2022年05月01日「目が開かれるとき」
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ルカによる福音書 24章28節~43節
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聖書の言葉
28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。ルカによる福音書 24章28節~43節
メッセージ
イエス・キリストが復活されたという喜びの知らせが、最初に告げられた場所は、十字架で死んだ主イエスが葬られていた墓の中でした。2週間前のイースター記念礼拝では、ルカによる福音書第24章1〜12節までの御言葉を共に聞きました。婦人たちは、主イエスためにできる最後の奉仕と思って、香料を持って朝墓に行くと、そこにあるはずの主の遺体は見当たりません。婦人たちは途方に暮れてしまいました。途方に暮れるというのは、道が途絶えるということです。墓の中、また、死という現実を前にして、進むべき道、行き場を失ったのです。そこに二人の天使が現れます。死によって、いのちの道がまさにそこで途絶えたと思うその現実の中に、空っぽの墓の中に神の言葉が響きわたります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」(ルカ24:5-6)
婦人たちは、主が語られた言葉を聞き、墓の外に出て行きます。朝の光よりももっと明るい、いのちの光を浴びるようにして出て行くのです。そして、主の弟子たちに、朝、墓の中で経験したことを丁寧に話しました。ただ、弟子たちはその話を信じようとはしませんでした。その中で、ペトロという一人の弟子だけが、主イエスの墓に向かって走って行きました。墓に向かって走るというのは、とても印象に残る姿でしょう。決して、重い足どりではなく、軽やかに墓に向かったに違いありません。つい数日前、主が十字架にかけられる前に、ペトロは三度、「主を知らない」と言って、主イエスとの関係を完全に否定しました。しかし、そのようなペトロの罪を最初から主はすべてご存知でいてくださり、そのペトロの罪を赦すために十字架についてくださいました。そして、主イエスの目に映っているのは、十字架によって赦され、既に立ち直って生きているペトロの姿でした。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)この主イエスの愛と赦しに満ちた言葉、そして、まなざしの中でペトロは主の前に再び立つ者とされていくのです。
イースターでお話した内容は、大まかに申しますとそういうことなのですが、12節までの読みながら、少し「あれっ」と思うことは、復活の主イエス御自身がまだ登場しておられないということです。復活の主と人々との直接的な出会い、つまり、顔と顔を合わせるという出会いの場面は、このあとの13節以降からになります。ルカによる福音書においては、「エマオ途上」「エマオへの道」と呼ばれる物語において、復活の主が二人の弟子の前に現れてくださったのです。主がお甦りになられた日、ペトロとは対照的に、二人の弟子は暗い顔をしながら、何の目的もなくとぼとぼとエマオという村に向かって歩いていたのです。この方こそ「私たちの救い主」だと希望をかけていた主イエスが捕らえられ、十字架につけられてしまったからです。さらに二人を驚かせたのは、十字架で死んだはずの主イエスが、お甦りになられたという知らせを聞いたからです。人間にとって確かなのは、死ではなく、復活の主のいのちであることが明らかになった日。それがイースターです。しかし、二人もまた、他の弟子たちのように信じることができませんでした。そんな彼らに復活の主が自ら近寄り、共に歩いてくださいました。なぜ暗く悲しい顔をしているのですかと、その理由に耳を傾けてくださいます。でも不思議なことに、二人の弟子は目が遮られ、今共に歩いておられる方、対話をしている方が復活の主であることに気付きません。ついに主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者たち」と二人をたしなめられます。しかし、彼らを突き放すというのではなく、救いの喜びに招くようにして、旧約聖書全体から御言葉を説き明かしてくださいました。あとで思い返すと、「あれは心燃えるような経験だったね」と言えるほどに恵みに満ちた素晴らしい時間でした。御言葉を聞いているうちに、夕暮れになりました。もっと聖書の話を聞きたいと願った二人は、「主よ、お泊まりください」と、主を家にお招きします。
夕食の時間になりました。ここでテーブル・マスターとなられたのは復活の主イエスでした。主はパンを取り、賛美の祈りを唱え、祝福されます。そのパンを裂いて、二人にお与えになりました。すると、二人は目が開け、共におられたお方が、十字架で死に復活された主イエスであるということが分かったのです。興味深いのは、復活の主だと分かった途端、主の姿が見えなくなったというのです。けれども、二人の弟子は、主が見えなくなったと言って、再び悲しくなったわけではありませんでした。なぜなら、肉体の目で見るよりも遥かに確かな仕方で主イエスとお会いし、主が今も生きておられることを信じる信仰へと導かれていたからです。だから、すぐにエルサレムに引き返すのです。そして、復活の主イエスとお会いした喜びを十一人の弟子たちに伝えに行くのです。その中には、復活の知らせを聞いて、墓に向かって走って行ったペトロも含まれていました。そして、詳しい経緯は分かりませんが、既に復活の主はペトロの前にも現れてくださったようです。
私どもの信仰の歩みにおいて、決定的に大事なのは、復活の主と真実にお会いすることです。そして、主と出会うというのは、二人の弟子がそうであったように、目が開かれるということでもあります。心の目、信仰の目において、復活の主とお会いすることです。その時に、「見たから信じる」というのではなく、「見ないで信じる」という救いの確かさの中に立つことができます。その救いへと導いてくださるのも神様御自身です。復活の主のほうから自ら近づいてくださるのです。目が遮られ、心が鈍くなり、主が生きておられることを信じることができない者たちのために、近づき、御言葉を語ってくださいます。パンを裂いてくださいます。つまり、復活の主が私どものために備えてくださる主の日の礼拝において、御自身を明らかにしてくださいます。キリスト教会が歩み続けてきた2千年の歴史も、礼拝の歴史であり、そこで復活の主イエスが私どもと出会ってくださった恵みの経験の連続です。
本日は35節までのエマオ途上の物語の流れの延長線上にあります。エマオに向かっていた二人の弟子も仲間であるペトロも、復活の主が自分たちの前に本当に現れてくださったということを他の弟子たちに語ったのです。興奮するように、また、喜びに溢れて主との出会いを語り伝えたことでありましょう。そのように話し合っていると、36節にあるように、彼らの群れの真ん中に復活の主が現れてくださいました。そして、「平和があるように」と宣言してくださったのです。「平和があるように」というのは、ヘブライ語で「シャローム」という言葉です。ユダヤ人が日常の中で交わす挨拶の言葉でもあります。しかし、ここで「シャローム」「平和があるように」と告げてくださったのは、十字架で死に甦ってくださった主イエスの平和であり、また祝福です。
この様子をすぐ近くで見ていた弟子たちはどうしたのでしょうか。目が開かれ、ついに、復活の主を信じたのでしょうか。どうもそうではないようです。37節にこうありました。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」婦人たちから聞いても、エマオに向かっていた二人の弟子やペトロから聞いても、そして、復活の主が現れ、平和を告げてくださったにもかからず、まだ信じることができません。彼らは恐れおののき、復活の主イエスを「亡霊」だと思ったというのです。「亡霊」と訳されている言葉ですが、これは単純に「霊」と訳したほうがいい言葉です。決して、幽霊やお化けということではないのです。けれども、弟子たちはもしかしたら、主が復活ということについて、まるで死んだ人間が亡霊になって現れることだと思っていたのかもしれません。また弟子たちは、主が十字架につけられる直前に逃げ出しましたから、主が復活したと聞いた時に、主が亡霊となって現れ、恨みを晴らしに来たのかと思って、恐れたのかもしれません。主イエスはおっしゃいます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」復活の主を見ながらも、ただの「霊」だと思ったのは、弟子たちの中にまだ疑いの心が存在していたからです。主イエスが生きておられるということはが信じることができない。その心が亡霊をつくりだしたと言ってもいいのです。生きておられる主イエスを見失い、臆病になっている心が亡霊を生み出すのです。
このことは、この時の弟子たちに限った話ではないでしょう。私どもの歩みにおいても、時に「本当に復活の主が生きておられるのだろうか」という現実を目の当たりにすることがあります。様々な苦難や悲しみの出来事が、生きておられる神を見えなくしてしまっているのかもしれません。私どもは、決して神を疑っているわけではないのです。ちゃんと信じてはいるのです。しかしそれでも、神が生きておられるということを疑いたくなる現実にぶつかってしまうことがあるのです。「疑う」というのは、もうそれだけで不信仰だと決めてしまいがちですが、この「疑う」という言葉は、「熟考する」「よく考える」ということです。最初から疑ってかかるのは、ちゃんと自分で確かめたいという思いの裏返しです。そうしますと、疑うというのは必ずしもわるいことではないと思うのですが、そこで私どもも経験するのは、考えれば考えるほどよく分からなくなるということです。考えれば考えるほど、疑い深くなり、迷いやすくなるのです。まして、この時、弟子たちが疑っていたのは、主の復活についてでした。死ということについて、そして、死の先にあるいのちということについて、私ども人間がどれだけ考えたとしても何か「これだ」という確信に至ることが果たしてできるのでしょうか。いのちや死というのは、私どもの手の中に納めることができるようなものではありません。それにもかかわらず、人間は自分たちの考えや議論、あるいは理屈によって理解しようとします。弟子たちも自分たちが理解できるその範囲内で、主の復活ということを受け止めようとしています。しかし、それだけでは何も分からないのです。ますます疑い深くなるだけなのです。
しかし復活の主は、そのような疑い深い弟子たち、心が鈍くなっている弟子たちの前に現れてくださいました。弟子たちが復活に対する信仰の確信を得るよりも先に、「あなたがたに平和があるように」と、死に勝利したもう主の平安を告げていてくださるのです。この祝福に包まれながら、弟子たちはさらに主の言葉を聞くことになります。39〜40節です。「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」ヨハネによる福音書第20章を見ますと、そこにトマスという弟子が登場します。最後まで主の復活を信じることができませんでした。トマスは言い張るのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)この場面と本日の聖書箇所はよく似ている部分があります。復活の主は、トマスに対しても、他の弟子たちに対しても、同じように強く訴えかけておられることがあります。主の復活を信じるうえで大切になってくるのは、主イエスが「体」をもって復活されたという事実です。もし、十字架で死んだ主イエスが、「体」ではなく「霊」において復活したということに強調点が置かれるとどうなるでしょうか。意外と多くの人々に受け入れてもらいやすくなるかもしれません。体の復活よりも霊において復活したと言ったほうが、最もらしいと思うのです。復活という奇跡について、躓くことなく信じてもらえるかもしれません。しかし、それは結局どういうことになるのでしょうか。主の復活ということが、自分たちの生活の中で具体的な意味を持つということがなくなってしまうのではないでしょうか。人々の心の中で、主イエスが良い思い出として残り続けているというだけの話。まるで、今もイエス様が私の中で生きておられるようだという話になってしまうだけです。信仰とは私どもの心だけの問題となり、何か困ったことが起こった時には自分の心の持ちようによって神様との関係を何とかしようとする。そういう話になるのです。
主イエスはなぜ十字架について死んでくださり、復活してくださったのでしょうか。それは、復活の主が弟子たちに「平和があるように」と告げてくださったように、私どもにまことの平安と祝福を与えてくださるためです。もし主イエスの復活を体から切り離し、霊的な復活と理解してしまうならば、先程申しましたように、復活や救いの理解も信仰の歩み全体も心だけの問題となってしまいます。自分が理解し、納得できる範囲で信仰を捉えるということになります。しかし、それでは人間の常識や知識の範囲を一歩も超えることができないのではないでしょうか。人間の力を超えた神の力が働く余地を与えようとしないのです。いのちや死に関しても同じです。基本的には人間の力、自分に力に頼って生きることと何ら変わらないのです。神を信じていると言いつつも、時々、神様の助けを借りるという程度の話になってしまします。
しかし、十字架で死なれた主は、その十字架の傷を負った体で復活してくださいました。ですから、復活というのは、いわゆる霊魂不滅ということではありません。人間にとって、心や魂が重要であることに違いはないのですが、体を持って生きるということが、私どもにとってどれだけ大事なことであるかを知っていると思います。色んな弱さを抱えている自分の体であるかもしれませんが、生きるということ、生かされているということを具体的な手応えとして実感できるのは、私がこの体を持っているからだと言えるのです。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」復活の主は、御自分の体を弟子たちに示しながら、「まさしくわたしだ」と強調なさいました。「わたしがわたしである」というのはどういうことなのでしょうか。私ども人間にとっても無視できない大切な問題ですが、ここで「まさしくわたしだ」とおっしゃっているのは復活の主イエスです。主イエスが主イエスであられるというのはどういうことなのでしょう。神が神であるとはどういうことであるのか。そう言ってもいいでしょう。それが、復活するということであり、しかも、体をもって復活するということなのです。十字架で死なれた主が、その御体をもって復活する。そこに、「まさにわたしだ」「まさに神なのだ」ということがはっきりと示されるというのです。私どもが救われるというのは、「まさにわたしだ」と言って、御自身を明らかにしてくださる復活の主と結びつき、その復活のいのちに生かされるということです。その時に、私どももまた「これこそまさに私なのだ」と言って、自分の真実な姿を見出すことができます。それは、死に打ち勝った確かないのちに生かされている自分の姿です。
体を持って生きる私たちの歩みというものは、決して楽なものではありません。私を悩ませているこの体のこの一部を捨てることができればと、本当に思ってしまうこともあると思うのです。また、私どもにとって心というのは目に見えませんけれども、とても大切な部分です。しかし、その心に支障が生じると必ず体のどこかがおかしくなります。心と体は本当に一つだということを思うのですが、しかし、そういう私どもが体をもって甦ってくださった主に結ばれて生きる時、私どももまた、「まさしくわたしだ」と言うことができる。そのような希望に生かされるということです。地上においては多くの欠けがあるかもしれませんが、主イエスのように「まさしくわたしだ」「わたしがわたしとして生きる」とはまさにこういうことなのだという喜びに、今ここから歩み始めることができるのです。
平安と祝福を告げる言葉とともに、主イエスはお甦りになったその御体を弟子たちに示されました。御自身の存在そのものを疑う弟子たちに示されたのです。その迫り来るいのちに弟子たちは圧倒されたのでしょう。弟子たちの心に喜びが生まれます。ただ41節を見ますと、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」とあります。喜んでいるけれども信じられない。不思議がっている、驚いているというのです。しかし、ここはまだ弟子たちが不信仰だと言って批判する必要もないでしょう。もう喜びが芽生え始めているのです。手に余るほどの喜びに不思議がり、驚いています。復活は私どもの知恵によって何とか納得して理解しようというのではなく、私どものほうが復活の事実にのみ込まれていくのです。復活のいのちの力の中に取り込まれる。ここに復活の主を信じる信仰が生まれます。
そして、復活の主が弟子たちの疑いを完全に消し去るためにしてくださったことがありました。弟子たちがまったき喜びに包まれるために、主は何をしてくださったのでしょう。もう一度41節以下をお読みします。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」疑いを取り除くために、主がしてくださったのは、弟子たちの前で焼き魚を一切れ食べられたということでした。もっと人の目を惹くような驚くべきことやこれこそまさに神の名に値すると納得してもらえるような奇跡をなさったというのではありません。焼き魚を食べるという弟子たちも、私どもも、日常の生活の中で普段していることをなさったのです。このことは何を意味しているのでしょうか。「復活」というのは、まさに奇跡の中の奇跡です。人間では到底理解できないこの驚くべき復活という出来事を、私どもに分からせてくださるために、主イエスは私どもが普段そうしているように、焼き魚を食べられたのです。復活と焼き魚、これはいったいどういう関係があるのでしょうか。
主イエス・キリストが復活してくださった。この知らせは本当に驚くべきことで、人間の理解を超えた出来事です。しかし、主イエスの復活というのは、私たちが生きている世界から遠く離れた場所で起こった出来事ではないということです。主の復活という驚くべきことが、実は、私ども生活の只中で起こったのだということです。私どもの生活の中で、主が甦ってくださったのです。そして、復活の主が弟子たちの真ん中に立ってくださったというのは、主が私どもの生活の真ん中に立ってくださり、平和を告げてくださったということでもあります。生活の匂いのする中に、生活の音が聞こえる中に、生活において言葉が交わされる中に、主はお甦りになり、「あなたがたに平和があるように」と告げてくださるのです。復活の主が焼魚を食べられ時、そこにどのような光景が広がっていたのでしょうか。焼き魚のいい匂いがしたことでしょう。それを取って、むしゃむしゃと食べる音がしたことでしょう。弟子たちの日常にある光景です。決して、ここに行かないと、この時でないと見ることができない特別なものではありません。弟子たちの日常の中に、復活の主の香り、天の香りが混じり込むのです。復活の主が告げる祝福は、日々の生活に深く根付くほどに大きな広がりを持ち、私どもの歩みを支えます。
十字架で死なれた主がお甦りなられたという知らせは、信仰の中心となる聖書の中でも大切な教え、特別な教えです。それだけに、もしかしたら私どもの日常とはかけ離れた非日常的なものであると思う人もいるかもしれせん。非日常的であるからこそ、逆に神様らしいというか、何かありがたみを覚えるという人もいると思うのです。あるいは、主の復活を信じるということは、神様から特別な知恵を与えられた人しか理解できないのではないか、だったら私には関係ないと諦めている人もいるかもしれません。しかし、決してそうではないのです。御言葉が教える信仰というものは、日常の生活からかけ離れたものではありません。礼拝も、またそこで御言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかるということも、生活から切り離されたものではないのです。どれも生活と結び付いたものです。「焼き魚を食べる」という行為の中に見ることができるほどに、復活の主のいのちは、私どもの生活に深く結び付いているのです。生活の中で絶対に欠くことができない食事ということの中にまで、復活の主のいのちの恵みが届いているのです。いつも私どもの生活の真ん中に復活の主イエスが立ってくださり、共に生きてくださり、祝福してくださる。この確信に私どもはいつも立ち続けます。
焼き魚を食べるというのは、ありふれた生活の姿であるかもしれませんが、私どものいのちの危機というのはそのような当たり前のことが、当たり前にできなくなるということではないかと思います。食事が喉を通らないとよく言いますが、本当にそういうことが私どもの人生には起こることがあるのです。エマオに向かった二人の弟子のように暗く悲しい顔をしながら、重い足どりで、行く当てもなく歩かなければいけないこともあるのです。主の弟子でありながら、主を見失ったり、信じることができなくなることもあるのです。しかし、復活の主イエスはそういう私どものところに、自ら近付いてくださり、御言葉を説き明かしてくださいます。「説き明かす」「説明する」という言葉は、興味深いことに「目が開かれる」という言葉と同じ言葉なのです。体をもって復活なさった主は、歩きながら聖書を説き明かしてくださるお方です。私どもの歩みの真ん中で、御言葉を語ってくださる。いわば歩く聖書、歩く御言葉としていつも共にいてくださるのです。そして、私どもの心を開いてくださいます。お読みしませんでしたが、44節以下を見ますと、ここでも主は、エマオに向かった二人の弟子たちと同様、御言葉を語ってくださいました。聖書の言葉が真実だということを悟らせるために、弟子たちの心の目を開いてくださいました。そして、ついに疑いの心が完全に消え、主を礼拝する者と変えられていったのです。
御言葉によって開かれたその信仰の目をもって、私どもはありふれた小さな日常の中に、復活の主が共にいてくださるという事実を見るのです。体をもって甦ってくださった主が、体を持つ私どもと共に歩んでくださいます。日々の食卓において、仕事や学び、子育てや介護、様々な人間関係の中に、復活の主のいのちの息が吹き込まれます。私どもが「これは非日常的な苦しみだ」と言って、望みを失いそうになったり、いのちの危機を覚えるときも、主はその真ん中に立ち、神の平和を告げてくださるのです。そして、私どもを生かすいのちの言葉を聞く、その耳を養うのがこの主の日の礼拝です。こうして、神を礼拝する教会の群れの中にも、復活の主は生きて、共にいてくださるのです。
今から共にあずかる聖餐もまた、私どもが生きる糧となる食事です。日常生活の根源にある食事こそ、「聖餐」と言ってもいいでしょう。御言葉と聖餐をとおして、私どもの目を開いてくださる復活の主が、私どもを祝福してくださり、ここから、それぞれの生活の場へと遣わしてくださいます。「あなたがたに平和があるように」「安心して行きなさい」と告げてくださる復活の主のいのちの息を呼吸しながら、今日からの新しい週を歩んでいきます。主イエスは今も生きておられるのです。お祈りをいたします。
御子イエス・キリストを死者の中から甦らせてくださった父なる神よ、あなたは驚くべき喜びの知らせを私どもに聞かせてくださり、そればかりでなく、そのいのちの喜びに生きることができるようにしてくださいました。日々の歩みの中に深く根付くほどに、復活の主のいのちの鼓動が響いています。時に悲しみの思いに捕らわれ、重い足を引きずるようにして歩まなければいけないこともあるかもしれません。しかし、そこにおいても、主が共に歩んでくださり、力強いいのちの中に招いてくださるのだということを見ることができるように、私どもの目を開いてください。御霊を与え、御言葉を聞かせてください。今から共にあずかる聖餐においても、信仰の目ではっきりと救いの恵みを見ることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。