2022年08月28日「平和の中に立とう」

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平和の中に立とう

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 122編1節~9節

音声ファイル

聖書の言葉

1【都に上る歌。ダビデの詩。】主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。2エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている。3エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い4そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。5そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられている。6エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。7あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」8わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」9わたしは願おう/わたしたちの神、主の家のために。「あなたに幸いがあるように。」詩編 122編1節~9節

メッセージ

 詩編の中で「都に上る歌」という表題が付けられたものが全部で15あります。詩編第120編から第134編の歌です。神の民がエルサレムの神殿で礼拝をささげるために巡礼の旅に出ます。その際に歌われたものだと言われています。本日はその3番目に当たる詩編第122編の御言葉です。本来ですと、第2週に詩編の御言葉を読む予定でしたが、私の体調の関係で休会することとなりましたので、この第4週の夕礼拝でめぐみキリスト伝道所の方々と共に、しばらくの間、御言葉に耳を傾けることといたします。 

 初めの1節には、「わたしはうれしかった」という詩人の喜びが歌われています。なぜ嬉しかったのでしょうか。それは「主の家に行こう」と人々が自分に声を掛けてくれたからです。エルサレムへの巡礼の旅というのは、自分一人の旅ではありません。家族や親族であったり、近くに住む者たちと共に旅をしたのです。ここに既に一つ大切なメッセージが込められています。共に旅をするというのは、自分一人で旅をするのは危険だから、なるべくたくさんの人数で集まって行きましょうということではないのです。信仰の旅路というのは、一人ではなく、信仰の仲間、今日で言えば、教会の仲間と共にすることです。私どもはどのように教会に導かれたのでしょうか。なぜ、礼拝に行くようになったのでしょうか。あることがきっかけでキリスト教に関心を持ち、自分の意志で教会の礼拝に行くようになった人も多いことでしょう。ここに行けば、助けがあるかもしれない、救いがあるかもしれない。そのように藁にもすがる思いで、勇気を出して、初めて礼拝に出席したという人も多いことでしょう。その一方で、親しい人に誘われて教会に行った。あるいは、家庭集会と呼ばれるものに参加して、初めて御言葉を聞いたという人もずいぶん多いはずです。あるいは、教会には契約の子と呼ばれる人たちもずいぶん多いですが、子どもたちもまた自分の意志というよりも親の意志によって、「一緒に主の家に行こう」と言われて、幼い頃から教会に集い、礼拝をささげているのです。

 また、洗礼を受け、キリスト者になってからも、「主の家に行こう」と呼び掛けてくれる信仰の仲間が必要です。自分の意志だけではもうどうにもならないような弱さを覚えることが信仰の歩みの中にも起こるからです。いつも祈りをもって、この自分に優しく、時に厳しい声で「主の家に行こう!」と呼び掛けてくれる教会の仲間が私どもには必要なのです。そして、私どもは誰かから招かれるだけでなく、今度は招く側に立って、教会の兄弟姉妹のことを心に掛けます。あるいは、まだ教会に行ったことのない者たちとの関わりを大切にしながら、信仰の証を立てていきます。

 詩編の詩人は信仰者ですから、時期が来れば誰かに言われなくても、エルサレムに行かなければいけないということはよく知っていたことでありましょう。しかし、それでもこの私のことを心に掛けてくれる信仰の仲間がいるということ。「主の家に行こう」と声を掛けてくれる人がいることに感謝しているのです。そして、エルサレムに向けて旅をするというのは明確な目的がありました。エルサレムに着いたら、そこで解散して、あとは一人で自由行動をするというのではないのです。明確な目的、目標を目指してエルサレムに向かいます。それは、神殿で神とお会いし、礼拝をささげるということです。さらに、今日のキリスト教会において言えば、礼拝をささげ、教会を建て上げることによって、御国の建設に仕えていくということです。このことをとおして、この一点において、旅する者たちは皆一つなのです。今日、私どもの信仰の旅路というのは、四六時中、共同生活をするということではありません。礼拝が終われば、自分の家族以外の者とはあまり顔を合わすことがないでしょう。あったとしても、平日の祈祷会くらいでしょうか。けれども、お互いに顔を合わすことがなかったとしても、主にあって共に歩む者とされ、共に一つの目標を目指して信仰の旅路を続けているということを心に留めながら歩んでいきます。それはお互いのことを覚え、執り成しの祈りをささげながら歩んでいくということでもあります。6節以下にありますように、愛する者のために、兄弟や友のために平安と平和を求めて祈ります。その時に、「主の家に行こう」と声を掛けることができます。その人が元気であったとしても、深く落ち込んでいても、私どもが共に歩むべき道は何であり、目指すべき所はどこであるのかを明確に示すことができるのです。

 2節では、エルサレムに到着した時のことが思い起こされているのでしょうか。「エルサレムよ、あなたの城門の中に/わたしたちの足は立っている。」と言って、ここでも詩人は大きな喜びを表しています。一つの目標を目指すというのは、要するに、遂に立つべき所に立つことができたということでしょう。エルサレム神殿に到着して、そこに立っている自分たちのことを喜んでいます。ある人は「詩人はここで夢のような気持ちになっている」と言います。礼拝をささげるというのは、私たちにとっては良い意味で当たり前のこと、生活において大切な習慣になっています。日曜日、教会に集い礼拝をささげることなしに生きることができない人間とされているのです。ですから、礼拝をささげることは「夢のようだ」などとはあまり思わないのではないかと思います。もちろん、心から感謝はしているのですが、「夢のようだ」とまではなかなか思えないのです。しかし、礼拝をささげるというのは、当たり前のようで、実は当たり前ではないのです。もともと、私どもは、神を礼拝する道から外れた歩みをしていたからです。そのような私どもが、自分たちの力で、何とか生き方を修正して、神様のもとに戻っていったわけでもないのです。礼拝をささげることができるようになったというのは、ただ神様の恵みによるのです。このことをしっかりと心に留めているならば、毎週の礼拝は感謝と喜びに満ちたものとなります。

 3節、4節ではこのように歌われています。「エルサレム、都として建てられた町。そこに、すべては結び合い そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。」エルサレムの町がイスラエルの人々にとって、尊ばれたのはこういうところにあるのかもしれません。「エルサレム」という町や、そこにある神殿そのものが素晴らしいというのではなく、大事なのは、「主の御名」とあるように、神様が御自分の名をエルサレムの中に、神殿の中に置いてくださったという恵みの事実があるからです。要するには、「わたしはここにいる」という臨在のしるしを明らかにしてくださったということです。だから、神殿にわざわざ遠くから集まり、礼拝をささげます。そして、その時に神殿にいた人たちが目にして光景がありました。神が共におられるところに何が起こるのかということです。それが、「そこに、すべては結び合い そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。」ということです。

 教会というのは、普通、その教会の人たちしか集まりません。もちろん新しく来られる方もありますが、教会員を超える数の新しい人が集まるというのはないでしょう。けれども、神殿で礼拝がささげられていた時代というのは、色んな人たちが色んなところから集まってきました。「すべての部族」というのは、イスラエルの12部族のことです。普段はバラバラで、正直、それほどお互いに親しい関係ではなかったと言われます。イスラエルの国の歴史を振り返ると、国そのものが南北に分裂したこともありましたし、バビロンとの戦いに敗れ、国自体が崩壊したという経験さえしたのです。それで皆が色んなところに散っていったのです。ですから、この時、12の部族だけでなく、それぞれ散らされた場所からやって来た人たちもずいぶんいたのではないかと言われます。しかし、そのように普段、バラバラだった者たちが、神の都エルサレムにおいて、そして、神殿において一つに結ばれているという驚くべき事実がありました。神を礼拝し、神の国と共に建て上げるという一つの目標を目指す時、そこに神の臨在を覚えるだけでなく、神様がすべてを一つにしてくださったという恵みの事実を目にすることができたのです。エルサレムの神殿の中に、私たちの足が立っているということ自体が、彼らにとって本当に大きな奇跡だったのです。

 また、5節には、「そこにこそ、裁きの王座が/ダビデの家の王座が据えられている。」とあります。神を礼拝するために建てられた神殿は、時に、「裁きの王座」とありますように、裁判所としての機能を果たすことがありました。「ダビデの家の王座」に就く王は、いつも正しい裁きを人々に下さなければいけませんでした。正しい裁きというのは、王である自分の考えや良心に基づいてというのではなく、神の御心に基づく裁きであるということです。大袈裟でも何でもなく、「王である私の裁きは、神の裁きと同じだ」と言えるような正しい裁きを下すことができなければ、国を治め、人々を導くことはできません。一方で、王や裁判官が自分の権力に溺れてしまうならば、御心とはかけ離れた闇の世界がそこに生まれてしまいます。神様の御心というのもたいへん豊かなものですが、裁きという視点から見るならば、「義しさとは何か?」ということでしょう。あるいは、6節以下の御言葉と重ねて考えるならば、「平和とは何か?」ということです。神が望まれる義とは何であり、また平和とは何であるかということです。そのことがはっきりと示される場が、神の都エルサレムの神殿であり、礼拝の場であるということです。12の部族が一つにされたという喜びは、単に神様はすごいお方だというのではなく、同時に深い畏れを呼び起こしたに違いありません。まことの王であり、まことの裁き主である神の前に立っているからです。神の裁きは終わりの日にやって来るのだから、それまでは何をしてもいいという人は誰もいないと思います。主の日の礼拝は、やがて来る終わりの日に、神様の前に立つ備えを、毎週しているということです。そこで私どもはキリストの義をまとって神の前に立つのですけれども、だから平気だというのではなく、そこには感謝と畏れが心のそこから溢れてくるに違いないのです。

 この詩編を歌った詩人にとって、そして、私どもにとってもそうですけれども、神様の臨在とその御業の素晴らしさを経験している者たちは、この地上において神を礼拝しながら歩みを続けていきます。そして、神様を礼拝し、神様に従う生活をとおして、神の国の支配がここにあるということを証する生き方へと召されています。それは6節冒頭で、「エルサレムの平和を求めよう」とあるように、真実の平和、平安を祈り求める生き方と一つに重なるのです。平和も平安も言葉は違いますが、意味合いとしては同じです。また、「エルサレム」という街の名前自体が、「平和」という意味を含んでいる言葉です。6節から終わりの9節までの「あなた」というのは、誰か他の人のことを指しているのではなく、「エルサレム」のことを指しています。「エルサレム(あなた)を愛する人々に平安があるように。エルサレム(あなた)の城壁のうちに平和があるように。エルサレム(あなた)の城郭のうちに平安があるように。」「エルサレムの(あなたの)うちに平和があるように」「エルサレム(あなた)に幸いがあるように。」このように何度も「エルサレム」ということが強調されるわけですが、なぜかと言うと、イスラエルの民の平和はエルサレムの平和にかかっているからです。これは決して、エルサレムや神殿を神格化したり、偶像化しているということではありません。そうではなくて、エルサレムの神殿に神が臨在しておられるという事実、それこそがまさに平和そのものだからです。神様がおられるというのは、そこに神様の支配があるということです。だから、そこに平和が生まれるのです。反対に、神様がおられない場所には、平和も平安もないということです。

 そして、なぜ詩人がエルサレムの神殿で、平和を祈り求めているのでしょうか。今、神殿の中にいるのですから、平和を求めなくても、平和はそこにあるはずです。このことは私たちにも通じることです。神がおられるところに確かに平和はあります。神様から平和をいただいて、その恵みを証し、分かち合うようにして私どもはこの地上を歩んでいきます。けれども、平和を見失うということが起こるのです。つまり、神様のことを見失ってしまうということです。あるいは、このことはイスラエルの民が歴史の中で繰り返し経験してきたことですが、イスラエルの平和というのは一時的なことに過ぎなかった。やっと平和が来たと思ったら、敵がやって来て、平和を奪われてしまう。イスラエルの民はそういう悲しみの経験を歴史の中で幾度も味わってきました。だから、詩人が祈り願う平和というのは一時的な平和ではありません。今ここで神様からいただいたまことの平和が、私たちが生きるすべての領域において永遠にもたらされますようにということです。この祈りは、どれだけ時代が変わっても、またエルサレムだけではなく、世界のどの場所においても消えることのない切なる祈りです。

 しかし、「エルサレムに私たちの平和がかかっている」と言いながら、今日もそこは緊張に満ちた場所となっています。お互いが「神の名」のゆえに、自らの正しさを主張し、排除しようとしています。宗教の違いというものがあるかもしれませんが、3節で歌われていたように、すべてが一つに結び合わされているとは到底言えない現実がエルサレムの街にはあるのです。エルサレムだけではなく世界の至る所で、神の平和から程遠い現実があるということを私どもは知っています。

 新約聖書のルカによる福音書では、主イエス・キリストがエルサレムの都をご覧になって、その都のために涙を流されたということが記されています。主イエスは泣きながらこう言われたのです。(新約148頁)「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。』」(ルカ19:41-44)主イエスは、詩編の詩人のようにエルサレムに行くことが嬉しかったわけではないのです。涙を流さざるを得ない現実、人間の罪が神の都に満ちている、その現実を深く悲しまれました。「平和があるように」と旧約の時代から祈り続けながらも、平和の道が何であるかをわきまえない人間の罪がそこにはありました。神様が人間のところにまで低く降り、御自分の名を留めてくださったにもかかわらず、神がいないかのような生き方をしている者たちがいるのです。そのことに主イエスは激しく心揺さぶられながら、しかし、そのような者たちを救うために、「わたしは十字架に向かうのだ」という思いを確かにしてくださいました。

 私どもキリスト者は、主の十字架によって、神の平和がどのようなものであるかを教えていただきました。それは暴力や破壊によってではなく、私たちの罪をすべて背負うことによってもたらされる平和です。主イエスは私どもを裁いて滅ぼすのではなく、自ら神の裁きを引き受けることによって、愛と赦しを私どもに与えてくださいました。キリストの道を歩む私どももまた平和をもたらすために、愛と赦しの重荷を背負いながら、隣人との正しい関係に生き始めます。神様の御支配が、キリストの教会においてだけでなく、この地上のすべての場所において明らかにされることを祈り求めます。巡礼の旅、信仰の旅路を続けながら、私どもは神の平和を祈り求め、御心が明らかにされることを祈ります。この祈りに神様はイエス・キリストをとおして既に答えてくださいましたし、やがて主が再び来られる時、私どもは神様の救いに完全にあずかることができるのだという希望に支えられて祈り続けるのです。そして、来るべき日に、時代や国、年齢や性別を超えて、一つに結び合わされ、神様を賛美するのです。

 詩編第122編は、「主の家に行こう、と人々が言ったとき/わたしはうれしかった。」という喜びの言葉から始まっていました。近くにいる人が詩人に声を掛けてくれたのでしょう。でも、本当は信仰の仲間、教会の仲間の呼び掛けの背後で、主イエス御自身が私ども一人一人を招いておられる事実があるということです。自分の意志でもなく、親しい者から誘われたわけでもなく、本当は神様がイエス・キリストをとおして招いてくださったということ。この招きというのは、別の言葉で言えば、選んでくださったということです。イスラエルの民もそうですが、私どももまた神様に選んでいただくに相応しい者たちではありません。選んでいただいたのは、ただ神様の憐れみによるのです。誰よりも罪深い者であるがゆえに、真っ先に神様が私どものことを目を留めてくださったのです。

 私どもを招き、選んでくださった主イエスが、「主の家に行こう」と声を掛けてくださいます。声を掛けてくださるだけではなく、私どもの手を取って、一緒に信仰の旅路を最後まで歩んでくださいます。ですから、教会の中にだけ、主がおられて、一歩会堂の外に出ると、主はどこかに行ってしまわれたということはありません。主イエスの平和と平安はいつも私たちの歩みの中にあります。この平和そのものである主イエスが「主の家に行こう」「神様のところに行こう」と御声を聞かせてくださいます。だから、最後まで希望をもって平和のために祈り続けます。私どもの愛する者のために、私どもの兄弟、友のために。この世界のために、神様の平和を祈り求めるのです。お祈りをいたします。

 主が声を掛けてくださり、この日、共に礼拝をささげることができ感謝をいたします。週ごとの礼拝は、決して当たり前のことではなく、そのために主イエスが十字架でいのちをささげてくださったことを忘れることがありませんように。神様のもとに立ち帰る道を拓いてくださった主イエスと共に、また信仰の仲間と共に、これからも平和の道を歩んでいくことができますように。御国が完成する日を待ち望みつつ、愛する者の上に主の平和が豊かに与えられることを祈り続けることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。