2022年05月08日「神に知られている幸い」

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神に知られている幸い

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 139編1節~24節

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聖書の言葉

1【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。2座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。3歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。4わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。5前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。6その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。7どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも10あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。11わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。13あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。14わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。15秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。17あなたの御計らいは/わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。18数えようとしても、砂の粒より多く/その果てを極めたと思っても/わたしはなお、あなたの中にいる。19どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。わたしを離れよ、流血を謀る者。20たくらみをもって御名を唱え/あなたの町々をむなしくしてしまう者。21主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み/あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 22激しい憎しみをもって彼らを憎み/彼らをわたしの敵とします。23神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 24御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。詩編 139編1節~24節

メッセージ

 私はいったい誰なのか。私は何のために生まれ、何のために生きるのか。誰もが一度は立ち止まって考えなければいけない大切な問いがここにあります。自分で色々と考えたり、多くの経験を積むことによって、私が何者であるかということを発見する人もいるでしょう。私はどこに向かって歩み、何のために生きるのかを、自分なりに見出す人もいるでしょう。またこういう問いというのは、自分一人で考えていても分からないところがあります。然るべき人が正しく教えてあげなければいけません。親であったり先生であったりと、責任ある立場に置かれている者や経験を積んだ者たちが、次の世代に正しく伝えていく務めが与えられていると思います。自分だけでなく、親も周りの人たちも、つまり、すべての者たちが自分を正しく知り、自分が生かされている喜びを知り、人生の目的に向かって歩み出していかなければいけません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

 そこで私どもが忘れてはいけないもう一つの大切なことがあります。それは、この私といつも真剣に向き合ってくださるお方がおられるということです。いつも、どの場所においても、私と共にいてくださるお方がおられるのです。共にいてくださるだけではありません。私どもが、「私は誰なのか」と問う前に、また自分で自分の生き方を探すよりもずっと前に、「あなたは誰なのか」「あなたは何のために生まれ、何のために生きるのか」「あなたはどこから来て、どこに行くのか」。それらの大切な事柄一つ一つを、一所懸命探求し、究めようとしてくださるお方がおられるということです。それが主なる神様です。自分の姿を見出し、自分の生き方を確立することは簡単なことではありません。大人になれば分かる、親になれば分かるということでも正直ないと思います。いくら経験を積んだとしても、他人のことはもちろん、自分のこともよく分からなくなることがあります。また、突然、試練を経験する時、私どもは深い孤独を経験します。「こんなに苦しんでいるのに誰も私を顧みてくださらない。」「ここからどうしたらいいのか分からないのに、誰も私を助けてくれない。」どうしても叫ばずにはおれません。

 しかし、本日の御言葉、詩編第139編を歌った詩人は、次のように信仰を言い表しています。1節です。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。」私の人生に何が起ころうとも、私がどのような状況に置かれようとも、いつもどのような場所においても、神よ、あなたは私と共にいてくださり、私のことを究め、私を知っていてくださる。あなたのほうが先に、私に向けて関心を注いでくださる、愛してくださる。詩人にとっての大きな喜びは、自分が神によって知られているということです。どこまでも深く、徹底した仕方で神に知られているということです。ここに信仰生活の喜びを覚えています。ですから、この詩編の結びにあたる23節、24節でも、こう言うのです。「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」神に知られているという幸いに生かされているがゆえに、詩人は大胆に神様の前で、自分の悩みや自らの罪を告白し、祈ることへと導かれていきます。神は何でも知っておられるし、何でもおできになるのだから、私のような小さな人間が何か叫んだところで何かが起こるわけでもない。そう言って、黙り込むのではないのです。私のことをどこまでも深く知っていてくだり、愛を注いでくださる神様に対して、「もっと私を知ってください!」と言って祈ることができる。そのような、神様との豊かな交わりの中に立つことができる。私も、私を知っていてくださる神様のことをもっと知りたいと願う者とされていく。ここに神様と私との喜びに溢れた関係があるのです。

 神様は私ども一人一人のすべてを知っておられるお方です。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。」「究める」という言葉は、「探る」「調査する」という意味です。私のことを隅から隅まで探り究めてくださる。神様にとって、あなたのことについて知らないことは何一つないというほどまでに、私を究め、私を知っていてくださるのです。なぜなら、私どもを愛していてくださるからです。1節以下に目を留めますと、私どもの実生活の中で経験する多くのことが語られていることに気付きます。座ること、立つこと、計画すること、歩くこと、伏すこと。また、私が何かを語る前から、神様は私の心の思いが何であるかを知っておられるというのです。前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いてくださいます。私の生活をすべて御自分の御手の中で支配してくださるということです。主の日の教会生活・礼拝生活だけでなく、普段の生活や学び、仕事においても、神様は私のことを知っていてくださいます。人生の歩みの中で起こるあらゆる事柄について、私たちの行動、言葉、心の思いに至るまで、神様はすべてを知っていてくださいます。詩編の詩人は、この神様の数々の恵みを、机に座って、まるで机上の空論のように、ただ事柄だけを並べ立てたというのではありません。神を信じる信仰生活の歩みの中で、それも座る、立つということに表されているように、生活の具体的な一つ一つの場面において、「ああ、本当に私は神に知られ、神に愛されている」「ここでも私は神に知られている」という喜びを味わいながら、詩人の歩みは祝福のうちに導かれてきたのです。それほどまでに神様との親密な交わり、また人格的な交わりが与えられたことを神様に感謝しています。

 次に7〜12節です。ここでは、私どもが生活の中で経験する「場所」や「時」ということに焦点が当てられます。この点においても、神様の愛が揺らぐことはありません。あの場所には神様がいてくださったけれども、この場所にはいてくださらないとか、あの時は神様がいてくださったけれども、今はおられないとか、そういうことではないのです。いつ如何なる時も、如何なる場所においても、神様は共にいてくださる。そこで私のことを知ってくださる。神様がおられない場所というのはどこにない。それゆえに、私は絶望しないというのです。

 7節でこのように歌います。「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」神様はどこにでもおられるというのですが、興味深いのは、「どこに行けば、あなたから離れることができよう」「どこに逃れれば、あなたの御顔を避けることができようか」と言っていることです。まるで、「神様から離れたい」「神様から逃げたい」と言っているように聞こえます。もちろん詩人は神様から逃げたいなどと本気で思っているわけではありません。あくまでも仮の話です。しかし、信仰生活で生じる苦しみの一つは、仮の話ではなくて、本当に神様から離れて生きてみたいという誘惑に駆られることす。そして、本当に神様からも教会からも実際に離れてしまうような生活をしてしまうということです。神様はあなたのことをどこまでも深く知っていてくださるというのですが、あれもこれも何でも神様に知られてしまうということに、少し嫌な思いをする人もいるのではないでしょうか。個人情報の保護ということが昨今言われるようになりましたが、すべてが知られるというのは、ある意味恐ろしいことです。悪い人がその情報を握ってしまったならば、たいへんなことになりかねません。そのようなことを、私どもは神様との関係においても、同じように考えようとしてしまいます。神様、私のこの苦しみはちゃんと知っていてくださいね。そして、何とかしてくださいね。でも、この部分は私のプライベートですから、足を踏み入れようとしないでください。放っておいてください。好きにさせてください。あるいは、神様を信じていないというわけではないのですが、心のどこかで、別に神様なしでも、それなりに幸せに生きることができるのではないだろうか。少し神様を試す気持ちで、少し神様と距離を置いてみようとするのです。それにしてもなぜ、神様にすべてを知られるのが嫌だと思うのでしょう。なぜ神様の前から逃げたいと思うのでしょう。それは、神様との関係が上手くいっていないからでありましょう。神様とお付き合いすること自体がどこか面倒に思っているのです。もう私を追いかけて来ないでください。迷惑です。詩人もそのような人間の思いを知らなかったわけではないと思います。しかし、そんな不安もどこかに吹き飛んでしまうほどに、神様は私がどこに行ってもおられること。どれだけ神様から離れようとしても、私をとらえている神様の御手が私を離すことはない。それほどに確かな、力強い神様の御手によってとらえられている。そのことに大きな喜びを覚えています。

 神の臨在、そして、神の御手というはどこまで及んでいるのでしょうか。8〜10節「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」8節に、「陰府に身を横たえようとも」とあります。「陰府」というのは、「使徒信条」の中でも、主イエスが私どものために陰府にくだってくださったことを告白していますが、この「陰府」というのは、死者が永遠い眠る場所です。旧約の時代は、死んだら神様との交わりに生きることができなくなると多くの人が信じていました。まだ明確な復活信仰を持っていなかったからです。自分が死ぬことの悲しみは、死んだら自分のことが忘れられてしまうことです。残された者たちが自分のことを覚えていてくれる、ずっと知ってくれているということはもちろんあるでしょう。でもそれは、良き思い出として、人々の心の中に残り続けるだけです。死んだ者が本当に甦るわけではないのです。それに、自分のことを知っていてくれた人たちも、やがては死んでいきます。そして、永遠なる神様に「知らない」と言われたら、もはや何の望みもありません。だから、死を恐れたのです。しかし、この詩編の詩人は違います。復活信仰を先取りするようにして、「陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」というのです。永遠に生きておられる主が陰府におられる。死んで横たわる私の側にいのちの神がいてくださる。自分が陰府にくだったとしても、神様との関係の中にあるなら、私は生きることができる。本当に驚くべき信仰を神様はこの詩人に与えてくださいました。

 そのつながりで、11節、12節もたいへん慰め深い言葉であると思います。「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」私のことを究め、知るために、神様は私のことを見つめておられます。それは、愛のまなざし、いのちのまなざしです。だから、この私のことを神様が途中で見失うなどということはありません。ここで「闇」ということが言われていますが、私どもも色んな闇に包まれる時があります。病や死の闇、自分の罪や人間関係における闇、将来の道における闇など色々とあるでしょう。そういうところで私どもは思い煩ってしまいます。自分を見失います。光が見えなくなるからこそ悩み、また自分の姿が見えなくなるのです。真っ暗な闇の中で、いくら手探りしても、「これだ」と言える確かなものを見つけることはできません。たとえ、「やっと見つけた!」と思って、手にとっても、自分をがっかりさせるようなものばかりです。闇の中で見つけた自分は、自分に何の喜びも希望も与えてはくれないのです。

 しかし、神様は闇の中、陰府の中にいる私どもを見ておられるのです。真っ暗で何も見えないなどとはおっしゃいません。私がどこに居ようが、どこに隠れような、どんな闇に包まれようが、「わたしはあなたが見える」とおっしゃってくださいます。「闇も、神よ、あなたに比べれば闇とは言えない」。つまり、神様にとって闇は、もはや闇でも何でもないのです。どのような闇にも打ち勝ってくださるのです。それゆえに、私どもの生活においても、もはや闇は存在しないということなのです。「こんなところに神はおられない」と思ってしまうようなところにも、神様はおられるからです。罪と死の闇の中にあっても、私どもを見出してくださる神様のいのちと愛のまなざしの中に、私どもは置かれているのです。その神様のまなざしに置かれることが、私どもが神様のものとされているということであり、救われるということでもあるのです。

 私どもの心の中にも闇があり、陰府というものが存在するのです。陰府というのは、罪のゆえに神に見捨てられ、永遠の裁きが下る場所でもありました。本来、陰府に倒れ伏し、滅びる運命にあった私ども罪人のために主イエスは、十字架という神の光がまったく届かない陰府に立ってくださいました。私どもが陰府の中で、神に捨てられて死ぬことのないように、主イエスは絶望と滅びの只中に立ってくださったのです。だから、私どもが直面する闇、陰府と思えるような苦しみや不条理の中にも、主がいてくださることを信じることができるのです。私がどこに行っても、神様は御手をもってとらえてくださいます。既にとらえられているのです。既に知られているのです。私を知っていてくださる神様の手を解くことはできません。私どもは闇の中で、自分の手によって、神様のことをとらえようとするから苦しくなるのです。しかし、神様が私を究め、私を知っていてくださいます。神様というお方は、6節にあるように、人間が究めることができるようなお方ではありません。私を遥かに超越したお方です。しかし、その神様がこの小さな私を知り、あらゆる生活の場において、御自身を明らかにし、共に生きてくださるのです。その驚きを、感謝の心で賛美しています。

 次の13節以下では、神様の全能の御力に心が向けられていきます。神様はなぜこの私のことをすべて知っていてくださるのでしょうか。この私をとらえて離さないのでしょうか。それは私を知っていてくださる神様が、同時に私をお造りになった神様でもあるからです。先程は、「陰府に身を横たえる」という「死」のことが言及されていましたが、13節以下は、いのちの一番初め、自分の誕生の神秘に思いを寄せています。なぜ、神はこれほどまでに私を知り、私に心を向けてくださるのだろうか。それは、神様が私をお造りになり、いのちを与えてくださったからだというのです。そして、私の誕生に際して、どれほど豊かな愛を注いでくださったことか。どれほど深い知恵と緻密な業によって、私を造ってくださったことか。言葉では言い尽くすことができない感謝を、詩人は神様にささげるのです。

 13〜16節をお読みします。「あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。秘められたところでわたしは造られ/深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。」神様の創造の御業は、私がこの地上に生まれる遥か前から、既に始まっていました。永遠のうちに私をお選びになり、私の内臓を造り、母の胎内で、神様が私の一つ一つを、愛を込めて造り上げてくださいました。15節の「秘められたところ」「深い地の底」というのは、母の胎内のこと、胎内の奥のことを指す言葉です。「織りなされた」と15節にあるように、神様は機織りが愛を込めて一本一本の糸を織りなし、紡いで、着物をつくりあげるように、私のいのちを一つ一つ紡ぎ、織りなしてくださったのです。私たち一人一人のいのちもまた、まさに神様の愛の結晶です。「極めて良かった」(創世記1:31)と神様が喜びと満足を表してくださるほどに、私どもは神様の目に尊い存在です。何にも増して素晴らしい神様の作品なのです。この創造の御業の奇跡の中に、私という人間が入れられている。この驚きを隠すことができません。

 私どもは、自分が母の胎にいた記憶や生まれた時の記憶を持っているわけではないでしょう。けれども、子どもが与えられている家庭においては、自分の子どもが生まれた瞬間や生まれたばかりの赤ちゃんの姿をとおしていのちの神秘というものに触れることができます。「かわいいなあ」という思いとともに、「何としてでも我が子を最後まで守ってあげないと」という親心が急激に芽生え始める瞬間でもあります。ただ子どもの成長とともに、何かと親や周りの大人は色んな注文や付加価値というものを付けようとしますね。こうしないとだめだとか、ああしないと意味がないとか、価値がないとか。そういうことも大人になるうえで大切かもしれませんが、最初、生まれたばかりの我が子を見て、そんなことを思う親はいません。本当にここにいるだけでいいと思ったはずです。自分の目に映っている我が子が、こうしてこの世界に生まれてきてくれたこと、それだけでもう十分!あなたが誕生し、あなたが生きていること、そのこと自体が「まさに奇跡なのだ!」そう言って、神様に心から感謝したに違いありません。この時、詩人に子どもが与えられていたかどうかは分かりませんが、今自分がここに、このようにして生かされているその恵みを思う時、私をお造りになり、私を知っていてくださる神様のことを思わずにはおれなかったのです。

 16節では、次のように言われています。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている/まだその一日も造られないうちから。」まだその一日も造られないうちから神様は、私を永遠のうちに選んでくださいました。生まれる前から始まり、生まれてから、そして、今に至るまでのすべての日々において、神様のまなざしがこの私に注がれています。「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている」。まるで、神様の日記帳や手帳に私のことを毎日、欠かすことなく丁寧に記してくださっている。そのようなイメージを抱くこともできるでしょう。私のことをどこまでも深く知ってくださるために、私が経験した喜びも苦しみも忘れることのないように、私のすべての日々を、神様は記録に留めてくださいます。母親もまた、新しいいのちが与えられたことが分かると我が子の記録を生まれる前からつけ始めますね。例えば、母子手帳というものをもらいます。生まれた後も、育児日記をつけ始めます。息子が生まれた時、私の妻も、とても丁寧に大のことを記録していました。母親としては当たり前のことかもしれませんが、私から見たら「ここまで丁寧に書くの」と思うくらい、細かく記憶します。その日、全体の様子はもちろん、何時におっぱいをあげて、何時に寝て、何時にオムツを替えてというふうに。神様が細い糸一つ一つを紡ぎ、織りなすようにして赤ちゃんを造り、いのちを与えてくださいました。その神様の思いを受け継ぐようにして、母親も父親も小さな我が子を愛します。

 そして、自分が生きた日々を記すという行為は、誰かにずっと記録してもらうというのではなくて、大人になれば自分でするという人もいます。生きた証しを残すような思いで、毎日、日記を記す方もいるでしょう。私も一時期つけていたことがありました。でも長続きはしませんでした。飽きやすいとか、面倒臭いということではないのです。嬉しいこと、喜ばしいことがあれば、あるいは、感動するようなことがあれば、いくらでも書けるのです。1ページでは収まりません。しかし、嫌なこと、苦しいことがあると書く気すら起こりません。書けたとしても、ただの愚痴や文句だけで終わってしまう。それだけ怒る気力があればまだいいかもしれませんが、本当に何もしたくないこともあります。それに、過去の日記帳を見返したときに、心が暗くなり、嫌な気持ちになるような言葉を見たいなどとは思わないでしょう。

 しかし、神様は「わたしの日々」を御自分の書に記録してくださいます。自分の人生において、あの一日があったから、私の人生はおかしくなってしまった。あの一日がなかったら、もっと幸せになっていたのに…。そのように記憶から消してしまいたい一日というものを誰もが持っているものです。いや一日どころか、毎日が苦しみの日々という人もいるかもしれません。今日という日だけでなく、人生のそのものが、私という存在そのものが嫌なのだ。まったく意味を見出すことができない。そのようなことが人生の日々の中で、起こり得ると思うのです。人間の記録、人間の愛の記録には限界があるのです。苦しみを記録できるほどの力も強さもありません。まして、何かを書き留めたくらいで、苦しみや死に打ち勝つことなどできません。しかし、神様は私のすべての日々を母の胎にいる時から、すべて記録してくださるのです。私どもを愛してくださるからです。その神様の愛はどんな苦しみにも、どんな闇にも、そして罪と死の力にも負けることはありません。あなたを究め、あなたを知りたいという神様の思いは、私どもをまことのいのに生かすのです。「神様、私にいのちを与えてくださってありがとうございます」という感謝の思いへと導いてくれるのです。同じ詩編第56編9節に次のような御言葉がありました。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」神様は私どもの嘆きの日々を数え、記録してくださいます。私が流す涙が虚しく地に落ちることのないように、神様は御自分の皮袋で私どもの涙を蓄えてくださるのです。神様があなたの嘆きとあなたの涙を知っていてくださるからこそ、悲しみの中に沈み込むのではなく、どんな苦難の中にあっても、神様に愛されている自分を思い、勇気を出して生きる者とされるのです。

 17、18節では、「あなたの御計らい」と言い換えられていますが、人間の力では到底とらえ切ることができない神様の御計画、神様の知識がこの小さないのちの創造に向けられている!私の人生の日々すべてに向けられている!私は神様のことを全部知ることはできないけれども、途方に暮れるのではなく、「わたしはなお、あなたの中にいる」とあるように、私を知っていてくださる神様の中に置かれている。この恵みの事実に深い慰めと平安を覚えています。

 さて、詩編第139編も終わりに近付いていますが、19〜22節を見ると、明らかに詩のトーンが変わっていることに気付かされます。「逆らう者を打ち滅ぼしてください」と言って、自分の敵に裁きをくだしてくださいと祈るのです。詩人が生きていた環境も、このように暴力に満ち、神を神としないような場所であったのかもしれません。敵に囲まれ、憎まれながら、死の恐怖さえ覚えたのではないでしょうか。しかし、私の神は、私を究め、私を知る神であられる。私を造り、いのちを与えたもう神は、苦難の日々の中にも共にいてくださり、闇の中にある私にいのちの御手を差し伸べてくださる。そのあなたが悪人の繁栄をそのままにしておかれるはずはないと信じています。

 しかし、一方で神を憎み、神に敵対する思いというものが、自分自身の中にもあるのではないかと指摘する人もいます。なぜなら、次の23節でこう言われているからです。「御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。」「迷いの道」というのは、「偶像礼拝の道」「悪しき道」と言い換えることができます。「神を悲しませる道」と言う人もいます。敵対する人々から、罪人呼ばわりされて苦しんでいたのかもしれませんが、詩人は、「神が私を知っておられる」と言う時に、自分の悩み苦しみということだけではなく、自分の心の中に深く根付く罪の問題が解決しない限り、平安は訪れないと信じていたに違いありません。「神よ、わたしを究め/わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください/わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを/とこしえの道に導いてください。」詩人は祈ります。私を究め、私の心を知ってください。私に敵対する者から、いや、何よりも私の中にもある罪から救ってください。迷いの道ではなく、とこしえの道に私を導いてください。永遠の安息の旅路に私を導いてください。あなたがいつも共にいてくださるように。あなたにはそれがおできになります。そして、神様はこの詩人の祈りに答えてくださいました。御子イエス・キリストをとおして、救いに至るいのちの道を私どもに与えてくださったのです。

 本日は詩編の御言葉に合わせて、使徒パウロが記しましたローマの信徒への手紙第11章の終わりの部分を朗読していただきました。神が与えてくださる救いとは如何なるものであるか。その結論とも言える部分です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」と言った後に、最後にこのように賛美して、締めくくります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」人はどこから来て、どこへ行くのでしょうか。私はどこから出て、どこに帰って行くのでしょう。聖書は語ります。すべてのものは、つまり、あなたもまた神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。そのような道を、神様御自身があなたのために既に用意してくださっています。それゆえに、私どもは自分の小さな知恵や判断でもって、もうだめだとか、これではだめだと言って落ち込むことはありません。私たちの目には、罪や死の問題をはじめ、真っ暗な闇しか見えないということもあるでしょう。八方塞がりの中、ただ座り込むことしかできないということもあるでしょう。時に神様の存在を迷惑がり、神様を見失うということもあるかもしれません。しかし、神様は私どもを覆う闇を闇ともせず、私どもをいつも見つめてくださいます。人間には究めがたい道を、私ども一人一人のために用意していてくださいます。そして、私どもが神様の憐れみを見出し、感謝をすることができるように、すべてのことを良きほうへと導いてくださるのです。自分の手で神様をとらえ、握りしめるようにして人生の旅路を歩むのではなく、むしろ、神様の御手にとらえられた者として、神様への感謝と信仰を言い表し、神様の栄光をたたえる者とされていくのです。ここに神様からいのちを与えられた人間の幸いがあります。お祈りをいたします。

 私のことを究め、知っていてくださる神よ。私を永遠のうちにキリストにおいて選んでくださり、いのちを与えてくださった愛なる神よ。あなたの御名を褒めたたえます。あなたの数々の偉大な御業に圧倒されながらも、その恵みの真ん中に生かされていることを覚え感謝をいたします。喜びの時も、自分が誰であるかが分からなくなり、あなたのお姿さえ見失ってしまうほどの深い闇に覆われる時にも、あなたのまなざしが私から離れることはありません。すべての日々において、あなたに知られているということが、どれだけ幸いなことであるのか。その豊かな恵みをこれからも知り続けることができますように。そして、私どものすべての歩みが、神の栄光をあらわすものとされますように、共にいてお導きください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。