2022年05月15日「御言葉のともし火に導かれ」

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御言葉のともし火に導かれ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ペトロの手紙二 1章16節~21節

音声ファイル

聖書の言葉

16わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。17荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。19こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。20何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。21なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。ペトロの手紙二 1章16節~21節

メッセージ

 私どもの人生の旅路は、「本当の光」と出会うための旅路であり、また冒険であると言ってもよいでしょう。「光」とは何であるのか。それは「喜び」であり「希望」である。そのように言い換えることもできるでしょう。まことの光と出会うことは、生きる喜びを見つけることと一つのことです。もし私の人生に光がなかったとしたら、もし生きることに喜びや希望がなかったとしたら、それは何を意味するのでしょうか。光がない、光が見出せない状態、それは今、自分が深い闇に覆われていることを意味します。私どもはまことの喜びや希望といったものを追い求めながら、人生の旅路を歩むのですが、その途中で自分の道を見失ってしまうことがあります。闇に覆われたかのような苦難を経験することがよくあるからです。そこでますます光を求める思いが強くなることでしょう。闇の中でも、ちゃんと前に進むことができる光がほしい。いや、闇そのものを引き裂き、どこかに追いやってしまうような力強く、いのちに満ちた光を手にすることができたらと心から願います。

 もうずいぶん前になりますが、日本のある牧師の方が聖書の中に出てくる言葉、例えば、「道」であったり、「命」であったり、「家」あったりというふうに、いくつかの言葉を取り上げて、聖書全体から黙想のような文章を綴った本を出されました。その中に、「光」というテーマもありました。その中で、ある心理療養家が幼い頃にどこかで読んだことがあるという一つの話を引用するところから、光ということについて語り始めるのです。

 こういう話です。何人かが漁船に乗って海釣りに出掛けます。夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り、辺りは暗くなっていきます。慌てて帰ろうとするのですが、潮の流れのせいでしょうか、方角が分からなくなります。そのうち完全に闇に包まれてしまいました。都合の悪いことに夜空に月も出ていません。必死になって、ともし火、松明を掲げて方角を知ろうとするものの見当がつきません。そうすると、ある人がこう言ったというのです。「ともし火を消せ!」皆は不思議に思いながら、火を消します。当然真っ暗なままです。しかし、どうでしょうか。目がだんだんと慣れてくると、まったくの闇だと思っていたのに、向こう岸にある浜の町の明かりがぼんやりと見えてきたのです。そこで帰るべき方向が分かり、無事に帰って来ることができたというのです。

 その牧師はこの話を引用しながら、こう言うのです。「大事なことは、目先の解決を焦って、ともし火をあちこち掲げてみるのではなく、むしろともし火を一度決して、闇の中で落ち着いて、しっかりと目を凝らすことではないか。そうすると闇の中にぼーっと光が見えてくるように、何かが見えてくる。」さらに、このようなことも言っています。「私たちはしばしば焦り、手っ取り早い解決法を求めたがる。本当の光ではないのに、自分の灯火を掲げて、勝手に道を見つけて歩み出そうとする。しかしそれこそ、試みの経験に際して最もしてはならないことなのである。」

 先に、旧約聖書イザヤ書の御言葉を朗読していただきました。その第50章11節に次のような御言葉があります。「見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。」預言者イザヤは神の民に向かって警告します。人間の抱えている闇、その根っこにある思いとはどのような思いなのでしょうか。それは自分の手で火をともし、自分たちが掲げる光によって生きようとすることです。つまり、神の光を拒んで生きようとすることです。神の御言葉に耳を傾けず、神を信頼しないことです。

 このことは昔の時代、昔の神の民だけの問題ではありません。今日も同じように問われていることではないでしょうか。もし自分の手に掲げている光によって生きようとしているとしたならば、その火をすぐに消さなければいけません。人間は自分でつくり出した光、自分の内側にある光によって生きる存在ではないからです。そうではなく、自分の外側からやって来る光、まさに天からの光によって生きるのです。それが私どもの生き方です。神の光、それは一時的に自分の足もとを照らすあかりではありません。闇の中にあっても、歩むべき道を照らし出してくれる光。そして、闇そのものを根本から取り除いてくれるような力強い光なのです。私どもが本当に必要としているのは、まさに私たちを根底から変える光であり、新しい人生の旅立ちへと導くいのちの光です。詩編第119編の御言葉を思い起こしている人もおられるのではないでしょうか。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩編119:105)

 そして、本日はペトロの手紙二第1章の御言葉を聞きました。19節にこうありました。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」2回繰り返されている「預言の言葉」というのは、神様から預かった言葉ということですが、要するに、神様の言葉、聖書の言葉ということです。この手紙を書いた著者は、「どうかこの預言の言葉に留意してほしい」と言います。しかも、「暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」と教会の人たちに切実な思いでお願いをしています。興味深いのは、詩編第119編の御言葉もそうでしたが、「ともし火」と言っていることです。「ともし火」というのは、正直、それほど大きな炎というものではありません。眩しくて目も開けていられないような明るい光でもないのです。神の光と聞けば、どうしても太陽のような明るい光を想像しますが、「ともし火」というのですから明らかに小さな光です。それこそ目を凝らさないと見えないような光であるかもしれません。しかし、私どもをいのちに導き、どのような闇にも打ち勝つ力強い光、希望の光であることに違いないのです。

 なぜなら、ともし火はともし火でも、「御言葉」というともし火だからです。このいのちのともし火、いのちの御言葉に留意するように!「留意する」というのは、心に留めること、心を向けるという意味ですが、「心」だけではなくて、「目」を留めるという意味でもあります。それもぼーっと眺めるというのではなくて、ちゃんとそれに注目するということです。そこから、絶えず依り頼むとか、傾聴するとか、従うという意味にもなりました。御言葉というともし火にひたすら集中して生きようとする信仰の姿勢がここにあります。もし、集中することができないとどうなるでしょうか。留意するという言葉は、他の手紙の中でも用いられていますが、そこでは否定的な意味で用いられます。つまり、御言葉に留意しないとどうなるのか。それは、神様以外の何者かに「心を奪われる」ということです。心奪われると、再び闇の中を彷徨うことになってしまいます。このペトロの手紙二を書いた著者もまた、自分の周りにある闇、教会を覆う闇の力というものをよく知っていた人でした。だからこそ、闇のような暗い所であっても、御言葉のともし火を掲げて歩んでほしい。御言葉に集中し、御言葉に真剣に耳を傾けてほしい。そして、御言葉の中に響く喜びと希望の音色に励まされて、最後まで地上の生涯をまっとうしてほしいと願ったのです。

 ところで、このペトロの手紙二ですが、この手紙が書かれたのは、主イエスが天に昇られてから100年近く経っていたと思われます。そして、「ペトロの手紙」という名前になっていますが、主イエスの弟子であったペトロ自身は65年頃にローマの地で殉教しています。ペトロの手紙一のほうは、主の弟子であったペトロが書いた手紙として読まれていますが、第二ペトロに関しては、ペトロ自身というよりも、ペトロの弟子が自分たちの先生であるペトロの名前を借りて手紙を書いたのではないかと今では考えられています。そして、ペトロの弟子であった手紙の著者が今どういう状況に置かれていたのか。そのことを示す言葉が第1章14〜15節に記されています。「わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」ここを見ると、「仮の宿をまもなく離れなければならない」とか、「自分が世を去った後も」とあるように、手紙の著者は死を前にしているということです。そういう意味で、この手紙は教会員に対する「遺言」とも言えるのです。

 この手紙の著者にとって、そして、私どもにとってもそうですけれども、地上の歩みというのは、あくまでも14節にあったように、「仮の宿」に過ぎないということです。仮の宿というのは、「天幕を張る」ということです。テントを張って住んでいるということです。ですから、地上でどれだけ立派な家に建てたとしても、死んだらテントをたたんで出て行かないといけないということです。

そして、15節では「世を去る」ということが言われていました。死んだら、私どもも世を去るわけですが、この「世を去る」という言葉は、英語の“exodus”(エクソダス)の元になった言葉です。聖書の第2番目に「出エジプト記」というものが収められていますが、英語の聖書では「エクソダス」となっています。神の民イスラエルがエジプトの奴隷から解放されたこと、エジプトから脱出して新しい信仰の旅路に出発したということです。私どもが地上での仮住まいを終え、世を去る時、つまり、死を迎える時、それは新しい出発、新しい旅立ちを意味します。どこに向かって、出発するのでしょうか。それは、私どもの本国である天に向かって出発するということです。

 しかし、ここで注意しなければいけないことがあります。地上の生活は「仮住まいだ」などということを聞くと、地上の歩みはそれほど重要でないのではと思ってしまうことです。どうせ「仮」なのだから、真面目に生きても意味がないのだと。実際そういうふうに考える人たちがいたのです。しかし、救いの恵みに感謝する者は、これまで以上に、与えられたいのちと賜物に感謝し、神様の栄光をあらわすために、一日一日を真剣に生きるものとされていきます。どれほど深い闇が自分を覆ったとしても、諦めることなく神様が与えてくださった希望に生きるのです。どうせ私の人生、仮なのだから、真面目に生きていても無駄なだけだなどとは言いません。どんな闇の中でも、御言葉というともし火があるからこそ、望みをもって生きていくことができるのです。

 この手紙が書かれた時代、キリスト者たちはたいへん厳しい迫害に遭っていました。自分たちの先生であるペトロのいのちを奪ったローマ帝国の力はまだ衰えることを知りません。公に自分がキリスト者であるということが知られれば、捕らえられて、いのちを奪われてしまうような時代です。毎日が死と隣り合わせです。キリスト者たちは、自分たちの身を隠すように地下に潜り、カタコンベと呼ばれる地下墳墓で礼拝をささげたと言われています。いのちを脅かす闇の力の前で、自分たちがキリスト者として存在することの意義を繰り返し問うたのです。御言葉に集中して、しっかり信仰に立つことができる者もいれば、諦めの心に支配される者もいました。また、このような闇の現実の中で、人々の信仰を惑わす者たちも出てきたのです。「偽教師」と呼ばれる人たちです。彼らは、使徒たちが宣べ伝えた福音の真理をねじ曲げ、誤った教えを解きました。そして、それらの教えに惑わされたキリスト者がいたのです。16節にあったように、御言葉に集中しないがゆえに、他の教えに心奪われるといことが起こりました。教会の外側からだけでなく、内側からも混乱が生じてしまったのです。この手紙はそのような状況の中で、しかも暗い地下でささげられていた礼拝において読まれたのです。まだ旧約聖書しかない時代です。そういう意味で、この手紙は当時、説教のような役割を果たしてきたのでしょう。だから、事実、こうして聖書として残されたのです。

 「キリスト者にとっての希望とは何ですか。しかも一番の希望とは何ですか。」もし、そう聞かれたどう答えることができるでしょうか。悩ましい質問ですが、やはり私たちにとっての最大の希望というのは、救いが完成する時、終わりの日の希望ではないでしょうか。主イエスが再び天から降って来てくださり、救いを完成してくださる時です。しかし、キリスト者にとっての最大の希望であるがゆえに、様々な誤解も生じました。偽教師たちが教会にもたらした問題もまた、主イエスの再臨、終わりの日を巡る問題でした。主イエスは人々に、「わたしはすぐに来る」と約束なさいました。当時のキリスト者の感覚としては本当にすぐに主が来てくださって、救いを完成し、神の勝利をこの世界にもたらしてくださると信じていたのです。しかし、何年経っても主は来られないのです。10年経っても、20年経っても、100年経っても主は来られない。その間に、迫害の力はますます強くなっているのです。日々、仲間のいのちが奪われているのです。「主よ、来てください!」とどれだけ祈り、どれだけ叫んだことでしょうか。それでもまだ主は来てくださらないのです。そうしますと、主の約束は本当だったのかと疑い始めます。主は私たちの苦しみをご覧になっても何も思わないのだろうか。何もしてくださらないのだろうかと言って、苛立ちます。あるいは、真面目に信仰生活しても意味がないと思い始めます。しまいには、16節にあるように、「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」、つまり、主の再臨などというのは、「巧みな作り話」だなどと言い始めた偽教師の言葉に惑わされる人たちも出てきたのです。主イエスの再臨について誤解してしまうということは、信仰の危機を意味します。キリスト者にとっての最大の希望が根底から覆るようなたいへんな危機です。手紙の著者は自らの死を前にして、もう一度、使徒たちが語り伝えた正しい信仰に立ち戻ろう。御言葉の真理にしっかりと立とうと呼び掛けるのです。

 そして、手紙の著者は、私が語る言葉がどれだけ確かであるのか。主イエスが再び来てくださるという再臨の教えがどれだけ確かであるのか。そのことをここで語ろうとしています。もう一度、16節後半から18節までをお読みします。「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。 荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」ここで言及されている場面は、「山上の変貌」と呼ばれる出来事です。主イエスの再臨というのは、作り話ではないし、巧妙な作り話に仕立てる必要もない。つまり、人間的な手立てで明らかにする必要などないということです。私は主イエスが再び来られるというということを、聖なる山の上で、主が光輝く出来事の中ではっきりと見たのだというのです。この「山上の変貌」と呼ばれる出来事は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書に記されています。主イエスの地上の歩みを語る上でたいへん重要な出来事です。主イエスの弟子たちの中で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが目撃した特別な経験でもありました。恐らく、ペトロが礼拝において、教会の人々に向かって、何度も山上の変貌の出来事を繰り返し語ったことでありましょう。「いや、あの時はとても驚いた。素晴らしい体験をした。山の上で、イエス様のお姿が光輝いたのだから。その光の中で、主は旧約を代表するモーセとエリヤとお話しをされていた。あまりにも素晴らしい光景を見て、思わず叫んでしまいました。『主よ、私はあなたがたのために仮小屋を三つ建てましょう。この素晴らしい出来事をずっと留めておきたいのです。』しかし、この素晴らしい光輝く出来事は、一瞬にして消えていったのです…」。

 なぜ、この山上の変貌の出来事が、終りの日、主イエスが再び来られる出来事を指し示す出来事となるのでしょうか。山上の変貌の出来事を書き留めたルカだけが、主イエスがモーセとエリヤと語り合った内容を記しています。ルカは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)と語ります。主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期」というのは十字架の出来事です。この「最期」という言葉が、15節の「世を去る」(エクソドス)という言葉と同じです。「出エジプト」「新しい旅立ち」を意味する言葉です。主イエスがエレサレムで遂げようとしておられる最期とは、十字架の出来事であり、さらには甦りの出来事を表しています。主は十字架と復活によって、罪と死という暗闇の支配を打ち破ってくださいました。私どもを罪と死の支配から脱出させてくださり、解放してくださったのです。そして、主は光の中で新しいいのちに甦ってくださり、死を超えた新しいいのちへの出発の道を拓いてくださったのです。十字架と復活をとおして、新しいいのちの道を切り拓いてくださった主イエスが、終わりの日、再び来てくださいます。そのことによって、救いの道が完成するのです。そういう意味で、山上の変貌は十字架や復活の出来事だけでなく、主の再臨を先取りする出来事でもあったのです。

 また、山上の変貌の出来事で重要なのは、光の中で主イエスに向かって、天から神の声が響いたことです。ペトロもその神の声を確かに聞いたのです。「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という言葉です。短い言葉ですが、大切な御言葉です。「これはわたしの愛する子」という言葉ですが、これは旧約聖書の詩編第2編にある御言葉です。「王の即位の宣言」に歌われたうたです。ですから、神様はここで、主イエス・キリストを「真の王」として即位されたことを宣言なさったということです。次の「わたしの心に適う者」という言葉ですが、これは旧約聖書のイザヤ書第42章の「主の僕の歌」と呼ばれる御言葉です。私どもの罪、咎、病、痛み、苦しみを代わって背負われる「主の僕」「救い主」が現れる。それこそが十字架へ向かう主イエスであると神が宣言なさったのです。主イエスは、十字架と甦りの出来事をとおして、旧約聖書が預言したように、真の王であり、主の僕であり、救い主であることを明らかになさいました。この最期の出来事を主イエスは光の中で、モーセとエリヤとで語り合っていました。旧約聖書が指し示していた真の王、主の僕、救い主こそ、主イエスであるのだと語り合っていたのです。そして、終わりの日、主が再び来られる時、主イエスは真の王、まことの救い主として、生きている者にも死んだ者にも、私どもにも現れてくださるのです。

 この手紙が書かれた時代も、今日もまた、具体的な状況は違うもののなお深い闇が存在することを知っています。私どもが生きる世界もそうですし、自分自身の心の中にもどうすることもない闇が存在しているということを、人はどこかで必ず気付いています。あるいは、洗礼を受け、キリスト者になったのに、まだ古い自分に捕らわれてしまう弱い自分がいることも知っています。また、大きな試練を経験することもありますし、色なことが原因で思い悩むこともしばしばあります。洗礼を受けると目の前がすべて明るくなる。そのようなイメージが最初はあったかもしれません。何の悩みもなく、いつも軽やかに、そして自由に生きられると思っていたところがあるかもしれません。しかし、いざ歩み出してみると、期待していたことと違うというギャップに苦しむことがあります。それは神様がわるいというわけではなく、結局、わるいのは自分。自分の信仰がちゃんとしていないから思うようにいかないのだと結論付けてしまいます。確かに、自分に問題があるかもしれません。あるいは、周りの人たちや闇に覆われた世界そのものに原因があるかもしれません。しかし、何れにせよ、そこに光も希望もありません。だから、最初にお話しましたように、自分のともし火を手に掲げて、自分の光によって、自分の力で闇の中を歩もうとするのです。主イエスが再び来てくださるなどというのはおかしな作り話だ。どうせこの世界は仮住まいなのだから、自分勝手に生きたらいい。主イエスを待っていても仕方がないのだからと言って、神様以外の別のものに解決の光を求めてしまうのです。

 深い闇に包まれる時、闇そのものが私どもを苦しめます。同時にそこで思うのは、この闇はいつ消えるのだろうか、いったいいつ光が訪れるのだろうか、それがまったく分からないということです。神よ、いつまで待たなければいけないのですか。しかし、夜が明けて、必ず朝が来るように、主イエスが再びこの世界に来られるということを、私どもキリスト者は信じています。それゆえに、主が来られる時まで、私どもは何をすべきなのでしょうか。たとえ、闇に覆われた現実にあっても、死を前にしたとしても、私どもはどのように生きるべきなのでしょうか。手紙の著者は語ります。「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」「預言の言葉」というのは、具体的には、主イエスの再臨を約束する言葉です。ただ、それに留まらず、私どもの道を照らす御言葉そのものと言ってもいいでしょう。

 ここで最初にお読みしたイザヤの言葉を改めて思い起こすこともできるでしょう。イザヤ書第50章10節、11節。「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。」神様は探しておられるのです。神を畏れ、神の声に従う者たちを。闇の中を行く時も、光を見出せない時も、ただ神を信頼する者たちを見出したいと願っておられます。自分の光に頼って、最後は絶望するような生き方などしないでほしい。わたしが与える光によって、御言葉のともし火によって、立ち上がり、いのちの道を歩んでほしい。

 終わりの日に向かえば向かうほど、死に向かえば向かうほど、神様から聞いた御言葉が私どもの足取りを確かにします。「夜明けは来ないのではないか」という不安が散らつくこともあるでしょう。しかし、私どもには「明けの明星」という言葉があるように、夜明けを告げる希望の星が確かに与えられているのです。預言の言葉、聖書の御言葉は、暗い所に輝くともし火です。私どもの道の光であり、私どもの歩みを照らす灯です。だから、神様から与えられた御言葉に心を向けるのです。集中するのです。その時に、作り話などに心奪われることはありません。御言葉によって、よりはっきりとした確信を持つことができるでありましょう。それは、闇は永遠に私たちを支配することはないということを確信です。罪や死という闇、私どもが生きる世界や歴史が抱えている闇の只中で、明けの明星が輝く時が必ず来ることを信じます。明けの明星が昇り、キリストの再臨と共に、神による最後の救いの日が必ず来るのです。聖書の最後に記されている「ヨハネの黙示録」、しかも、その一番最後の第22章(16節)には、イエス・キリストこそがまさに、「輝く明けの明星」であるということが言われています。ですから、御言葉をとおして、今、主イエスと共にある歩みが既に喜びであり、大きな希望です。そして、私たちは終わりの日の朝、甦りの朝に向かって歩んでいるのです。

 最後に手紙の著者はこのように言いました。20節、21節、「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」聖書は、「自分勝手に解釈すべきではない」と言うのですが、これは明らかに偽教師と呼ばれている人たちを指して言っている言葉です。自分の都合のいいように聖書を読み、そればかりか、御言葉の真理を否定する彼らに対する批判の言葉です。ですから、私たちが普段、家でひとり聖書を開いて、慰めや励ましをいただくことがいけないというのではありません。そもそも、聖書というのは人の意志によってではなく、聖霊に導かれて記されたものです。だから、その神の言葉を語る人も聞く人も、聖霊の助けなしには御言葉の真理を悟ることはできないのです。

 また、「自分勝手に」というのは、「私的に」ということです。ですから、大切なのは私的に、個人的にというよりも、仲間と一緒に聖書を読むということです。聖書の言葉は「あなた」に与えられた神様の言葉です。しかし同時に、神の言葉は「教会」に与えられたものであるということを忘れてはいけません。そもそも、教会共同体という存在がなければ、聖書66巻が成立することはなかったでしょう。聖書が成立する前から、これは神の言葉だと信じて、礼拝する群れが存在していたのです。だからこそ、今このような形で、聖書というものが私どもの手元に残されているのです。自分一人で御言葉に聞くと同時に、教会の礼拝の中で、主イエスが呼び集めてくださった仲間と共に御言葉に耳を傾けます。教会に集うお一人お一人が、御言葉によって励まされるとともに、私たち教会が御言葉という堅固な土台にしっかりと立ち、成長することができるようにと心から願います。そして、御言葉のともし火が、まだイエス・キリストを知らない者の歩みをも明るく照らし出し、喜びと希望を与えてくれることでありましょう。御言葉を宣べ伝える働きにおいても、私どもは望みをもって仕えていくことができるのです。お祈りをいたします。

 深い闇の中で、望みが見えなくなり、道を見えなくなることがあります。しかし、あなたは御言葉というともし火を与えてくださいました。御言葉が示す確かな希望をしっかりと心に留めて歩むことができますように。御霊を与えてくださり、私たちの信仰の目を開いてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。