2022年04月17日「いのち向かって走る」
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ルカによる福音書 24章1節~12節
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聖書の言葉
1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。ルカによる福音書 24章1節~12節
メッセージ
イエス・キリストの復活の出来事は、主が葬られていた「墓」が最初の舞台となりました。復活の日の朝、本来ならば、そこにあるはずの主の遺体がなかったという少し不気味なことから復活の物語は始まるのです。当時の墓というのは、今のように土の中にというのではなく、洞穴のような場所に遺体を入れ、入口を大きな石で閉じていました。しかし、その石がなぜか墓のわきに転がされていたというのです。
それを最初に発見したのは、婦人たちでした。10節には、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」と、具体的な名前も何人か記されています。主イエスがガリラヤで伝道を始めた時から献身し、主のあとにずっとついて来た人たちでした。主イエスや弟子たちの身の回りのお世話をしながら、伝道の働きを支えてきました。主が十字架につけられた時にも、彼女たちは最後までついて行きました。しかし、主は十字架で死んでしまったのです。どれだけ深い悲しみに捕らわれたことでしょうか。ただ、それでも婦人たちは主イエスのことを愛していました。愛する者が死んだらと言って、その人への愛がなくなるわけではないでしょう。ただ、どれだけ愛したとしても、死んでしまったらその愛に、死んだ者は応答してくれません。そこに深い悲しみや虚しさがあります。そして、死の力がいかに大きいものであるかを思わされるのです。私どもは死の力を前にして、何もできないのです。この時の婦人たちも同じような思いだったのではないでしょうか。それでも精一杯、最後まで主イエスを愛し抜こうとしました。それが、香料を持って、墓に行こうとしたということです。遺体の腐敗を少しでも遅くするために、心を込めて主の体に香料を塗ってあげたいと思いました。主イエスのためにできる最後の愛の奉仕です。しかし、復活の日の朝、墓に行くと、石がわきに転がしてありました。それだけでも、恐ろしいことだったと思います。恐る恐る中に入ると、あるはずの主の遺体はありませんでした。ただでさえ、深い悲しみの中にある婦人たち。その思いに立ち向かうように、最後の奉仕をしたいと墓に向かいました。けれども墓は空っぽだったのです。主イエスの遺体はそこにありません。さらに悲しくなってしまったというよりも、深い恐れに捕らわれながら、呆然とした思いで、立ち尽くしていたのではないでしょうか。
ルカはこの時の婦人たちについて、4節で、「途方に暮れていると」と記しました。2千年前、世界で最初のイースターの日、初めから大きな喜びに包まれたというのではありません。途方に暮れるような思いで立ち尽くした。そこから復活の物語が始まったというのです。「途方に暮れる」という言葉は、「道が途絶える」という意味の言葉です。今まで歩んで来た道が、そこで途絶えてしまうのです。行き止まりになり、その先に進んで行くことができません。そして、心に留めるべきことは、その途方に暮れるということが、墓の中で起こったということです。私どもは様々な道を歩んでいます。あるいは、12節で、弟子のペトロが墓に向かって走ったとありますように、人生は走ることに譬えられることもよくあります。真っ直ぐ、つまずくことなく、順調に走り続けることができたという人もいるかもしれません。あるいは、あっちに行ったり、こっちに行ったりというふうに中々、自分の道が定まらない中、何とかここまで歩むことができたという人もいるでしょう。しかし、どのような道を歩もうが、走ろうが、必ず道がそこで途絶えてしまう。もうこれ以上、前に進むことができなくなる時が来るのです。それが死ということです。その現実を目に見えるかたちではっきりと私どもに示しているのが、墓ということではないでしょうか。墓というのは、すべての人にとって、人生の終着点です。死の向こうに、いのちの道はありません。ただ墓の中で立ち尽くすしかないのです。途方に暮れる他ないのです。
婦人たちもまた、様々な思いに捕らわれながら、最後は途方に暮れてしまいました。もうそこで何もすることはできません。当然、明るい希望を抱くこともなどできないのです。主イエスの墓が空っぽだったという事実、ここにあるはずの主の遺体がないという事実、これは主が復活されたということを意味しています。しかし、婦人たちは、空っぽの墓を見て、「主はお甦りになられたのだ」と言って、大喜びしたわけではないということです。もしかしたら、主は復活されたのでは?というわずかな希望を抱いたわけでもありませんでした。それよりも、何者かに主の遺体が盗まれたのではないか。そんなことを考えたのかもしれません。墓が空っぽである。この事実だけでは、十字架で死なれた主が、お甦りになれたという信仰は生まれなかったのです。
「主の復活」を信じるというのは、婦人たちや弟子たちでさえも、最初は信じることができませんでした。復活の出来事は、今日においても奇跡の中の奇跡であるに違いありません。しかし、それゆえに、人々のつまずきになっているというのも事実でしょう。主イエスが復活してくださったことによって、私どももその甦りのいのちに連なることができる。これほど嬉しいことはないはずです。しかし、そのことを信じることができません。「そんなことあるはずがない」と言って疑い、どうしたら主の復活について納得することができるのかを、自分の言葉や理屈で一所懸命考えようとします。しかしながら、聖書が語る復活信仰というのは、果たして自分の心、自分の言葉から生まれるものなのでしょうか。主の復活を理解するために、最もらしいことを思いついたとしても、本当はどこかで途方に暮れているのではないでしょうか。死を超えた本当の希望にはなっていないのではないでしょうか。
どうしたら、主イエスの復活を信じることができるのでしょう。これはキリストの福音の中心を貫く真理です。主の復活を信じることなしに、洗礼を受けることはできません。主が復活されたという事実が私どもを根底から生かし、真実の喜びとなっていなければ、信仰生活は空しいもの、つまらないものになってしまいます。そして、死を前にしても、何の慰めにもならないでしょう。空っぽの墓で、文字通り空しい思いになり、途方暮れて立ち尽くしかないのは、何も婦人たちだけではありません。現代に生きる人たちも、私ども神を信じて生きている者たちでさえも、時に死の力に呑み込まれ、前に進むことができなくなることがあります。死を超えた先に備えられているいのちの道を見ることができなくなることがあるのです。そして、自分でいくら考えても、何の解決にもなりません。ますます空しい思いになるだけではないでしょうか。
では、どうしたら主の復活を確かに信じることができるのでしょう。死という人生において最大の試練を迎える時にも、なおおそこで途方に暮れることなく、いのちに向かって真っ直ぐ進むことができるために、いったい何が必要なのでしょうか。もう一度、4節をご覧ください。「そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」空っぽの墓の中で、途方に暮れる婦人たちの前に、神様は「輝く衣を着た二人の人」をお遣わしになりました。これは、御使い、天使のことです。婦人たちはこの時、ただでさえ恐れを抱いて墓の中に立っていました。光り輝く天使たちの登場によって、ますます深い恐れに捕らわれたことでしょう。思わず顔を伏せてしまいます。しかし、その婦人たちにふたりの天使は語り掛けます。神の言葉を取り継ぐのです。しかも、彼女たちを一旦、墓の外に連れて行って、朝の光の中で神の言葉を告げられたのではありませんでした。暗い墓の中で、死という、もうどこにも行けない現実の中で神の言葉が告げられていきます。それはふたりの天使の衣が光り輝いていたように、墓の中、死の只中にある者たちを明るく照らすいのちの言葉です。神のいのちの言葉によって、空っぽの墓が満たされるのです。虚しさから喜びに、絶望から希望に変える言葉。不信仰から信仰に、死からいのちに変える神の言葉が、空っぽになった墓に響き渡るのです。やがてこの神の言葉が、婦人たちを、ペトロを、使徒たちを、そして、教会をいのちの希望に向かわせる原動力となりました。それだけではありません。今もなお教会が力強く証しをし、宣べ伝える福音の言葉、いのちの言葉となったのです。神の言葉こそが、主が復活されたという信仰を私どもに与え、その祝福に私どもを今も生かすのです。
天使が語る神の言葉が空っぽの墓の中で響き渡ります。そして、今も私どもの現実の中で響き渡るのです。5〜7節です。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」はじめに天使が告げたこと、それは、主イエスは生きておられるということです。つまり、復活なさったということです。死んだ者を墓の中で捜すならまだしも、生きておられる主イエスを墓の中で捜すというのは、愚かなこと、無意味なことだというのです。なぜ婦人たちは生きておられる方を死者の中に捜そうとしたのでしょうか。まだこの時は、主イエスが生きておられるなどと考えてもいませんでした。そして、十字架で死んだらもう終わりだと思っていたのでしょう。死んだら、その先の道を行くことなどできない。墓こそが主イエスの終着点であり、私たちの終着点でもある。そう思っていたからです。本当はそのようなことを信じたくないのですが、人間は「死」を信じてしまっているのです。いのちよりも死の力に説得されてしまっているのです。だから、おかしな言い方ですが、信じられるのは、いのちよりも死だと思い込んでいるのです。そしてこのことは人間のことだけに留まりません。神さえも主イエスさえも、墓の中に、死の中に閉じ込めようとしたのです。しかし、天使は神の言葉を大胆に告げます。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」主イエスはお甦りになられた!あなたがたがここで主イエスを捜すのは虚しいこと。あなたがたがいるべき場所はここではない!
さらに、天使は言葉を続けます。6節後半からです。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」天使は、主イエスがガリラヤであなたがたにお語りなさったことを「思い出しなさい」と言われます。「思い出しなさい!」この言葉に強調点が置かれています。天使は婦人たちに、主イエスの言葉を「思い出す」ようにと言うのです。この思い出すというのは、忘れないようにちゃんと記憶に留めておきなさいということではありません。もっと積極的な意味を持つ言葉です。大袈裟でも何でもなく、あなたが主の御言葉を思い出すかどうか。このことにあなたのいのちが掛かっているということです。
そう言われると、ますます忘れてはたいへんだ。記憶に留めないといけないというということになるわけですが、例えば、ルカは十字架上で語られた主イエスの言葉をいくつか紹介する中で、次のような場面を記します。主イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人と対話する場面の中で、その犯罪人は主にこうお願いするのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」(ルカ23:42) 主は十字架の上でその人にお答えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:42)。この一人の犯罪人だけではありません。主イエスが私どものことを思い出してくださるならば、私どもは救われるのです。死んでも救われるのです。私が神の言葉を忘れ、神を無視しながら罪深い歩みを重ねていたとしても、主が十字架でいのちを献げてくださるほどに、私のことを心に留めてくいてくださる。私のことを思い出しながら十字架で死んでくださった。このキリストの愛の前に、ひざまずくならば、私どもは救われるのです。それもずっと時間が経ってからとか、死ぬ間際になってからとか、死んでから救われるという話ではありません。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と主がおっしゃったように、今日から、今から、キリストの救いにあずかり、キリストにある復活のいのちに生きることができる。復活のいのちに生かされながら、与えられた地上の生涯を生き、死ぬことができる。主はそのように約束してくださるのです。私どものことをいつも思い出してくださるいのちの神を、私どもは思い出すのです。その生きておられるお方の言葉を思い出すのです。ここに私どものいのちがあるからです。
天使が婦人たちに、思い出すようにと言われた言葉は、7節にある言葉でした。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」この言葉は、「受難予告」と呼ばれる言葉で、第9章や第18章で主は繰り返し語られた言葉です。7節を見ていただくと、「必ず〜することになっている」という文章になっています。「必ず〜することになっている」。この表現は、神様の強い意志、神様の御計画を表す言葉です。主の十字架と復活をとおして、神様の御心が貫かれることによって、私たちは救われます。どんな力も、罪の力も死の力さえも神様の救いの御計画を妨げることはできないのです。だから、主イエスは繰り返し弟子たちや婦人たちにお語りになりました。一度も主の言葉を聞いていないはずはないのです。ちゃんと主イエスの言葉を聞き、その言葉自体はちゃんと覚えているのです。それでも、主の言葉が思い出せないというのは、聞いたけれども分かっていなかった。あるいは、愛するイエス様が十字架で死ぬということがどうしても受け入れられない、分かりたくない。そういう思いがあったからかもしれません。人間的な思いからすれば、愛する主が苦しみながら死んでいくことに耐えられない。その気持ちが分からないわけではありませんが、実はそこで神様の救いを邪魔してしまっているのです。十字架の言葉に耳を塞いでしまい、いのちではなく、死の物語の中に依然として自分たちの身を置いてしまっているのです。墓の前で、死の現実に捕らわれてしまっているものですから、主の言葉を思い出そうにも思い出せないのです。聞いたことはあるのですが、自分たちを真実に生かすいのちの言葉として響いてこないのです。
ですから、天使たちはもう一度、婦人たちに主の言葉を思い出させるのです。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」あなたがたは、今、墓の前で途方に暮れ、いのちの道を見失っているかもしれない。まるで主イエスを死んだ者のようにみなし、主の言葉さえも墓の中に葬っている。しかし、あなたがたを罪と滅びの死から救い出すという神様の御計画がここで止まることは決してない。なぜなら、主イエスはお甦りになられたのだから。ここで終わりではない。死の向こうに、墓の向こうに、救いの道、死に勝利したいのちの道がある。ここからいのちの道が始まっていくのだ!「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
この天使の言葉を聞いて、婦人たちは主の言葉を思い出したのです。「思い出す」というのは、別の言い方をすれば、「思い当たる」「気付く」ということでもあります。あの時、主イエスが私たちにおっしゃってくださった言葉の意味が、今、分かったということです。あの時、主が語られたことが、主の復活の出来事を契機に、本当に起こったのだということを知ったのです。だからこそ、8節以下にありますように、婦人たちは墓の外に出て行きました。朝の光よりももっと明るい甦りの主の光に照らされ、喜びの知らせを携えて外に出て行きました。そして、「十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」のです。つまり、弟子たちに、自分たちが朝、主イエスの墓の中で経験した驚くべき出来事を一部始終丁寧に語ったのです。復活を最初に証言したのは、女性たちでした。当時のユダヤの社会において、子ども同様、軽んじられていた存在でした。それゆえに、女性の証言が認められない時代でした。信用できないと思われていたのです。しかし、その彼女たちの存在をとおして、主の復活の知らせが語れていくのです。ここにも、救いというものがどういうものであるのかという神様の思いがよく表されているのではないでしょうか。10節を見ますと、「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが」とあります。この「話した」というのは「話し続けた」ということです。一人の婦人だけではなく、入れ替わり立ち替わり、次から次へと、婦人たちが主イエスの墓の中で経験したことをすべて話したのです。弟子たちも、「それは具体的にどういうことなのか?」と尋ねたことでしょう。色んなやりとりや議論というものがあったはずだと思うのです。
しかしながら、弟子たちは、最終的にどういう結論に至ったのでしょうか。11節です。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」婦人たちの証言は、「たわ言」だと言って、主の復活を信じようとはしませんでした。「たわ言」というのは、虚しい言葉、中身がない言葉という意味です。女性の証言だから、という理由もあったかもしれませんが、それよりも、墓の中にいた時の婦人たちのように、十字架で死んだ者、神に呪われ、神に見捨てられて死んだ者がどうして復活するというのだろか。依然として、弟子たちはいのちよりも、死の力に捕らわれていました。のちに復活の主とお会いしますが、この時点ではまだ主が復活したことを信じることができていません。
ただそのような中、最後の12節に目を留める時、一つ気付かされることがあります。弟子たちが皆、「主の復活などない」と言っている中で、たった一人の弟子だけが、自分の心にある引っ掛かりを覚えていました。そして、居ても立っても居られない。そんな思いで、十字架で死んだ主イエスが葬られていた墓に向かって、走り出すのです。墓に向かって走り出した弟子とは誰なのでしょうか。それがペトロという弟子でありました。12節をお読みします。「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」ペトロは主イエスの弟子の中でも、一番弟子と言える存在でした。ペトロ自身、誰よりも忠実に主に従っているという自負がありました。色んな失敗をし、その度に、主からたしなめられることもしばしばありましたけれども、主はそれでもペトロという弟子を信頼してくださいました。そして、ペトロは「主と一緒になら、死んでも構いません」と言えるほどに、自分の信仰に自信を持っていたのです。しかし、主の十字架を前にして、ペトロはその主の信頼を裏切る行為をしてしまいます。人々から「お前も、イエスの仲間だろ?」と問い詰められた時、自分も主イエスのように捕まり、殺されてしまうかもしれない。そう思った時に、「私はイエスなど知らない。イエスとは何の関係もない」と三度にわたり、つまり、完全に主イエスとの関係を否定しました。
主イエスは、ペトロの裏切る前に、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と予告しておられたのです。そのとおりになりました。鶏が鳴いた時、主イエスは振り向いてペトロを見つめられました。ペトロはその主のまなざしの中で、主の言葉を思い出し、激しく泣いたのです。この時の主のまなざしはどのようなものなのでしょう。ペトロの流した涙はどのような涙だったのでしょう。お前はどうせ強がっているけれども、如何に、お前が罪深い人間であるかを、数時間に暴いて見せてあげよう。そして、そのとおりになった時に、ほらみたものか。そういう思いで、ペトロを見つめられたのでしょうか。そうではありません。主を裏切るという罪を含め、ペトロのすべて知っていてくださる主イエスが、この私のために、今から十字架に向かおうとしておられる。その恵みのまなざし、愛と赦しに満ちたまなざしで主から見つめられた時、ペトロは主の言葉を思い出しながら、激しく泣いたのです。悔い改めの涙であり、心の底から生まれる感謝の涙です。
そのペトロが、婦人たちから「主イエスの墓が空っぽ」だという証言を聞いた時、また天使が婦人たちに告げ知らせた言葉を聞いた時、ペトロはどこかでまだ信じられないという思いを抱えながら、しかし、立ち上がって、墓に向かって走り出して行きます。よく考えますと、普通は墓に向かって走り出す人などいないと思います。墓に向かう時、私どもはどのような気持ちで向かうのでしょうか。子どもが無邪気に走り出すように、嬉しそうに墓に向かって走り出す人はいないでしょう。やはり、どこか暗い気持ちで、しかも重い足取りで、ゆっくりと墓に向かうのはないでしょうか。けれども、ペトロは違いました。ペトロは立ち上がって、走り出したのです。ペトロを墓へ急がせたものとは、いったい何なのでしょうか。単なる好奇心や興味半分で走り出したわけではありません。それに、ペトロは自分こそ一番弟子と言いながら、主イエスとの関係を拒み、逃げ出した弟子です。一番罪深い弟子と言ってもいいのです。なぜ、自分だけが急いで墓に向かい、しかも主イエスの前に堂々と立てると思ったのでしょうか。本来ならば、走り出すことも、主の前に立つこともできるはずなどない。そんな資格は自分にはないと思うのが普通ではないでしょうか。自分がしたことをペトロはすっかり忘れてしまったのでしょうか。何がペトロを墓に向かって、走らせたのでしょうか。
12節をもう一度見ていただくと、「ペトロは立ち上がって墓へ走り」とありました。「立ち上がる」というのは、「復活する」とか、「起き上がる」と訳すことができる言葉です。単に体の動作として、ペトロは立ち上がったということを言いたいのではなく、既に射し込んでいる甦りの主の光がペトロを立ち上がらせ、墓に急いで向かわせたのです。主イエスは、ペトロの裏切りを予告なさった時、そこでこのようなことをおっしゃいました。第22章32節の御言葉です。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ペトロは、信仰がなくなるような試練を経験しました。もう主イエスの前に立つことができないような大きな試練、挫折を経験しました。しかし、主イエスは既にペトロのために祈ってくださいました。信仰がなくならないように祈ってくださったのです。祈りの中で、主は既にペトロが絶望から立ち上がっている姿、主の赦しの中に立つペトロを見ておられます。あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい…。主イエスの執り成しに支えらえて、ペトロは立ち上がり、墓に向かって走り出して行くのです。
そして、主の復活の出来事が私どもに教えていることがあります。確かに、人の歩みというのは、墓に向かう人生であるかもしれません。墓の前で、死の前で、途方に暮れ、もうこれ以上前に進んで行くことができない。そう言って、絶望する他ありません。ですから、なるべく死を避けて生きていきたい。死に背中を向けるように、あるいは、死に蓋をするように生きようとする。それが人間なのではないでしょうか。誰もが死ぬと分かっていながら、でも、死のことを考えて生きる人はほとんどいないのです。そんなことを考えるくらいなら、好きなこと、楽しいこと、やりたいことをやって生きた方がどれだけ有意義な人生を送ることができるだろうか。そう考えるのです。
しかし、ペトロは自ら墓に向かいました。主の復活の知らせを、婦人たちから聞いて、たいへん驚き、不思議に思いつつも、決して絶望はしていません。望みを持っているのです。だから、立ち上がって、墓に向かって走り出すことができました。本来、人間の終着点である墓に向かって、ただ気持ちが暗くなるだけのような墓に向かって、走り出して行ったのです。それは、空っぽの墓の中に神の言葉が響き渡っているからです。死に勝利した甦りのいのちの光が輝いているからです。墓の向こうに、死の向こうに復活の主が切り拓いてくださったいのちの道が続いているからです。そして、私どもの人生もまた墓に向かう歩みでありながら、実は死に向かって歩んでいるわけではないということです。墓に向かいながら、実はいのちに向かって走っているのです。矛盾するようなこと、あり得ないようなことかもしれません。けれども、主の復活によって、私どもは死を超えたいのちに向かって、軽やかな足取りで走ることができる者とされました。そのような驚くべき生き方へと、復活の主は私どもをこの日も招いていてくださるのです。
私どもの地上の歩みは、決して永遠ではありませんし、必ず死を迎えます。墓に葬られる時がきます。けれども、そのような時でさえ、私どもはいのちに向かって歩んでいるのです。しかも、一人で墓に向かっているのではありません。甦りの主イエスと共に、いのちに向かって走っているのです。私どもは、自分一人で死と戦わなくてもよいのです。十字架で死に、復活してくださった主イエスが罪と死に勝利してくださった。この信仰にいつも立てばよいのです。それだけでよいのです。それ以外に、死に立ち向かう道はありません。
私どもの信仰の歩みには、様々なことが起こります。嬉しい出来事もあれば、悲しい出来事も起こります。あのペトロのように取り返しのつかない過ちを犯してしまうこともあるかもしれません。あの婦人たちや弟子たちのように、自分たちを取り巻くあまりにも厳しい現実の中で、御言葉が埋もれてしまう。生活の中に御言葉が立ち上がってこない。そういうこともあるのです。だからこそ、天使が婦人たちに告げましたように、主イエスがお語りになったことを思い出さなければいけません。確かに、主イエスは私どもに御言葉を語ってくださったのです。今も語ってくださいます。その主の言葉を思い出します。埋もれてしまった御言葉を掘り起こすのです。どこで掘り起こすのでしょうか。何も遠くに行く必要などありません。墓の中で捜す必要もありません。なぜなら、主イエスはお甦りなられたからです。私どもが捜すべき場所、復活の主との出会いが与えられる場所。それが、神を礼拝するこの場所です。礼拝において、御言葉を掘り起こす、御言葉を思い出す恵みの経験を、私どもはここで重ねていきます。
この後、私どもは、復活の主が備えてくださった聖餐を共に祝います。聖餐の一つの目的は、私たちの救い主であるイエス・キリストを「記念する」ことです。つまり、思い出すことです。聖餐において、主を思い出すという時に、単に知識として「イエスというお方は、こういう方だった」と確認すれば、それでいいということではないでしょう。主イエスが御自分の全存在を掛けて、私ども一人一人のことを心に留めてくださり、そして十字架で死んでくださいました。死で終わることのない、いのちの道に招くために、永遠のいのちに招くために、主は墓の中から甦ってくださいました。この復活の主を記念し、いのちの勝利にあずかる者とされていることを、震えるような思いで心から感謝し、神をほめたたえます。
本日はルカによる福音書に先立って、詩編第16編の御言葉を朗読していただきました。その最後で詩人はこう歌います。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」(詩編16:10-11)私どもは復活の主によって、まさにこの詩編の御言葉が真実であると、告白することができます。主イエス・キリストは、私どもを神が見えなくなる真っ暗な陰府に渡すことも、墓穴を見せるようなこともなさいません。それどころか主イエス自らが陰府に降り、墓の中に葬られたのです。私どもにいのちの道がここにあるということを教えてくださるためです。そのいのちの道を復活の主と共にこれからも歩んでいきます。墓に向かって軽やかに走ることができるほどに、私どもは復活の主の確かないのちに支えられ、生かされているのです。この復活の主が、御自身の手で分け与えてくださるパンとぶどう酒をとおして、消えることのない永遠の喜びに共にあずかります。
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」
お祈りをいたします。
甦りの主のいのちに生かされていることを感謝いたします。神の御顔が見えないほどに、また、御言葉が聞こえなくなったと錯覚してしまうほどに、私どもの人生には予期せぬことが起こります。しかし、主よ、あなたは今も生きておられます。今も、私どもに御言葉を語り、私どもを養ってくださいます。御霊を与えてください。主のいのち言葉を思い出すことができるようにしてください。そして、復活の主と共にある歩みを心から喜び、いのちの望みに最後まで生き抜くことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。