2022年05月22日「別れがもたらす喜び」

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別れがもたらす喜び

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章44節~53節

音声ファイル

聖書の言葉

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。ルカによる福音書 24章44節~53節

メッセージ

 私どもの歩みには出会いがあり、そして、別れがあります。年齢を重ねるということは、それだけ多くの出会いと別れを経験してきたと言うことができるでしょう。ここに集っておられる方々の年齢は様々ですが、それぞれに自らの歩みを振り返る時、小さな出会いから大きな出会いまで、本当に掛け替えのない出会いがたくさん与えられてきたのではないでしょうか。そして、私どもは出会いの瞬間も、別れの瞬間も鮮明な形で覚えているものだと思います。出会いの時、別れの時、そこにはどのような光景が広がっていたのでしょうか。また、そこでどのような対話を交わしたのでしょうか。

 普通、出会いというのは喜びをもたらし、別れというのは悲しみをもたらします。それだけに素晴らしい出会いが与えられた人と、何らかの形で別れなければいけないということは、本当に寂しいこと、悲しいこと、辛いことです。少し経てばまた会えるということが分かっていたならば、多少我慢することができるかもしれません。けれども、もう二度とお互い顔を合わすことはないかもしれない。そのことが分かった時、どれだけ悲しいことでありましょうか。

 今日は以前に比べ、場所は離れていても様々な形でコミュニケーションを取ることができるようになりました。また、コロナ禍以降は、教会の礼拝や集会においてもライブ配信が当たり前のようになりました。そういう意味では、色んな手段や技術でお互いの距離を縮めることができるようになったと言うこともできます。教会員同士の距離だけでなく、神様との距離さえも近くなった。そのように感じる人もおられることでしょう。しかし、どれだけ時代が進んでも、埋めることのできない距離があることを私どもはどこかで知っています。別れがもたらす悲しみをどうすることもできないということを知っているのです。とりわけ、愛する者との別れ、死別はどれだけ悲しいことでありましょうか。死んでしまえば、この地上において、もう二度と会うことはできないのです。

 今朝、共に聞きました御言葉はルカによる福音書の最後の場面です。最後、それは復活の主イエスと弟子たちの別れの場面と言ってもいいでしょう。別の言い方をすると、「天」に「昇る」と書いて、「昇天」と呼びます。決して、主イエスが死んでしまって、お別れすることになったわけではありません。十字架で死んでくださった主は、三日目にお甦りになり、復活を信じることのできない弟子たちの前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と告げてくださいました。弟子たちにとって、もちろん私どもにとっても同じですが、主イエスと出会い、主の愛に捕らえられて、主に従う者とされたということ。これ以上に大きな喜びはありません。主に従い抜くことができない自分たちの罪を、主は十字架の上で赦してくださり、復活のいのちに生かしてくださる。本当に嬉しかったと思います。

 「主イエスこそ、私のすべて」と信仰を言い表すことができるほどに、弟子たちは主を愛していました。しかし、ついにこの地上において、復活の主イエスと別れる時が来たのです。その別れの場面となったのは、ベタニアと呼ばれるエルサレムから3キロほど離れた場所でした。十字架を前にして激しく祈られたオリーブ山、別名ゲツセマネと呼ばれる場所の近くです。ルカが福音書に続いて記した「使徒言行録」を見ますと、そこは山の上であったということが分かります。弟子たちは、地上における主イエスとの最後の場面を、これまで以上にしっかりと心に刻んだことでありましょう。そして、山を降り、地上の歩みに戻っていきます。エルサレムに帰って行くのです。いったいどんな気持ちで山を降りていったのでしょうか。普通、別れは悲しみをもたらすのです。

 しかし、ルカはこのように記します。52節、53節、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」この御言葉と向き合えば向き合うほど、不思議な思いでいっぱいになります。主イエスとの別れが弟子たちに大きな喜びをもたらしたというのです。それだけで興味深いことです。その理由を尋ねずにはおれません。なぜ、愛する主イエスとの別れがあなたがたに喜びをもたらしたのですか?別れが悲しみではなく、喜びとなるのはなぜですか?私どもはこう考えるかもしれません。弟子たちは、本当はとても寂しいのだけれども、その思いをぐっと堪えているだけではないか。悲しみを紛らわすために、主イエスとの良き思い出に浸っているだけではないだろうか。そして、天に昇られて主イエスに喜んでもらえる生き方、恥ずかしくない生き方をしようとしているだけではないか!まるで自分で自分を奮い立たせるようにして…。しかし、弟子たちが主イエスと別れて大喜びしたというのは本当にそういうことなのでしょうか。自分で自分を力づけることによって、伝道の喜びに生きることができたのでしょうか。主イエスとの地上の別れが、大きな喜びをもたらす。その理由さえ教えていただければ、私どもの生き方は本当に大きく変わるのではないか。しかも良い方向へ、つまり、喜びに満ちた人生とされるのではないか。そう思えてならないのです。

 主イエスの「昇天」という出来事は「使徒信条」の中でも告白されているように、信仰に生きる上でも大きな意味を持ちます。ただその割には、主イエスが天に昇られたということについて、ルカ以外の3つの福音書を含め、それほど聖書は丁寧に記しているわけではありません。また、天に昇られた主イエスが、神の右に座しておられるという記述はいくかあるものの、天に昇って行かれる様子を丁寧に記しているのはルカくらいです。ルカが記した「使徒言行録」ではもう少し詳細に記されています。そのことはまた次週、御言葉から聞きたいと願っていますが、同じルカでも福音書のほうは、復活から昇天までのすべての出来事が、一日の中で起こったかのような書き方になっています。一方、使徒言行録を見ると、復活の主が弟子たちの前に現れてから天に昇られるまで四十日あったことが分かります。この四十日というのは、新しい時代への移行期間でもあります。主イエスの地上の旅路は終わりを迎え、新しい時代が始まろうとしています。それは聖霊の時代です。49節の「父が約束されたものをあなたがたに送る」とありますが、約束されたものというのは聖霊のことです。この聖霊の働きによって、弟子たちはキリストの証人として福音を力強く宣べ伝えます。そして、イエスを主と信じる者たちの群れ、教会が誕生するのです。弟子たちは「使徒」と呼ばれるようになります。このあともキリストの証人として、福音をエルサレムだけではなく、全世界に宣べ伝える働きへと召し出されていくのです。このことは、二千年経った今でも、同じように主イエスから与えられている教会の大切な使命です。

 ルカはこの福音書の中で、ひたすら主イエスのことを紹介しています。元々は、テオフィロと呼ばれるローマの高官に宛てて書かれたものです。そして、このテオフィロはいわゆる「求道者」だったと言われます。ルカはテオフィロに向かって、主イエスを「私の救い主」として受け入れてほしいという祈りと願いを込めてこの福音書を記しました。一度、読んだら忘れることができない数々の主イエスの物語、主イエスと人々との出会いの物語がルカによる福音書には記されています。文学者として評されることもあるルカらしい心温まる多くの救いの物語がここにあります。テオフィロ様、あなたもこの救いの物語の中を一緒に生きてほしいという思いを込めてこの福音を記したのでしょう。しかし、ルカは福音書の最後で何を書いたかと言うと、主イエスのことではなく、なぜか弟子たちのことを書き記しました。主イエスのお言葉でも、主が天に昇って行かれる様子でもないのです。弟子たちが主イエスを礼拝して、大喜びでエルサレムに帰り、神殿でいつも神を賛美している様子を最後に記して終わるのです。

 しかし、ルカは感謝をもってこのことを書き留めたに違いありません。そして、弟子たちの様子を最後に記すことをとおしても、主イエスの御業が確かに働いていることを明らかにしたかったのです。ルカは、読者にイエス・キリストのことを信じてほしい。あなたの罪を赦してくださるキリストのもとに立ち帰り、主の名によって洗礼を受けてほしいと心から願ったことでしょう。それは同時に、あなたもまたこの弟子たちのように、喜びの群れ、賛美をささげる群れ、つまり、教会の一員に加わってほしいということでもあります。なぜなら、主イエスの救いの御業は、神を喜び、神を賛美する群れをつくるためのものであったからです。この喜びと賛美の群れがどのような歴史をつくり始めたのか。それはこのあと使徒言行録の中で語られていきます。

 私どもの歩みには出会いがあり、別れがあります。埋めることができない距離があります。それらを色んな知恵や技術を用いて、その距離を縮めることもできるでしょう。パソコンやスマホ一つで、いつでも礼拝の恵みにあずかることができる便利な一面がありますし、また私どもの信仰の弱さを補ってくれる上でも大きな意味を持つようになりました。しかし、事情は色々とあったとしても、本当の願いはここに来て、共に礼拝の恵みにあずかりたいという思いがあることに変わりありません。なぜなら、ここには主イエスが御自分のいのちを十字架の上で献げてまでして形づくってくださった教会の群れがあるからです。その群れが今もイエス・キリストを礼拝し、喜びと賛美に生きているからです。何にもまして、主イエスは生きておられるということを確信し、心から安心できる場所がここにあります。

 主イエスが天に昇って行かれる様子を記したルカは、その主イエスの仕草まで丁寧に書き留めました。なぜなら、天に昇って行かれる復活の主のお姿やその仕草が、弟子たちに大きな喜びをもたらすことになったからです。もう一度50節、51節をお読みします。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」ここで主イエスは何をなさったのでしょうか。それは弟子たちを祝福されたということです。祝福しながら、天に上げられて行きました。50節に「手を上げて祝福された」とありますが、手を上げて祝福する仕草は、旧約聖書・レビ記(レビ記9:22)に記されている大祭司の祝福に基づくものと言われます。手を上げるとありますが、これは複数の手ということですから、要するに両手を上げて祝福されたということです。牧師が礼拝の終わりに両手を上げて祝福するのも、ここでの主イエスの仕草に基づくものです。決して、牧師自身に祝福する力があるわけではありません。祝福してくださるのは主イエスです。牧師はその事実を告げるだけです。しかし、その祝福は十字架で死にお甦りになったお方の祝福であり、死に打ち勝った主イエスの祝福です。神様と私どもは天と地が遠く離れているように、罪のゆえに、決して一つに結び付くことのない距離がありました。しかし今、両手を上げ、天に昇って行かれる主イエスが天と地を、神様と私どもを一つにつないでくださったのです。これに勝る祝福はありません。

 この「祝福する」という言葉ですが、元の意味は「良い言葉を語る」「美しい言葉を語る」という意味です。そして、聖書はその初めから神の祝福を語ります。神様の良い言葉、美しい言葉を語るのです。天地をお造りになった神は、その日の創造の御業が終わる度に、「これを見て、良しとされた」と喜ばれました。私ども人間に対しても同じです。神のかたちに似る者として造ってくださったがゆえに、特別な思いを込めて「あなたは良い!」とおっしゃってくださいます。最後には、

「見よ、それは極めて良かった」と言って、たいへん大きな喜びと満足を表してくださいました。これを造って良かった。あなたを造って良かった。この神の祝福がいつも私どもの歩みを支えます。

 私どもが自分を否定したくなる時も、神様が私どもの罪をご覧になって、怒りと悲しみを覚えられる時も、神様の私どもに対する祝福は変わりません。神様は、どこまでも私どもを祝福してくださるために、ついには御子をこの世にお遣わしになり、御子を十字架の上で呪ってまでも、私どもに対する祝福の業を貫こうとなさいました。だから、私どもはこの神様のまなざしの中で、この世界を見ることができ、自分自身を肯定することができます。主イエスの十字架のゆえに、私は神に愛され、祝福されていることを確信することができます。私に何が起こっても、たとえ死んだとしても、死に勝利してくださった主イエスの祝福にあずかっているがゆえに、祝福のうちに死ぬことができます。この神の祝福を知ってさえいれば、もう自分を否定する必要はありません。私どもが、日曜日ごとここに集まるのは、神の祝福を知るためなのです。イエス・キリストのゆえに、「極めて良かった」「あなたは素晴らしい」と神様がはっきりおっしゃってくださる、その良い言葉を聞くためです。そこにまことの安息が与えられ、復活のいのちの望みを新たに抱くことができます。

 主イエスの昇天は、弟子たちとの地上の別れを意味する出来事となりました。それゆえに、普通は悲しいはずですが、それが大きな喜びとなりました。ルカは既に、エマオの村に向かった二人の弟子たちが復活の主とお会いした出来事を13節以下に記しています。初め二人は心の目が閉じていて、一緒に歩いてくださっているお方が復活の主イエスだとは気付きません。しかし、主が御言葉を解き明かし、パンを裂いてくださった時、心の目が開かれ、共におられるお方が復活の主だということが分かったのです。その瞬間、主イエスは肉体の目で見えなくなりました。見えなくなりましたけれども、主がいなくなったわけではないのです。はっきりと復活の主が生きておられることを確信し、エルサレムにいる仲間のもとに帰って行きました。

 主イエスの昇天というのは、復活の主が見えなくなったという点では同じですが、気付いたら見えなくなっていたというのではなくて、明らかに「わたしとあなたがたとはここでお別れだよ」という、そういう場面です。弟子たちはどういう心境だったでしょうか。想像ですけれども、初めから大喜びしていたわけではないと思います。「これからあなたがたはわたしの証人となる」「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と主はおっしゃってくださったのですが、自分たちは本当に福音を大胆に宣べ伝えることができるのだろうかと不安に思ったことでしょう。主が共におられても、幾度も失敗をしてきた弟子たちです。それゆえに、キリストの証人として働き、また使徒として教会を導くことができるという自信は正直なかったのではないでしょうか。

 しかし、山の上で弟子たちは本当に不思議な経験をしました。それは復活の主が与えてくださった信仰と使命に生きることが、どれだけ素晴らしいことであるかを改めて示された時でもありました。自分たちが抱いていた不安も悲しみをどこかに吹き飛んでしまうような出来事を経験したからです。それが、両手を上げて自分たちを祝福してくださる主イエスの姿を見たということです。別れの場面というのは、人生の中でもとりわけ特別な場面であり、それゆえに鮮明に記憶しているものだと最初申しましたけれども、この時の弟子たちもまた主イエスが天に昇って行かれる様子をはっきりと自分たちの目に焼き付けたに違いありません。しかも、悲しみとしてではなく、大きな喜びとして心に刻むことができました。

 51節に「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とありました。別れの最後の姿は、主イエスの祝福のお姿でした。しかも、祝福の姿勢を取られたまま主イエスは天に昇られたのです。途中で弟子たち祝福する手を降ろしてしまわれたというのではなくて、両手を上げ祝福されたまま天に上げられて行きました。天に昇って行かれる主イエスのお姿を見ながら、弟子たちはこれからのち、いつまでも自分たちを祝福し続けてくださること。主イエスと私たちを切り離す力はどこにもないということを確信したに違いありません。そこに大きな喜びが生まれました。それが、祝福しながら、天に上げられたということの意味です。

 そして、忘れてはいけないことがあります。主イエスは今も祝福の手を下ろすことはなさらないということです。今も、そしてこれからも、主イエスは両手を上げて、私どもを祝福し続けてくださいます。だから、私どもは私どもを祝福してくださる主イエスがおられる天に心を高く上げます。この地上において、しっかりと地に足を着け、主イエスが与えてくださった使命に生きながら、心を天におられる主に向けるのです。苦難多き地上の歩みですが、心を天に向ける度に、神の祝福にあずかっていることを確信し、望みを新たにします。そのために私どもは主の日、ここに集まります。

 この時の弟子たちもまた、52節で「彼らはイエスを伏し拝んだ」とあるようにキリストを礼拝します。そして、大喜びでエルサレムに帰って行きました。向かった先は神殿です。「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と最後の53節にあるように、絶えざる賛美の歌声が、神の神殿で響き渡る姿をもって福音書は終わっています。神の宮である神殿こそ、私どもが留まるべき場所であり、そこで神をほめたたえる群れをつくるために、主イエスはすべてを献げてくださいました。「神をほめたたえていた」とありましたが、「ほめたたえる」という言葉は、50節、51節の「祝福する」という言葉と同じです。「良い言葉を語る」という意味でした。神様が私たちに良い言葉を語れば「祝福」となり、私どもが神様に良い言葉を語れば「賛美」となります。「祝福と賛美」という本当に祝された関係を築くために主イエスはこの地上に降りて来てくださり、今も神様との良き関係に生きることができるために、絶えず天において私どもを祝福してくださいます。

その神の祝福の恵みに共にあずかり、神を賛美する場所が教会です。

 ここから出て、帰って行く生活には様々なことが待ち受けています。出会いと別れということだけでなくて、ほとんど戦いのために出て行くような気持ちで目の前の色んな問題と向き合わなければいけないということもあるでしょう。予期せぬ形で突如深い悲しみに襲われ、神様のお姿を見失ってしまうこともあるかもしれません。明日のことなんか考える余裕がないほどに、今日を生きるのが精一杯。それが私ども人間の姿でもあると言えるのです。あれだけ信頼し、愛していたにも関わらず、あることがきっかけとなって神様に腹を立て、文句ばかり言ってしまうこともあるでしょう。しかし、私どもは根本的なところで神の祝福を知っています。今も祝福してくださる主イエスの御手を確かに覚えながら、私どもも良い言葉、賛美の言葉を口にしながら、自分自身の歩み、そして教会の歩みを整え、形づくっていくのです。お祈りをいたします。

 イエス・キリストの祝福に生かされている群れが、今ここにつくられていることを感謝します。神の祝福にあずかり、それに応えるようにしてあなたに賛美をささげて生きる、この喜ばしい交わりの中をこれからも歩んでいくことができますように。また、この豊かな祝福が教会の中だけではなく、まだ主イエスにお会いしたことがない者たちにとっても大きな意味を持つのだということを信じ、あなたが与えてくださった働きにこれからも仕えていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。