2022年04月10日「わたしの霊をあなたの御手に」
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わたしの霊をあなたの御手に
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ルカによる福音書 23章44節~49節
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聖書の言葉
45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。ルカによる福音書 23章44節~49節
メッセージ
十字架の上で主イエスがお語りになった言葉が全部で七つ福音書の中に記されています。先週はヨハネによる福音書から「渇く。」という言葉を中心に耳を傾けました。本日、共に聞きましたルカによる福音書には七つのうち三つの言葉が記されています。第23章46節に、次のような主イエスの言葉がありました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」主イエスはこの言葉を大きな声で叫ばれた後、息を引き取りました。つまり、十字架上の七つの言葉の最後の言葉であり、十字架で死ぬ前、最後に口にされた言葉であるということです。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」この言葉には、主イエスが父なる神様に対する深い信頼のゆえに、平安のうちに十字架で死んでいかれた。そのような印象を抱きます。十字架上の主の言葉というのは、主イエスにしか語ることができない言葉であり、それゆえに、私どもは罪から救われ、神の祝福にあずかることができました。そして、十字架上の主の言葉は決して過去のものではなくて、今も地上を歩む私どもに向けて語られている言葉であり、私どもを真実に生かしている言葉であるということです。同時に、十字架の言葉によって生きるというのは、私どももまた十字架の主の言葉を口にしながら生きるということです。賛美の時、祈る時、信仰を言い表す時、十字架上で主がお語りになった言葉をもって生きるのです。もちろん、主イエスと私どもとでは同じ言葉でも、まったくその意味合いも、言葉の重さも違います。しかし、それでも十字架の主は私どもを救いの道へと招いておられるのです。「あなたもまた、わたしが語った十字架の言葉に生きてご覧なさい。」「信仰生活において、神を見失ってしまったかと思うような苦しみを覚える時、深い悲しみの中で立ち上がる力さえなくなってしまった時、あなたもわたしがそうしたように、十字架の言葉をもって祈ってみたらいい。叫んでみたらいい。その祈りが虚しく終わることはないのだから。」主イエスは今も私どもを励まし、十字架の言葉に生かしてくださいます。
十字架の上で語られた言葉、それは、死を前にした言葉であるということです。主イエスにとってもそうですが、私どもにとっても無視することができない問題です。死を前にしてどう生きたらよいのでしょうか。死を前にした時、誰もが平安でいることができるわけではないでしょう。肉体においても、精神的な面においても、想像を絶した苦しみや痛みに襲われることがあるでしょう。様々な助けによって、支えられつつ、最後は何に依り頼んだらいいのでしょうか。人生の最期、私どもは残っている力を振り絞るようにして、どのような言葉を口にするのでしょうか。何もこのことは、死を前にした時、慌てるように何か新しいことを始めるということではありません。願わくば、健やかな時、若い時から死に備えた生き方をしたいものです。人は生きてきたようにしか、死ねない存在だと言われます。今をどう生きているかということが、そのまま、死を前にした生き方に結び付くのです。その時、十字架の死を前にして、最後にお語りになった主イエスの言葉というのは、決定的な意味を持つ言葉になるのではないでしょうか。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」この御言葉をもって、今から自分自身の人生を形づくることが求められています。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」この主イエスがお語りになったこの言葉は、主が導かれるままに口にされた言葉ではありません。主イエスにしか語ることができない言葉、主イエスがお語りになるからこそ意味を持つ言葉であることに違いないのですが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という御言葉は、実は、旧約聖書の詩編に記されている言葉であるということです。先に朗読していただきました詩編31編6節の御言葉です。少し言葉が違うところもありますが、そこにはこう記されています。「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」
「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」この詩編の御言葉は、ユダヤ人には馴染深い御言葉の一つでした。やがて一日が終わろうしている夕方の時間、人々はこの詩編の言葉をもって神に祈りをささげました。あるいは、夜になり眠りに就く前に、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」と祈りをささげたのです。なぜでしょうか。それは眠っている間、人は完全に無防備になるからです。自分のいのちを自分で守ることなどできません。今から眠りにつて、明日の朝、必ず目覚めることができる保証などどこにもないのです。眠る前というのは、ある意味、死を覚悟するということです。ですから、ユダヤ人にとって、眠りの時というのは、恐れと不安に満ちた時でしたら。だから、「神様、あなたの御手に私の霊をおゆだねします」と祈ったのです。そして、朝、目覚めることがゆるされたならば、新しいいのちを与えてくださった神様に感謝をささげ、与えられた一日を生きるのです。私どもは健康に大きな不安を覚えない限り、眠っている間に死ぬかもしれないなどとは、あまり考えないかもしれません。どこかで、当たり前のように、眠りに就き、時間が経てば朝の目覚めが与えられると思っているところがあります。朝だけでなく、眠る前も神様の前に、祈りつつ、すべてをおゆだねして生きること。生活の習慣になるほどに、祈りの生活を身につけることは、今日の私どもにも求められていることです。そして、主イエスもまた、救い主としてのお働きを始める前から、つまり物心つく幼い頃から、両親と共にこの祈りをささげてこられたことでしょう。また、救い主としての歩みを始められてからも、この詩編の御言葉をとおして、父なる神様に祈りながらここまで歩みを重ねてこられたことでありましょう。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
主イエスが十字架にかけられたのは、午前9時でした。息を引き取られたのは午後3時です。6時間もの間、主は十字架の上で苦しみ続けました。肉体においても、魂においても、激しい痛みと苦しみを覚えられたのです。44節を見ると、一番明るい時間帯である昼の12時に、全地は真っ暗になったと記されています。暗闇が午後3時まで続きました。さらに、45節には太陽が光を失ったこと。また、神殿の垂れ幕が裂けたということが記されています。世界が暗くなり、光を失う。このことは、ただその時の自然現象を述べたというのではありません。旧約聖書に記されていることですが、まさに主イエスの十字架という出来事において、人間の罪の闇が最も深くなったということを表しています。そして、闇であったり、太陽が光を失うというのは、神の怒りであり、また終わりの日の裁きを意味する出来事であるということです。太陽が光を失ったように、この世界は神の恵みの光が完全に失われてしまったということです。このように、全世界が揺れ動くような出来事の中に、ただ主イエスの十字架だけが真っ直ぐに立っています。本来私どもに注がれる神の怒りと裁きを、それをまったく受ける必要がない主イエスが、十字架の上ですべて引き受けておられるのです。神に裁かれ、捨てられることがどれほど恐ろしいことであるか。そのことさえ気付いていない愚かな罪人のために、主イエスはまことの罪人として十字架につけられました。
次の「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」というのは、神殿にある聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が裂けたということです。至聖所という場所は、神殿において一番特別な場所でした。まさにここに神が臨在されるという場所です。ここは誰でも入れるわけではなく、大祭司と呼ばれる人物しか入ることができなかったのです。神殿の垂れ幕が裂けるという出来事は他の福音書にも記されていますが、そこでは主イエスが十字架で死なれた後に、垂れ幕が裂けたということを記すのです。けれども、ルカによる福音書においては、十字架の死の「前」に、既に垂れ幕が裂けたというのです。いくつか理由はあると思いますが、一つは、神の裁きを意味する出来事だということです。本来ならば、私ども罪人が神殿の垂れ幕のように、引き裂かれなければいけなかったということです。そして、このことは神殿崩壊を予告する出来事でもあるということです。神殿が崩れるというのは、誰も神様の前に立てなくなるということです。神との交わりが断たれ、礼拝への道が閉ざされるということです。これこそがまさに闇ということであり、死ということなのです。しかし、その裁きを主イエスはすべて十字架の上で身代わりになって引き受けてくださったのです。ですから、神殿の垂れ幕が裂けるということのもう一つの意味は、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が裂けたことによって、誰でも神様の前に立つことができるようになったということです。しかも、私どものほうから、神様のほうに近づいていくというよりも、神様自らが神殿の奥から、天の上から私どものほうに近付いて来てくださったのです。
この恵みの出来事が、この世界に来てくだり、十字架につけられたイエス・キリストによってもたらされたのです。その主イエスが十字架の上で最後に叫ばれたのが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という言葉でした。46節の冒頭に「イエスは大声で叫ばれた。」とあるように、大声で叫びながら、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られたのです。はじめ読んだ時、とても意外な感じがしました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」というのは、静かな声で祈られたという印象を持っていたからです。普通、「ゆだねる」と言う時、大きな声で、まして叫ぶようにして言う人はいないのではないでしょうか。この時、主イエスは十字架で息を引き取る直前でした。人はどのように死んでいくのでしょうか。愛する者の最期を看取ったことがある方は知っていると思いますが、段々とその人の呼吸が少しずつ穏やかになり、そして弱くなり、最後はすうっと息を引き取って亡くなっていくのではないでしょうか。そのようにして、安らかに死んでいくということがあるのです。
主イエスが十字架の上で祈られた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」というのは、言葉だけ見ますと、静かに祈られたという印象を抱くのですが、しかし、聖書は大声で叫ぶように祈られたというのです。なぜ大声で叫ばれたのでしょうか。他の福音書においても、主が大声で叫びながら、十字架の上で息を引き取ったことが記されているのですが、その大声の内容がどのようなものであったのか。それを記すのはルカだけです。なぜ主イエスは大声で叫ばれたのでしょうか。それは主イエスが十字架の上で、最期まで戦っておられたからだと思うのです。「わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りの言葉は、実は戦いの言葉であるということです。誰のために戦っているのでしょうか。それは私どものためです。私どもの救いのためです。ルカによる福音書では、例えば、マタイやマルコに記されているように、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という激しい叫びは記されていません。ルカに残されている十字架上の言葉というのは、どこか心温まるような言葉です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)まさにルカらしい特徴がここにも表れていると言うこともできるのですが、しかし、ルカは何か私どもの情に訴え、涙を誘いたかったのではありません。神の怒りと裁きから免れること、罪と死の闇に打ち勝つことが、どれだけたいへんなことであるのか。そのことを一番知っておられたのが主イエスです。十字架でいのちを献げるほどの戦いをもってしなければ、決して救われることはない。それゆえに、十字架の上で息を引き取る最後の最後まで、大声で祈るようにして戦われた主イエスのお姿を見失ってはいけません。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」この御言葉は詩編第31編に記されている言葉だと申しました。その途中までしかお読みしませんでしたが、改めて詩編第31編全体に目を向けますと、この詩編は「戦いの詩編」であることが分かります。例えば、こういう言葉がありました。「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。」(詩編31:2)「あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。」(詩編31:3)「隠された網に落ちたわたしを引き出してください。」(詩編31:5)詩人は叫ぶように神に祈り求めています。「助けてください」「救い出してください」「お救いください」「引き出してください」…。さらに、22節、23節にはこうあります。「主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を/都が包囲されたとき、示してくださいました。恐怖に襲われて、わたしは言いました/『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを/嘆き祈るわたしの声を/あなたは聞いてくださいました。」詩編の詩人を敵が取り囲みます。恐怖の闇、死の闇に囲まれています。「御目の前から断たれた」と嘆いているように、神様のお姿が見えなくなり、その関係が断たれたかのではないかと思ってしまうほどの闇の中にあります。
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」私どももまた様々な闇に取り囲まれることがあります。将来のことを考えると不安でたまらない人もいるでしょう。年齢を重ねるとともに自分の弱さや衰えに気付かされ、深く落ち込むことがあります。他にも病のことや人間関係のことなど、色々とあげれば切りがありません。そして、私どもを囲む闇の中には、罪の影、死の影が散らついているのです。
私ども人間の中にある罪の問題、その根っこあるのはいったいどのような思いなのでしょうか。
ルカは、十字架上の主イエスのお姿とまったく正反対の姿に生きた人間のことを、第12章において描いています。第12章13節以下に記されている「愚かな金持ち」と呼ばれる主イエスがお語りになった譬え話です。ある金持ちの畑がたいへんな豊作になりました。これで何年も遊んで暮らせると思いました。死に対する不安もなくなったと思ったかもしれません。そして、金持ちは自分で自分に言い聞かせるのです。「私の魂よ、ゆっくり休め。好きなだけ飲み食いして楽しめ。」ところが、神様はこうおっしゃったのです。「愚かな者よ、今夜、お前のいのちは取り上げられる。お前が明日、朝を迎えることはない。」と。
この金持ちは本当に愚かです。しかし、私どもは簡単にこの愚かな金持ちを批判できないことをどこかで知っているのだと思います。周りの迷惑を考えずに、好き勝手にとまで言わなくても、ある程度の蓄えがほしいと思うものです。わがままとか、欲が深いとかそういうことではなく、多く蓄えることによって、将来のことや老後のことをちゃんと考え、良き備えをすることができる。何かあった時に、必ず役に立つと信じているからです。しかし、神様はおっしゃいます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」これがあれば自分の将来も、自分のいのちについても安心だと思えるものを、なるべく早く手に入れたいと願う者です。しかし、神様はそのような者を、「愚か者」とおっしゃり、「お前が死ぬ時には何の役にも立たない」のだとおっしゃいます。人間の愚かさとは何でしょうか。その根っこに罪とは何でしょうか。それはこの愚かな金持ちのように「自分のいのちは自分のもの」だという思いに執着することです。自分のいのちも、自分の人生も自分のしたいようにして構わない。そのような原理で自分の人生を築き上げようとしているのです。しかし、これはたいへん大きな誤解なのです。そして、今も、その思いから自由になることはできていません。
神様が願っておられることは、愚か者としてではなく、賢い者として生きるということです。賢く生きるということはどういうことでしょう。主イエスは、先程の譬え話の中で、「神の前で豊かになる」ことこそが、賢く生きることだとおっしゃいました。さらに十字架の光によって、神の前に豊かに生きるとはどういうことかを考え直す時、そこで分かることがあります。それは、日々、父なる神様の御手に、自分の霊をおゆだねする生き方です。私のいのちも、私の人生もすべて神様のものとされている喜びと安心の中で、日々、自分の十字架を背負って、愛の業に生きていくことです。そのように、神様の前で賢く、豊かに生きることができるようになるために、主イエスは十字架の上で戦ってくださいました。深い闇に包まれながら、その中に立つ十字架の上で私どものために戦い抜いてくださったのです。罪の包囲網、死の包囲網を突き破り、天にまで届く大声で叫びながら祈られたのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
大声で叫ぶというのは、私どもにおいても言えることかもしれませんが、穏やかな気持ちでできるようなことではないと思います。どこか心が乱れていると言いましょうか、どこか必死な部分があるからこそ、声も大きくなるのではないでしょうか。主イエスが十字架の上で叫ばれたのものまた、神に見捨てられて死ななければいけない、その苦しみから生まれた叫びでもあります。しかし、不思議なことに、主イエスの心の底には、父なる神様に対する信頼の心がありました。それを一番よく表している言葉が、「父よ」という神様への呼び掛けです。46節の主の言葉は、詩編第31編6節に基づくものであると言いました。しかし、主イエスは、少しだけ言葉を変えて祈りをささげておられます。詩編では、「まことの神、主よ」と言って、神を呼んでいますが、主イエスはあえて、「父よ」という言葉で神を呼んでおられます。「父よ」という言葉は、アラム語で「アッバ」と言います。言葉を覚えたばかりの幼子が「パパ」と呼ぶように、お父さんに対して、愛と信頼の思いを込めて呼ぶ言葉です。それが、「アッバ、父よ」という言葉なのです。主イエスは、弟子たちに「主の祈り」を教える場面において、神を「父」と呼ぶようにを教えられました。十字架上においても、「父よ、彼らをお赦しください。」と主は祈られました。
また、十字架にかけられる前、オリーブ山(ゲツセマネ)と呼ばれる山で、血の滴るような汗を流されて、苦しみながら激しい祈りをささげました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)自分の思いと、父の御心がぶつかり合うような激しい祈りです。しかし、そこでも神を「父よ」と呼び、信頼しておられるのです。そして、主イエスは御心に従って十字架の道を最後まで歩み抜いてくださいました。その先に、私どもの救いがあるのです。オリーブ山に登ったのは、主イエスお一人だけでなく、弟子たちも一緒にいました。そこで、主がおっしゃったのは、「目を覚まし、誘惑に陥らないように祈りなさい」ということです。誘惑に陥るとはどういうことでしょう。それは、神様の御心を無視して、自分の願いに固執することです。あの愚かな金持ちのように、神様におゆだねすることなく、自分の財産もいのちも自分の手で握りしめて生きようとすることです。しかし、自分のいのちを自分で握りしめて生きてようとする限り、まことの平安が訪れることはありません。神様はその者を「愚か者」と言われ、その罪を放っておかれることはありません。
人間の愚かさは、「自分のいのちは自分のものだ」と言い張ることですが、それは言い換えれば、神様が私の父であることを忘れてしまっている、ということでもあります。だから、主イエスはあなたの父である神がどのようなお方であるのかを、心を込めて何度も紹介してくださいました。父なる神様のもとからいなくなり、失われてしまったあなたのことを、どれほど深い痛みをもって悲しんでおられるか。父なる神様はどれだけあなたの帰りを待ち続けておられるのか。もう待つことができず、ついにはあなたを捜し出し、御自分のもとに連れ帰るために、父は御子をあなたのもとにお遣わしになったのだ。そのように、父なる神様の愛の御心を私どもに告げてくださいました。主イエスの十字架は、父の御心を忘れて生きようとする私どもの愚かさとの戦いであり、私どもが父のもとに帰るための戦いでもありました。主は全存在をかけ、いのちを献げてまでして、あなたのことをもう一度、父なる神様のものとしてくださるのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」この主の十字架の言葉によって、私どもの罪は贖われたのです。
これらの様子をすべて見聞きしていた者がいました。47節以下に記されていることですが、そこを見ると、百人隊長や群衆、また弟子たちや女性たちが登場します。すべてに触れる時間がありませんが、一つだけ、47節を見ると、百人隊長がこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したというのです。百人隊長というのはローマ兵であり、また救いから遠いとされていた異邦人です。イエスの十字架刑を執行した人物の一人でもあります。その百人隊長が、主イエスの十字架上での言葉や振る舞いをとおして、「本当に、この人は正しい人だった」という信仰告白と賛美に導かれます。「正しい人」というのは、イエスという男は無実であった、潔白であったということよりも、神様との関係においてまさに正しいお方であった。本物の人間というのは、こういう人間のことを言うのだ、ということです。この驚きが、百人隊長を神賛美へと導いたのです。十字架の苦しみにおいても、罪と死の闇が取り囲まれても、その中から「父よ!」と呼び掛け、御自分のいのちのすべてを父なる神様の御手におゆだねし、息を引き取っていく。これこそがまことの正しい人間であるということです。そして、私が本来生きるべき人間の真の姿もまた、十字架の主イエスの中に示されているではないか。十字架の主イエスにこそ、私の救いがあり、光がある。そう言って、神を賛美したのです。
私どももまた主の十字架の言葉に生かされ、主イエスのように父なる神様に信頼し、すべてを神様の御手におゆだねし、賛美しながら歩んでいきます。十字架の上で語られた主の言葉と祈りをもって自らの人生を形づくっていきます。それは十字架の上で主が戦われたように、常に戦いが伴う歩みであるに違いありません。そして、神様におゆだねして生きることは、決して、すべてを放り出して、「もう諦めました」「あとは神様にお任せします」ということではありません。しかしながら、私どもの歩みを振り返る時に、口では「おゆだねします」と言いながら、どこかでもう諦める他ないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。自分のいのちや死の問題もそうですけれども、それだけでなく、私どもを悩まし、苦しめるあらゆる力を前にして、もう本当にお手上げだということがあると思うのです。また、自分自身のことで、ある意味精一杯のところはありますが、心に掛けているあの人のことを思う時、本当に神様におゆだねしないとどうしようもないという現実にぶつかることがいくらでもあるのです。それは、その人を愛しているがゆえに、神様にゆだねるということに違いないのですが、一方で「ゆだねる」と言いながら、愛することを放棄してしまっている自分がいることに気付かされることもあるのです。「ゆだねる」ということと、「諦める」というのは、まったく違うと、自信をもって言い切れない弱さが、なお自分の中に根強く残っているということ。この事実に愕然とし、絶望に近いような思いに捕らわれてしまうことがあります。あるいは、「おゆだねします」と言って祈るものの、何か祈りの決まり文句の一つとなり、神様にゆだねることの重さが軽くなってしまうということもあるのではないでしょうか。
しかし、そのような自分の罪や愛の貧しさを、誤魔化すことなく、神様の光の中で本当に苦しいと思うからこそ、私どもはもう一度、十字架の主イエスに続いて心から祈るのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。その時、信仰生活の中で生じる戦いや苦難、また自らの罪に苦しむことがあったとしても、本当に不思議なことですけれども、私どもは柔らかな心で、静かに戦うことができる者とされていくのです。大声で叫びつつ、心からの信頼をもって「父よ」と呼んで祈るならば、そこに神様の御心が見えてくるからです。そして、キリストにおいて、既に私どもを取り囲むあらゆる闇が打ち破られ、いのちの光が確かに私に向かって射し込んでいることを、改めてそこで知ることでありましょう。
そして最後に、祈りは必ず聞かれるということを、十字架上の主イエスの言葉をとおしてもう一度覚えたいと思います。主が十字架の上でささげられた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という祈り。この祈りは、虚しく響いて終わったのではありませんでした。罪と死の闇を突き破る主イエスの祈りは、天の父なる神様のもとに届き、神様は主イエスの祈りに答えてくださいました。だからこそ、父なる神様は主イエスを死者の中から甦らせてくださいました。そして、私どもに救いを与えてくださったのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と、心から祈り始める時、神様はそこで新しいことを既に始めていてくださっています。祈る者に対して、神様は必ず光を与えてくださいます。十字架で死んだ主イエスを甦らせてくださるほどに力ある神様が、私どもに何もしてくださらないはずはありません。私どもの祈りに答えてくださらないはずはないのです。もしかしたら、今夜、神様が私のいのちを取られるかもしれません。しかし、いつもすべてをおゆだねしている父なる神様の御手によって、主イエスを甦らせてくださった父なる神様の御手によって、私のいのちが取られるのです。それゆえに、死ぬ時も神様の御手にゆだねながら、安心して地上の生涯を終えることができるのです。
だから、毎晩、眠る前でいいのです。朝起きた時でも、いつでもいいのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と、たった一言、祈ることから始めたらよいのです。小さなことかもしれませんし、小さなことしかできないのかもしれません。しかし、十字架の主の言葉によって支えられている私どもの歩み一つ一つが、如何に祝福されたものとされていくのか。私どもはそのことを確かに信じることができるのです。主イエスが十字架の上で、私どもに先立ってこの祝福に生きてくださったからです。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、私どもが生きる時も死ぬ時も、十字架の主の言葉によって、まことの慰めをお与えください。罪と死に勝利してくださった十字架の言葉をもって、私どもも、それぞれに与えられた信仰の戦いを最後まで戦い抜き、また愛の業に仕えていくことができますように。信仰の歩みの中で覚える様々な弱さをも、すべておゆだねし、あなたの御手の中で守られながら生き、そして死ぬことができますように。主の御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。