2022年07月24日「ひとことで救われる」
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ルカによる福音書 7章1節~10節
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聖書の言葉
1イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。2ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。3イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。4長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。5わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」6そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。8わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」9イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」10使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。ルカによる福音書 7章1節~10節
メッセージ
主イエスは百人隊長の信仰をご覧になって、とても感心なさいました。驚きつつ、「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃったのです。この百人隊長自身、主イエスからこれほどまでに褒めていただくとは思ってもいなかったことでしょう。そもそも「信仰」と呼べるものが自分の中にあったのかどうかさえ気付いていなかったと思います。なぜなら、彼は異邦人だったからです。ユダヤ人からすれば、外国人に当たり、それゆえに救いから遠い者とされていたからです。そのことを百人隊長はよく知っていました。それだけに、「これほどの信仰」と主イエスから直接言っていただいたことは、本当に大きな驚きであり、同時に喜びであったに違いありません。
私どもは自分の信仰の歩みを見つめる時、主イエスから「これほどの信仰」と言っていただけるような信仰に生きているでしょうか。どうしても、自分の罪や弱さといったものばかりが目立ってしまうのではないかと思います。ですから、聖書に出てくる百人隊長の信仰は、あくまでも聖書の中における話であって、現実は違うのだと思ってしまいます。少なくともこの私は「これほどの信仰」などと言っていただけるような者ではないと考えるのです。しかし、聖書はここで、私どもには決して手が届かないような立派な信仰者の姿を描いて、それで終わろうとしているのでしょうか。イエス様に褒めていただいた百人隊長の姿を語りながら、それに比べて、あなたがたは如何に情けない信仰に生きているのか。そう言って、私どもをがっかりさせようとしているのでしょうか。私は、そうではないと思うのです。聖書が語ること、主イエスが願うことは、あなたもまたこの百人隊長のような信仰、主イエスから褒めていただけるような信仰に生きてほしいということです。いや、実際、そのように生きることができるのだと私どもを励まし、そして、信仰に生きる本当の素晴らしさの中に私どもを招いておられるのです。決して、自分たちの弱さのなかにあぐらをかいて座り込むのではなく、そこからもう一度、立ち上がって、主イエスから「これほどの信仰」と言っていただける。その幸いの中を最後まで生き抜いてほしいと願っておられるのです。せっかく、主イエスが与えてくださった信仰です。やはり、誰もがその恵みを無駄にはしたくないはずだと思うのです。
ところで、この百人隊長の信仰とは如何なる信仰だったのでしょう。それは、結局のところ、御言葉を信じる信仰であったということです。御言葉の力に信頼する信仰です。7節で、このように主イエスにお願いするのです。「ひと言おっしゃってください。」もう少し、広い意味で理解しますと、「イエス様、御言葉をください」ということです。「イエス様の言葉をいただければ、もうそれで十分です」というのです。問題は、主イエスが語ってくださる言葉の多さ、長さではありません。多いか少ないかではないのです。ひとことであろうと、ふたことであろうと、主がお語りくださる言葉には、私を真実に生かす力があるということを本当に心から信じているかどうかということです。主イエスの言葉、神の言葉は空しく地に落ちるのではなく、必ず実を結ぶということ。必ず、そのとおりになるということを、いつも信じているかどうかということです。
「ひと言おっしゃってください。」「ただお言葉をください。」このことは、キリスト者にとっては、ある意味、当然の願いであると思います。神を信じる者であるならば、皆がいつも願っていることです。いつも私どもは御言葉に生きているはずです。御言葉を必要としないキリスト者は誰もいません。まだ、洗礼を受けていない方にとっても、誰にとっても神の言葉なしに生きることはできません。百人隊長もまた異邦人でありながら、このことをよく心得ていたようです。イエス様、ひとことおっしゃってください。あなたの言葉には力があり、いのちがあります。私だけではなく、愛する部下を、いやすべての者を真実に生かす力があります。百人隊長はそう答えたのです。
この時、主イエスは「カファルナウム」という場所におられました。第4章では、主イエスがカファルナウムの会堂で初めて説教をなさったということが記されています。弟子のペトロの家もあり、ガリラヤ伝道の拠点となった場所です。主イエスはもう一度戻って来られたのです。この時はまだ、カファルナウムがあるガリラヤ地方はローマの支配下に置かれていない時代です。それは、あと十数年後の話になります。この時の領主はヘロデ・アンティパスと呼ばれる人物で、主イエスがお生まれになったクリスマスの時にユダヤを支配していましたヘロデ大王の息子に当たります。彼はエドム人という異邦人の血を引く人物でした。百人隊長はこのヘロデ・アンティパスによって雇われていた人物です。ユダヤ人は異邦人の王のもとでは働くことはいたしませんから、百人隊長は最初に申しましたように、彼もまた「異邦人」であったということです。そして、「百人隊長」というのは、名前のとおり、百人の兵隊を引き連れていたリーダということです。
その部下の一人が、重い病を患い、今にも死にそうだというのです。部下というのは、「僕」、あるいは、「奴隷」と言い換えることもできますが、隊長はその部下を軽んじるどころか、たいへん重んじたというのです。重んじられるというのは、「価値がある」ということです。もしかしたら、高価な値段で自分の部下、奴隷を買ったのではないかと想像する人もいます。それだけ、この部下には兵士としての力があったのでしょうか。しかし、百人隊長は、この部下に力があるなしにかかわらず、役に立つかどうかにかかわらず、この部下を重んじていたようです。病気になって死にそうな奴は使いものにならない。お前など戦力にならないか、どこかに行け。私は新しい兵士を見つけるから。そう言ったのではないのです。どうしても、この部下が病の苦しみから解き放たれ、救われてほしいと心から願いました。役に立つ、立たないではなく、その人自身を重んじていたのです。そのような心の持ち主でしたから、百人隊長と部下の間には深い信頼関係があったに違いないと思います。
百人隊長は自分の部下のいのちを、主イエスに助けていただきたいと願いました。おそらく、カファルナウムで活動されていた時、主イエスの御言葉を聞いたり、主がなさった御業の数々を知っていたのでしょう。そうしますと、百人隊長自らが、主イエスのところに足を運んで、「部下を助けてほしい」と願い出るのが普通ではないでしょうか。けれども、3節を見ますとこうにあるのです。「イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」つまり、百人隊長は自分で直接主イエスにお願いしに行くのではなく、長老たちを使わして、代わりにお願いしてもらったというのです。どうしてでしょうか。わざわざ行くのが面倒だから、自分の権力を用いて人を使わしたというのでしょうか。どうもそうではないのです。面倒だからというのではありません。百人隊長は当然、自分が直接出向いて行くべきだと思っていました。けれども、行きたくても行けない事情があったのです。それが、彼が異邦人であるということです。ユダヤ人は異邦人の家を訪ねたり、交わりを持つことはしませんでした。異邦人は汚れていると考えていたからです。そのような習慣がユダヤにあるということを百人隊長は知っていましたから、異邦人である自分が、主イエスのもとに行くことなど、決してできないと考えたのです。それで長老たちにお願いしたのです。
この願いを長老たちは快く引き受けました。百人隊長は異邦人だからと言って、彼の願いに耳を傾けないというのではありませんでした。意外に思うのですが、どうしてでしょうか。それにはちゃんとした理由がありました。主イエスのもとに行った長老たちは、主イエスに熱心にお願いするのです。4〜5節です。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」百人隊長はユダヤ人を正しく理解することに努めました。決して、高圧的な態度を取ったのではなく、親切しに、彼らの信仰や生活を理解しようとしたのです。そして、おそらく、彼らが信じる信仰について共感する部分がいくつもあったのだと思います。もしかしたら、一緒に礼拝に出たこともあったのかもしれません。そのようなこともあって、ついには、「シナゴーグ」と呼ばれる会堂を建てるために多額の献金を献げたのです。当時、信仰に生きる者にとって、神殿と共に、会堂というのはとても大切な場所です。その会堂を建ててくれたというのです。そういう背景もあって、百人隊長に敵意を抱いている者は一人もいません。むしろ、皆、感謝していたのです。だから、長老たちは「そうしていただくのにふさわしい人」だと言うのです。「ふさわしい」というのは、「資格がある」「適格である」ということです。「イエス様、私たちが保証します。間違いなくあの人は善い人です。私たちを愛し、会堂さえ建ててくれたのです。だから、百人隊長の願いは聞かれるべきです!どうか部下のいのちを助けてあげてください!」
ただ、このところを読んでいて気付かされるのは、百人隊長と長老たちの「意識」がまったく正反対であるということです。百人隊長は、部下を助けてほしいという願いは確かに持っているものの、自分は異邦人であり、汚れているがゆえに、主イエスの前に立つ資格などないと本当に思っているのです。一方で、長老たちは、百人隊長の願いが聞かれて当然である。その資格を十分に持っていると考えているのです。それは、自分たちにこれまでずっと善くしてくれた百人隊長が困っている。だから、今度は私たちのほうで何とかしてあげたいという思いから出た言葉でしょう。しかし、百人隊長は救われて当然、願いがかなえられて当然だ。その資格が十分にあると彼らの中で判断していたのは事実でありましょう。
百人隊長はユダヤ人を愛し、彼らの信仰を重んじました。御言葉を聞き、礼拝もささげていたかもしれません。しかし、この百人隊長は改宗して、神の民であるユダヤ人の仲間入りをしたわけではありませんでした。異邦人・外国人であっても、ユダヤ人と同じように割礼を受け、神の言葉に生きるならば、彼らも神の民とされたのです。でも、百人隊長にはまだそこまでの決心が与えられていませんでした。今で言えば、まだ「求道者」の位置に踏み留まっているということです。信仰に生きるためには、目の前にある一線を踏み越えて、その先に足を踏み入れて行かなければいけません。ある神学者は、「ショーウィンドウのような信仰」と言います。街を歩いていて、お店の前を歩くと、ガラスの向こう側に、素敵な商品が置かれています。願わくは、ガラスの奥にあるものを手に取り、購入したいのです。しかし、実際は手が届かないのです。自分のものとすることもできないのです。
信仰に生きるということも、それと似ているというのです。長く教会に通っていると、だいたい聖書はこういうことを言っている。イエス様はこのようなお方だということも段々と分かってきます。しかし、なかなか最後の一歩を踏み出せない。洗礼を受けるという決意が与えられないという方もおられます。どうしてなのかは分かりません。それぞれに思うところがあるのでしょう。そして、もしかしたら、ここで百人隊長が抱いていたような思いを、その人たちも持っているということがあるのではないでしょうか。単なる謙遜というのではなく、本当に自分は神様の前に立つ資格などない。周りの人たちは、「神様はどんな人をも招いてくださる」「イエス様は罪人を招くために来られたお方」「だから、勇気を出して、神様のふところに飛び込もう。必ず神様はあなたを受け止めてくださる」というふうに優しく声を掛けてくれるのです。それは本当にそうですし、そのように暖かい声を掛けてくれることは嬉しいことです。何よりも、主イエス御自身が、「信じる者になってほしい」と願っておられるのです。目の前にある一線を踏み越え、ガラスの向こうにある救いの恵みをただ眺めているだけでなく、実際に手に取ってほしいのです。
しかし、その上でこの百人隊長が主イエスのもとに行くことをためらったということ。自分のような者は神様の前に立つ資格もふさわしさも何も持っていない者であるということを本当にそう思っていたということを、私どもは簡単に批判したり、悲しんだりするのではなく、ここでよく考える必要があるのではないでしょうか。既に神を信じる信仰に生きていた長老たちは、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」といとも簡単に言うのです。もちろん、何か悪気があって言った訳ではないと思います。しかし、少なくとも長老たちは、百人隊長ほどに神様の前に立つことの深い恐れというものを持っていなかったのではないでしょうか。それは自分たちが、選びの民であり、救われて当然だという民族意識があったからかもしれません。
私どもはどうでしょうか。神様は愛と赦しに満ちた方であり、分け隔てなく、私どもに救いの手を差し伸べてくださる方です。幼子がお父さんのことを「パパ」と呼ぶように、私どもは神様のことを「アッバ、父よ」と呼ぶことができる幸いが与えられています。すべてを信頼し、お委ねすることができる。それが私ども神様です。そして、そのことが同時に、神に対する畏れとどのように結び付いていくのか。このことをいつも考える必要があるのではないでしょうか。イエス・キリストをお与えくださるほどに、神様から愛され、大切にされているから、だらしないほどに神様に甘えるというのではなくて、むしろ姿勢を正すようにして、神様の子どもとして歩んでいくことができるはずだと思うのです。この世においては、ふさわしいかふさわしくないか、資格があるか資格がない、そのようなことばかりが重んじられるかもしれません。そして、誰もが周りから「あなたはふさわしい」と言われたいのです。しかし、私どもの歩みにおいて、最も深いところにあるのは、人がどのように自分のことを見ているのかということではなく、神様にどう見られているかということです。しかし、そのことが分かっているようで、実際は、そこまで神様のことを気にしていないのです。もう自分は洗礼を受けているのだから、神様の前にふさわしい人間となったのだ。だから、反対に神様を恐れるとか、自分の汚れとか、神様の前に自分はふさわしくないとか、あまりそういうことを真剣に考えようとはしなくなるのです。もちろん、救われるのに何の資格も条件もいりません。イエス・キリストこそ、「わたしの救い主です」と告白できればそれでいいのです。しかし、この時、言わば、「求道者」の立場にあった百人隊長が抱いていた思い。つまり、神様の前にある恐れというものを、洗礼を受けた後、いつも持ち続けなければいけないと思うのです。本当はふさわしい者でなかった自分が、キリストのゆえにふさわしい者とされたということ。この驚き、この喜びが、私どもの信仰生活を最後まで支え、導いていくのです。神様の前にあって、ふさわしくないということとふさわしいということは、キリストのゆえに一つとなる。この驚き、この畏れを知っているかどうかということが実はとても大事なのではないかと思うのです。
百人隊長は、ユダヤ人と異邦人が一緒に交わりを持つことないからという、当時の習慣にただ倣ったというのではなく、本当に心から神様の前にふさわしくない自分であると思っていました。ですから、6節以下にはこのようにあるのです。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。…』」長老たちから百人隊長の願いを聞いた主イエスは、その願いに応えて百人隊長のもとに向かわれます。そして、主が家に近付いて来たということが分かると、今度は友達を使わして、「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」こう言うのです。「来てくれ」とお願いをして、本当に主イエスがやって来たら、「あなたをお迎えすることはできません」と言うのです。これはあまりにも矛盾したことですけれども、実は、こういう百人隊長の姿こそが本当の信仰の姿なのだと聖書は語るのです。
明らかに百人隊長はこの時、葛藤の中、苦しみの中にありました。部下のいのちを助けてほしいのです。そのためには、主イエスに助けていただく他ないのです。だから、主に来てほしいのです。しかし、自分の主イエスを迎え入れるにふさわしくないから「できない」と言うのです。周りの人たちからすれば、「何て愚かなことを考えているのか」と言われてしまうことでしょう。大事な部下のいのちがかかっているのに、ふさわしいかとかふさわしくないとか、そのようなことをこんな時に考えている場合か。そして、イエス様もあなたの願いに応えて来てくださったのに、「お迎えできない」なんて、それはあまりにも失礼なことではないか。誰もがそう思うのです。しかし、百人隊長にとっては、極めて真剣な問題でした。愛する部下が生きるか死ぬかという時に、どう考えても選ぶべき道は一つしかないのにもかかわらず、一旦そこですべてをストップして、神様の前に立ち尽くしたのです。百人隊長は主イエスの迎えることさえもできないというほどの思いになっているのです。しかし、それは主イエスのことを、実は誰よりも深く考えているということです。「部下のいのちが助かってほしい」という明確な願い、祈りとも言える願いを抱きながら、しかし、百人隊長にとって、それよりも真剣に考えていたことは主イエスのことであり、神様のことでした。
そして、そのような葛藤の中で、確かな道が拓かれようとしているのです。7〜8節をお読みします。「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」百人隊長の信仰の核心をつくもう一つの言葉がここにあります。百人隊長にとって、主イエスを信じるという時に、主イエスの何を信じるのでしょうか。救われるにふさわしくない自分がいったいどうしたら主を信じることができるのでしょうか。それは主イエスがお語りになる「言葉」を信じるということです。主よ、ひとことおっしゃってください。主よ、お言葉をください。それで十分です。なぜなら、あなたの言葉には私たちを救う力がありますから…。
なぜ主イエスがお語りになる言葉に心を留めることができたのでしょう。それは「百人隊長」という働きに長く就いていた経験から教えられたことでした。軍隊において、隊長の命令というのはある意味絶対的な意味を持ちます。「あなたの言葉には従わない」などと部下の兵士たちが言い出したら、その軍隊の戦力は意味を持たなくなり、勝利を治めることはできません。この百人隊長は、言わば、「中隊長」でありまして、自分もまた権威の下にある人間でありました。権威の下に立つこと、権威の下に置かれていることがどういうことかを知っていたのです。そして、百人隊長は上に立つ者として、自分に与えられた権威、責任、その下で語られる言葉の重さをよく知っていました。その言葉の重さというのは、自分がくだす命令によって、部下のいのちを左右するほどのものであるということです。まさに、自分は部下たちに「いのちの言葉」を語っているという思いがいつも百人隊長にはありました。たとえ、「行け」とか「来い」というふうに、たったひとことであったとしても、権威の下で語られる言葉が如何に力強いかということを知っていたのです。そのような中で、百人隊長は、自分は権威を持っているから、何でも命令することができるなどと言って、自分の権威に酔っているのではありません。むしろ、深く恐れていたのです。人間というのは、大なり小なり絶対的な権威というものを手に入れると、その権威に酔い、そこにあぐらをかいてしまうことがあります。まるで自分が神になったかのような錯覚に陥ることがあるのです。だから、神様にさえも、自分の権威、あるいは、権利を振りかざします。私の言葉に従うなら、あなたは神としてふさわしい。だから信じよう。しかし、従わない神は必要ない。神にふさわしくないと言って、簡単に捨てるのです。百人隊長はそうではありませんでした。権威に対する誠実で、謙遜な姿勢を彼は持っていました。自分に隊長としての権威と力があることを知りながら、むしろ、そのことを神様の前で深く恐れていたのです。それは同時に、神様の前における「罪」の意識とも深く結び付くものでありました。惨めな思いや弱さを覚えた時にだけ、自らの罪を覚え、神を恐れるのではありません。むしろ、自分には権威があり、力があるということが明確に分かった時にこそ、罪に陥る誘惑を覚え、神を恐れたのです。
そして、百人隊長にとって、本当に恐れるべき権威というのは、神の権威であり、主イエスの権威です。主イエスはヘロデよりも遥かに権威があるお方であり、しかも、神の子としての権威を持つお方であることを知っていました。まことの権威のもとにひれ伏すということを知っていた人です。自分は神の前に出る資格はない人間かもしれない。しかし、主がお語りくださる御言葉の権威と力とを信じることができる。いや、それしか救いの道はないと思いました。「主イエスよ、あなたがひとことおっしゃってくれれば、ふさわしくない者も救いにあずかることができます。」「主よ、あなたの言葉は私が語る言葉よりも遥かにいのちに満ちた言葉です。」「あなたがお語りになる言葉に私たちのいのちがすべてかかっているのです。」「自分がお願いできることは、主が私のために、そして、部下のために御言葉を語ってくださることです。」部下も自分の手に置くのではなく、主の言葉のもとに置く以外にありません。」「ですから、主よ、御心ならば、どうぞひとことおっしゃってください。」そのように主に願ったのです。「主よ、助けてください」と願う資格がない者が、しかし、「主よ、あなた以外に立つべきところはないのです。だから御言葉をください」と言って、主の前にひざまずくということ。ここに、主イエスが願っておられる信仰があります。そして、百人隊長の願いどおり、この後、愛する部下は元気になっていたというのです。
信仰に生きるということは、信じて生きるということです。ではそこで何を信じるのかと申しますと、それは「神様の言葉」を信じるということです。神様の言葉に「信頼」を置くということです。「信頼すること」と「言葉」というのは、実は深く結びついているのです。神様の言葉を信頼するというのは、神様が、私どものためにこうおっしゃってくださった。だから、「必ずそうなるのだ」ということを信頼すること、信じることです。イザヤ書の言葉にもありましたように、神様がお語りになった言葉は、空しく戻ることはないのです。地に落ちた御言葉、私どもに与えられた御言葉は必ず神様の御心が成し遂げられるのです。あなたを愛しておられる神様が、あなたのために御言葉を語ってくださいます。そのことが本当になると約束してくださるのです。逆に「こういう証拠を見せてくれないと、私は神様を信じない」というのは、神様を信頼していないから、そういうことを言ってしまうのです。神様を愛していないから、「証拠を見せろ」とか「しるしを見せろ」と要求するのです。そこに神様との良き関係を築き上げていくことはできないのです。
十二弟子の一人にトマスという人がいました。彼は最後まで復活した主イエスを信じることができませんでした。十字架の傷跡を見て、自分の手でそれに触れなければ、決して信じないと言ったのです。主イエスは、そんなに自分で確かめないと納得しないと言うのならば、そうしたらいいとおっしゃいました。主イエスの願いは、信じない者ではなく、信じる者になってほしいからです。ただその上で、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)とおっしゃったのです。これはトマスだけではなく、後の教会に向けて語られた言葉でもあります。ここにいる私どもは誰一人として、主イエスをこの目で見ていないからです。
聖書を読めば分かるとおり、神様という方は様々な仕方で御自身のことを、そして、数えきれない多くの恵みを示してくださいます。百人隊長が自分の仕事をとおして、まことの権威とは何であるのかという気付きが与えられたように、私どもも日常の生活をとおして神様の恵みに気付くということがあるのです。目に見える形で神様を知るということも、もちろんあると思います。私どもの歩みも、目に見える物や姿・形も、すべては神様の御手の中にあるからです。そのこと否定するわけではありません。しかし、主イエスは、「見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉を私どもに残して、天に昇って行かれました。今、私どもは主イエスのお姿を目で見ることができませんけれども、今も生きておられる復活の主がいのちの言葉を語っていてくださるということを信じています。神様の前にへりくだり、心砕かれつつも、「主よ、ひとことおっしゃってください」と祈り願う時に、神様は必ず私どもに応えてくださり、御言葉を与えてくださいます。そこで、神様の言葉には力があり、いのちがあり、慰めがあるということを繰り返し教えられるのです。目に見えるものによって一喜一憂したり、自分の中にある小さな権威に酔いしれるような人生ではなく、今はまだ見えないけれども、私の魂の一番深いところから湧き出るいのちの泉、いのちの御言葉によって、私の歩みのすべてが支えられていること。ここに私ども神を信じる者の幸いがあります。
主の弟子であったペトロは生まれたばかりの教会の姿を見て、驚くようにしてこのように言うのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」ペトロの手紙一第1章8〜9節の御言葉です。主イエスが「これほどの信仰」と言って、褒めてくださったあの百人隊長の信仰と重なる言葉でもあるでしょう。そして、私どもも例外なく、キリストにあって、素晴らしい喜びに生かされ、救い恵みにあずかっているのです。このことに感謝をし、ますます主イエスを愛し、信頼する者として成長していきたいと願います。主イエスの言葉に私どもすべてがかかっているのです。お祈りをいたします。
主よ、御言葉をください。心から主を愛し、信頼して歩んでいくことができますように。共に礼拝する時も、それぞれの生活や学び、働きの中にある時も、主の言葉をとおして大切な気付きが与えられますように。そして、いつも主を畏れ敬う信仰の心を持ち続けることができるように助けてください。主の前で心砕かれつつも、再び、私どもを立ち上がらすことができる、力ある御言葉を聞き続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。