2022年03月27日「命を選べ」

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命を選べ

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
申命記 30章15節~20節

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聖書の言葉

15見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。16わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。17もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、18わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。19わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、20あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。申命記 30章15節~20節

メッセージ

 3月も終わりに近づき、今週から新しい月が始まります。4月は多くの人々にとって、新しい出発の時、大きな節目の時となるのではないでしょうか。次週は教会学校の進級式が行われます。今年は進学する子どもたちや若い人たちが多い年となりました。それぞれの歩みが、主にあって豊かに祝福されますようにと、心からお祈りいたします。本人やその御家族にとって、新しい出発の時は、とても大きな喜びの時です。子どもたちは、成長と可能性をいくらでも秘めていると言えるかもしれません。それだけに親や周りの大人たちは多くの期待を寄せることでしょう。

 ただ一方で、新しい場所に入って行くというのは、同時に不安や緊張を伴うものです。つまずいたらどうしよう、思いどおり行かなかったどうしよう。考えれば考えるほど、不安は尽きないかもしれません。だからこそ、新しい歩みを神様にお委ねする他ないのではないでしょうか。これからの新しい歩みが、いや、私どもの人生そのものが、いつも神様に信頼した歩みとなり、神様と共にある歩みとなるように。そのように祈り願わずにはおれません。私が千里山教会に赴任してから、特にこの季節は、「新しい出発」ということを主題に掲げて、共に御言葉に聞いています。子どもたちや若い人たちにも、教会学校の礼拝や子ども説教に続けて御言葉に聞いていただきたいという思いを込めつつ、今朝、共に耳を傾けている御言葉は旧約聖書・申命記に記されている御言葉です。

 「申命記」という書物は、エジプトの奴隷からイスラエルの民を導き出したモーセという人物が、これまでの歩みを振り返りつつ、もう一度、神様のものとされた私たちがどう生きるべきか。そのことが語られている御言葉です。イスラエルの民をこれまで導いてきたモーセですが、実は約束の地に入る前に死んでしまいます。そういう意味で、申命記は「モーセの遺言」「告別の言葉」とも言われます。また、「申命記」というのは、ヘブライ語で「言葉」という意味ですが、2千年数百年前、旧約聖書が世界で広く読まれるためにギリシア語に訳された「七十人訳聖書」では、「第二の律法」と訳すことができます。また、申命記の「申」という漢字は、「再び語られる」という意味があります。「もう一度」「再び」神の言葉に聞くということです。このことに強調点が置かれています。そのように言われるようになった背景には、神の民イスラエルがこれまでどのような歩みを重ねてきたかこということと深い関わりがあるのです。彼らはエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かり、荒れ野の旅を40年間続けました。その40年に思いが向けられていきます。イスラエルの民は、救いの恵みにあずかりながら、その恩恵を忘れるかのように、不平や不満を神様に対して、またモーセに対して口にしました。神の約束を信じることができず、「こんな旅を続けるくらいならば、エジプトの奴隷をとして生きていたほうがましだった」とさえ言ったのです。救いの恵みにあずかりながらも、絶えずつぶやき、絶えず迷い、絶えず過ちを重ねてきたイスラエルの民ですが、それにも関わらず、神様は彼らの必要を満たし、ここまで歩みを導いてこられました。

 そして、今、モーセをはじめ、イスラエルの民は約束の地であるカナンを目の前にしています。目の前にあるヨルダン川を渡れば、そこはもう約束の地が広がっているのです。過去において過ちを重ねてきた自分たちが、これから入って行く新しい場所で、どのように生きていくのか。そのことがここで改めて問われているのです。私どもの歩みを振り返る時、この季節も大きな節目であることに変わりありませんが、それだけではなく、様々な機会において、人生の節目を覚え、これまで足を踏み入れたことのない新しい場所に入って行かなければいけない。そのようなことがあると思います。子どもや若者に限らず、すべての人の人生において深く関わってくる出来事です。

 そして、新しい場所に自分の身を置くということは、進学や就職というふうに何らかの理由が必ず伴うものです。また、ヨルダン川の前に立っていたイスラエルの民のように、私どもが今いる場所と新しい場所との境界線に立ちながら、そこで様々なことを思い巡らせます。イスラエルの民にとって重要だったことは、もう一度、神様の前でやり直したいという思いでした。過去のようにもう過ちをおかすことなく、信仰の姿勢を整えて、新しい歩みを始めたいということです。私どももまた、境界線に立ち、新しい場所を前にして、そのような一種の「後悔」に近い感情を抱くということもあるでありましょう。「罪」ということについて心鈍い私どもですが、それでも、自分の愚かさや弱さを知っています。どうしてあの時、上手くいかなったのだろうかという後悔の念に捕らわれることがあります。しかし、それでも、私どもは「新しく生きたい」と願うのではないでしょうか。実際は、深い絶望の中で座り込んだままであるかもしれません。けれども、もう一度、やり直したい。もう一度、歩み直したい。そのように願うのではないかと思うのです。そして、神様というお方は、私どもにいつも新しい道を、いつも新しい出発の機会を備えていてくださるということです。そこで、神様は私どもに御言葉をとおして語り掛けておられます。問い掛けておられると言ってもいいでしょう。「あなたはどうするのか?」「あなたはどちらを選ぶのか?」

 この申命記第30章は、さらに大きな区分で分けますと、少し前の第28章69節から新しい段落が始まっていることが分かります。そこに「モアブで結ばれた契約」と小見出しがありますように、ヨルダン川を前にしたモアブの地で再び、神様がイスラエルの民と契約を結んでくださったのです。そこに、「ホレブと…結ばれた契約とは別に」とありますように、彼らはかつてホレブの山で、ホレブというのはシナイ山と呼ばれることもありますが、その山で契約を結びました。モーセが授かりました、「十戒」と呼ばれるものです。今回はそれとは別のものです。ただまったく内容が違うかというとそうではありません。モアブで結ばれた契約というのは、ホレブで与えられた契約を改めて確認するためのものでした。契約が再更新されたものと言ってもよいでしょう。そして、神様はイスラエルの民に対して、念を押すように語ります。「あなたがたはこの契約を前にして、どのように生きるのか。」「その信仰の姿勢、信仰の態度を明らかにしてほしいのだ。」既にホレブの山で与えられた十戒という神様との契約、また神様の恵みに応えて歩むところに、さらなる祝福が与えられていきます。そのことをもう一度、神様はイスラエルの民に確認しておられるのです。

 イスラエルの民は、この時、ヨルダン川の東に位置するモアブというところに立っています。40年もの荒れ野の旅を終え、いよいよ約束の地に入ろうとしています。そこには甘い乳と蜜が流れる豊かな地です。自由と希望に満ち溢れた場所です。モアブという一つの境界線に立ちながら、後ろを振り返ると、そこには荒れ野の40年がありました。先程も申しましたように、神様に誇ることができるような歩みではありません。神様の御手と力によって、エジプトの奴隷から解放され、長きにわたる旅路を導かれながらも、神様に不平を漏らし、過ちを重ねてきたのです。そのような彼らですが、今、目の前には希望と将来の道が拓かれているのです。

 どうしてでしょうか。なぜ約束の地に彼らは入ることができるのでしょうか。イスラエルの民が神様の約束を忠実に守ったからではありません。民の心は頑なで、不平とつぶやきに満ちています。しかし、神様が彼らと結んでくださった契約を守り、彼らを約束の地に導き入れてくださるのです。そこにまことのいのちが与えられ、幸いな人生が与えられていきます。それゆえに、彼らが今とるべき心の姿勢、態度とはどうあるべきなのかということが問われています。彼らの足が約束の地に立っていても、心がその地に相応しくなければ「約束の地に入った」とは言えないからです。過去と将来という狭間に、今、立ちながら、神様は求めておられます。私どもにも同じように求めておられるのです。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」「わたしは今日、…生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」さあ、あなたはどちらを選ぶのか?

 信仰というのは、まさに決断することの連続です。しかも、申命記が強調することは、「今日」決断しなさい。「今」決断しなさいということです。申命記には、実に70回以上も「今日」という言葉が用いられています。数ヶ月後、一年後、すべての準備が整ったら、私のほうで選ばさせていただきますというのではないのです。「今日」決断することが絶えず求められているということです。今日の決断によって、常に新たな今日という日が与えられていきます。また、私どもの生き方を決断する「今日」という日は、人生の大きな節目の時に限った話ではありません。神様が私どもに与えてくださっている一日一日において、「今日」決断するということが求められていきます。申命記が語ります「今日」というのは、昔のイスラエルの時代を指すだけではなく、どの時代においても、どこに生きている人においても当てはまることです。申命記の御言葉をはじめ、聖書をとおして語られる神の言葉に耳を傾ける時、そこに現実となっている今日という日を生きるのです。そこに命があります。それこそが、命そのものであり、祝福なのです。

 本日お読みした申命記においては、このように言われています。神様は、「今日」、命と幸い、死と災いを私どもの前に置いておられます。また、「今日」という日は、神様が「わたしのことを愛し、わたしの掟を守るように」と命じられる日です。そして、この主の言葉に聞き従うならば、そこに豊かな祝福が与えられていきます。そこにまことの命があるのです。しかし、従わないならば、あなたがたは滅びると主は宣言されます。ですから、今日という日は決して軽いものではありません。単調な日常の繰り返しではないのです。大袈裟でも何でもなく、命か死か、幸いか災いか、祝福か呪いか、それらのことが私どもの前に置かれているのです。そして、私どもは自分の意志でそれらどちらかを選びとらなければいけません。

 信仰というのは、先程、「契約」ということについて少しお話しましたように、私たちが神様に対して忠実であるかということよりも、神様が如何に私どもに対して誠実であられるか、真実であられるか。ここにすべてが掛かっているのです。救いというのは、私どもがどうこうできる事柄ではありません。神様の真実にすべてかかっています。私どもはそれを受け入れるだけです。信じるだけです。しかし、誤解を恐れずに申しますならば、信仰生活というのは、あなた自身が神様の前でどう決断し、どう生きるか。このことに信仰が掛かっている。救いが掛かっているということです。そのような意味で、神様があなたの決断にお委ねしているということが実はあるのです。

 もちろん、神様の願いというのは、はっきりしています。「どちらでもいいから好きなほうを選べ」というような投げやりなものではありません。命と幸い、そして祝福の道を、ちゃんと私どもに選びとってほしいということです。反対に死や災い、そして、呪いを選ぶということは、神様の恵みの外に出て行ってしまうことです。そこに自分の身を置くことです。その結果として、呪われる者となります。神様の裁き、罰というよりも、自ら死と呪いの道を選んだのですから、当然の結果だと言わなければいけません。約束の地の境界線に当たるヨルダン川の前に立つイスラエルの民は決断を迫られています。私どもも絶えず、様々な境界線を前にして立っています。新しく始まる歩みを前にして、今日、どう生きるかという決断が神様から求められています。そして、神様は私どもがどの道を選んだらよいのかということについて、強要するようなことはいたしません。命と祝福の道を選んでほしいということに変わりはないのですけれども、選ぶ自由が私どもに与えられています。それは私どもが心から喜んで、神に従う者として生きてほしいからです。

 命と死、幸いと災い、祝福と呪いどちらを選ぶべきかは誰の目にも明らかなはずです。神様を信じている、信じていないにかかわらず、命を選び、幸いを選び、祝福を選ぶというのは分かり切った話ではないでしょうか。まして、神を信じている者は、神がどのようなお方であり、神の御心がどのような思いであるかを知っているはずです。自分たちのこれまでの歩みを振り返りつつ、そこにあった罪を赦し、ついにここまで導いてくださった神様の恵みをよく知っているはずです。

 しかしながら、人は何を選んで、ここまで生きてきたのでしょうか。この事実を私どもはしっかり見つめなければいけません。申命記に記されている内容自体は、紀元前1300年頃の出来事です。ただ、この申命記が編集され、実際人々に読まれるようになったのは、記されている掟の内容などから紀元前7世紀後半頃だったのではないかと今では考えられています。その前に、イスラエルの民はとても大きな経験をしました。それはイスラエルの民にとって、最も暗黒な時代と言ってもいいでしょう。神の都であるエルサレムは、敵国バビロンとの戦いに破れ、神の臨在を示す神殿を失い、また町も家もすべて失ったのです。おもだった人々は、バビロンに連れて行かれ、捕囚の民となりました。捕囚から解放され、再びエルサレムに戻るまで70年もかかったのです。敵の国、敵が信じる偶像の神々が礼拝されている環境の中で70年の裁きの時を過ごさなければいけませんでした。神の民イスラエルにとって、最大の屈辱でした。なかには、もうバビロンの生活に慣れてしまい、神を呼び求めようとする者さえも段々と少なくなっていきました。なぜこのような悲惨を神の民が味わわなければいけなかったのか。それは、彼らが命ではなく死を選んだからです。祝福ではなく呪いを選んだからです。その先に捕囚の出来事がありました。この捕囚の出来事を経験し、知っている者たちが最終的にこの申命記をまとめたのではないかと言われています。

 申命記を読みますと、所々に、捕囚時代の出来事を匂わす言葉が散りばめられていることに気付かされます。お読みしませんでしたが、第30章1節〜10節を見ますと、例えば、1節には「主によって追いやられたすべての国々で」という言葉があります。つまり、死と呪いの道を選んだイスラエルの民に対して、神が彼らを故郷から追いやって、バビロンに連れて行かれたということです。しかし、2節以降に記されているように、その場所で、「心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、神様は「あなたの運命を回復し、…主が追い散らされたすべての民の中から再び集め…かつてのあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れる」という約束が語られます。捕囚から解放され、エルサレムに帰ることができるという約束です。そして、何度も「立ち帰る」ということが言われています。神様のところに帰って行きなさい。悔い改めなさいということです。今、置かれているところで、今日、命を選びなさい。今日、神に従いなさいということです。当時の人々は、この申命記の言葉を聞きならが、これは昔のモーセの時代の話に過ぎないなどとは思わなかったはずです。身に染みるような思いで、御言葉を聞き、今日こそ、命を選ばなければいけないという信仰の決断を新たにしたことでしょう。

 イスラエルは捕囚の出来事をとおして、絶望とどん底を経験しました。神の民として本来あるべき姿からかけ離れた姿を見て惨めさと恥を覚えました。しかし、イスラエルが約束の地から追い出され、恥のどん底にある時にも、神様は御言葉を語ってくださいます。私どもも幾度、死を選んでしまったことでありましょうか。その度に私どもは恥と挫折を味わわなければいけなかったのです。それにしてもなぜ人は、死と災いと呪いを選んでしまうのでしょう。それは、私どもの目に魅力的に見えるからだと思います。魅力的な仕方で、私どもの心を誘惑してくるのです。創世記第3章の堕落物語を見れば分かるのですが、そこではサタンに扮した蛇がエバを誘惑します。神様から「食べてはいけない」と言われていた木の実が、エバの目に美味しそうに見え、これを口にしたら「神のようになれる」というサタンの言葉に心奪われたのです。アダムもまた、エバの言葉をそのまま受け入れてしました。そのような仕方で、罪の力というのは今も魅力的な仕方で、絶えず私どもを誘惑してくるのです。だから、命が何であり、死が何であるのかということが分からず、その両者の違いも人の目には曖昧に見えてしまうのです。むしろ死や呪いといった道のほうが、自分に好ましく見えるのです。信仰に生きる者たちも、命と死の選択を前にして、死を選んでしまいました。神様の前に悔いては、また罪を重ねてしまう愚かな者です。

 しかし、私どもの神でいてくださるお方は、神の恵みを知りながら、自ら死の道を選び、絶望の淵をさまよう私どもを、決して見捨てることはいたしませんでした。それが、イエス・キリストの十字架のゆえに罪を赦してくださることであり、もう一度、救いの喜びを味わわせてくださるということです。そして、罪赦され、救いの喜びの中に生きるということは、本日の申命記の御言葉にありましたように、再び、私どもを約束の前に地に立たせてくださるということでもあります。そこでもう一度、御言葉を聞かせてくださり、主の十字架のゆえに、神様のところに戻ることができた幸いを覚えるのです。そして、死や呪いではなく、命と幸い、そして、祝福を選びとって生き始めるのです。神様は、主にあるまことのいのちを、今日も私どもに差し出しておられます。その命と祝福を私どもは感謝して受け取り、神に従います。

 本日の箇所では、私どもがどちらを選ぶかということに焦点が置かれていますが、そこで忘れてはいけない大事なことは、私どもが何を選ぶかということに先立って、まず神様が私どもを選んでくださるという恵みの事実があるということです。申命記には次のような御言葉があります。第7章6〜7節の御言葉です(旧約292頁)。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」私どもが神様を信じ、命の道を選ぶ前に、実は神様があなたのことを先に選んでいてくださったということです。「あなたがたはわたしの宝」というふうにも言われています。それは私どもが、「宝」に見合うような美しさや聖さを持っていたからではありません。むしろ、どの民よりも貧弱であった、みすぼらしかったからだというのです。つまり、どの民よりも罪深かったということです。しかし、それゆえに神様は私どもを選んでくださいました。私どもを愛し、「どうしても、あなたがたを死と災いと呪いから救い出したい」と願われたからです。

 主イエスも弟子たちにこうおっしゃいました。朗読していただいたヨハネによる福音書の御言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)

また主は、「わたしはぶどうの木」とおっしゃり、わたしにつながるように、わたしから離れないようにと命じられました。命を選ぶというのは、キリストにつながり、キリストのもとに留まり続けることです。そこに豊かな実り、つまり、祝福が与えられていきます。

 そして「選ぶ」というのは、選んだその人たちに対して責任が生じるということでもあります。選んだ者たちのために、危険さえ引き受けます。選んだ者たちのために、自ら痛みを負い、傷付くことさえもいとわないのです。だから、私どもが罪をおかしても、「わたしはあなたを選んだ覚えはない」などとはおっしゃいません。最後まで、神様は御自分の宝である私どもに対して、真実と愛を貫いてくださいます。その先に、主イエスの十字架が立ちました。主は十字架で、私どもの罪を背負い、私どもが受けるべき死を、神からの呪いをすべて受け尽くしてくださいました。ここに救いがあり、祝福があります。

 御子イエス・キリストをお与えくださったほどに、私どもを愛していてくださる神様は、今も私どもに、「選ぶ自由」というものを与えてくださいます。私どもの前に、今も、命と死、幸いと災い、祝福と呪いを置いておられます。神様の願いは、救いの恵みに真摯に応え、心と魂を尽くして神を愛する道、つまり、命の道を選んでほしいということです。そして、命の道を選ぶこと、主を愛し、主に従うことは決して難しいことではないとおっしゃるのです。主に従うことは楽なことではないかもしれませんが、絶対できない不可能な道ではありません。本日の聖書箇所の少し前、第30章11節、また14節でこのように言われています。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」御言葉に生きることは難しいことでも、手の届かない遥か遠いところにある生き方でもないのです。あなたのごく近くにある。あなたの口と心にある。だから、あなたは命の道をちゃんと選ぶことができる。神様はそのように私どもを説得し、励ましを与えてくださいます。

 神様ははっきりと御自分の願いを持ちながら、しかし、強要することなく、あくまでも私どもに自由に与えてくださいます。このことは私どもに対して、無責任ということではありません。私どものことを本当に愛し、私どものことを心から信じておられるからこそ自由を与えてくださるのです。ある説教者は、「人間を本当に信じることができるのは神様だけだ」と言いました。自分を信じ切ることも、他人を心から信じることも私どもには不可能です。自分を含め、信じるに値しないものをいくらでも抱えているのが人間だからです。でも神様はそれでもあなたを信じておられます。あなたの選択に、すべてを委ねておられると言ってもいいのです。そのために必要なすべてのものを神様は既に用意していてくださいます。私どもを罪と死から救い出してくださった神様が、私どもに再び問うておられるのです。あなたは、今日、どちらを選ぶのか?命か?それとも死か?

 人生の旅路において、私どもはヨルダン川の東側に立たされる瞬間があります。約束の地の前に、境界線の前に立ち戻される時が幾度もあるのです。進学や就職、結婚といった大きな節目の時だけではありません。本当のことを申しますと、今日という日が、まさに約束の地の前に立っているその時なのです。そして、主の日だけではなく、毎日の歩みが選ぶことの連続です。日々、私どもは境界線の前に、選択の前に立ち続けるのです。それは、私どもの信仰が弱いからこそ、毎日、命の道を選びとらなければいけないという面もあるでしょう。そのようにして、私どもはキリスト者として日々成長へと導かれていくのです。

 「選ぶ」ということをさらに具体的に申しますと、それは私どもが日曜日だけでなく、毎日、神様の掟と戒めを聞き、それを守りながら生きるということです。主の御声に耳を傾け、祈るところから、今日という一日を始めるということです。そのような積み重ねによって、御言葉が私の近くにあるということ。本当に私の口と心に御言葉があるということ。このことを心から実感し、喜んで歩むことができるようになります。御言葉をとおして聞こえてくる神様の愛と選びによって、私のこの日が支えられる。今日もキリストに結ばれて生かされている。そこに必ず祝福が与えられる。そのことを信じて、神様から与えられた宝のような尊い一日を、今日という命を生きるのです。御言葉をとおして、命とは何か。死とは何か。祝福とは呪いとは何であるのか。これらのことを正しい仕方で学び、身に着けていくのです。そのような歩みが、大人の方だけでなく、子どもたちにとっても、若い方たちにとっても、決定的な意味を持つのです。

 それぞれの家庭においても、教会学校においても、当然親や教師たちは、子どもたちが救いの恵みを確信して歩んでいってほしいと願います。それは、例えば、信仰告白や洗礼の恵みにあずかるということはもちろんですが、今朝の申命記の御言葉から教えられますのは、子どもたち一人一人が神様の前で、「今日、私はどう生きるべきなのか」「今日、私は何を選ぶべきなのか」。その道を、親や他人が強要するのではなく、その子がちゃんと自分で選びとることができるように助け導いてあげるとことではないかと思います。ある時は、一人で約束の地の前に立ち、ある時は家族と共に、ある時は教会の仲間と共に立つこともあるでしょう。しかし、私どもの選びに先立って存在する神の選びが、私どもの歩みを支えてくれます。その恵みを忘れずに、御言葉に聞き、祈りつつ今日という日を生きるのです。

 そして、年齢にかかわらず、私どもの地上の旅路は、必ず終わる時が来ます。死ぬ時が来るのです。まさに生と死の間をさまよう時が来るのです。また、モーセが約束の地を前にして死んだように、こころざし半ばで死を迎えるということもあるかもしれません。あるいは、もうあと一歩のところで、手が届かず、別の道を仕方なしに歩まなければいけないということも、私どもの歩みの中には起こり得ることだと思うのです。しかし、神様のものとされた私どもの歩みにおいて、ただ神様の御心だけが貫かれます。死という出来事においても同じです。自分の意志で何もできなくなるほどに心身ともに弱り果て、衰えるということがあったとしても、神様が憐れみによって、この私を選んでくださった。その信仰の事実が、死を前にした私たちを確かな命へと導くのです。だから安心して、命の源である神様にすべてをお委ねすることができるのです。神様は、今日も、御言葉を語ってくださいます。「わたしは今日、あなたの前に命と死を置く。あなたは命を選びなさい。そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。」お祈りをいたします。

 新しい季節、新しい週の歩みが始まります。一日一日の歩みが、復活の主の命によって支えらえていることを覚え感謝いたします。また、あなたは私どもに自由を与えてくださり、生きる道を自分で選ぶことさえもよしとしてくださいました。それほどに、あなたは私どもを信じ、愛していてくださいます。それゆえに、御言葉に耳を傾け、私どももあなたを愛し、あなたに従う道を選びとることができますように。御言葉をとおして、あなたの命に生きる幸いをこれからも学び続けることができるようにしてください。新しい歩みを始めるにあたり、様々な不安が生じるかもしれません。しかし、命の道を選びとる日々の歩みの中で、それらの問題とも真剣に向き合い、また良き解決の道をもあなたが備えてくださいますように。どうか私どもを主にあって、豊かに祝福してください。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。