2022年09月04日「慰めの共同体・教会」
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コリントの信徒への手紙二 1章3節~7節
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聖書の言葉
3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。5キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。6わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。7あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。コリントの信徒への手紙二 1章3節~7節
メッセージ
教会修養会が来月10月10日に行われます。昨年は新会堂が与えられたという恵みを覚えつつ、「こらからの千里山教会」ということについて共に考える時を持ちました。「これからの」と言いましても、様々な課題がありますから、私の中ではなるべく多くのことを皆様に投げ掛けることを心がけました。その中の一つでも、少しでもいい。何か皆様に受け取っていただいて、神様と教会に仕える喜びを確かにしていただければと願いました。そして、具体的なことを形にすることができたらと願いつつ、1年が経ちました。果たして、どれだけの実りを得ることができたか。どれだけ前に進むことができたか。そのことを考えます時に、私自身、神様にお詫びしなければいけないことがたくさんあると思います。しかし、こうして教会の歩みも私自身の歩みも主の恵みによって守られていることを感謝し、主に従う歩みを続けていきたいと願います。
今年の修養会のテーマですが、何かこれまでとはまったく違ったテーマで学び直すというよりも、基本的には昨年と同じ「これからの千里山教会」についてです。ただ今回は「慰め」という切り口、あるいは、角度から教会のことについて一緒に考えてみたいと思いました。「慰めの共同体・教会〜神から慰めをいただいた私たちはどう生きるか」という主題です。そして、まだ気が早いと思われるかもしれませんが、修養会前日の10月9日まで、「慰めの共同体・教会」ということを主題にして、5回にわたって御言葉から共に耳を傾けます。10月の修養会当日にも1時間ほど話す時間が与えられていますが、おそらくそれだけでは足りないかもしれないということもありますが、それよりも、修養会当日に教会に来て、急に「慰め」って何だろう?と考えるよりも、もし許されるならば、備えをして望むことができたらよいのではないかと思いました。それによって、分団などの話し合いも有意義な時間になることを信じています。また、当日は予定が入っていてどうしても行くことができないという方もおられるでしょう。でも、礼拝には毎週出席できるという方もおられるでしょう。決して、私は休むから修養会には関係ないというのではなくて、ぜひ一緒に御言葉に耳を傾け、祈りつつ備えていただきたいと思います。
ところで、「慰めの共同体」ということですが、昨年もまったく触れなかったわけでもありません。また先月には、マタイによる福音書第11章の主イエスの招きの言葉を聞きました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」ここには、「慰め」という言葉そのものは出てきませんが、主イエスがお語りになった招きはまさに「慰めへの招き」であり、「いのちへの招き」でもありました。主のもとで休んで、ホッとできたけれども、やれやれまた辛い現実が待っていると言って、ため息をつきながら重い腰を上げるというのではありません。復活のいのちの息を吹き込んでいただき、厳しい現実、死の現実に立ち向かうことができる確かな力、元気をいただいて新しい週の歩みを始めていくのです。神が与えてくださる慰めもまさにそういうことなのです。
また、もう少し前のことですが、6月の「月報」に修養会のテーマのことを簡単に記しました。改めてここで読み直すということはいたしませんが、そこで「慰め」という言葉についてどういう印象を持ちますか?ということを問いました。「慰め」という言葉自体はいい言葉に違いありません。心が和み、心が穏やかになる、安心できるのです。また、そこには暖かい雰囲気があるに違いないのです。しかし、一方で、暖かいけれども、どこか弱々しい。一瞬ホッとする雰囲気はあるけれども、何かが足りない、強くはない。そのように「慰め」という言葉を受け取っている人もおられるかもしれません。しかし、それは大きな誤解なのです。今日の御言葉においても言えることですが、聖書が語る慰めというものは、したたかで強い慰めです。なぜなら、イエス・キリストに基づく慰めであるからです。罪にも、死にも打ち勝つ力強い慰めなのです。そのような意味で、「慰め」と「救い」というのは一つのことと言えるのです。神というお方が慰めそのものなのです。だから、慰められるというのは、単に心が和んで、穏やかになってというのではないのです。一瞬の慰め、限定された慰めというのではありません。私どもが礼拝の中で告白している「ハイデルベルク信仰問答」の言葉で言えば、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」ということです。
本日は、パウロがギリシアの港町コリントの教会に宛てて記した手紙を読みました。コリントの教会はパウロの伝道によって生まれた教会です。この手紙には聖書が語る慰めとはいかなる慰めであるかということ語っている大切な箇所です。1章3〜7節までに数えてみると、9回も「慰め」という言葉が記されていることが分かります。しかも、手紙の冒頭からです。このことからも、伝道者パウロがどうしても教会の人たちに伝えたいと願っているメッセージが「慰め」という言葉に込められているということが分かります。パウロはコリントの教会だけではなくて、色んな町にある教会に宛てて手紙を書きました。その中でも、一番、長い手紙がコリントの教会に宛てた手紙です。第一の手紙と合わせると全部で29章もあります。第二の手紙も全体で一つの手紙というよりも、3つの手紙が合わさったものではないかと今では考えられえています。おそらく、何度も何度も手紙を書いたのでしょう。私どもも誰かに手紙を書くことがあるでしょう。手紙を書く回数が増えてしまうというのは、当時、手紙しかメッセージを伝える手段がなかったからというよりも、相手のことを深く思いやる心があったからでしょう。パウロはコリントの教会を愛していたのです。
けれども、それはコリントの教会が素晴らしい信仰に生きていたというのではありませんでした。むしろパウロを困らせていました。パウロ以上に神様を悲しませていたのです。そのことは第一の手紙から丁寧に読めば分かることですが、そこにはコリントの教会が如何に教会の頭であるイエス・キリストから離れていたかということ。主イエスの十字架を空しいものにしてしまっていたかが分かります。神の思いではなく、人間の思いに生きていました。次第に教会の秩序は乱れ、日常生活においても神様ではなく、自分を喜ばすことばかり考えていたのです。さらには、パウロとコリントの教会の関係も正直よくありませんでした。教会の中にはパウロを「使徒」と認めない人たちもいたのです。お前は偽物の使徒、偽物の伝道者。だから、お前が語る言葉は信用できないというのです。伝道すること、教会を建て上げることにおいて、言葉が通じない、信じてもらえないというのは、致命的とも言えるでしょう。しかし、そうであるがゆえに、パウロは諦めることなく何度も心を込めて手紙を書き、正しい道に導かなければいけませんでした。その時の思いをパウロはこのように述べるのです。第2章4節です。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」それゆえに、この手紙は「涙の手紙」と呼ばれることがあります。「悲しみ」の感情をはじめ、パウロはこの手紙の中で自分の気持ちを正直に、しかも、激しく表しています。パウロという一人の信仰者がいったいどういう人であるのかがよく分かる手紙でもあります。
しかし、そのパウロが手紙の最初にしたことは、「コリントの教会はどうしようもない」と嘆いたのではなかったということです。おおよそ、人間の目からすれば、これでも「教会」と呼べるのだろうかと疑ってしまうようなコリントの教会に対して、第1章1節にあるように、「神の教会」と呼び、さらには「聖なる者たち」と呼び掛けることから始まります。裁きや呪いの言葉ではなく、神の祝福からすべてが始まるのです。どれだけ目を覆いたくなる現実があっても、神の教会であり、聖なるものたち、つまり、神に選ばれた者たちであるという信仰のまなざしで自分たちの教会、あるいは、自分自身のことを見つめることができているかどうかということが、ここにいる私どもにも問われています。私どもを見つめる、神の祝福のまなざしをちゃんと知っているならば、ある意味、それで十分だと言えるのです。それは自分たちを甘やかして、何でも楽観的に、肯定的に見ればいいというのではありません。神の教会とは如何なる教会であるかということについて、御言葉から正しく聞くならば、私どもの信仰の姿勢は必ず整えられていくということです。
パウロは、コリントの教会がどのような問題を持っていたとしても、それに打ち勝つ神の祝福の中に立つ教会であることに違いない。その確信を最後まで持ち続けます。そして、手紙の本文に当たる3節でこう語ります。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」つまりパウロがしていることは、「神がほめたたえられますように」と言って、神様を賛美しているということです。それはパウロが賛美するに値する素晴らしい恵みを経験したからです。例えば、手紙を読み進めていきますと、同じ伝道者のテトスという人が出てきます。この人はパウロの手紙をコリントの教会に直接届けに行った人物です。そのテトスから嬉しい知らせが届くのです。それはコリントの教会の人たちがついにパウロを「使徒」として受け入れたという知らせです。正しい信仰に導かれるようにと熱心に祈り続けたパウロの祈りがついに聞かれた、自分の涙が報われたという神様へ大きな感謝がそこに生まれました。それで神様をほめたたえたというのです。でもそれだけではないでしょう。3節で語られていることは、私の神がどのような神なのかということです。そのことを一つ一つ思い出すようにして言うのです「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」「慈愛に満ちた父」「慰めを豊かにくださる神」…。他にも色んな仕方で神の名を呼ぶことができたかもしれません。そのように、神の名を呼ぶ度に、祈る度に、パウロの心に賛美の歌が溢れてきます。そして、あなたがたも私と一緒に神をほめたたえよう。神を礼拝しようと招いているのです。たとえどんな問題を抱えていても、私たちは神の教会であるがゆえに、神の前に立って、共に賛美することができると言うのです。
その中で、今回の主題である「慰めを豊かにくださる神」という言葉が出てきます。「神様はどのようなお方ですか?」と聞かれたら、「神様は私たちを慰めてくださる方」と答えることができます。そして、この場合の慰めというのは、最初に申しましたように、神の救いそのものであり、罪と死に勝利したしたたかな慰めであるということです。3節の「慰めを豊かにくださる神」というのは、そのように訳してもいいのですけれども、ギリシア語を直訳しますと「すべての慰めの神」となります。これは次の4節の「あらゆる苦難」という言葉に対応していると言うこともできます。「すべての慰めの神」というのは、慰めをたくさん持っているということではなくて、あらゆる苦難に対して、すべての慰めの神ということです。つまり神の慰めは、すべて苦難、あらゆる苦難の中に届くのだということです。あの苦難には届いたけれども、今回の苦難には届かなかった、効き目がなかったということではないということです。
神様はすべての慰めの神であるがゆえに、すべての苦難に慰めをもたらすことができるお方であるということです。そのことをパウロは自身の経験としてよく知っていたのです。第11章23節以下にこのようにあります。「…苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(コリント二11:23~28)あるいは、第11章まで行かなくても、今日の箇所のすぐ後、第1章8節、9節にこのようにあるのです。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」このようにパウロは様々な労苦、災い、迫害を経験しました。体も心もボロボロになり、生きる望みさえ失ったというのです。回心し、救われる前、パウロは強く立派な自分を誇っていました。しかし、キリスト者として、福音を宣べ伝える使徒として歩み始めた時、これまで経験してこなかったあらゆる苦難を味わうことになったのです。しかし、パウロが本当に経験したことは何でしょうか。あらゆる苦難の中にあって、あらゆる神の慰めを経験したのです。だから、パウロという人は苦難が過ぎ去ったところではじめて神を賛美したというのではなくて、苦難の只中で神を賛美した人でもありました。なぜなら、神は「すべての慰め神」であるということを経験したからです。私はこれまでも多くの苦難を経験してきた。今も苦しみの中にあるし、これからも予期せぬ苦難に襲われることがあるかもしれない。しかし、苦難の中に必ず神の慰めがある。神の慰めがない苦難など存在しない。だから、私は神に望みを置き、神を信頼する。忍耐しつつ、神の望みに生きることができるのだというのです。
ところで、この「慰め」という言葉ですが、元のギリシア語では「パラクレーシス」と言います。パラクレーシスというのは、2つの言葉からなっています。「パラ」というのは、「側に」とか「傍らに」という意味があります。「クレーシス」というのは、「呼び寄せる」という意味です。ですから、「慰め」(パラクレーシス)というのは、「側に呼び寄せる」となります。そして、神様が主語になると、神様が「わたしの側に来なさい」という招きになります。神様の存在そのものものが慰めであると言ってもいいのです。先週の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」という主イエスの招き重なるところがあるというのは、このことからも言えることです。一方で、私たちが主語になると、今度は神様を呼ぶ者となるということです。いつでも神様を呼ぶことができます。神の名を呼んで賛美するだけでなく、祈ることができます。慰めの共同体というのは、神を礼拝する共同体であり、祈る共同体でもあります。苦しい時、「神様、苦しいです。私の側に来てください。私を慰めてください」と祈ります。神様は祈りに答えてくださいます。どのような道を示してくださるかは分かりません。しかし、神様は私の側にいてくださるのです。
そして、この「パラクレーシス」という言葉は、文脈によって色んな意味になります。例えば、「励ます」とか「勧める」という意味です。そこから、「勧告する」「説教する」という意味にもなりました。他にも、「弁護する」という意味もあります。もちろん愛する者が自分の側にいるだけでいい。何もしてくれなくても、あなたがここにいるだけで慰めになるということもあるでしょう。慰めの言葉を語ったつもりでいても、余計なことを口にしてしまったせいで相手を傷付けてしまうということもあるのです。しかし、慰めの源である神は、苦難の中で真実な言葉を語ってくださいます。時に厳しい言葉であるかもしれませんが、私どもを励ますためにいのちの言葉を語ってくださるのです。そして、教会が慰めの共同体として生きるために、私どもがどのような慰めの言葉を語るのか。このことも深く問われていることです。
このパウロに与えられた神の慰めは、決して、パウロ一人のものではないということです。あるいは、パウロのような激しい苦難を経験しないと与えられないというのでもありません。4節をお読みします。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」つまり、神様からいただいた慰めを自分一人のものとするというのではなくて、そのいただいた慰めを、同じように、苦難の中にある兄弟姉妹に手渡すことができるというのです。私どもは慰められるだけではなく、他者を慰める務めに召されているということです。手紙の中では、教会員の間で慰め合うということが言われていると思いますが、何も教会の中だけで考える必要はないと思います。慰めというのは、神の救いそのものだからです。だから、与えられた神の慰めを苦難の中にある誰かに届けるというのは、キリストの福音を宣べ伝えること、伝道することと同じです。あるいは、新会堂を与えられた千里山教会のこれからを考えるならば、御言葉を伝えるということだけに留まらず、地域の方々との交わりをとおして、教会という場所が慰めを知ることができる場所として立ち続けるということではないでしょうか。私どもは慰めの神を知っています。慰めの神をお呼びし、一人一人の側に来ていただくことができます。そして、そのような方々と共に歩んでいくことができるでしょう。教会は、「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」という驚くべき言葉が語られているのですが、その慰めの力の源は私たちにではなく神様にあります。この神の言葉を心から信頼しているかが改めて問われているのではないでしょうか。
次の5節ではこう語られています。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」ここでは、神様が与えてくださる慰めが、「キリストの苦しみが満ちあふれる」という言葉で言い換えられています。3節に「慰めを豊かにくださる神」とありました。あらゆる苦難の中にも届く慰めということです。この溢れるばかりの豊かな慰めが、イエス・キリストをとおして、しかもキリストの「苦しみ」をとおして、私たちの苦難多き歩みの中に確かに届けられていくということです。そして、キリストの苦しみというのは、その道の先にある十字架のことです。主の十字架によって慰めと救いがもたらされました。主イエス・キリストは私どもの苦しみを重んじてくださる方です。無視することができないお方です。十字架の苦しみと言う時に、それは何よりも私どもの「罪」の苦しみということです。私どもの罪を放っておくことができないのです。そして、罪の問題というのは、私どもが地上の歩みにおいて経験するあらゆる苦難と実に深く関わってくるのではないでしょうか。なぜなら、苦難を経験する時、私どもの心はとても固くなるからです。すべての慰めの神が私の側にいてくださるのに、そこで私どもを励ます言葉を語ってくださっているのに、神様のお姿を見失い、御言葉に耳を傾けることができなくなるということがあるからです。あるいは、苦難の中で、私どもを慰めてくださる神を呼ぶことができなくなる、祈ることができなくなるということもあるからです。あるいは、主イエスは十字架によって私の罪は赦してくれたかもしれないけれども、私が抱えているこの苦しみ、この重荷はどうすることもできないではないかと言って、十字架の救いの恵みを自分の手の中で小さくしてしまうことさえあるのです。
だから、パウロは神の慰めというものがどれだけ力強く、どれだけ確かなことであるのか。キリストの十字架の御苦しみがもたらす救いの恵みは、あなたがたの罪の苦しみだけでなく、あらゆる苦しみの中にも届き、あなたがたを賛美へと導くもの。それだけでなく、「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる」ほどに豊かなものなのだというのです。そして、主の十字架の御苦しみによって慰められ、救われたということは、そのキリストの苦しみの一端を担って生きるということでもあります。私どもが経験する苦しみは、主イエスの苦しみと深く関わります。そして、その苦しみは主イエスが先立って苦しんでくださった苦しみでもあります。ですから、それぞれの苦難にあずかって歩む人、自分の十字架を背負って歩む人は幸いな人なのです。なぜなら、そのような苦難の歩みの中で、キリストによって慰めを与えられる経験をするからです。苦難を経験することは、キリストの慰めを経験することです。いつもすべての慰めの神がおられることをそこで知るのです。私どもを招き、私どもの傍らに立つ主イエスが御言葉をとおして励ましてくださいます。そのことをとおしてもう一度、立ち上がる力、忍耐する力が与えられていくのです。だから、伝道の労苦も愛の労苦もキリストの苦しみにあずかることとして喜んで担って歩んでいくのです。
「慰め」というのは、よく考えてみると、自分一人で見出せるものではないことが分かります。私を側に呼び寄せてくださる神様との関わりに生きるところで与えられるものです。また、キリストをとおして豊かな慰めを与えられた私どもは、今度は人々に神の慰めを届けます。あるいは、自分自身が他の兄弟姉妹から慰めてもらうということもあるでしょう。要するに、慰めというのは、誰かとの関わりの中で起こるということです。神様と共に、隣人と共に生きる関係がないと慰めの出来事は起こらないのです。誰かを呼んだり、誰かに呼ばれることをとおして、その神や隣人が私の側にいる時、慰められるということが起こるのです。
このこととの関連で最後の6節、7節の御言葉があります。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」慰めの出来事は、「共に生きる関係」がないと起こらないと申しました。それは教会でよく聞く言葉に言い換えれば、「交わり」ということです。「教会」という言葉は、ギリシア語で「エクレシア」と言います。神が招いてくださった者たちの集まりという意味があります。立派な教会堂があれば、それが教会になるわけではありません。神に集められた者たちが、主にある交わりを深め、一つキリストの体である教会をこの地上で形づくります。
また7節には、「苦しみを共にする」とか「慰めを共にする」という言葉があります。苦しみに「あずかる」、慰めに「あずかる」と訳されることがありますけれども、これは「コイノーニア」(交わり)という言葉です。「交わり」という言葉もまた心暖まる言葉の一つでしょう。しかし、それはただ全員仲がいいということではなくて、それ以上に素晴らしいものです。交わりというのは、仲の良さを表すのではなくて、「分かち合う」「共有する」という意味を持っているからです。では、何を分かち合うのでしょうか。ここに教会の特色があると言えます。それは、「苦しみ」を分かち合うのだというのです。そして、同時にそこに神がおられるから「慰め」をも分かち合うのだというのです。そこに希望も生まれるのです。普通でしたら、交わりを成り立たせるために苦しみなどないほうがいいと考えるかもしれません。交わりを妨げるマイナスなものはなるべくないほうがいいのです。でも、神の教会においてはそうではないのです。苦しみを共有し、神の慰めを共有します。苦しみの共有が起こらないと、教会が慰めの共同体になることは難しいのです。苦しみを分かち合い、同時にキリストの慰めを共にします。誰かに側にいてもらえる喜びを味わい、また自分が誰かの側にいて慰めとなってあげる喜びを学んでいく。それが慰めの共同体・教会です。私どもは苦難に遭うとどうしても自分中心になってしまうところがあります。他人の苦しみに構っている暇などないのです。まずは自分のこと、まずは自分が十分に慰められることが大事。それでもまだ余裕があるようであれば、そこで初めて他者の苦しみに目を留めようという気になるのです。でも、パウロが語っているのはそういうことではありません。自分が経験している苦難の中にキリストの慰めがあるからこそ、苦しみの中にある者たちの傍らに立ち、慰め励ますことができるというのです。あなたがたの苦難はそのような驚くべき仕方で豊かに用いられるというのです。
このあと私どもは聖餐を祝います。パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で聖餐について語ったことがありました(コリント一10章,11章)。その中で、私たちは「キリストの血」にあずかり、「キリストの体」にあずかるのだと言いました。「あずかる」というのは交わり、コイノーニアということです。分かち合い、共有するということです。教会が教会であるということを、教会が一致して共に歩んでいく姿がこの聖餐の中によく表れています。苦しみを共にするということがどういうことなのか、苦しみを分かち合うことがどれだけ幸いなことなのか。そのことが聖餐の中によく示されているのです。私どもに真実な慰めるために、主イエスは苦難の道を歩み抜いてくださいました。十字架で御自身の体から血を流し、私どもの罪を清めてくださいました。この主イエスの十字架の御苦しみを共に味わいつつ、同時に、慰めをも共に分かち合います。主イエス・キリストの父である神の溢れる慰めをいただいて、私どももまた慰めの務めを果たすためにここから出て行くのです。お祈りをいたします。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。まことの慰めそのものであられる神を呼ぶ幸いにいつも生かしてください。私どもが神を呼ぶに先立って、あなたが私どもを招き、傍らに立ち、溢れるばかりの慰めを与えてくださるのだということを信じることできますように。様々な弱さや苦しみ、あらゆる問題を抱えていても、「わたしの教会」とあなたはおっしゃってくださいます。すべての慰めの源である神様に支えられられながら、神の慰めを運び続ける器として用いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。