2022年09月18日「主に目を注ぐ」

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主に目を注ぐ

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 123編1節~4節

音声ファイル

聖書の言葉

1【都に上る歌。】目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます/天にいます方よ。2御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。3わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。4平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。詩編 123編1節~4節

メッセージ

 夕礼拝では、詩編の中から特に「都に上る歌」と呼ばれる御言葉に共に聞いています。詩編第120編から第134編までの全15編です。「巡礼歌」とも呼ばれます。神の都エルサレムに巡礼する際に歌ったと言われる歌が集められています。本日の第123編は、都に向かう途中、あるいは、故郷に帰る途中で歌ったというよりも、もう既に神殿に到着して神を礼拝する際に歌った賛美であり、祈りではなかったかと言われています。「目を上げて」という冒頭の言葉は、神殿において天に座しておられる神を仰いでいる様子を表している言葉です。以前聞きました詩編第121編においても、「目を上げて」という言葉から同じように始まっていました。これは巡礼の旅に向かう前の話です。目を上げて、エルサレムに向かうその道の先にある山々を仰ぎます。山々が象徴するように、信仰の旅路には大きな困難が待ち構えています。そのようなところで、「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから」と信仰を告白するのです。そして、神の助けを祈り願います。この祈りが聞かれ、神がおられる神殿までの旅路、信仰の旅路が守られ、神を礼拝する幸いにあずかっています。この幸いは私どもが週毎の礼拝において共に味わっている恵みです。

 ところで、この詩編第123編はたった4節しかありません。詩編の中でも短い詩編の一つとも言えます。すぐに目を通すことができます。聖書の御言葉に、あるいは、詩編の御言葉に親しんでいる人であるならば次のようなことを、もしかしたら考えるかもしれません。それは似たような聖書の言葉、似たような詩編の言葉を聞いたことがあるということです。何かこの詩編だけが特別に語っているとか、この詩編に聞かないと分からない真理がたくさんあるとはどうも思えないということです。そう思って立ち止まってしまうのです。例えば、3節、4節を見ると、この詩編を歌った詩人や彼と共にある信仰の仲間たちが苦しみを覚えていることが分かります。このように世の力に圧迫される信仰者の姿は他の詩編にも見られますし、「わたしたちを憐れんでください」という祈りもこの詩人だけが祈った祈りではありません。もちろん「憐れんでください」というのは、後にラテン語で「キリエ・エレイソン」と呼ばれ、今日に至るまで大切な祈りの言葉とされてきました。

 それゆえに、とりわけ私どもが留めるのは2節の言葉ではないかと思います。ここにこの詩編固有のメッセージがあると考えるからです。「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。」この詩編について解説しているある本の中で、冒頭からその人はこの詩編を称賛するのです。「この短い、つつましい祈りは、ただ一つの感動的な優しいたとえを巡っている。」「ただ一つの感動的な優しいたとえ」というのは、僕が主人に目を注ぐように、神に目を注ぐということです。さらにその人は続けてこう言うのです。「これは誠実で深い敬虔な心情からあふれ出た詩である。」また解説の最後でこう言います。「…この詩全体が単純で真実な、巧まずして率直な、敬虔な祈りの最も麗しい例の一つとなっている。」そう言って、この詩編の御言葉が放つ輝き、美しさに圧倒されています。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「すべての信仰者のために、(詩人は)この祈りの定型を執筆した。…(祈りの模範がここにある)」と言ったのです。たとえ、よく耳にする祈りの言葉であったとしても、その言葉が持つ意味はもちろんのこと、祈ることそのものがどれだけ信仰者として美しい姿であるのかということをいつも思い起こす必要があるでしょう。詩人は神殿で目を上げて祈りました。これまで嫌というほど周りから苦しみを受け続けてきました。しかし、目を上げて、天におられる神に向かって祈る時、そこから一筋の光が闇の中に、苦しみの中に射し込んでいることを実感していたことでしょう。

 詩人が神殿において目を上げて仰いでいるお方は、天におられるお方です。より丁寧に申しますと、「天の玉座に座しておられるお方」ということです。神様はただ天におられるというのではなく、この世界のまことの支配者であり、勝利者であり、まことの王として、その座に座っておられます。ですから、詩人が見つめていたのは、すべてを支配し、すべてを導いておられる全能なる神、力ある神です。だから、目を上げて祈ることが、既にこの詩人を含め、私ども信仰者にとって光となるのです。この世において様々な力に苦しめられている私どもですが、本当に力ある方はただ神お一人であるからです。だからこのお方と共にあるならば、失望せずに生きることができます。すべてを天におられる神にお委ねして歩むことができるのです。

 この時、詩人がいる神殿という場所は神が臨在する場所です。神が共におられるということをどこよりも強く実感できる場所でした。ですから人々は遠いところからはるばる神殿にまでやって来たのです。その神殿にいながら、「天を仰ぐ」というのは、何か矛盾しているように思われるかもしれません。ここに神がおられるのであれば、目を上げて天を見る必要はないのです。なぜ天を見上げるのか。天というのは、色んな説明ができるかもしれませんが、一つ言えるのは、遠いところにあるということです。空や雲が遥か手の届かないところに存在するように、神様もまた私どもを遥かに超越したお方であるということです。そういう意味で、私と神様の間にちゃんと線を引いているということです。それが神を畏れるということでもあるでしょう。しかし、全てにおいてこの私を遥かに超越している神様に向かって、詩人は1節で「あなた」と親しく呼びかけています。私と神様は天と地ほどかけ離れている。私という無力な人間に対して、神は如何に力強いことだろうか。まして罪の問題を考えるならば、なおさら神様との距離は遠いのです。決して交わることはないのです。そのように、私と神様との関係を十分に弁えながら、「あなた」と親しみをもって神様に呼び掛けています。神様を賛美し、祈り、時に嘆き訴えるのです。こういう祈りの姿というのはどこにも見ることができない美しさです。

 続けてこう歌います。ある人が「ただ一つの感動的な優しいたとえ」と言った箇所です。もう一度、2節をお読みします。「御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ/はしためが女主人の手に目を注ぐように/わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。」ここに二人の人が登場します。一人は僕。もう一人ははしためです。女性の僕ということです。彼らもまた何かに目を注いでいます。それは自分が従うべき、それぞれの主人の手です。主人と僕という関係がここにあります。僕というのは奴隷ということですから、彼らが主人の手によって酷いことをされないだろうかと怯えている。そんなことを考えてしまうかもしれませんが、ここで言われている手というのは暴力を振るったりなどというふうに、酷いことをする手ではありません。続けて、「わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ/憐れみを待ちます。」とあるからです。僕が主人の手に目を注いでいるのは、その手から良いもの、恵みが与えられることを期待しているのです。詩編の中に次のような言葉があります。「あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。」(詩編104:28)「わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。」(詩編138:7)詩人がまことの主人である神様の手に目を注ぐのは、神様の手が開かれ、豊かな祝福にあずかりたいと願っているからです。困難や苦しみの中に差し伸べられる助けの手、救いの手を待ち望んでいます。

 ある説教者がこの詩編の祈りに導かれ、福音書に記されている一つの物語を思い起こしています。マルコによる福音書第7章24節以下に記されている「シリア・フェニキアの女の信仰」と呼ばれている物語です(新約p78)。彼女の幼い娘が悪霊にとりつかれています。それで主イエスの足もとにひれ伏し、助けを求めます。しかし、彼女はシリア・フェニキアの出身でした。つまり異邦人だということです。それで主イエスは、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」とおっしゃって、娘を助けることを拒否なさいました。「子供」というのは神の民イスラエルのことです。一方、「小犬」というのは彼女たちを含む異邦人のことです。主イエスは、犬のような異邦人を救うつもりはないとおっしゃったのです。彼女の信仰を試すためにわざと冷たい言葉を浴びせたというのではなくて、まず神の民を救うことが神様の御計画であるがゆえに、小犬に救いの恵みを与えるつもりはないと言ったのです。なぜイスラエルの民が最初に救われなければいけないのでしょうか。それは一番罪深い民であるからです。だから真っ先に救われる必要があったのです。そのことをとおして、全世界に救いが広がっていく。それが神様の救いの御計画でした。ただシリア・フェニキアの女性はそんなことは知りません。けれども、「小犬」呼ばわりされて、腹を立てて、主の前から立ち去ったのではなくて、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と答えたのです。まことにユーモアに満ちた言葉です。彼女は想像力を働かせます。食卓についている主人の手が開かれ、小犬である私は、下にこぼれ落ちるパン屑を待ち望んでいるのです。「おこぼれのパンであったとしても、私たちは十分に生きていくことができます。それほどあなたの救いの恵みは豊かなのです。そうではありませんか?イエス様!」主イエスは、この女性に、ある意味打ち負かされてしまいました。しかし、彼女の信仰をたいへん喜んでくださり、願いどおり娘は救われたのです。

 僕が主人の手に目を注ぐように、詩人は神様の手に目を注ぎます。それは、「いったいいつになったら救いの手が開かれるのですか」という苛立ちというのではなく、苦しみの中、神様が私たちを憐れんでくださることを期待し、待ちながら祈っているのです。それは同時に、あのシリア・フェニキアの女性のように、あなたが憐れんでくださるまでは、あなたが恵みをくださるまでは祈ることを決してやめません。祈り続けますというしたたかな信仰があるのです。「今すぐにでも助けていただかないと困ります。どうかお救いください」という緊迫の中にあって、しかし、目を上げて天に座しておられるまことの主人である神様に目を向けます。その力ある神様の御手から溢れ出る豊かな救いを心から期待し、神様に委ねるのです。そのような姿こそ、すべての信仰者の模範であり、そこに私ども美しさも同時に伴うのです。祈る私どもを神様が天から光で照らしてくださるからです。

 さて、後半の3節、4節が祈りの内容、祈りの本文となります。「わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください。わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。平然と生きる者らの嘲笑に/傲然と生きる者らの侮りに/わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」2節の最後にもありましたが、3節でも繰り返し、「わたしたちを憐れんでください」「主よ、わたしたちを憐れんでください」と言葉を重ねます。そして、主語が1節の「わたし」から「わたしたち」に変わっています。信仰の仲間を代表して祈っているのです。「私の祈りは私たちの祈りでもある。」そのように言うことができ、そのような祈りの交わりに生かされている者たちの幸いがここにあります。

 詩人やその信仰の仲間たちは、「恥に飽かされています」とあるのですが、その恥や苦しみをもたらしている者たちが、4節にあるように「平然と生きる者たち」であり、「傲然と生きる者たち」です。この詩編の時代背景についてはどうもはっきりと定まっていないところがあります。バビロン捕囚の後、神の民が各地に散らばって行きました。そこは異邦人が住む場所で、周りの人たちはまことの神を知りません。それで自分たちが信じる神を馬鹿にされたり、酷い目に遭わされたと考える人もいます。一方で、これはイスラエルの国の中での話で、何事もないかのように平然と生きる者、傲然と生きる者、高ぶる者らというのは、国の中で大きな権力を持っている人のこと、富裕層の人たちのことだと考えられます。要するに、この世の力によって苦しめられている人たちです。そういう意味では、どの時代でも、どの社会の中でも起こりうる問題であり、どの時代でも聞こえてくる人間の叫びであり、嘆きではないかと思います。

 一人の人間として大切に扱ってもらえない現実、人間ではなく、まるで道具のように扱われてしまう悲惨があります。社会や組織の大きな力に呑み込まれ、ただ自分たちに利益をもたらすためだけに使われます。自分たちにとって役に立つかどうかという理由だけで、自分の価値が決められるのです。ですから、力にならないと判断されたら、当然大切にされるはずなどありません。誰も自分は軽んじられたくないと思いますから、生き残るために必死になります。そこには競争が生まれ、勝ち負けが生まれます。誰も負けたくはありません。絶えず緊張感で満ちています。心のゆとりなどありません。「幸いにして」と言うべきかどうかは分かりませんが、自分が勝者になったとしても、その下には負けた者がいるということです。それは負けた者がすべて悪いのだということになるのでしょうか。負けた者を助けていたら、周りに置いていかれる。とにかく勝つことが大事、上り詰めることが大事、結果を出すことが大事。他の人間がどうであろうが、そんなことを気にしているようでは甘いという話になってしまうのでしょうか。昔も今も、どの場所においても、豊かさや栄光や平和というものは、勝者が敗者を踏み台とし、弱い者が犠牲となって成り立っているところがあります。そして、そういう現実が、どこかおかしいと気付きながら、「結局は自分に力がないせいだ」と嘆いてみたり、「もう上を目指す気力もない」と言って諦めてしまうということがあるのではないでしょうか。でも、聖書が語るのはこの世の高みを見ている限り、本当の解決はないのだということです。詩人は3節と4節の終わりで、「わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。」「わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」と同じ言葉を重ねました。「飽かされています」という言葉です。これは「もういっぱいです」とか「満ち溢れています」とか「もううんざりです」というふうにも訳すことができます。もう十分なほどに恥を受けた、苦しみを受けた。もう限界ですという魂の叫びです。

 「わたしたちを憐れんでください。」「わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」この叫びが、家族の中というたいへん身近な場においても、また友人・知人をはじめ、様々な交わりの中で響いているという事実を知っています。神を信じる信仰に生きていても同じように叫ばざる得ない現実があります。教会の中においても同じです。そして、本当のことを言うと、そのような魂の叫びを聞き逃してしまっているケースのほうが多いのかもしれません。

 しかし、私どもの祈りに、私どもの魂の叫びに耳を傾けてくださるお方がいます。天に座しておられる神様です。そして、祈りへの応答として、神様は御子イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。主イエスの十字架のお姿を仰ぎ見る時に示されますのは、勝つか負けるか、上か下か、役に立つか立たないかという、この世の中の構造を根本的に変えるのは、ただ神の憐れみの力によるということです。神が神であられるということを、神が本当に力あるお方であるということを、どのような形で明らかになさったのか。それは主イエスが天から地に降られたように、ひたすら下に下に降って行くということをとおして、最後には主が十字架で私どもの罪のために苦しみを負い、死なれるということをとおして明らかになさったということです。そのようにして、神様は貧しい者、虐げられている者、そして罪人を救い、彼らの神となってくださいました。

 この世の力であったり、地位であったり、知恵であったり、そういうことがその人の人生の価値を決めるのではないのです。神様は「それは違う!」と言って、そのような価値観を十字架の上で裁かれたのです。もちろん、上の立場になることや勝ち続けること、富を持つことがいけないわけではありません。しかし、そこに神がおられないような生き方をしているならば、神様の御手によって今の豊かさが与えられたということに感謝する心を忘れてしまうならば、それは虚しいだけなのです。

 しかし、恥に飽き足り、蔑まれるようなことがたくさんあったとしても、その苦しみを神に訴えるならば、あるいは、そこで赦しを得るならば、私どもは救われます。生きる力が尽き果てようとする時、ひたすら神の憐れみの御手を待ち望むのです。そのような一筋のまなざして神を見つめる者たちに対して、「あなたの生き方は本物だ」と神様は最後に告げてくださるのです。神様の憐れみは、奴隷のような者をも、小犬のような私をも救ってくれる。それほどに神の憐れみは豊かなものです。イエス・キリストに示された主の憐れみの力がこの世界の救う本当の力となります。

 詩編の詩人は「わたしはあなたを仰ぎます」と祈り始めて、途中から「わたしたち」に変わりました。わたし一人のこととしてではなく、わたしたちのこととして祈ったのです。このことは、地上の教会がこの世に代わって、この世のために祈ることとも重なるのではないでしょうか。生きる目的を見出せない闇の中にあって、天におられる神を見上げ、愛をもって支配し給う神の御手を見つめます。私どもを苦しめる人々の罪、いや自分の中にもある自己中心の深い闇に勝利するために十字架について死んでくださった主イエスの御手、主が負ってくださった十字架の傷を見つめながら、そこに一筋の光が射し込んでいること。ここに確かな希望があることを覚えるのです。「主よ、あなたが憐れんでくださるまでは祈ることをやめません。」この信仰告白は、主イエスが再び来てくださる終わりの日まで続きます。その祈りの日々を支えてくださるのもまた神様御自身であり、神から与えられる憐れみに他なりません。

 教会は神がその名を留めてくださった場所です。それゆえに、私どもは神の名によって教会に集められます。主イエスの名によって祈るためです。教会がそのような「祈りの家」として、この地上に立ち続けることを神様は望んでおられるのです。お祈りをいたします。

 目を上げて、祈る度に、私どもの神がどのような神であるかを思い起こすことができますように。神よ、あなたの御手がどれほど憐れみに満ちているのかを知るだけでなく、既にその御手によって捕らえられ、あなたのものとしていただいた幸いを、祈る度に感謝することができますように。魂の叫びが消えることがないこの世の闇の中にあって、私どもは望みをもって祈り続けることができますように。あなたの憐れみを祈り求め、あなたの恵みを届ける器として豊かに用いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。