さいことと言いながら、気づいたらもう手遅れになっていた。人間が起こした問題だから、人間の手でまた元どおりにすることができる、もうそういう話ではなくなってきているのです。そこまでこの世界も私どもも深く、大きな傷を負っているということです。それが罪の悲惨であり、恐ろしさであるということです。そして、一番深く傷ついておられるのは、人間ではなく、神様御自身であるということです。なぜ神の独り子であられる主イエスが来てくださり、十字架で血を流してまでして、私どもを罪の悲惨から救おうとなさったのか。このことをよく考えなければいけないのです。このことをカナの婚礼の出来事が示していますように、人生の節目において、結婚という大きな一コマからぶどう酒がなくなったという小さな一コマに至るまで、いつも思い巡らし、その度に神様の恵みに立ち帰る必要があるのです。

 マリアが言った「ぶどう酒がなくなりました」という言葉は、決して大声でというわけではなかったかもしれませんが、心の叫びであることに違いありません。そして、このことはマリアだけのことではなくて、この世界全体の叫びでもあるのではないでしょうか。神を捨て、自分の力により頼もうとすること。神のことも隣人のことも忘れ、自分を喜ばすためだけに生きようとすること。外側さえよければ内側の心や魂など、どうでもいいと思って生きようとすること。そのような罪ある世界の現実が、私どもにも「ぶどう酒がなくなりました」という叫びを上げさせているのではないでしょうか。

 私たち教会はその声を聞き取ること。執り成すことに召されています。ぶどう酒がなくなったということに気づいたのは新郎新婦ではありませんでした。本人たちはたいへんなことが今ここで起こっているということをまったく知らないのです。知っていたのは、ふたりの側にいたマリアでした。そのマリアの声、マリアの叫びを主は聞いていてくださいます。教会はこの時のマリアのような存在として、人々の傍らに立ち続けます。私には何もできないとか、上手くお祈りできないとから私には関係ないというのではないのです。マリアのように一言、神に祈ることができるのではないでしょうか。「神よ、ぶどう酒がなくなりました!助けてください。あなたの恵みで満たしてください。」主イエスは私どもの祈りを聞いてくださるのです。こんな小さなことを祈ったって、主は聞いてくださるはずはないと最初から諦めるのではなくて、むしろ小さなことに目を注ぎ、執り成しの祈りを祈ることに私どもは召されているのではないでしょうか。

 カナの婚礼の物語の中心は、主イエスはなさった最初のしるしにあります。水をぶどう酒に変えてくださった奇跡の出来事です。主イエスはこっそり隠れるようにして、奇跡の御業をなさいました。その主イエスがこの時、目を留められたのが、同じように小さな存在であった召し使いたちです。婚礼の場において、決して主人公でもありません。招待客でもありません。こっそり隠れるように仕える存在です。しかし、婚礼の場においてなくてはならない存在です。この召し使いたちが、主イエスの最初のしるしを目撃することとなりました。「ぶどう酒がなくなりました」という叫び、祈りに主イエスは答えてくださるのです。御言葉を与えてくださるのです。この時はマリアにというよりも、召し使いにその言葉を与えてくだしました。それが7節、8節にあるように、「水がめに水をいっぱい入れなさい」「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」という言葉です。そして、召し使いたちは主の言葉どおりにしたのです。そこに奇跡が起こりました。

 9節には興味深い言葉が記されています。「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった…」世話役は驚くのですけれども、ここに主イエスの御業が働いているなどとは思っていません。花婿が極上のぶどう酒を今までどこかに隠しておいたことに驚いているだけです。しかし、召し使いたちだけは、このぶどう酒がどこから来たのか。誰が水をぶどう酒に変えてくださったのかを知っていました。他の人には分からないかもしれないけれども、私たちは知っている。このことこそ、キリスト者の恵みであり、教会の恵みでもあります。別に周りを見下しているということではありません。でも、キリスト者というのはこの時の召し使いたちのように、主に命じられたとおりに水を運び続けるという、一見小さな働きや、地味とも言えるような働きの中にも主の恵みを見出し、主の喜びに触れることができるということです。

 主の言葉に聞き従う私どもの生活というのは、そういう部分が確かにあるのです。主イエスを救い主と信じて生きるならば、喜びの生活が始まるというのですけれども、それは毎日が華やかで派手な生活に変わるということではありません。神の救いにあずかるというのは確かに一番の喜びですが、その喜びに支えられた私たちの生活や奉仕というのは案外普通と言えば、普通のことかもしれませんし、時間や忍耐が必要な場合もよくあるのです。しかし、私たちの主であり、教会の主でもいてくださるイエス・キリストは実はそのような働きをあなたがたに担ってほしいと願っておられるということです。主は御言葉に従って生きるあなたがたの働きをこの世界は必要としているというのです。召し使いたちがやがてぶどう酒に変わる水を運んだように、神の救いの恵みを運び続ける担い手たちを必要としておられるのです。

 カトリックの修道女マザー・テレサという人がいます。インドのカルカッタで、道に倒れた人々を修道院に運び、終末の介護をしました。人間らしく死を迎えることができるように、献身した修道女でした。このマザー・テレサが、一日の祈りを始める時、祈った祈りの言葉が残されています。「わたしをお使いください」という祈りです。「主よ、今日一日、貧しい人や病んでいる人々を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日私のこの手をお使いください。」「主よ、今日一日、友を求める小さな人々を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日私のこの足をお使いください。」「主よ、今日一日、優しい言葉に飢えている人々と語り合うために、私の声をお望みでしたら、今日私のこの声をお使いください。」「主よ、今日一日、人は人であるという理由だけで、どんな人でも愛するために、私のこの心をお望みでしたら、今日私のこの心をお使いください。」マザー・テレサの祈り、それは私どもの祈りでもあります。「主よ、今日一日、私のこの手を、私のこの足を、私のこの声を、私のこの心を、お望みでしたら、お使いください…。」

 そして、このマザー・テレサの祈りもまた、神を礼拝し、そこで御言葉に聞き、聖餐を祝うところで与えられる恵みです。礼拝において、私どもは喜んで生きるためになくてはならない糧をいただきます。神と教会に仕え、遣わされた家庭や職場などで愛の証を立てる糧をいただくために私どもはここに集います。小さなほころびが生じてしまった。「いや今回のは小さいどころではない」と途方に暮れて、落ち込むこともあるかもしれません。しかし、主イエスは共におられ、私どものために今も生きて働いていてくださいます。私どもが行き詰まり、呻きをあげ、膝を屈したところから主の御業が始まるのです。

 古代教会の指導者にヒエロニムスという人がいました。こんな逸話が残されているのです。ある人が、このカナの婚礼で行った主イエスの最初のしるしを嘲笑ったというのです。こんなおかしな話はないと。そして、その人はヒエロニムスのところに行って、尋ねます。「6つの巨大な水がめにいっぱいのぶどう酒。500リットルから700リットルもあろうかという膨大なぶどう酒を作って、いったいどうするのだろうか。婚礼の客たちは全部飲み切れたのだろうか。」ヒエロニムスは、ユーモアをもって答えます。「いいや、飲み切れなかった。飲み切れなかったからこそ、私たち皆が、今日もなおそこから飲んでいる」。そう答えたのだそうのです。水がめに入ったぶどう酒、それは決して尽きることはありません。喜びは永遠に尽きることはありません。罪の赦しの恵みもまた豊かで確かなものです。水がめには、溢れるほどのぶどう酒、溢れるほどの主の恵みがあるからです。お祈りをいたします。

 生きることをいつも喜びとすることができますように。小さなことで傷つき、主のお姿さえすぐに見失ってしまう私どもですが、悲しみの時も喜びの時も、主がいてくださいます。溢れるばかりの恵みの糧を礼拝の中で共に味わいながら、あなたから委ねられている生活に励むことができますように。また、私たち教会が共に生きる人々のほんの小さなほころびにさえも気づくことができる信仰のまなざしを与えてくださり、そのために祈り、主の恵みを届ける存在としてこの場所に立ち続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し祈り願います。アーメン。