2022年06月19日「満たされて生きる」

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満たされて生きる

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~17節

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聖書の言葉

1神はこれらすべての言葉を告げられた。2「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。7あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。8安息日を心に留め、これを聖別せよ。9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。13殺してはならない。14姦淫してはならない。15盗んではならない。16隣人に関して偽証してはならない。17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」出エジプト記 20章1節~17節

メッセージ

 夕礼拝では、「十戒」から御言葉に聞いています。昨年6月から約1年かけて順に学んできましたが、本日が最後になります。17節に記されている十番目の戒めです。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」短くまとめますと、「隣人の家を欲してはならない」ということです。以前の口語訳聖書では、「隣人の家をむさぼってはならない」となっていました。隣人のものを欲すること、貪ることを戒める御言葉です。これまでは、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」ということが教えられてきました。殺人も姦淫も盗みも偽証も極めて具体的な行為、行動を指していますが、第十戒の「貪り」「貪欲」という罪は、具体的な行為というよりも、私どもの心の中にある思い、感情のようなものです。私たちの内面にあるものです。

 信仰生活というのは、心だけの問題ではなく、私どもの外にはっきりと現れ出てくるものだと思います。そういう意味で、十戒は私どもの生活の具体的なあり方を正しく導いてくれる良き指針でありました。その十戒が最後の戒めにおいて、私どもの心のありようを問題とするのです。もちろん私たちの心のあり方が、実際の生活につながっていくことは言うまでもないことですが、それゆえに、あなたの心を支配しているものとは何であるのか。私たちの心の根っこにある思い。十戒がこれまで語ってきたようなあらゆる罪を生み出すその温床となるもの、罪の根源にある思いとは何であるかを、第十戒は最後の締め括りとして私どもに教えているのです。言わば、私どもの心の内面を映し出す鏡のような戒め、それが第十戒だということです。そして、罪の根元にある罪こそが貪りであり、貪欲であるということです。その貪欲の罪の正体と向き合うこと、欲望の根底にある魂の渇きに気付き、本来私どもは何を求めるべきものなのか。そのことを最後の第十戒は私どもに教えてくれるのです。

 ところで第十戒は、第八戒の「盗んではならない」という戒めとよく似ているのではないかと言う人もいます。どうしてかと申しますと、「盗む」という行為は自分にないものや自分には欠けているものを隣人のあの人が持っていて、それを欲しいと願うことです。願うだけでなく、実際に奪って、自分のものとすることです。ですから、盗むということの中にも「貪欲」という罪が潜んでいると言えるのです。しかし、第十戒めは、盗みと並ぶ罪の一つとして、貪欲の罪があるのだと言っているわけではありません。あとでいくつかのことを申しますけれども、盗みだけではなくて、他のすべての戒めにも背いてしまう私どもの心の奥底にある思いを、問題としているということです。つまり、最後の第十戒は、十戒全体を視野に置いているということです。十戒全体が指摘する罪の根っこにある思いこそ、貪りであり貪欲であるということです。そういう意味で、最後の第十戒は十戒を代表する戒めであり、十戒を締め括るに相応しい戒めとも言えるのです。

 この「欲する」「欲しがる」という私どもの心の感情ですが、それ自体が全部わるいわけではないと思うのです。欲求や向上心というものがなければ、人は生きていけないところがあります。物をある程度は所有する必要もあるでしょう。もちろん、してはいけないことをしてはいけないのですが、食べることや寝ることなど、欲する思いをすべて悪だと決め付けて禁じてしまえば、生きることができなくなりますし、生きていても楽しくありません。むしろそういう思いから解き放たれて、自由に生きることができるということ。ここに生きる喜びがあり、その喜びを神様が私たちに与えてくださいます。

 また、欲するという思いは、自分には「欠け」があるということをよく知っているからこそ生まれる思いではないでしょうか。自分は欠けだらけで、あの人と比べると自分の足りなさが余計際立ってしまい、惨めに思うということもありますが、それだけではないでしょう。自分の足りなさをとおして、自らの限界をよくわきまえるということにもつながるのではないでしょうか。驕り高ぶることなく、神様の前にへりくだるという信仰の姿勢を整えることもできると思います。そして、足りないからと言って、嘆いて終わるのではなく、神様に「満たしてください」と祈り求めることもできますし、たとえ、祈りが聞かれなかったとしても満足して生きる術を知っているのが私どもキリスト者です。

 「欲してはならない」「貪ってはならない」と十戒は命じています。欲することのどこが問題なのでしょうか。この「欲する」とか「貪る」という言葉は、ヘブライ語で「ハーマド」という言葉です。このハーマドという言葉は単にあれが欲しい、これが欲しいという意味ではありません。「陰謀」を伴う欲望であるということです。お腹が空いたからご飯が食べたいとか、生活のためにあれが必要だから欲しいというとはわけが違います。聖書というのは、最初から神の祝福を語りますが、同時にそこから堕落した人間の罪を語り始めます。初めに造られた人間はアダムとエバでしたが、彼らは「食べてはいけない」と神様から言われていた木の実から取って食べ、罪をおかしました。なぜ木の実を食べたのでしょう。お腹が空いていたからではありません。蛇に唆されて、自分たちも神のようになれると思ったから木の実を取って食べたのです。主人の座を神から奪い、自分たちこそ神の座に着きたいと願ったからです。人間最初の罪は、神に対する貪りでした。神様のものを自分のものにしようとしました。人間の最初の罪の本質に貪り、貪欲があったのです。

 また、アダムとエバの間に、カインとアベルの兄弟が生まれます。しかし、兄カインは弟アベルを殺してしまいました。なぜかと言うと、弟の献げ物は受け入れられ、自分の献げ物は受け入れられなかったからです。どうしてかは分かりません。けれども、カインが顔を伏せて、神の御顔を見つめることができなくなってしまったということ。それがすべてを物語っていました。神様はカインに向かって「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」とおっしゃいました。しかしカインは罪をコントロールすることができず、怒りと嫉妬に支配されたその心によって、弟アベルを殺してしました。嫉妬というのは、人が持っている良いものを妬むことです。神様がその人にお与えになった祝福や賜物を妬み、それを奪おうとする思いです。嫉妬というのは人に対する貪りと言ってもいいでしょう。

 また、ダビデというイスラエルの王がいました。サムエル記下第11章に記されているダビデの罪を考えたいと思います。ダビデは部下であった将軍ウリヤの妻バド・シェバに一目惚れして、自分のものにしたいという欲望を抱くようになります。それで、ウリヤをわざと最前線に送り戦死させ、バト・シェバを自分のものにしていましました。これは隣人に対する貪りの思いが生んだたいへん大きな罪です。貪りの思いが、第七戒の「姦淫してはならない」という罪につながり、さらには第六戒の「殺してはならない」という罪を犯すことにもなったのです。人間という存在そのものにある罪、そして、隣人との関係の中に潜んでいる罪こそが、まさに貪欲なのです。

 人はなぜ貪るのでしょうか。人はなぜ奪うのでしょうか。それは誰もが人間的な欠けというものを持っているからです。その欠けというのは、最初は小さなもの、それほど気にするようなことでなかったかもしれません。しかし、いつのまにか膨らんできて、隣人さえも丸ごと吞み込もうとする果てしない欲求に変わっていくのです。心の欠けや渇きを埋めるために果てしない求めが始まっていきます。不安な自分を何ものかで埋めて、支えとしようとするのです。それは隣人のものを奪い取ってまでして、自分の心を満たそうとしてしまいます。隣人の人格を無視してまでして、隣人のものを強引に奪って自分のものにしたいと思います。貪欲の罪は心に深く根付くものですが、心の中だけでなく、行動にも現れ出てくる罪なのです。

 人間の本来の姿というのは、創世記にも記されているように、神に似せて造られ、神のかたちを持つものとして造られたということです。また、神様がいのちの息を吹きかけてくださって、初めて生きるものとなったように、人は絶えず神の息を呼吸し、神との交わりに生きる存在であるということです。何よりも神を慕い求める者として、神を欲するものとして創造されたということです。神様との交わりのなかで、満たされ、成長していくのが私どもの人間なのです。しかし、その人間が、自分は神のようになれると思い始めました。神のようになりたいと願うようになりました。しかしなれるはずなどありません。そして、神様との交わりから外れた人間、罪人は、自分が誰か分からなくなったのです。どのようにして生きていけばいいのか。どのようにしたら自分の人生は満たされるのかが分からなくなりました。隣人とのより良い関係を築き上げていくためにどうしたらいいのかも分からなくなりました。段々と心の内に強い不安や葛藤が広がっていくのです。そして、盗む、殺すなどの具体的な行動に結び付きます。そして結局、貪りは滅びにつながるのです。自分の生活を破壊するだけでなく、隣人の家や生活を脅かし破壊します。

 私たちをお造りになり、いのちを与えてくださった神を無視して生き始める時、満たされないという思いが生まれ、貪欲の虜となります。自分だけでなく、隣人をも滅びに至らせる罪となります。ですから、パウロという人は、エフェソの教会に宛てて記した手紙の中でこう言いました。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」(エフェソ5:5)パウロは言います。貪欲というのは偶像礼拝に他ならないと。貪欲の根本にあるのは、私どもが何を神とし、何を礼拝しているかということと深く関わってきます。まことの神を神としていないから貪欲が生まれるのです。貪欲そのものが神となっているのです。隣人の家が隣人の妻が、他にも財産であったり、学歴や地位やプライドといったものを手に入れたいという思いがあなたの心を支配し、まことの神を見えなくしてしまっているのです。あなたがたはその貪欲の奴隷だというのです。

 だから、「隣人の家を欲してはならない」と十戒の言葉は私どもに強く命じるのです。心に根付く貪りの思いと戦うことは厳しいことです。しかし、貪りの思いと戦い、隣人の家、妻や夫、あらゆるものを、その人のものとして尊重し、喜ぶことが求められています。貪りの思いが心の中にある状態では、本当に良い人間関係は生まれません。貪りの思いから解放されることこそが、隣人との真実な交わり、本当に良い関係を築く鍵となります。最後の第十戒の戒めもまた隣人との良い交わりへと私どもを招くものです。それゆえに、改めて第一戒や第二戒が思い出されます。最後の第十戒は最初の戒めに戻るのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。」神以外のものを神としたら、すべてが狂い始めます。元に戻ることはできません。しかしそのような人間を救い出すために、貪欲という偶像礼拝から救い出すために、神様は私どもにイエス・キリストを与えてくださいました。この主イエスが十字架の贖いの御業をとおして、私どもの神がどのような神であるのか。生けるまことの神とはどのようなお方なのかを示してくださったのです。イエス・キリストに表された神の愛に触れる時、自分の心にどんなに根深く貪りの思いが根を下ろしているかを知ることができるでありましょう。そして、悔い改めへと導かれるのです。そこに貪欲という偶像礼拝の道から離れ、まことの神と共にある人生を喜ぶものとされます。

 最初のほうに、「欲する」「貪る」という言葉を意味するハーマドという言葉は、単に欲しいという意味ではなく、陰謀を伴う欲望だともうしました。ただ、聖書ではいい意味で用いられることもあります。「主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」(詩編19:9-11)「多くの純金にまさって望ましく」とありますが、この「望ましく」という言葉がハーマドという言葉です。つまり、私どもが本当に欲しがるべきものは神への畏れであり、神の裁き、神の正しさであるということです。それは神様との正しい交わりをこそ徹底的に欲すべきものであり、慕うべきものであるといことです。

 私どもが貪欲に支配されてしまう根源的な理由は、私どもの魂が神様の前で深い渇きを覚えているからです。そのような私どもを満たすために主イエスは来てくださいました。そして、いつも私どもを招いておられます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)主の日の礼拝や聖餐式の時によく聞くべき御言葉です。私どもが本当に欲すべきものが与えられる場所、それは神が私どものために用意してくださった礼拝という場でもあります。ここで神様が御自身を現してくださいます。愛の御心を明らかにしてくださいます。私の人生には、他の何もいらないと言い得ることのできるものが、主の日ごとに用意されているのです。そこで知る神様の思いは、私のいのちも人生もすべて、主イエス・キリストが十字架にかかってくださるほどに価値があるということです。キリストが私の人生を欲しがってくださったからこそ、今私どもはここに生かされているのです。キリストによって、「この人生を無駄にしてはいけない」と思えるほどに、価値あるものとしていただいたことを、いつも礼拝の度、神様の前で共に思い起こしたいのです。

 そして、キリストの愛に満たされる時に、私どもはこれまでと違った新しい生き方へと押し出されていきます。それは、「受けるよりは与える方が幸いである」という主イエスがお語りになった御言葉にもあるように、与える幸いに生きる者とされるということです。隣人との間に愛と喜びを分かち合う交わりへと私どもは導かれるのです。「隣人の家を欲してはならない」という戒めを積極的な表現に言い換えると、それは受けるよりは与える幸いに生きることであり、隣人の生活を守り、祝福するということです。私どものことを喜んでくださる神様が、「このように生きなさい」と御言葉を与えてくださいます。今一度、十戒の言葉を心に刻みましょう。私たちの心の中にある思いも、また具体的な生活一つ一つも、すべての歩みが神様の恵みの言葉によって導かれますように。お祈りをいたします。

 約一年の間、十戒の言葉に聞き続けることができ感謝をいたします。自らの罪を深く問われることが何度もありましたが、それ以上に、私どもの罪から解き放ってくださった神様の愛と赦しの恵みを深く覚えることができました。神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することはとても具体的なことであり、それゆえに、愛することの困難さを覚える私どもです。しかし、そのような歩みの中で、御言葉の恵みを改めて深く味わい、今も生きておられる神様とお会いすることができます。どうか、お一人お一人の愛の業を、教会の働きを豊かに顧みてください。教会の仲間と共にあなたの前に立ち続け、主が語り掛けてくださるいのちの言葉によって、私ども歩みを祝福してください。

主の御名によって祈ります。アーメン。