2022年07月17日「死のかなたからの声」
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ルカによる福音書 16章19節~31節
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聖書の言葉
19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」ルカによる福音書 16章19節~31節
メッセージ
私ども人間は死んだらどうなるのでしょうか。人間にとって、最大の関心事の一つと言ってもいいのではないでしょうか。地上のいのちを生きながらも、自分は死んだらどうなるのか。心のどこかで気になっているのです。ただ、自分で考えたところで何かを見出せわけではありません。その人間が抱える最も深い問いに答えているのが、この世における宗教であるというふうにも言えるのです。私どもキリスト者は、宗教を信じている人間などとは思ってはいません。神がお造りになった人間として、ごく自然な生き方をしているだけなのですが、この世の人たちからすればやはりキリスト教も数ある宗教の一つでありまして、自分のいのち、自分の死を見つめる中で、キリスト教の門を叩いたという人も事実多いのです。そして、死んだらどなるのかという問いに対する答えというものは、何もキリスト教だけが持っているとうのではなく、たいていどの宗教も持っているものだと思います。そして、どの宗教も人は死んだ後に「天国」か「地獄」に行くということを語ります。地上で善い行いをした人は天国行けるけれども、悪いことをした人は地獄に落とされる。善い人は天国で、悪い人は地獄に行く。こういう考え方は小さな子どもたちでも知っているようなことではないでしょうか。そして、誰もが地獄に行きたいなどとは思いません。皆、天国に行きたいのです。だから、地上では善いことをして生きようという話になるのです。善い行いをするということ自体はとてもいいことですが、天国に行きたいからというよりも、「地獄に行きたくないから」という消極的な理由で、善いことや愛の業に励もうとする人も、なかにはいるのではないでしょうか。
では、私どもキリスト教信仰はどうなのでしょう。信仰に生きる私ども一人一人はどうなのでしょうか。「地獄に行くのが嫌だから」という理由で、愛に生きようとしているのでしょうか。確かに、私どもは神様の裁きを真剣に恐れなければいけませんし、主の日の礼拝そのものが終わりの日に、神様の御前に立つ備えの時であるということも事実です。私どもは神様の前で無責任な生き方をしているのではありません。最後には神様の前で、あなたはどう生きたのかという責任を問われるのです。それだけ、私どものいのちは尊いからです。尊いのであれば、神様に捨てられ、永遠の裁きを受けたくないからという理由ではなく、もっと嬉しくなるような恵みの事実が私どもを真実に生かすのではないでしょうか。死んだら天国に行けるから私はこのように生きるとか、私は地獄に行きたくないからこういう生き方を仕方なくするというのではなくて、本当はもっと素晴らしい何かが私どもを生き生きとしたいのちの歩みに導いているのではないかと思うのです。
本日はルカによる福音書第16章の御言葉を共に聞きました。ルカにだけ記されている、主イエスがお語りになった譬え話です。「金持ちとラザロの譬え」と呼ばれることもあります。この譬えは、私どもにもよく分かる譬え話ではないかと思います。後半は少し難しいかもしれませんが、前半の26節までに関しては、初めてこの物語を聞く人であっても、「確かにそのとおりだ」と思っていただけるのではないでしょうか。地上でこういう生き方をしていれば、死んだ後、こういう結果になっても無理はない。そのとおりだと誰もが思うような物語です。そして、26節までに記されている物語は、この時、主イエスが初めてお語りになったのではなくて、既に人々もよく知っていた物語だと言われます。ある資料によりますと、元々はエジプトにあった物語で、それが時代を経てユダヤにまで運ばれてきたというのです。その中で、金持ちと貧しい者との対比は変わりませんが、例えば、金持ちの徴税人と貧しい律法学者というふうに、少し具体性を持つような形で人々の間に伝えられるようになりました。ですから、主イエスからこの金持ちとラザロの譬え話を聞いた人たちも、最初は聞いたことがある話だと思ったに違いありません。
ただ、主イエス御自身はこの譬え話をしながら、死後の世界がどういう世界であるのか。天国や地獄か具体的にどういう場所であるのか。具体的にどういうことをすれば天国に行けて、何をしたら地獄に行ってしまうのか。そういうことを語りたかったのではないということです。人間は死後の世界が分かりませんから、色々と想像力を働かせて、天国や地獄の絵を描いてみせるということをよくします。しかし、主イエスは何か地獄絵図を見せて、こうなりたくなかったら、一刻も早くわたしに従うようにとか、洗礼を受けるようにと勧められたのではないということです。ここだけではありませんけれども、私どもの関心に反して、主イエスも聖書全体もあまり死後の世界についての詳細は語りません。どうしてでしょうか。率直に申しまして、正直あまり関心がないのではないかと思うのです。もし私たち人間と同じように、神様も死後の世界ということに大きな関心があれば、神様も主イエスもいつも死んだ後の話ばかりしていたに違いありません。いつも天国と地獄の話をしていたと思うのです。
しかし、主イエスはそのことよりも語るべき大切な福音がありました。天国や地獄の話よりも、あなたがたに伝えるべきことがあるということを知っておられたのです。ただその主イエスが、ここではたいへん珍しく死後の世界をお語りになるのです。そのような意味では、とても興味深い御言葉であると思います。もちろん、死後の世界観についてというのではなくて、主イエスの関心は、常に目の間にいる人々にありました。今、御言葉に耳を傾けている私どもに関心を寄せておられるのです。今、この世において、私どもはどのように生きていけばよいのかという、生きることについての基本的な問題についてお語りくださるのです。今をどう生きるか。そのことがそのまま私どもの将来において、大きな意味を持つことになるからです。
さて、主イエスの譬え話の最初に登場するのは「金持ち」です。19節を見ますと、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。彼が着ていた服ですが、これは王侯貴族が着るような高級な服です。そして、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたというのです。次に出て来るのは、金持ちとは対照的に貧しい「ラザロ」と呼ばれる人物です。貧しいだけではなく、皮膚にはできものが、つまり、皮膚病を患っていました。貧しくて、食べる物を自分で手にいれることはできません。それで、金持ちの家の門の前に置いてもらっていたのです。食卓から落ちる物であってもいいからお腹を満たしたい。そう思うほどに、惨めな思いに捕らわれていました。食卓から落ちる食べ物というのは、「パン」のことだと言われます。しかし、それは食べるためのパンではなく、食事の際汚れた手を拭くためのパンです。今で言えばおしぼりのようなものであって、そのパンを金持ちが食べることはありません。捨てられるか、せいぜい飼っている犬の餌になるだけです。そのパンであっても食べたいと思いました。しかし、十分に食べることもできず、人々からも冷たい目で見られ、無視され続けてきました。自分のところにやって来たのは、犬くらいです。その犬にさえ、できものを舐められるという屈辱を味わわなければいかなかったのです。そして、金持ちとラザロはお互いに認識がありました。家の門の前にラザロが横たわっていることを知っていたのです。だから、この後記されていますように、死んだ後、陰府でラザロの名前を口にするのです。
金持ちと貧しいラザロ、この二人は対照的な人生を地上で送っていました。ただ貧しいラザロも金持ちも死んだのだと言うのです。そして、死んだ後、二人はそれぞれどうなったかということを主イエスは続けてお語りになるのです。私どもがある意味、一番関心がある部分であるかもしれません。地上においてたいへん貧しい生活をしていたラザロはどうなったのでしょう。22節「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と言います。「アブラハム」というのは、「信仰の父」と呼ばれる人物です。神に選ばれたアブラハムは、神の約束の言葉を信じ、信仰の旅路を歩み始めました。また、「アブラハムのすぐそば」というのは、「アブラハムのふところ」と言い換えることができます。小さい子どもが親のふところ、親の膝の上にちょこんと乗っている姿は本当に見ていて幸せな思いになります。子どもも居心地がいいと言いましょうか、心から安心できる場所がここにあるということを知っているのだと思います。それが「ふところ」ということです。アブラハムのそば、ふところにいるというのは、祝福の源、祝福の根っこに、自分の身を委ねるようにしてそこにいるということです。このことを私どもに馴染み深い言葉で言えば「天国」という場所になるのです。
一方、金持ちは死んだ後、どうなったのでしょう。22節の終わりからお読みします。「金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」つまり、金持ちは死んだ後、陰府に行ったということです。「陰府」とはどういう場所かと言うと、24節にあるように、燃え盛る炎によって、もだえ苦しまなければいけない、そういう場所です。ですから、陰府というのは、まさに「地獄」のことです。ただ「陰府」というのは単純に地獄のことというよりも、死んだ人が行く場所というふうに、もう少し広い意味で理解されている言葉です。そういう意味では、ラザロも死んで、陰府に行ったのです。ただ陰府において、両者を分け隔てる大きなものがありました。そのことが26節で言われています。「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」ラザロと金持ちの間には「大きな淵」があるというのです。決して乗り越えることができないほどの大きな淵です。つまり、両者の運命は決定的なものであり、変更することができない永遠の決定がそこにあるということです。金持ちと貧しいラザロの運命は、死後の世界においてまったく逆転してしまいました。地上において、ラザロの叫びは金持ちにも誰にも聞かれませんでした。自分のところに橋をかけて渡って来てくれる人は誰もいなかったのです。来たのは犬だけです。そして、死んだ後、立場が逆転します。地上において、ラザロと金持ちの間に橋がかからなかったように、陰府においても両者に橋がかかることはなのです。
この譬え話をとおして、主イエスは何を私どもに伝えたいのでしょう。まだこの後、27節以下に主イエスの言葉が続くのですが、ここまでのところで主は何をおっしゃりたいかと申しますと、私どもが抱える「偽りの安心」というものを打ち砕くためにこの物語をお語りになったということです。誰もが安心して生きたいと願うのです。人生には多くの不安が伴います。だから、「もうこれで大丈夫だ」と言えるものを手に入れたいのです。なかなか自分が願う安心を手に入れることができない時は、不安な思いを覆い隠し、平気な振りをしてしまいます。そのように、自分で自分を安心させようとするのです。しかし、主イエスは私どもが「これで安心だ」と思い込んでしまう、その心を揺さぶられるのです。私どもの安心を打ち破り、砕こうとなさるのです。安心している振りをする私どもに対して、「あなたのその生き方は本当に安心を与えるのか?」「あなたはそれで本当に安心なのか?」と問われるのです。いったい私どもの安心を本当に保証してくれるものとは何なのでしょうか。それも生きている時だけではなく、死んだ後も私を安心させるもの。私どもを天国へと導いてくれる確かな保証とは何なのでしょうか。そのことを問わずにはおれません。
普段、あまりお語りになることのない死後の世界について主はお語りになります。いわゆる天国と地獄ということですが、私どもの関心は、何が天国と地獄を分けるのかということです。金持ちは地上でラザロを助けなかったから地獄に行ったのでしょうか。だから、私たちはそうならないように、貧しい者を助ければいいのでしょうか。またラザロが天国に行ったのも、彼が善い行いをしていたからなのでしょうか。ラザロのことはよく分からないにせよ、金持ちはぜいたく三昧で、自分のことしか考えない悪い人間だとすぐに思い込んでしまうのです。けれども、聖書を読むと私どもが想像していようなことは一切記されていないのです。唯一記されている言葉はこういうことです。25節。ここはアブラハムが金持ちに語った言葉です。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」
とても単純なことが言われています。金持ちは生きている間、良いものをもらっていた。一方、ラザロは悪いものをもらっていた。だから死んだ後は、立場が逆転したのだというのです。しかし、単純であるがゆえの難しさというものがあると思うのです。そもそも、良いものをもらったというのですが、良いものとは何でしょうか。お金や富のことでしょうけれども、それなら私どももいくらかは持っているのです。いくらまで持つことが許されるのでしょうか。何も分からないのです。反対に悪いものとは具体的に何でしょうか。貧困や病気といったこの世の不幸のことでしょうか。不幸な人間は善い人間なのでしょうか。むしろ苦難の中で、私どもは今まで見たことがない嫌な自分に出会い、神様に対しても隣人に対しても、酷いことをしてしまうということはいくらでもあるのです。何をもって人は、善い人間と言えるのでしょうか。
また、この金持ちのことですが、彼は本当にラザロを一切、助けなかったのでしょうか。別に金持ちを擁護するつもりはありませんが、この金持ちはラザロが家の門の前にいることを良しとしたのです。「どっか行け」と言って、追い払ったのではないのです。そして、もしかしたら、おこぼれのようなものであったかもしれませんが、ラザロに食べ物を与えていたのかもしれません。だから、ラザロも金持ちの家の門の前に居続けたのでしょう。私どもが金持ちの立場ならどうでしょうか。いつも家の門の前に居られたらどうでしょうか。やはり困ってしまうのではないかと思います。最後には警察やどこかに電話してしまうのではないでしょうか。そういう意味で、金持ちのほうが私どもよりも、愛の業という点においては優れていたかもしれないのです。
貧しい者を助け、施すということは良いことです。ただ難しいのは、先ほど申しましたように、施しながら、自分はどれだけ財産を持つことが許されるのかということです。あるいは、どこまでのことをすれば、どこまでたくさん献げれば天国に行けるのかということです。自分の中では十分なことをしたつもりでも、死んだ後、神様の前に立った時、「お前は頑張ったけれども、わたしの基準にはかなわない。だから天国には入れない」などと言われたら、たまったものではありません。すべてがそこで終わりになってしまうのです。悪いことや罪ということに関しても、どの程度なら赦してもらって、天国に行けるのでしょうか。そういうことは一切、主イエスはおっしゃらないのです。地上で良いものをもらった者は、死んだ後、もだえ苦しみ、地上で悪いものをもらった者は、死んだ後、慰めらる。それだけしかお語りにならないのです。
しかし、実は大切なことを今日の箇所のすぐ前でおっしゃっていることに、私どもは目を留めなければいません。13〜15節をご覧ください。「『どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。』金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」15節にあるように、神様は人のうわべではなく、心をご覧になるお方です。死んだ後、終わりの日においても、神様は私どもの心をご覧になられるのです。地上では、人の目に覆い隠すことができたとしても、神様の前では裸なのです。地上において、お金や富に限らず、他のことで満たされ、すべたが上手く行っている。私は幸せだ。もしこれで安心だと思ったとしても、神を知り、死を超えたいのちに生きていなければ、それは虚しいのだと言うのです。
主イエスは、ファリサイ派と呼ばれる人たちに向けて語られました。聖書の専門家であり、信仰を導く指導者です。当時、ユダヤはローマの支配下にありました。その中で、不信仰に陥る人たちも多かったのです。しかし、ファリサイ派の人たちはローマの権力に屈することなく、信仰を貫こうとした人たちでした。とても真面目な人たちだったのです。生活も貧しい生活をしていたのです。
しかし、そのような彼らに向かって、「金に執着するファリサイ派」とおっしゃったように、段々と欲深くなっていったのでしょう。私たちは他の人たちと違って、真面目な信仰生活を送っている。その報いとして、ぜいたくをして何が悪いというのか。そのような思いに捕らわれ、その思いを正当化しました。しかし、そこで神の僕ではなく、富の奴隷となってしまったのです。
私どもはどうでしょうか。譬え話に登場した金持ちやここでのファリサイ派のように、神よりも金に執着するなんてキリスト者として恥ずかしいと思いながら、しかし心のどこかではお金を愛し、自分の財産を確保しながら、一人安心したいと思っているのかもしれません。少なくとも自分はラザロのようにはなりたくないのです。そのようにお金に執着する姿を誰かに見られたらたいへんですし、キリスト者なのに「欲張りだ」などと言われたくはありません。だから、愛の業にも励んで、善い人間の振りをしようとするのです。しかし、神様はあなたの心をご覧になるのです。人からどう言われるかが大事ではありません。良心に恥じる生き方をしなければ、それでいいというのでもありません。大切なのは、神様に知られているあなたの心はいかなる心なのかということです。
終わりの日、そのあなたの心、あなたの人生そのものが神様の前で問われるのだというのです。そこではもう自分の心を覆い隠すことも、言い訳することもできないのです。地上の歩みにおいて、自分で自分を安心させるために手に入れたものは意味を持たなかったということに気付かされるのです。私どもは死んだら、裸で神様の前に帰って行かなくてはいけません。いやもう地上にいる時から神様の前に裸であり、貧しい存在であるということです。何よりも、神よりもお金を愛し、富に仕えようとしてしまう罪の思いが、私どもを貧しく、卑しい者に変えてしまうのです。どうしたら、神を愛し、神に仕える者と変えられるのでしょうか。罪だけではなく、様々な弱さや貧しさを抱える私どもがどうしたら神の前に豊かな者となることができるのでしょうか。
27節以下からはまた新たな対話が始まっています。そして26節までは、既に存在した物語を土台としていると申しましたが、この後半部分は主イエスが語られたオリジナルということになります。そうしますと、この譬え話の強調点も27節以下にあると言えるのです。単に天国か地獄かという話ではなくて、実はもっと大切なメッセージがここに込められているのです。金持ちは言います。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」金持ちは自分のことというよりも、5人の兄弟たちがこの場所に来ることのないように、何とか助けてくれるようお願いします。兄弟たちも、金持ちのような毎日ぜいたくな生活をしていたのかもしれません。
しかし、アブラハムは金持ちの願いに対してこう答えました。29節「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」つまり、アブラハムは金持ちの願いを聞かなかったということです。神様にお願いすれば、夢や幻の中で、「こういう生き方をしていると、死んだ後、酷い目に遭うぞ」と警告することももちろんできたでしょう。しかし、そのようなことはしないというのです。どうしてでしょう。アブラハムはこう言いました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」「モーセと預言者」とありますが、これは「聖書」のことです。今日で言う「旧約聖書」のことです。兄弟たちは聖書を持っているではないか。それに耳を傾ければ、もうそれで十分だ。聖書に聞いていれば、死後の備えをするのに十分だと言ったのです。聖書にちゃんと聞いていれば、必ず救われる。だから、他に何もいらないと言ったのです。
それに対して、金持ちはこう答えます。30節「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」金持ちは旧約聖書を信じていないのです。ユダヤ人ですから聖書を聞いたこともありますし、礼拝にも行ったことがあるでしょう。しかし、聖書の言葉では不十分だと言うのです。聖書の言葉だけでは兄弟たちは説得されない。聖書の言葉が本当だということを証しする人が必要なのであって、しかも、実際に死後の世界を経験した証人が必要なのだ。死んだ者が復活して、兄弟のところに行くという驚くべき奇跡を見せてあげれば、5人の兄弟たちも悔い改めるかもしれないと言うのです。ここに金持ちの大きな問題があるのです。お金に執着し、富に仕えていたというのもそうですが、違う言葉で言い換えますと、金持ちは耳を傾けて、御言葉に聞くことをしてこなかったという問題が彼の根本にはあるのです。聖書の存在も、聖書がだいたい何を言っているのかも知っているのです。そして、ラザロを家の門に置き、少しは助けることができるような愛を持っていたとも言えるのです。しかし、それでも金持ちは聖書に真剣に耳を傾け、心から神を信じようとはしなかったというのです。悔い改めて、神のところに立ち帰ろうともしなかったということです。
神を心から信じないというのは、結局のところ、自分の力によって生きていたということです。自分を支える力となったのが、彼にとってはお金だったのです。しかも、彼は普通の金持ちではないのです。19節に高価な服を着ていたとありましたが、これらの服は特別な時に着るものであって、普段着として着るものではありません。また、「毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とありますように、働くことをせず、毎日がお祭り騒ぎ、毎日がお祭り気分だったのです。自分に酔い、自分で自分を満たし、自己中心的な生活をしていました。そのように自分に酔いしれているからこそ、神様も自分も見失うのです。神の言葉を聞き過ごし、近くにいる隣人をも見過ごしてしまうのです。隣人に対して少しは親切そうな振りをしながら、結局、そこでしようとしていることは自分の行いを誇り、周りから良く見られたいだけなのです。さらに、金持ちは地上において満ち足り、地上において安心することばかりに執着し、死を超える永遠の視点で自分の人生を見つめ、生きることができませんでした。この金持ちは人間本来のあり方を失い、自分の力で生きられると思っている私ども罪人の姿を表しているのです。
主イエスはおっしゃいます。31節「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」聖書に素直に、そして、真剣に聞かない者は、復活という奇跡が起こっても驚くことはあるかもしれないが、信じることはないし、悔い改めることもしないというのです。金持ちもファリサイ派も、そして私どもキリスト者もそうですけれども、聖書を持っているだけではだめなのです。聖書を持つだけでなく「聞く」ということがなければいけないのです。それも聖書をとおして響いてくる神の御声に聞き、御心を聞きとるという姿勢で読まなければ、いくら文字を読んでも信じることはできないのです。そして、聖書の御言葉に聞きながら、いつも神の前にあるという姿勢を大切にして生きていかなければいけません。地上におけるそのような信仰の姿勢が死を前にした時も、そして、終りの日にも永遠の意味を持つことになるのです。
以前、ある教会の方がこのような証しをされていたことを思い出しました。「自分の理性と聖書を天秤にかけることをやめて、代わりに聖書が本当に語ろうとしていることを見つける努力をしようと思えるようになった。その時に初めて聖書の言葉が響いてきた。」そのように言うのです。聖書の言葉というのは、神の言葉であるがゆえに、簡単に受け入れることができないことも多々あります。しかし、それでも自分の理性と聖書を天秤にかけることはしないのです。それは聖書の言葉に疑問を抱いたり、反発を覚えることがいけないというのではありません。真剣に御言葉に耳を傾けようとすればするほど、不思議な思いに捕らわれることがしばしばあります。しかし、それでも信じてみようと思うことです。この御言葉は私に何を語りたいのか、心から祈り求めるような思いで耳を傾けるのです。その時、神様は必ず答えてくださるのです。聖書に聞いていれば、ちゃんと死に備えることができます。安心して死ぬことができます。終わりの日、大胆に神様の前に立つことができるのです。そのために何か特別な経験や奇跡はまったくいりません。必要なのは聖書に聞くこと、神を信じることです。その時にどんな奇跡よりも、聖書の言葉こそが確かであり、真理であるということを信じることができるのです。
では聖書はいったい何を語るのでしょう。それは神様の御心に違いないのですが、ではその御心とは何でしょうか。たったひとことで言うとどういうことになるのでしょうか。そのヒントとなるのが、「ラザロ」という人物の名前です。主イエスは数多くの譬え話をお語りになりましたが、名前が出てくるのはラザロだけなのです。ラザロ、それは「神は我が助け」という意味です。聖書には何が書かれているのでしょう。それは、神の助けなしには生きられないということです。神はあなたを助けたいというのです。「罪の悲惨の中にある人間をわたしが助け出すのだ」という主イエスの決意がにじみ出ているような名前、それが「ラザロ」という名です。いったい何が私どもの歩みを生活を支えるのでしょう。富でしょうか。それとも他のものでしょうか。もしこの金持ちのように、富こそが私を助けると言うならば、その富がその人にとっての神、偶像の神となります。主イエスは偶像の罪から私どもを救い出し、まことの神を信じる信仰へと導かれるお方です。神様の助けがあるからこそ、私は本当に生きることできる。この恵みに気付かせくれるのは聖書の言葉だけです。自分の本当の居場所を知り、悔い改めることもまた、御言葉を聞くことによって与えられる思いです。しかし、もしこの助けを無視し、忘れてしまうならば、そこには滅びしかないということです。
ラザロは、「神はわが助け」という信仰を、地上における自らの惨めさや貧しさ、また病や周りからの冷たい視線があったにもかかわらず、最後まで失うことはありませんでした。神様の恵みと信仰によって生きる人間として、つまり本来あるべき人間として最後まで生き抜いたのです。それは、希望を失わなかったということでもあるでしょう。人生の輝きというのは、希望があるかないかで決まるのではないでしょうか。ラザロの人生は、人の目には卑しく、惨めに映ったかもしれません。しかし、神の目には輝いて見えたのです。そして、ラザロというのは、譬え話に出て来る一人の人物だけを指すのではないということです。皆がラザロなのです。ラザロも金持ちも私たちも、神の助けなしには生きられないのです。
主イエスは「復活しても御言葉に耳を傾けることないだろう」とおっしゃいました。復活した者の言葉も、御言葉を無視するあなたがた罪人には無力なのだと厳しいことをお語りになりながら、しかし、その主イエスは十字架で死に、復活してくださいました。ここにあなたの真実な助けがある。ここに神の助け、神の救いがここにあるのだということを明らかにしてくださいました。主の復活の光の中で、改めて私どもはこの物語に耳を傾けます。生きておられる復活の主は、今も御言葉をとおして神様の御心を明らかにしてくださいます。神はあなたを助けてくださるということ。死を超えた望みが与えられているということをいつも御言葉をとおして語ってくださるのです。もう私どもをと神様を隔てる大きな淵はありません。十字架という橋がかけられたからです。甦りの主の光に照らされて、いつでも神様のふところに帰ることができるのです。ここに私どもを本当の希望があり、安心があるのです。お祈りをいたします。
あなたの助けなしには片時も生きることができない私どもです。神よ、あなたはいつも私どもの神でいてくださり、助けの御手を差し伸べていてくださいます。そのあなたの深い御旨を知ることができるように、御言葉を聞かせてください。自分の力によってではなく、ただあなたの助けによって、死を超えた望みに最後までの生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。