2022年04月03日「主イエスの渇き」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

主イエスの渇き

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章28節~30節

音声ファイル

聖書の言葉

28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。ヨハネによる福音書 19章28節~30節

メッセージ

 主イエスが十字架の上でお語りになった言葉が全部で七つあります。「十字架上の七つの言葉」と呼ばれることがあります。いずれも4つの福音書に記されています。今、教会では受難節の時を過ごしていますが、本日と次週の礼拝では、十字架の上で主がお語りなったいくつかの言葉に耳を傾けたいと思います。主が十字架の上でお語りになった言葉というのは、主イエスにしか語ることができない、まさに神の言葉です。それゆえに、何にも増して重みのある言葉ですが、同時に十字架の言葉に耳を傾けながら思わされるのは、私どももまた、十字架上で主が口にされた言葉、嘆き、あるは呻きといったものを同じように口にすることがゆるされているということです。もちろん、主イエスと私どもでは、言葉は同じでも、その意味合い、その言葉の持つ重さはまったく違います。しかし、私どもはそこで主と同じ言葉を口にしながら、主イエスと一つになることができるのです。そこで、まさに主の十字架がこの私のためのものであるということ。この十字架の言葉をもって、私も神の前に立ち、神と共にある幸いを覚えることができます。

 十字架上の七つの言葉は、いずれも短い言葉です。すぐにでも覚えることができる言葉だと思います。なかでも、先程共に聞きましたヨハネによる福音書第19章28節の御言葉は一番短い言葉です。たったひとことです。「渇く!」たったそれだけです。原文のギリシア語でも一つの単語をもって主の言葉を書き記します。「渇く!」七つの言葉のうち、第五番目に語られた言葉だと考えられています。主が十字架上で呻くように語られた「渇く」という言葉は、私どもも普段の生活の中で比較的よく口にする言葉ではないかと思います。小さな子どもでも、例えば、「喉が渇いたから、お水をちょうだい」とよく訴えてくるのではないでしょうか。「喉が渇いた」という日常生活の中で何気に使う言葉ですが、よく考えると、大人であっても子どもであっても、肉体のいのちに関わるような大きな言葉ではないかと思います。

 私どもが人間であるというのはどういうことでしょうか。色んな定義が可能ですが、その一つに、人間というのは体を持って、肉体を持って生きている存在であるということです。その肉体を持つ自分自身が、「ああ、自分は何て弱い人間なのだ」と言って、惨めな思いになるのは、その自分の肉体が弱さを覚える時ではないでしょうか。病を患ったり、けがを負ったりというふうに。そして、その肉体の弱さはやがて死に結びつく恐れがあるということを知っています。私も決して多いとは言いませんが、病気で弱り果てている者、死を前にした者を見舞うことがあります。そこで痛みをもって覚えるのは、その方がまさに渇きの中でとても辛い思いをしておられるということです。その方の唇は乾燥し、喉も渇いているように思えます。自分の手で水を取って、飲みたいのだろうなということが分かるのです。でも自由に体を動かす力はありません。力を振り絞って声を出そうとするものの、その声が涸れていることにすぐ気付きます。それほどの深い渇きを覚えて、ベッドに横たわっておられるのに、その方は突然の訪問を喜んでくださり、喉は渇いているのに、目にはたくさんの涙が溢れています。そのような光景を忘れることはできません。

 私どもの救い主であるイエス・キリストは、私どもと同じ肉体を持つ人間として、この世界に来てくださいました。私どもが日常の歩みの中で抱える渇きや辛さ、痛みというものをよく知っていてくださるお方として、また、自分が死ぬということがどれほど辛く、厳しいことであるかを知っていてくださるお方として、私どもと共に歩んでくださったのです。十字架の死というのは、その残酷さに表されているように、その肉体に置いて、これ以上にない苦しみを味わいながら死んでいくことです。午前9時に十字架につけられた主イエスは、午後3時まで、つまり、6時間もの間、十字架の上で血を流し続け、苦しみながら、深い渇きを覚えながら死んでいかれたのです。信仰というのは、心だけの問題ではありません。信仰において、心と魂が大切なのは言うまでもありませんが、私どもは「心が大事」と言いながら、いくらでも自分を誤魔化してしまう自分がいることを知っています。しかし、肉体において誤魔化しは効かないのです。実に正直で、具体的なのです。肉体の渇きを抽象化することはできません。苦しいものは苦しいのです。本当は心においても、同じなのですけれども…。しかし信仰というのは、私どもが肉体において、自分一人で辛い思いをしなければいけない時も、自分一人で死という厳しい現実に立ち向かわなければいけない時も、私は神と共にあるということを信じることです。もちろん私どもは、心や魂において、この世界がどれだけ深い渇きの中にあるのか。そのことを忘れてはいけないでしょう。「私は渇いています」「誰か私に水をください」。そのような呻き、嘆きが今も世界に響き渡っているのではないでしょうか。「渇く!」それは肉体の奥底から、魂の奥底から発せられる言葉でもあります。

 ところで、このヨハネによる福音書は「対話の福音書」と呼ばれることがあります。それだけ、主イエスと人々との印象深い対話がいくつも記されているのです。主イエスが十字架の上で「渇く」と呻かれました。これは果たして、何を意味するのでしょうか。主イエスの独り十字架の上で呻いている、嘆いてるように思われるかもしれません。しかし、決して、主イエスの独り言ではないのです。「渇く」と呻きつつ、私どもと対話をしようとしておられるのです。「魂の奥底で呻いているあなたとわたしは話したい。」主イエスはそう願っておられます。

 同じヨハネによる福音書を見ると、その第4章に、まさにここで言われている「渇く」ということを巡って、主イエスが「サマリアの女」と呼ばれる女性と対話をなさったことがありました。その時、正午、真っ昼間の時間帯でした。旅をしておられた主イエスもその肉体に疲れと渇きを覚えておられました。井戸があるところに主は向かわれます。そこにサマリアの女性がいました。なぜか、この一番暑いお昼の時間に、井戸の水を汲みに来ていたのです。主イエスは、「水を飲ませてください」と女性に声を掛けました。そこからふたりの対話は、思わぬ方向に進んで行きます。サマリアの女性も渇きを覚えて生きていた人間でした。魂の渇き、愛の渇きを覚えていました。どうして、朝の涼しい時間帯ではなく、誰も外に出たがらないお昼の暑い時間に井戸に水を汲みに来なければいけなかったのでしょうか。それは人目を避けるためです。町の中で人から後ろ指さされるようにして生きていた。それがこの女性でした。彼女には後ろめたいことがありました。それは、今までに5人の男性と結婚しては、離婚を繰り返していたのということです。そして、今一緒にいる男性もまた、同棲しているだけで、結婚することがまだできていないのです。主イエスはここに彼女の深い問題があることを指摘なさいます。彼女は愛することに深い恐れを覚えていたのでしょう。それでもなお彼女は、誰かに愛されること、誰かを愛することに渇きを覚えていたのです。一度失敗した。けれども、「この人ならば…」「次はこの人ならば…」そう言って、5人もの男性と結婚、離婚を繰り返してきたのです。それでも、彼女の渇きは満たされません。しかし、主イエスはこのサマリアの女性と正面から向き合ってくださるのです。そして、対話がさらに思わぬ方向へ行くのです。「水を飲ませてください」という主イエスの言葉から始まって、最後は礼拝の話になるのです。なぜなら、彼女が抱えている魂の渇きが癒され、満たされるためには、礼拝においてでしか与えられないからです。

 そして主イエスは、彼女に向かってこうおっしゃいました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネによる福音書第4章13節,14節の御言葉です。サマリアの女だけではないでしょう。私どももまた飲んでは渇く水を飲み続けているのではないでしょうか。何を飲んでも魂の渇きが癒されることはないのです。「今度こそは大丈夫」「もうこれで大丈夫」。そう自分に言い聞かせながら、本当はいつまでも心の奥底にある渇きが癒されることはありません。しかし、主イエスは約束してくださいます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る!」私どもが必要としているいのちの水がここにあります。主イエスのもとにあるのです。けれども、その主イエスが十字架にかけられ、死んでおしまいになります。主は十字架の上で呻くようにおっしゃったのです。「渇く!」「わたしは渇く!」。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と約束してくださった主がどうして十字架の上で、心の底から「渇く」と口にしなければいけなかったのでしょうか。矛盾しているように思われるでしょうか。いや、私はここにとても深い意味が込められているように思えてなりません。

 主イエスは私どもをいつも招いておられるのです。「ここにいのちの水、いのちの泉がある!死を超えて神と共に生きることができる水がある。わたしから飲みなさい!」サマリアの女性に向けて語られた御言葉と同じ響きが、十字架の上で響いています。「渇く!」と呻きつつ、私どもを救いへと招いておられます。「あなたが渇きを覚える時、十字架のわたしのもとに来なさい!わたしの十字架の渇きを思い出しなさい!ここにあなたのいのちがある!あなたの救いがある!」しかし、私どもは主イエスの渇きを忘れてしまっているのです。十字架の上で主が魂の渇きを覚えるほどに苦しみを受けなければ、私どもの救いはないのだということを忘れてしまっているのです。もし主イエスの渇きを忘れてしまうとどうなるのでしょうか。私どもは、その渇きをずっと抱えたまま、うろうろとあちらこちら歩き回る他ないのです。あのサマリアの女のように、求めては捨て、求めては裏切られというふうに、いつまでも救いに至るいのちの水を飲むことはできないのです。目的地を目指した真っ直ぐな歩みではなく、さすらう者の歩みとなります。

 人は年齢を重ねて大人になったならば、あるいは、成功も失敗も多くの経験を重ねたならば、若い時におかした過ちや、どこかで醜いと思っていながらなかなか離れることができなかった欲望からも自由になることができる。まともな人間として生きられると思っていたところがあります。しかし、いくら歳を重ね、経験を重ね、知恵を蓄えても、醜い自分から自由になれない自分がいることにある時気付かされてゾッとすることがあるのです。むしろ、大人になればなるほど、自分の好きなように自由に生きられる。自分の願うように、自分の思うままに生きることができるようになる。そして、満たされて生きることができる。そんなふうに思ってしまうことがあります。けれども、それはすべて錯覚に過ぎないのです。いや、錯覚していることにも気付くことができない。それが罪の闇の深さというものではないでしょうか。これで満たされると信じながら、そこで起こっていることは、ますます、渇きを覚えてしまうということです。飲んでも飲んでも渇く水を飲み続け、あちこちうろうろしながら歩き続けているのです。そこに、まことの安らぎはありません。

 しかし、主イエスがサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言葉を掛けられたように、主は十字架の上で「渇く」という言葉を口にしながら、なお主は御自分のもとに私どもを招こうとしておられます。この招きを聞いて、十字架の主イエスのもとに行くこと。ここに救いの道が拓かれていきます。ただ洗礼を受けて、キリスト者になったとしても、肉体の渇きを覚えるということは正直いくらでもあります。体の渇きは、やがて心にも大きな影響を及ぼし、深く落ち込むこともあるでしょう。病む時がありますし、死の陰に怯えることがあります。悔いてはなお罪をおかす自分の愚かさに失望してしまうこともあるでしょう。しかし、私どもはそれらの弱さや不安、そして、罪に振り回される必要はないのです。なぜなら、主が約束してくださったからです。十字架の上で魂の渇きを味わってくださった主イエスの言葉が私どもを捕らえて離さないからです。私どもが神に見捨てられて死ぬことがないように、神を見失った孤独の中でもがき苦しむことがないように、主イエスは十字架の上で誰よりも深い、真実の渇きを味わわれました。その十字架の主が約束してくださいます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 28節の終わりには、短くこのようにありました。「こうして、聖書の言葉が実現した。」十字架上の主イエスの渇きは、御言葉がまっとうされたからだというのです。御言葉にあらわされている神様の御計画、御心が成就したからだというのです。だから、父なる神様は主イエスを渇きの中に、つまり、十字架の上に立たせられたのです。「こうして、聖書の言葉が実現した」とありますが、この場合の「聖書」というのは、今で言う「旧約聖書」のことです。では、具体的に旧約聖書のどの御言葉を指すのでしょうか。

 いくつかの御言葉をあげることができますが、全部紹介する時間はできませんが、その一つは詩編第22編の御言葉です。その2節、3節にこうあります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。」そして、16節にこうあります。「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。」主イエスは十字架の上で、これとまったく同じ言葉を神に向かって叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46,マルコ15:34)。マタイとルカに記されている十字架上の主イエスの言葉です。ヨハネはこの言葉を記しませんが、明らかに詩編第22編の御言葉を強く意識しています。その上で、ヨハネはむしろ「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」という言葉に心を向けました。主イエスは、神から見捨てられ、塵と滅びの死の中に打ち捨てられたのです。この呻きが「渇く」という言葉です。神に見捨てられる死というものがどれほど恐ろしい死であるのか。神が共におられない死というのがどれほど孤独でどれほど虚しい者であるか。救いようもない滅びとしての死が、どれだけ厳しい死であるのか。私ども人間はその本当の厳しさを知りません。しかし、主イエスは罪人を代表し、しかも、まさにまことの罪人として、十字架の死を死なれたのです。

 「こうして、聖書の言葉が実現した」と言う時、もう一つ思い起こす御言葉は、先立って朗読していただきました詩編42編の御言葉です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/『お前の神はどこにいる』と。」(詩編42:2-4)詩人は自分を鹿に譬えています。鹿が涸れ谷でいのちの水を求めるように、私はいのちの神を慕い求めるというのです。ここにはいのちに関わる深い呻きがあります。どうしてでしょうか。今、神の御顔が見えていないからです。神の存在が見えなくなるほどの試練の中に立たされているのです。おそらく詩人は捕囚の只中にあったのでしょう。バビロンとの戦いで国は滅び、信仰の拠り所であったエルサレム神殿も粉々に破壊されてしまいました。異教の地に連れて行かれ、敵からは、「お前の神はどこにいるのか。お前の神はお前たちを助けに来ないではないか」と嘲笑われているのです。しかし、詩人は渇き果てそうな魂を注ぎ出すようにして言うのです。「私は鹿が枯れた谷で水を求めるように、神よ、あなたを慕い求めます。」

 主イエスもまた十字架の上で、「お前の神はどこにいるのだ。神はお前を助けに来ないではないか。自分は救い主だと言いながら、渇きを覚えているではないか。」そのように、人々から罵られたのです。そのなかで主は、十字架の上で魂を注ぎ出すように、「わたしは渇く」とおっしゃいました。ヨハネによる福音書第19章29節に記されていた「酸いぶどう酒」というのは、鎮痛剤とも言われますが、ここで人々はイエスの苦しみをやわらげてあげようなどとは思っていません。「それほど喉が渇くのだったら、この酸っぱいぶどう酒でも口にしたらどうだ」という、いわば屈辱を与えるものです。しかし、主イエスはその酸いぶどう酒をそのまま受けられました。神を神とも思わない人間の罪を、そのまま十字架ですべて御自分のこととして受け入れられたのです。なぜなら、この十字架にこそ、聖書の言葉の実現であり、ここに神の御心があるからです。その神様の思いを、一滴の残らず飲み干したいと思われました。だからこそ、杯が空になるのです。つまり、渇くということが起ったのです。

 神の御心をすべて飲み干すほどに、そして、魂の深い渇きを覚えられるほどに、主イエスはひたすら神の御意志に従われました。その神様の思いというのは、愛の御心であり、愛の御意志です。30節の「成し遂げられた」という言葉は、「目的」「終わり」を意味する言葉です。28節にも、同じ「成し遂げられた」という言葉が出てきます。主イエスの十字架の死というのは、やるべきことを最後まで果たすことができないまま、息を引き取られたということではありません。主の十字架は、すべてを成し遂げたという、いわば、神様のご栄光をあらわすものであり、神の愛の勝利を意味するものです。神様は私どもが滅びることなく、永遠の命を得ることできるように、そのために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。神様は私どもが抱える渇きの中に踏み込んで来てくださったのです。そして、主イエスは誰かから強いられるわけでもなく、ただ神の御意志に従い、私たちをこの上なく愛し抜いてくださいました。御自分を低くし、御自分が無にして、空っぽにして、渇き切るほどまでに、神様の愛を十字架の上から注いでくださいました。だから、私どもを招いてくださる十字架の主イエスのもとで、「渇く」という言葉を聞くことができたならば、私どもは救われます。私どもの渇きが癒され、永遠の命に至る水がわき出るのです。

 私を救う「渇く」という十字架の主の言葉が、今もこの世界において響いています。だからこそ、私どもが肉体や魂において「渇く」と声を上げたくなるような苦しい時にも、主イエスは確かに私の声を聞いてくださる。そのこと信じることができるのです。この私の渇きの中にも、神様は共にいてくださることを信じる信仰を与えられるのです。「渇く」という言葉をとおして、私どもは主イエスと対話することができます。そこに主イエスとの真実の出会いが与えられていきます。

 ところで、私どもを救いに導くこの「渇く」という十字架上の主イエスの言葉ですが、実はその前にヨハネはもう一つ十字架の上で語られた主の言葉を受けて語られたものであるということを、最後に覚えたいと思います。28節に、「この後、イエスは」とありますが、この後とはどの後のことを指すのでしょうか。ページを一つ前にめくっていただきますと、25節以下にこのようにあります。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」主イエスは十字架の上で、愛する母マリアと愛する弟子を見つめておられます。母マリアに対して愛弟子を指しながら、「これがあなたの子です」とおっしゃり、愛弟子に対しては母マリアを指して「これがあなたの母です」とおっしゃいます。お互い血の繋がりはありませんが、主は血の繋がりを超えた一つの家族を十字架のもとでお造りになりました。ここに教会の姿の原点があると言うことができます。神の家族である教会は、キリストの十字架のもとで形づくられていきます。聖書の言葉が実現し、神様の愛の御意志がキリストの十字架をとおして成し遂げられるということは、そこに、教会が建てられることをも意味するのです。

 主イエス御自身が、十字架の死について「産みの苦しみ」と表現なさったように、十字架での苦しみ、また、深い渇きを覚えられることによって、そこに新たないのちが産み出されました。それゆえに、十字架の苦しみというのは、ただ苦しんで終わるものではなく、喜びに変わる苦しみです。それが神の家族である教会の誕生です。イエス・キリストは、父なる神の御意志に従い、神の家である教会をお造りなり、その救いの御業を完成されました。キリストの教会がこの地に建てられた目的は、もちろん、この私の魂の渇きが癒されるためでもありますが、それだけではないと思います。渇きを覚えるというのは、自分だけの問題ではありません。教会の兄弟姉妹が抱える渇きというものにも、絶えず敏感でありたいものです。その兄弟姉妹と共に呻きつつ、十字架の主の前で「渇く」という言葉を聞くことをとおして、主イエスとの交わりの中に立ち続けるのです。さらに、渇くということは、自分や教会のことに留まらず、共に生きる家族や隣人のことを覚える時、またこの世界に起こっている出来事に目を留める時に生じる思いではないでしょうか。私のための十字架であると共に、神が御子をお遣わしになったこの世のための十字架でもあります。この世のためにお語りになった「渇く」という言葉を心に刻みながら、私どもは教会を建て上げていく働きに召されています。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」この主イエスの言葉が、そのまま、この私のような者にも、そして、あなたの中にも本当に起こるのです!今も復活の主は生きておられます!この確信に堅く立ち、十字架の言葉を語り続けます。

 今から私どもは聖餐の恵みにあずかります。その招きの言葉の中で、いつも主イエスの言葉を聞いています。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」同じヨハネによる福音書第6章35節の御言葉です。続けて主はおっしゃるのです。「わたしのところに来る者を決して追い出すことはない」と。主イエスが注いでくださる十字架の愛を覆し、奪い去ることができるものは、この世のどこにも存在しません。あなたもこの十字架の主のもとに招かれています。「この主の招きに、あなたも応えてほしい。あなたもまたこの喜びのパンと杯をわたしと共に、兄弟姉妹と共にあずかろう!」十字架に死に、お甦りなった主は今も、私どもに語り掛けておられるのです。お祈りをいたします。

 主よ、あなたは十字架の上で、私どもの渇きを癒すためにすべてを与えてくださいました。求めては癒されることのない歩みではなく、ただ十字架の前にぬかずき、ひたすら主の言葉に聞き、従う者として、私どもを日々新たに造り変えてください。キリスト者一人一人が、十字架の言葉に生かされ、涸れることのないいのちの水をこの世の人々に分け与えていくことを喜びとすることができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。