2022年09月18日「慰めの対話を求めて」
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慰めの対話を求めて
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ペトロの手紙一 2章18節~25節
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聖書の言葉
18召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。22「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。ペトロの手紙一 2章18節~25節
メッセージ
来月の教会修養会に向けて、主題である「慰めの共同体・教会」というテーマで9月から御言葉に共に聞いています。本日の説教題は「慰めの対話を求めて」ということです。「慰め」というのは、「相手」があって成り立つものです。一人で慰められるということはありません。誰から慰められたり、誰かを慰めたりという関係があって、初めてそこに慰めが生まれ、慰めの交わり・慰めの共同体が生まれるのです。では、誰かを慰めるという時に、私どもは具体的に何をすればいのでしょうか。何が必要なのでしょうか。聖書が語る「慰め」という言葉の意味は、「側に呼び寄せる」ということでした。そうしますと、「こっちにおいで」と声を掛けたり、今度はこちら側から相手に寄り添い、傍らに立って一緒に立つことが大事だということになります。もちろんそのとおりだと思います。何をするということよりも、そこにいる、その人のために居てあげることの大切さが叫ばれることがよくあります。
今、祈祷会ではヨブ記を学んでいますけれども、たいへんな苦難に遭ってすべてを失ってしまったヨブを慰めるために3人の友人がやって来るのです。最初はあまりの悲惨を目にして、言葉を失ってしまいます。ただ悲しみの中に一緒に座り続けることしかできなかったのです。けれども、ヨブが自分の運命を呪い、神の御業さえも否定し始めた時に、黙ってなどいられなくなりました。ヨブよ、お前がなぜこれほど酷い目に遭ったのかを教えてあげようと言って、同じような話を永遠に繰り返すのです。それは、お前が神の前に大きな罪を犯したら、その裁きとして苦難が襲ったのだというのです。しかし、神を畏れ、正しく生きていたヨブにとって、友人の言葉は説得力を持たず、慰めにもならなかったのです。それならば何も語らず、一緒に悲しみの中に座しているほうが慰めになったかもしれません。こういう経験は私どももよくします。一所懸命慰めようと思って語った言葉が相手に届かないこと。せっかく相手を思いやって語った言葉を受け入れてくれず、次第に腹を立ててしまうこと。それならば何もしないほうが良かったということにもなります。また、慰められる側の立場に置かれることもあります。あまりにも酷いことは言われないかもしれませんが、「そういうことではないんだよなあ」と思うことや、しばらく放っておいてほしいと思うこともあるかもしれません。とは言え、相手との関係もありますから、あまり嫌な顔はしないものの、愛想良く振る舞うのも正直疲れてくるのです。
では、「慰める」という時に、その人に対して何をしたらいいのでしょうか。時と場合にもよりますが、本当に私どもはそこで何も語らなくてもよいのでしょうか。最後まで慰めるべき言葉を見出さないままでいいのでしょうか。やはりどこかで対話の必要性というものを感じているのではないかと思います。信仰生活を考える上でも言葉、対話を無視して考えることはできないからです。御言葉や説教においてもそうですし、祈りも賛美においても言葉がたくさん用いられます。神様との交わりや礼拝のことを考える時、対話なしに考えることはできないのです。普段の生活においてもそうでしょう。それぞれの家庭において、学校や職場において、そこで会う人、そこで共に生きる人との交わりにおいて対話は必要です。そこでどのような慰めの対話をしているのでしょうか。そして、特にここで言われていることは、何よりも「教会」における対話です。教会の中でいったい私たちは何を話しているのでしょうか。礼拝の中でというよりも、交わりの中でどのような言葉を交わしているでしょうか。朝、教会に着いたら挨拶をすることでしょう。礼拝が終わったら、何気ない世間話をすることもあるでしょう。そこでちょっとした相談事をするということもあるかもしれません。そういう何気ない挨拶や会話も大事なことに違いありません。自分では何でもないようなことだと思っていても、相手の人がとても慰められるということもあるからです。ただ「慰めの対話を求めて」という時に、どうしたらお喋りが上手になれるとか、どういう話題を話したら社交的になれるとか、そういう話を今日ここでしようとしているのではないということです。
私どもは家庭など色んな場所で、そして、教会においても、対話を積み重ねなら生きています。そこで人生相談のような大切なことについて対話することもあります。しかし、信仰に生きる私どもにとって、この問題はとても大切なことだからと知っていながら、意外にも真正面から取り扱わない問題、どうも遠慮してしまう問題があるのではないでしょうか。それが今日の御言葉において触れられていることですけれども、それは人間の「罪」を巡る問題です。共に聞きましたペトロの手紙一第2章24節に次のような御言葉がありました。慰めの対話の急所となる言葉の一つです。ペトロはこう言います。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」本日の御言葉の中には、先週もそうでしたが、「慰め」という言葉自体はありません。ただそれに近い言葉として「癒し」という言葉が24節にありました。慰められるということは、癒されることだと思う人も多いと思います。ただ聖書が語る「慰め」も「癒し」も心がほっとする、暖かくなるというようなことではありません。ここで言われている「癒し」というのも、「慰め」という言葉同様、神の救いそのものを表す言葉です。そして、主イエスが与える癒しというのは、主が十字架で負われた傷によって、私どもに癒しが与えられたということです。そして、主イエスの十字架の傷によって癒されたもの、それが私どもの罪です。主イエスを十字架に追いやり、主に傷を負わせたのも私どもの罪なのです。
教会において、罪の問題が語られないはずはありません。救いの根本に関わることだからです。しかし、例えば、教会の中で誰かがおかした罪を巡って、どれだけのことが語られるのでしょうか。
「あの人があんなことをした」と噂するのではなくて、その人が心から悔い改め、もう一度、神様のもとに立ち帰ることができるために心を砕き、そこでどのような慰めの対話をしているかということです。挨拶や教会のことや世間話はよくするのだと思います。でも具体的な罪の話はあまりしないのです。したくないのです。聞きたくもないのです。自分の罪や兄弟の罪というのは、教会員同士対話をしてもどうしようもない。罪を解決し、赦してくださるのは神様以外おられないなのだから、お互いそれぞれの問題とすればいいではないか。その人が自分で神様と向き合い、祈り、御言葉に聞き、最後は悔い改めればそれでいいではないかと考えてしまうのです。あるいは、そういう働きは牧師がすればいいのであって、私たちにはできないし、する必要もないと考えてしまうかもしれません。
「罪」についてどう考え、それらの問題が、教会の中で起こってしまった場合、どう対処したいいのでしょうか。実は少し前のことですけれども、今年の2月に3回に亘ってマタイによる福音書第18章からこのことについて御言葉から聞きました。主イエスは弟子たちに、小さな者の一人を軽んじてはいけないとおっしゃいました。迷い出た一匹の羊を一所懸命捜すまことの羊飼いである主イエスのお姿を語られました。また、具体的にどういう仕方で兄弟の罪を指摘したらいいのか。上手くいかなかった場合は次にどうしたらいいのか。「教会戒規」のことも言われていました。教会が心を合わせて祈るべき祈りとはどのような祈りなのか。そして最後に、あなたという人間がどれほど神様から憐れみを受け、豊かな赦しが与えられているのかを心を熱くしてお語りくださいました。改めて、マタイによる福音書から丁寧に聞きたいという思いさえいたします。罪についての対話、悔い改めに導く対話をするために、私どもは何をすればいいのでしょう。ここでも私どもはいつものように聖書を開き、祈りをささげます。
ペトロの手紙は、マタイによる福音書のように兄弟の罪とどう向き合えばいいかということが記されているわけではありません。しかし、罪の問題を扱い、神がどのようにして罪から私どもを救ってくださったのかを語ります。さらに興味深いのは、教会の中でというよりも、ここではそれぞれが召されている場所、遣わされている場所において直面する罪の問題とどう向き合い、どう対処すればいいかということが語られているのです。
この手紙は主イエスの弟子であったペトロが、迫害下にあった小アジアの教会、今で言うトルコの北部にある諸教会に宛てて書かれたものです。この箇所では、18節に「召し使いたち」とありますように、当時、召し使いとして教会に生きていた信仰者たちに向けて言葉が語られます。当時ローマの国には6千万人もの召し使いがいたとも言われます。ですから、この手紙の中で、今日お読みしたこの部分が一番よく読まれた御言葉ではないかと考える人もいます。「召し使い」と訳されていますけれども、要するに「奴隷」ということです。奴隷というと重労働を強いられている人たちというイメージがありますが、ここで言われている奴隷というのは、家に属する奴隷のことです。それで「召し使い」と訳したのでしょう。そして奴隷というのは、主人の家に一緒にいるものの家族の一員でありません。あくまでも家に属するもの、家の所有物でありました。そして、ペトロは最初に「召し使いたち」と語ったあとで、第3章1節で「同じように、妻たちよ」と言って、今度は妻たちに向けて語ります。さらには7節で「同じように、夫たちよ」と言葉を続けていくのです。子どもたちについては記されていません。まだ幼いので、親に語れば十分だと思ったのかもしれません。要するにここは家族に向けて語られている信仰の言葉、信仰の対話だということです。違う言葉で言えば、「家庭訓」「家訓」と呼ばれるものだということです。ペトロは迫害下にあるキリスト者の各家庭の信仰を心配したのでしょう。そのような中で、教会を構成する一つ一つの家族の信仰が確かにされることを願ったのです。
このペトロの言葉はいわゆる「家訓」のようなものだと申しました。しかし、分かりにくいかもしれませんが、ここに一つの革命が起こっているのです。家のあり方、家訓についての大きな革命です。どういうことでしょうか。そもそも家族に属さないはずの召し使い、奴隷のことが家訓の中に記されていること自体が当時としては驚きであったに違いありません。そして、それよりも大事なのは順番です。最初に記されているのは召し使いのことなのです。それに続いて、妻、夫の順番です。これは異例のことで、普通は夫が一番最初です。次に妻の順番なのです。けれどもここでは順番がまったく逆になっているのです。そして、第3章1節と7節で「同じように」という言葉があります。「同じように」と言うのですが、最初に夫は妻と同じようにということです。そして、妻は召し使いと同じようにということです。まるで召し使いの生き方が家族の模範であるかのような書き方です。もちろん、召し使いの生き方が家族の者たちのすべての模範ということではなくて、21節にあるように、召し使いの模範、すべての者の模範は主イエス・キリストです。そして、ペトロの言葉によって革命が起こったというのですけれども、この手紙を読んだ召し使いたちは、「さあ、今こそ立ち上がろう!」と言って、奴隷解放運動を始めたのではないということです。何か国を騒がすような政治的運動を起こしたというのでもないのです。周りの人からすれば、革命が起こったなどと言うけれども、何も起こっていないではないかと言われるようなことであったかもしれません。しかし、召し使いたちの信仰、生きる姿勢は明らかに御言葉によって変えられていったのです。正直、このペトロの言葉は現代受けするものではないでしょう。時代背景もありますが、お前は私に従えとか、まるで夫が家の中で一番力があるかのように思えてしまうからです。夫だろうが妻だろうが、男だろうが女だろうが、皆等しいのであって、誰かに従って生きることなど時代遅れだと考えるのです。だから、目に見える形で大きな革命を起こし、平等を訴えたほうが余程人々に説得力を持つと考える人もいるのです。しかし、当時の奴隷たちはそのような仕方でこの世界をひっくり返してやろうなどとは少しも考えなかったのです。本当に説得力をもって人々に訴えかける生き方、自分自身を含め、すべての者にとっての幸いとは何であるのか。傷つくことの多いこの社会にあって、何が真実の癒しであるのかを、改めて御言葉から受け取ったからです。
私どもにとっての真実の模範、それは主イエス・キリストです。21節をお読みします。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」「模範とする」というのは、お手本をなぞって書くことという意味です。私どもも初めて字を習う時や習字の時などに、お手本をなぞりながら綺麗に書くということを覚えることがあります。生涯において多くのことを学んで成長して行きますが、学ぶといのは真似ることであり、倣うことです。そして、ペトロはキリストを模範とするようにと語る中で、「足跡」という印象深い言葉を残しました。慰め深い言葉の一つでしょう。主イエスの足跡ですから、「御跡」と呼ぶこともあります。主の御跡というのは、私どもの信仰の歩みを初めから終わりまで導く大切なものです。なぜなら、人生のいかなる場面においても、主イエスの足跡が残されているからです。残されていない場所はないのです。まだ主イエスのことを知らなかった時でさえ、主は私どもと共に歩んでくださっていたのです。そして、将来というまだ足を踏み入れていない場所や時間においても、主イエスは先立って進んでくださり、足跡を残してくださるのです。その足跡に自分の足、自分の歩みを重ねていけばよいのです。私どもは人生において様々な出来事に遭遇することでしょう。けれどもそこで迷わなくてもいいのです。誤った道を行かなくてもいいのです。たいへんな中にあっても、信仰の道を最後まで貫くことができるように、主が足跡を残してくださいました。私どもが模範とすべき主イエスの御跡が残されているのです。だから、主イエスの御跡に従いつつ、私どもは生きることを学びます。そこで私どもの生き方が変えられるのです。
では、私どもは主イエスの何を模範とすればよいのでしょうか。それは18節にあるように、「従うこと」です。20節の言葉で言えば「耐え忍ぶこと」です。また、言葉そのものはありませんが、私どもは主イエスから「愛すること」を学び、「仕えること」を学ぶのです。家庭において大事なのは、愛の交わりを築き上げていくことでしょう。そして、愛とは何よりも仕え合うことです。従い仕える姿を私どもは主イエスから学ぶのです。このことは神の家族である教会共同体においても同じように言えることです。愛というのは、「これが私の愛なのだから、文句を言わず従え」と言って、相手を支配することではないはずです。あるいは、お店のサービスのように、あなたが喜んでくれるために一所懸命サービスをするけれども、それに見合った代価、利益をちゃんと払ってください。そうしないとあなたを愛しません、あなたに仕えることなどしませんというのでもないのです。
主イエスが模範として示してくださった愛とは何なのでしょう。仕えるということはどういうことなのでしょうか。この手紙を書いたペトロにとって忘れられない出来事がありました。十字架にかけられる前の夜のことです。主イエスは最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗ってくださいました。ヨハネによる福音書第13章に記されている出来事です。足を洗うという行為は当時奴隷がすることでした。しかも、ユダヤ人ではなく、異邦人の奴隷がする卑しい仕事でもあったのです。しかし、主イエスはまるで奴隷のように身を低くして、弟子たちの足を洗ってくださり、愛を示してくださったのです。弟子たちに模範を示すためです。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14-15)主イエスはペトロの足を洗いながらこのようにもおっしゃいました。「今あなたにはわたしがしていることが分からないだろう。けれどもあとで分かるようになる。」足を洗うという出来事、さらには十字架の出来事が何を意味するのか、ましてここに神の愛が示されているなどとは、この時ペトロにこれっぽっちもわかりませんでした。だから、主イエスを三度否んだのです。あの人のことは知らない…。あの人とは何の関係もない…。そういう意味で、ペトロという人は、主イエスの模範どおり生きることができなかった人です。主イエスの足跡どころか、主イエスの背中を間近で見ながら、間違った道を行ってしまったのです。大きく足を踏み外したのです。そして、自分の力によって戻ることができないほど、神様から遠く離れてしまったのです。迷い出た一匹の羊になってしまったのです。しかし、そのペトロの罪のために主イエスは十字架で死に、甦ってくださいました。主イエスの愛が私を捕らえ、真実の魂の牧者である神様のもとに戻ることができました。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」「あなたがた」の中には、ペトロ自身も含まれています。こんな私でさえも神のもとに戻ることができた。召し使いであるあなたがたも同じはずだというのです。あなたがたが帰るべきところに帰ることができた。この喜びと感謝の中から、もう一度歩み出そう慰め励ますのです。
ところで、「召し使い」という働きですが、これは職業でも何でもありません。誰も好き好んで召し使い、奴隷になったのではないということです。奴隷というのは、捕虜のことです。戦争で負けた国の人たちが、勝った国に連れて来られて、そこで捕虜となり、奴隷となったのです。何でこんなことにならないといけないのかと自分の運命を呪ったことでしょう。それまでは母国で普通に暮らしていたのです。かつてはそこで色んな立場や仕事に就いていた人たちです。例えば、財力があった者もいたでしょう。教養があった者もいました。医者や学者、芸術家や法律家など様々です。才能が豊かな人は、召し使いは召し使いでも、家庭教師として主人の子どもたちを教えていた者もいたそうです。そして、召し使いの中には明らかに主人よりも優れた人がたくさんいたということです。主人の言動を近くで見聞きしながら、「何てこの人は愚かなのか」と見下したくなることもあったでしょう。18節に「無慈悲な主人」とあるように、いつも理不尽なことを要求し、苦しい目に遭わせる主人のもとで働かなければいけない召し使いたちはたくさんいたのです。けれども主人に逆らうなどということなどできません。善良で寛大な主人であるなら多少辛くても喜んで仕えるでしょう。しかし、問題は相手が愚かで正しくないと分かっていながら、その人に仕えないといけないということです。その苦しみを耐え忍び、仕えなければいけないということ。このことがどれほど辛いことか、どれほど耐えられないことであるのか。私どもはこういう召し使いの話を聞きながら、どうも人事とは思えないのです。昔に書かれて手紙であるのに、私どもも生活の色んな場面で似たようなことを経験するからです。
しかし、この召し使いたちはどういうきっかけかは分かりませんけれども、教会に導かれたのです。そして、イエス・キリストの福音に触れたことによって生き方が変わったのです。これまでと生き方が180度変わったのです。それが悔い改めることであり、神様のもとに立ち帰ることです。そして、キリストによって救われたという恵みのが、自分たちの生活や働きの中に大きな変革をもたらしたのです。今の自分の境遇、つまり、召し使いとして生きているということですが、このことは偶然ではなく、「神の召し」として受け取り直したのです。21節に「あなたがたが召されたのはこのためです」とあるとおりです。19節、20節では「これこそ神の御心に適うことです」とあるように、神の御心として、今自分が召し使いとしてこの家に居るということを新しく知ったのです。キリスト者になることは、キリストに呼ばれ、キリストに召されることです。私は神からの召しとして、この家に呼ばれ、この家で信仰生活に生きることに召されたのだということを知ったのです。その時に、仕える姿勢、生きる姿勢までもが変えられていきました。自分の境遇についてもまったく異なった考え方が生まれたのです。どんなに変えられない悲惨な運命であったとしても、そこに甦りの主が立って生きておられる。そこに主イエスの足跡が残されている。だから、私はここで生きていくことができるのだと思うことができるようになったのです。イエス・キリストと出会えば、変えられない運命が変えられていく。諦めていた自分自身が新しく造り変えられていくのです。
人間が抱える苦しみというのは、職業や境遇が変わったからといって、正直どうにもならないところがあるのだと思います。すぐに違った苦しみが新しく入ってくるからです。それにここで召し使いたちが経験した苦しみというのは、無慈悲な主人によってもたらされたものでした。つまり、人間の「罪」から来るものだということです。ですから罪の問題を本当に解決しないとどうしようもないわけですが、私どもの力ではどうすることもできないのです。しかし、神様は苦しみの根っこにある罪の問題と真っ向から立ち向かってくださるお方です。ですから、召し使いたちに対して、こういう境遇に置かれたのは神様の召しであり御心なのだから、ぶつぶつ文句を言わず、耐え忍ぶようにと言っているのではないということです。今、あなたが苦しんでいる本当の問題を一番深いところで受け止めてくださるお方がいるということ、受け止めてくださるだけでなく、もうすべてを解決し、救いを与えてくださったお方がいる。そのお方が、あなたがたの愛し合い、仕え合う生き方の模範として、足跡を残してくださった。だから、苦しいと思うことがあるかもしれないけれども、安心して、勇気をもってそのお方の足跡に、自らの歩みを重ねるようにして生きてごらんなさい。主イエスに従って歩みなさいと勧めるのです。
そして、私どもの最大の苦しみである罪から、主イエスがどのような仕方で救い出してくださったのか。このことをもう一度語らずにはおれなかったのです。21〜25節をお読みします。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」日本語でもたいへんリズミカルな文体です。それゆえに、当時の教会で歌われていた賛美歌の一節ではないかとも言われています。
歌の元になっているのは、旧約聖書イザヤ書第53章の御言葉です。「苦難の僕の歌」と呼ばれ、旧約聖書の中でも大切な御言葉の一つです。なぜなら救い主イエス・キリストのことだけではなく、主イエスがどのような仕方で私どもに救いをもたらすのかということが歌われているからです。それはキリストの苦しみ、キリストの傷をとおして、私どもに神との平和が与えられるということです。キリストの苦しみは十字架刑という苦しみ以上に、罪なきお方が私どもの罪を背負い、まことの罪人として死ななければいけないという苦しみです。神に呪われ、神に見捨てられる苦しみをすべて引き受けて十字架で死ななければいけなかったということです。これほど不当な苦しみは他にありません。主イエスの十字架の意味が分かったというのは、キリストが苦しまれた本当の理由を知ることですが、それはキリストがこれ以上にない「不当な苦しみ」を受けられたということ知るということでもあります。しかもこの私のために不当な苦しみを負ってくださったのです。「これは明らかにおかしい」「間違っている」ということを主イエスはご存知でありながら、キリストはずっと沈黙を貫かれました。裁判の席でも、十字架の上でも、人々からののしられ、蔑まれても言い返すことも、仕返しをすることもなかったのです。それは私どもの罪を見逃すためでなく、私どもが受けるべき罪の苦しみを代わりにすべて引き受けてくださるためです。父なる神様の救いの御計画に従うためなのです。
24節にはこのようにありました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」興味深いのは、最後の「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」という言葉です。私どもも転んで怪我をすること、傷を負うことがあります。普通、その傷を癒すために用いられるのは薬でありましょう。しかし、魂において傷を負った場合、罪という死に至る致命的な傷を負った場合、私どもは普通考えるような薬ではどうすることもできないのです。傷をもって傷を癒すという誰も考えたことのない荒治療をなさいました。私どもの魂の傷は、自分のために苦しみ、最後には十字架で傷を負い、死んでくださることによって初めて癒されるのです。
人は人として本当に苦しまなければいけない「罪」という苦しみを、苦しむことができません。罪のゆえに、私どもは死に至る傷を負っているのに、つまり、神様との生きた関係が失われているのに、そのことと私の人生とどう関係があるのかと思っているのです。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」という預言者エレミヤの叫びにあったとおりです。人は罪がもたらす本当の恐ろしさを知りません。罪のゆえに、神に見捨てられる恐ろしさを知っておられるのは主イエスだけです。そういう意味で主イエスこそ本当の罪人なのです。
一方で、私どもは自分が傷つくことに我慢することができないということがあります。すぐに腹を立てます。他の人が傷ついていても、あまり気付かないのです。傷を負わせたのが自分であったとしも、自分がしたことに対して実に鈍感です。しかし自分が傷つくと、ちょっとしたかすり傷であったとしても我慢することはできません。人のせいにし、社会のせいにします。そのような心が殺意につながり、犯罪を生んでしまうということがあるのではないでしょうか。
しかし、聖書は告げます。あなたの傷、あなたの痛みは癒される!主の十字架の傷によって!死に至る主の痛みによって!この手紙を書いたペトロもかつては主イエスの御跡を踏むことができなかった人間です。愛することにおいて、躓き倒れた者であり、迷い出た一匹の羊でありました。しかし今は違うのです。神様のもとに帰って来たのです。主の十字架の傷によって癒されたからです。キリストのものとされた召し使いたちも同じです。彼らは自分たちの国に帰ることができなかったかもしれません。しかし、なぜ自分はこんな場所でこんな苦しみを負いながら生きていかないといけないのかと嘆くところで、主イエスとお会いしたのです。主イエスの苦しみが私の罪のための苦しみだということを知ったのです。そして、礼拝をささげる度に、感謝しつつ思い起こしたに違いありません。ああ、自分たちは帰るべきところに帰って来た!私の人生の一歩一歩は自分一人のものではなく、いつも主イエスと共にある。いつも主が私よりも先に足を出していてくださる。その足跡を踏めばよい。その御跡に従ったらよい。苦しみに耐えられないと思ったら、真っ先に十字架の主イエスを思い出したらよいのです。
「主の御跡に従う」と言う時に、それは私どもがありもしない力を振り絞って従おうというのではないのです。ただイエス・キリストが自分のために苦しんでくださったことに感謝することから生まれてくる力によるのです。だから、いつも主の救いを思い、自分たちがどう救われたかを考えなければ本当に生きる力にはならないのです。まして苦しみの中で立ち続けることなどできないのです。主イエスの苦しみを思うことは同時に、自分たちが平安の中にあることを覚えて感謝することでもある。その時に、神様の召しに応え、仕える愛の生活に生きる者とされるのです。
最後に、改めて「慰めの対話を求めて」ということですが、私どもは信仰を考える上で「罪」のことをちゃんと理解することが大事だと分かりながら、お互いあまり具体的な話はしません。悔い改めの祈りの中で、罪を告白することはありますが、自分がどんなに悪い事したか、されたかまでは皆の前ではあまり祈らないでしょう。神様と自分との関係の中で、まず罪の問題を考えることが大事ということももちろんあります。では、一方で、罪から救ってくださった主イエスのこと、十字架のこと、つまり信仰のことや御言葉を巡って、いったいどれだけお互いにそのことを話し合っているかということです。礼拝の時間を除いての話です。これは私自身の悔い改めでもあります。聖書の話はたくさんしても、礼拝や祈祷会が終われば、あまり信仰の対話はしないのです。何気ない話も大事ですけれども、どこかもったいない気がするのです。何気ない対話の中で、信仰の話が出てくるほうがむしろ大事なのです。礼拝をささげれば、信仰の対話などしなくても教会の交わりは成り立つとは言えないと思うのです。信仰生活において、いや私どもの人生において、一番大事な対話を、礼拝の時間はもちろん、与えられたすべての時を大切にしつつ、共に積み重ねていく必要があるのではないでしょうか。私どもは、毎日、お互い顔を合わせているわけではありません。ほとんどが主の日に限定されているのではないかと思います。しばらく顔を見てない兄弟姉妹もおられます。そういう意味でも、教会の交わりというのは限りがあると言うこともできますし、それだけに貴重な時です。だからこそ、教会を建て上げ、お互いを造り上げていくために、神様は何を望んでおられるのか。そのことに集中することができる信仰の心をいつも神様から与えられたいと願います。そのための教会修養会でもあるのです。お祈りをいたします。
十字架の道、救いの道を歩んでくださった主よ、あなたは私どものために十字架で傷を負い、死んでくださいました。あなたが癒してくださらなければ、癒されることのない罪の傷を、死に至る病を癒してくださいました。人間の魂に深く根付く罪のゆえに、私どもは苦しむことがあります。自分もまた人を傷つけ、何よりも神様を悲しませてしまいます。しかし、主よ、あなたはわたしに続くようにと足跡をすべての所に残してくださいましたから感謝をいたします。主の御苦しみを思いつつ、既にそこに与えられている平安を再び見出すことができますように。主の召しに応えることができるように、御心に適った歩みをすることができるように私どもの信仰生活を整えてください。教会の交わりを祝福し、主の愛に根ざした交わりをつくり上げていくことができるように、御霊をもって導いてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。