2022年10月09日「あなたも慰められる、救われる!」
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あなたも慰められる、救われる!
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ルカによる福音書 19章1節~10節
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聖書の言葉
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ルカによる福音書 19章1節~10節
メッセージ
明日行われます教会修養会の主題である「慰めの共同体・教会」というテーマで、9月から5回にわたって御言葉に聞いています。本日が最後ですが、これで全部語り終えたということではなくて、まだまだ聞くべき御言葉はたくさんありますし、私どもに課せられているのは御言葉に如何に応答するということでもあります。その週の説教原稿を後日お送りしていますが、その最後に記しているいくつかの問いは、応答の助けに少しでもなればという思いで書きました。人によっては頭の中ですぐに整理できる人もいますが、私などは書かないとダメなタイプで、しかもメモ程度にというのではなく、なるべく丁寧な文章にしたほうがいいと思っているタイプです。どちらがいいというわけではありませんが、今日発行された月報にも書きましたように、御言葉を聞いたり、祈りが聞かれたりと、私どもは生活の中で、様々な仕方で心動かされることは多々あるわけですが、意外とそこで終わってしまっている。喜び、感謝することはあっても、心の中ですべてが完結してしまっていて、その先の生き方が変わるというところまでは中々行くことができない。何よりも私自身が一番問われていることでしょう。御言葉をどのように聞き、どのように御言葉に生きているのか?
神に従う信仰を与えてくださるのは神様ですが、私どもは嫌々従っているわけではないと思うのです。喜んでしていることなのです。今朝の御言葉の中に出てくる徴税人ザアカイという男も、木の上にいた時、主イエスに名前を呼ばれ、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と声を掛けていただきました。主イエスの招きを聞いたザアカイは、「喜んでイエスを迎えた」のです。無理やり木の上から引きずり降ろされたというのではないのです。主イエスにお会いすることができたという喜びに満たされながら、自分の手や足を使って木の下に降り、主イエスの自分の家にお迎えしたのです。神様のもとに立ち帰ることができた喜びの中で、罪赦された恵みの中で、ザアカイは決意をするのです。貧しい人々に施すこと、人々からだまし取っていたお金を4倍にして返すことです。周りの人からすれば、今までお前は散々悪いことをしていたのだから、当たり前だという話になるかもしれません。ザアカイも人としてやるべきことをやっているだけだし、人々を苦しめてしまった責任を取っているだけという思いもあったと思いますが、今、自分を生かしている原動力となっているのは神の救いの恵みによるということをいつも心に留めていたことでしょう。
主イエスはザアカイに言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ここで強調されているのは「今日」という言葉です。この福音書を記したルカという人が特別な思いを込めて記した言葉でもあります。「今日」というのは、昨日、今日、明日というふうに、ただ時間の流れを指している言葉ではありません。あるいは、今日も昨日と何の変わり映えもない退屈な日だった。どうせ明日も同じだろう。そのようなため息しか出ないような、「今日」ではないということです。「今日」というのは、主イエスとの出会いが与えられ、救いがもたらされる特別な今日ということです。待ちに待った今日、この日があったから、今日の私があると言えるような特別な今日ということです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリント二6:2)という聖書の言葉もありますけれども、このザアカイのように、主イエスに真実な仕方でお会いした時に、その日一日だけではなく、今日から始まる救いの日々、いや過去の苦しみの日々でさえも救いの光が射し込んでいたということに気づかされるのです。
伝説によると、このあとザアカイはカイサリアと呼ばれる地方の司教、つまり、牧師になったと言われています。自分が主イエスとお会いし、救っていただいた「今日」という日だけに限らず、主にお会いした日から始まった「すべての日々」を神に感謝し、すべてをお献げして最後まで生きたに違いないのです。もしザアカイが牧師という道に進まなかったとしても、この物語が2千年の間、人々に与えている影響は計り知れないものがあるのではないでしょう。まさに、このザアカイ物語そのものが牧師のように語り手となって、キリストの福音を見事に伝えているのです。
先週はペトロの手紙一から、教会員一人一人が「祭司」として召されているという話をいたしました。自らを神様に献げ、礼拝する存在として私どもがここに集められているのです。もう一つ祭司として大事なことは、執り成しの務めに生きるということです。その時に私どもは祈りを欠かすことはできません。教会というのは、建物や会堂のことではなく、「呼び集められた者」ということです。しかも「神の名」によって呼び集められた者ということです。そして、集められた人々の間に交わりが生まれます。交わりというのは、「一つのものを共有する」ということです。神の救いの恵みを分かち合うということです。それが礼拝であり、祈りの交わりです。その中で特に教会の祈り、執り成しの祈りという時に、私どもの目線は自分よりも教会の仲間や地域、この国、この世界へと向けられていきます。段々と私どもの関心が外へ外へと向けられて行くことになるのです。そこに伝道や奉仕などの働きがあるということです。教会という存在そのものが、この町や地域の方々のための執り成し手としてここに立っているのです。
今朝はこのザアカイ物語から初めに「伝道」ということを考えてみたいと思うのです。とは言いましても、今日の御言葉は教会に向けて「伝道しなさい」と直接呼び掛けている箇所というよりも、神様が、あるいは、主イエス・キリストがどのようにしてザアカイを救い出したのかという救いの物語が記されている。そう言ったほうがよいでしょう。伝道について色んな角度から考えることができますが、今日考えたいことは、伝道の働きは神様がなさるということです。もちろん私どもが伝道するのですが、そこで働いておられるのは神様だということです。人々の魂を救い出されるのは神様がなさることであって、私どもはそのお手伝いするだけです、神様に用いていただくだけなのです。私どもがその人を癒すのではなくて、真実の癒し手であるイエス・キリストを紹介するのです。
その時に、私どもはどうやってイエス・キリストのことを伝えるのでしょうか。「伝道」「伝道」と言うと、「私にはできない」と言って身構えてしまうことがあるかもしれません。そこでつい顔までこわばってしまうということもあるでしょう。そして伝道というのはいつも思いどおりに行くわけではなくて、様々な困難があるのは十も承知です。しかし、本来、キリストの福音を伝えるという働きは、本当は楽しいことなのではないでしょうか。伝道の困難さをも、福音の力によって乗り越えさせていただける、そのような恵みの経験さえもすることができるからです。
またこういうことを考えていただいてもいいと思います。例えば、結婚をして子どもが与えられている家庭、あるいは、教会学校の先生を経験している人たちは、今日のザアカイ物語を幾度でも我が子や教会の子どもたちに語り聞かせているでしょう。色んな人たちにイエス様のことを知ってほしいのですが、やはり、一番知ってほしいのは自分の子どもであったり、家族であったりするのです。その時に、伝道というのは牧師にならないとできないから、私は聖書の話などしないという親はいないと思います。家や教会の本棚から聖書物語の絵本や紙芝居を取り出します。そこに必ずと言っていいほど、ザアカイの物語があります。家庭や教会で何度も語り聞かせるのです。その時に、私は苦手だからイエス様を子どもたちに紹介できないからというのではなく、むしろ、語り聞かせている親や大人たち自身が、そこで一番楽しんでいるのではないかとさえ思います。読み聞かせている本人が主イエスに心捕らえられながら、そこで喜びつつザアカイの物語を語るのです。それは立派な伝道です。そして、伝道というのはそういう喜びや楽しみというのがいつも伴うはずだと思うのです。大胆なことを言うと、イエス・キリストのことを家族や色んな人たちに紹介したいと思ったら、このザアカイの話をひたすら繰り返して、語り続ければいいとさえ思うことがあるのです。何度でもザアカイの話をしながら、イエス・キリストのことを知り、私という人間はいかなる人間なのかを深く知るのです。ザアカイ物語は、人間の、いや人間だけではなく神様の悲しみも怒りも喜びも笑いも、すべてがまるで詰まっているような聖書物語ではないかと、この物語を読む度に思うわけです。
伝道というのは、「イエス・キリストのことを紹介すること」だと申しました。そして、それは同時に、福音を伝える相手のことをよく知るということでもあるでしょう。執り成しの祈りにおいても言えることですが、教会の仲間や地域のことなど、相手のことをある程度知らないと祈りようがないというか、いつも似たような祈りしかできないということになります。もちろん私どもは人間やこの世界のすべてを知ることなどできませんし、そのために自分もすべてを教会の人たちの前で明らかにしないといけないかと言うと、決してそんなことはないのです。どれだけ相手のことを知っているか、どれだけ人生経験を重ねてきたか。このことは伝道において、助けになりますが、一番大きな力になるわけではありません。ここでも、イエス・キリストによって罪赦され、救われたという経験。神を礼拝する人間とさせていただいていること。このことを私どもがどれだけ喜んでいるか。どれだけ感謝しているかということです。
また人間というのは、一人一人個性があって、「皆同じだ」などと言えないところがあります。しかし、その上で聖書が描いている人間の姿、ここではザアカイという人物ですけれども、彼の姿、生き様を見ることによって見えてくる人間の姿というものがあると思うのです。そして、聖書は「これはあくまでもザアカイのケースだから、あなたには関係ない」などとは言わないのです。聖書にはあなたのことが書いているのです。だから、聖書を読む人はびっくりするのです。初めて礼拝に出て、聖書の話を聞く人は驚くのです。なぜ、ここに私のことが語られているのだろうか?なぜ、聖書は私のことを知っているのだろうか?そう思って、ますます聖書に耳を傾けるのです。
ザアカイという人は、2節を見ますと、「徴税人」という仕事をしていた人であることが分かります。しかも、「徴税人の頭」というのですから、リーダーということです。社長ということです。ある意味、登るところまで登りつめた人でありました。一つの組織のトップに立つというのはなかなかたいへんなことです。並大抵の努力でここまで来ることなどできなかったはずです。ただ問題は「徴税人」という働きです。字の如く、税金を集める人ですから、それ自体問題はありません。ただこの時代ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。集められて税金は自分の国のためというよりも、憎きローマのために使われたのです。それだけでも屈辱的なことですが、事もあろうに、その税金を集めにくる者が同朋のユダヤ人なのです。しかも徴税人たちは背後にローマの権力があることをいいことに、必要以上のお金を人々から集め、差額を自分の懐に入れていました。それで2節にもありましたように、徴税人は「金持ち」だったということです。ですから、徴税人というのは自分たちを裏切った裏切り者であり、罪人の中の罪人だと見做されていたのです。ザアカイは徴税人の頭ですから、ほかの徴税人よりたくさんお金を持っていたことでしょう。しかし、それだけ罪深い人間だと思われていたのです。
ところで、なぜザアカイは人々から嫌われるということが分かっていて、敢えてそれでも「徴税人」の道を選んだのでしょうか。理由は記されていません。けれども徴税人というのは誰でもなれたわけではなかったと言われます。相当のお金を積まないと、徴税人の権利を手にすることができなかったのです。それでもザアカイをはじめ、多くの徴税人が存在しました。それは自分がリスクや損失を負うことがあっても、それらを補うだけのたくさんのお金を手に入れることができたからだと言われます。ザアカイ、彼はどういう幼少時代、若い時を過ごしたのでしょうか。彼に何があったのでしょうか。「ザアカイ」という名前には意味があります。「正しい人」という意味です。親が神様の前にも、人の前にも正しい人として生きてほしいという願いが、「ザアカイ」という名前に込められていたのです。彼もユダヤ人ですから、神様のことも、聖書の教えも知らないはずはないのです。生きていく上で何が大事であるかということを親からも、聖書からも何度も聞いていたに違いないのです。しかし、ザアカイが選んだ道は徴税人の道でした。親や周りの人だけではなく、誰よりも神様に背を向け、神様を悲しませてしまっていました。自分が豊かになることだけを追い求め、神様の前に豊かになることなど考えもしませんでした。天に富を積む生き方をしませんでした。お金や富がザアカイにとっては神そのものであったのです。
また、ザアカイのことを知る上で興味深いのは、3節の「背が低かったので」という言葉です。病気や障がいということを除いて、聖書の登場人物の中で身体的特徴が記されているのはたいへん珍しいそうです。なぜわざわざ「背が低かった」ということを強調するのでしょうか。背が低いために、群衆に遮られて、主イエスを見ることができなかったということを言いたかったのでしょうか。きっと背の低いザアカイは何度も背伸びをし、ジャンプしたことでありましょう。徴税人といえども、その頭であるザアカイが、どこか子どものように必死になっている姿は面白くもあります。ただ人々はザアカイを無視していたことでしょう。面白おかしい反面、どこか悲しいのです。また、ザアカイの背の低さが言われているのは、次の4節にあるように、小さい男が大きな木に登ったというふうに、コントラストを明らかにしたかったのでしょうか。文学の賜物があるルカらしい言葉の用い方かもしれません。背が低かったからこそ、身軽で、簡単に木に登ることができたかもしれません。
けれども、多くの人たちはこう考えるのです。「背が低かった」というのは、明らかにザアカイが抱えていたコンプレックスだということです。そう言われると、他にももっと気にするところがあるだろうと思うかもしれません。徴税人という生き方そのものが彼のコンプレックスにならないと困るのです。でもザアカイはそのことは何も気にしません。そんなことよりも背の低さのほうが気になるのです。あるいはたくさんのお金があっても、「背が低い」ために心から満足できないのです。ある人の想像ですけれども、ザアカイは子どもの頃から背の低さを、周りの人たちにからかわれてきた、馬鹿にされてきた。悔しいけれども何もできない。しかし、その悔しさがバネになり、いつか見てろ、見返してやる。金持ちになってやる。そして、ついに徴税人のリーダーになったというのです。けれども徴税人やリーダーになったからと言って、背が高くなったわけではありません。背は低いままです。ザアカイは徴税人の頭でした。部下が何人もいます。大勢の部下を集めて、話をしなければいけないこともあるでしょう。けれども、自分よりも下の立場にある者たちのほうが、自分よりも背が遥かに高いのです。自分のほうが偉いはずなのに、なぜ自分が顔を上げて部下に話さないといけないのか。まるで自分が部下たちから見下され、馬鹿にされているようだ。そんなことを気にしながら生きていたのではないかというのです。いずれも面白い想像です。同時に本当に人間を理解するのは難しいと思わされるのです。ザアカイにとって、背が低いことよりも、もっと考えるべき問題はいくらでもあったはずなのです。けれども、その本人にとっては確かに小さなことかもしれないけれども、子どもの頃からずっと引きずっていることがあるのです。。お金を手に入れても、周りから羨ましがられるような地位を手に入れても、それでも小さな棘のようにチクチクと自分を痛めつける。そういう苦しみというものを人は抱えているということです。私どももこの物語を読んでいて、背が低くて小さなザアカイが、イエス様見たさに必死になって動き回り、走り回り、いい歳をしているのに木の上にまで登っていく。どこか面白おかしいのですけれども、そして、そのような一面がこの物語の魅力でもあるのですが、ザアカイとしては本当に必死なのです。本当は笑ってなどほしくないのかもしれません。
ザアカイが主イエスを一目でいいから見てみたいと思ったのは、このイエスという人が自分と同じように嫌われている徴税人の仲間や罪人たちを一緒に仲良く食事をしているらしい。そのような噂をどこかで聞いたからでしょう。ザアカイは徴税人であるがゆえに、誰も自分に好意を寄せてくれる人などいませんでした。なぜ人々は自分に冷たいのだろうか?そんなことは自分でも分かり切った話で、考えることもしなかったでしょう。だからと言って、徴税人という生き方をやめようとも思いませんでした。ある意味開き直っていたのです。周りが何と言おうと、俺には金があるし、ローマの権力がうしろにある。けれども、ザアカイアはやはりどこかで欲していたのではないでしょうか。こんな自分を愛してくれる存在を。愛される理由など自分には何もないことがよく分かっていながらも、あるいは、こんな自分を愛してくれと願うこと自体があまりにも目茶苦茶なことであることは分かっているけれども、しかし、それでも私を愛してくれる方を、どこかで待ち望んでいたのではないでしょうか。
そうは言いつつも、主イエスの目の前まで行って、「お願いですから、私を愛してください」など言う勇気はないのです。主イエスを少しでもいいから見ることができたら、それでいいと思いました。3節、4節に、「見ようとした」「見ることができなかった」「見るために」とあります。とにかく主イエスを一目、見たいのです。見逃すものかと行って、最後には、木に登るくらいですから、主イエスに対して、たいへん熱心な関心を寄せていることは明らかです。しかし、一方で、そのザアカイの熱心さは、主イエスを自分の目で見ることさえできれば、もうそれで十分だということです。木の上に登ったザアカイがそこで考えていたことは、木の下を通し過ぎて行く主イエスを見た後に、下に降りて、再び徴税人の仕事に戻ることでした。主イエスを見たという思い出は残るでしょうけれども、ザアカイ自身の生活には何の変化も起こらないです。でも、ザアカイは別にそれでいいと思っていたのです。
しかし、木の上で思いもしなかったことが起こりました。5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」主イエスはザアカイが上っている木の下で足を止めてくださいました。ザアカイが考えたように、主イエスは何事もないかのように通り過ぎて行かれたのではないのです。ザアカイが思い描いていた物語がここで終わってしまいました。しかし、新しい物語が始まろうとしているのです。このあと、神の救いの物語にザアカイは招き入れられることになります。私どもも同じです。私を生きるのは他人ではなくて、私以外他にいないと思っています。だから、自分で計画を立てて、思い通りに生きることができるように努力します。もし失敗しても、責任を取るのもまた自分自身です。けれども、私どもの人生というのは、本当はそうではないということです。私どもの歩みは、神様の御計画の中に、神様の救いの物語の中にあるということなのです。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」周りの群衆もびっくりしたでしょうが、一番驚いたのはザアカイ本人でしょう。無視されて当然、嫌われて当然、そんな自分のこと、自分の名前までイエスという方は知っていてくださいました。そして、そこで何か自分のことを咎めるというのでもないのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と招いてくださいました。木の真下から木の上にいる自分を見つめる、その主イエスのまなざしをザアカイは生涯忘れることはなかったでありましょう。自分がイエスを見つめるまなざしよりも、それは遥かに鋭いまなざしであり、愛と悲しみに満ちたまなざしであったからです。なぜ主イエスのまなしは、「愛に満ちたまなざし」だと言えるのでしょうか。10節に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」という主の言葉がありました。愛というのは、失われた者を見つかるまで必死に捜そうとする思いです。しかも、尊い者を失ったという深い悲しみと痛みを抱えながら、捜し続けるのです。それもつい数時間前から捜し始めたというのではありません。永遠の昔から、神様はザアカイのことを心に留め、ザアカイを捜し続けてくださいました。神様の愛のまなざしの中にザアカイはずっと置かれていたのです。
その神様の思いをよく表しているのが、先程の5節にありました「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という主の言葉です。これは誤解されやすい言葉ですが、今晩、宿がないからあなたの家に泊めてほしいという意味ではありません。主イエスの願望ではないのです。「泊まりたい」というのは、正確に訳すと「泊まらなければいけない」「泊まることになっている」となります。この「〜しなければならない」というのは、神様の御意志を表す言葉です。あるいは、神様のご計画を表す言葉だということです。そして、神様の救いの御計画というのは必ず実現するのです。
また、9節には「この人もアブラハムの子なのだから」とありました。「アブラハムの子」というのは、要するに、神の民の一員だということです。神に選ばれた民ということです。そんなこと、周りも本人も考えたことなどなかったのです。しかし、神様は違います。あなたもアブラハムの子なのだから、救われなければいけない。神の救いの物語の中を生きなければいけないというのです。私どもは何か計画と言われると、もしかしたら冷たい感じを受ける人もいるかもしれません。あらかじめ決まっていると言われたら面白くないのです。でも神様は御自分の救いの御計画を実現するために何をしてくださったのかということです。「わたしがこう決めたから、あなたはこうしなさい」と言うだけ言って、それで終わりではないのです。それで罪人が救われるならこんな簡単な話はないのです。救いの御計画というときに、まず覚えなければいけないのは、神様御自身がその御計画の中を実際に生きてくださったということです。神様の計画、御心が真実であるということを明らかにするために、神様は愛をもって歩んでくださいました。救いのメッセージを届けるために、神様は天から降って来てくださいました。そして、今、木の上にいるザアカイの下に立ち、ザアカイを見上げるようにして、神様の救いに御計画を伝えるのです。あなたという大切な存在を失ってしまったという深い悲しみと痛みを抱えながらも、神様はそのようにおいて、私たち人間の歴史の中を、あなたという人生の中をこれまで共に歩んでくださったのです。
先程、申しましたように、ザアカイはザアカイで自分の計画があったのです。主イエスを見て、木から降りて、また元の生活に戻るという計画です。しかし、主イエスは木の下で立ち止まってくださいました。どうしてもザアカイが救われなければいけなかったからです。それが神様の御計画だからです。だから、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まらなければならない。そして、あなたを救わなければならない」と主イエスはおっしゃるのです。「あなたも神様と一緒に生きてご覧なさい。神様の御計画の中を生きてご覧なさい。いや、あなたは救いの恵みの中を生きることになっている。」
ザアカイが自分で描いていた計画はある意味台無しになりました。でも、ザアカイはそのことを喜んで受け入れました。ザアカイは主イエスの言葉によって気づかされたからです。自分が本当に願っていたこと、それは神に救われて生きることなのだ。自分はこの主イエスというお方によって、見つけていただき、救われなければいけない人間なのだ。「主よ、私を憐れんでください!」「主よ、私を救ってください!」木の上から急いで降りてきたザアカイは喜んで主イエスを迎え、家に招待しました。人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやくわけですが、でも本当にその言葉どおり、主イエスというお方は私どもの「罪」という深い闇の中を御自分の居場所としてくださいました。私どもを罪から救い出すためです。この時、主イエスはザアカイの家を訪ねられました。私どもにも家がありますけれども、私どもにとって「家」とはどんな場所でしょうか。一言で言い表せないような、あるいは、綺麗な言葉で言い表せないような複雑な場所であるかもしれません。「家に帰れば安心できる」とか、「家に帰れば素の自分に戻れる」とか、「家こそ私の本当の居場所」というふうに中々言うことができない、そのような家庭環境があるのも事実でしょう。また、家というのは、家の中の自分の部屋というのは、自分自身の姿をよく表しているとも言えるのです。家に置いてあるものを見るだけで、その人が何を大事にしているのか。そういうことが意外と簡単に分かってしまうものです。心の中にしまっていたものが家に行くと全部目に見えてしまうということがあるのです。だから、誰かが急に自分の家に来るとなると、困ってしまうのです。ザアカイにとっても同じで、きっと立派な家だったと思いますが、家も部屋の中にあるものは、全部だまし取ったお金で手に入れたものです。誰からいくらだまし取ったかということを記している帳簿のようなものもあったかもしれません。そのように、私どもの家の中にも良い面、悪い面を含め、自分のすべてが詰まっているのではないでしょうか。
しかし、そのようなザアカイの家に主イエスは来てくださり、救いを宣言してくださいました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」興味深いのは、「救いが”あなた”を訪れた」とおっしゃったのではなく、「救いが”この家”を訪れた」とおっしゃったことです。ザアカイ個人ではなく、ザアカイの家まるごとということです。ザアカイは妻や子どもなど家族と一緒に住んでいたかまでは分かりません。けれども、「今日、救いがこの家を訪れた。」という主イエスの言葉の中に多くの人々が慰めを覚えてきました。家族の中でキリスト者は自分一人だけれども、私をとおして神様の祝福が家族一人一人に与えられる。そのように神様に感謝をささげ、キリスト者として私はこの家に召されているのだということを覚えて、主イエスの御跡に倣って歩んでいこう。そのような信仰の思いが与えられていったのです。教会が伝道するという時、私どもがそこで紹介する神様というのはこのザアカイ物語の中に鮮やかに示されている神様であり、主イエスなのです。
また、主イエスがおっしゃった「この家」というのは「教会」のことだと理解した人もいました。その一人、宗教改革者マルティン・ルターという人は、教会堂が新しくなった時、つまり、献堂式の時にはこのザアカイの箇所を読みなさいと言いました。意外に思われるかもしれません。パウロが書いた手紙のように、「教会とは何か」ということが直接説明されているわけではないからです。でも教会とは何か、なぜあなたたちは新しい教会堂を建てたのか。そのことを考える時、このザアカイの物語が大事なことを教えているというのです。なぜ私どもは教会堂を建て替えたのでしょうか。例えば、老朽化やバリアフリー化の問題、台風の大きな被害もありました。より積極的な理由として、地域の方々に福音を届けようという思いをもう一度新たにしたいということでした。つまり、献身の思いです。これらの理由だけで、十分建て替える理由になるのです。
でも、忘れてはいけないのは、「教会」という家に主イエスが訪ねてくださるということです。ザアカイの家を訪ねられたように、千里山教会にも主が来てくださるのです。このことは旧会堂の時代から言えることです。時代も変わり、牧師も教会員も変わっていく、会堂も新しくなりました。教会に生きる私ども一人一人の中には更なる変化があったことでしょう。色んな変化を経験した私どもですが、教会の頭でいてくださる主イエスは、私どもと共に今まで歩んでくださいました。千里山教会という家を訪ねてくださいました。そういう意味では、新しい会堂ができたからと言って、改めて主イエスをお迎えするという話でもないかもしれません。けれども、新会堂が完成したという大きな節目の中で、今まで良い意味で当たり前のように思っていたことを、もう一度新しい心で受け取り直すことはとても大事なことです。いや、本当は主の日ごと思い起こすべき神の恵みであるはずです。
主イエスがザアカイのところを訪ねてくださったように、私のところを訪ねくださいました。私の名を呼び、「どうしてもあなたを救わなければいけないから、降りて来てほしい」とおっしゃったのです。そして、私どもは自分の家に主をお迎えし、そこに救いが訪れたのです。更に私の家族にも祝福が与えられていることを信じ、神の家である教会で、主イエスの訪問をいつも喜び、神様の御名をたたえる者とされたのです。ぶことが許されているのです。自分自身も自分の家族も、そして、千里山教会も様々な弱さや課題がありますし、ちょっとこれは見られると困るという部分もあるかもしれません。あるいは、神様の前にいるにもかかわらずいい格好をしたがるかもしれません。しかし、それでも主イエスは私どもの神でいてくださり、教会という家に来てくださるのです。そして、ここで聞くのは、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」という言葉です。何度聞いたか分かりませんが、何度聞いても嬉しくなるのです。この祝福に満ちた特別な「今日」という日、また「主の日」の恵みを携えて、それぞれの歩みを始め、神の国の前進のために神と教会に仕えていく思いを新たにします。隣人やこの町のために執り成し、福音を宣べ伝えます。その私どもの日々の歩みは決して空しくはないのです。喜びと楽しみに満ちた歩みなのです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストよ、いつも私のところに来てください。家族のところ、あの人のところを訪ねてください。そして、教会を訪ねてください。これからも復活の主の訪問を心から喜ぶ群れとして、あなたの前に立ち続けることができますように。そして、主にある慰めと救いを届ける器として、私どもを用いてください。あらゆる苦難の中に、主にあるあらゆる慰めが与えられることを私どもは信じています。この恵みを教会の仲間と共に分かち合い、さらにはこの交わりの中に新しい仲間を加えてください。また、主に遣わされている私ども一人一人が、隣人の傍らに、この町の傍らに立つ慰め手、執り成し手としての使命に生きることができるように励ましてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。