2022年03月13日「今、ここにキリストが」

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今、ここにキリストが

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章15節~20節

音声ファイル

聖書の言葉

15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイによる福音書 18章15節~20節

メッセージ

 キリスト者として生きている私どもの歩みが、より確かなものとされるために、何が必要なのでしょうか。「このことさえはっきり分かっていれば大丈夫」と言えるものとはいったい何なのでしょうか。私が学生や青年だった時、修養会などで共に集まる仲間たちとよくこのような話をしました。それは、自分が救われているということの喜びの実感です。修養会には、子どもの頃から教会生活をしている者たちも多く参加していました。聖書の話も、なぜ主イエスが十字架にかかって死んでくださったかもよく知っているのです。自分が罪人であるということも、そのとおりだと思っているのです。信仰について色んなことを知っているし、信じてもいるのですが、どうも実感が沸かないのです。劇的に回心した使徒パウロのように、キリストを信じたからといって、自分の人生は果たして大きく変わったのだろうか。表面的には何も変わっていないように見えてしまうのです。しかし、せっかく神様に救っていただいたのだから、喜んで生きていきたい。そのことを真剣に願いつつ、けれども、福音の喜びに生き抜くことができないことに深い悩みを覚えているのです。このことは、若者だけの問題ではありません。大人になって洗礼を受けた人たちもまた同じように悩むことがあるのではないでしょうか。

 自分は救いの喜びの中を生きているという実感、リアリティーというものは、とても大切なことです。信仰というのは頭で考え、理解すればそれでいいというものではないからです。キリストによって体も魂も救っていただき、すべてがキリストのものとされた私どもの生活もまた、喜びに溢れた生活になります。しかし、そこに心からの喜びが伴わなければ、「自分は果たして救われているのだろうか」と疑ってしまうのも無理はありません。どうしたら喜ぶことができるのでしょうか。一所懸命祈ることでしょうか。あるいは、聖書を読み、礼拝をささげ、教会の奉仕を頑張ることでしょうか。もちろんそれらのことも大切です。しかし、そこで覚えなければいけないことは、今も復活の主イエスがこの私と共にいてくださるという事実です。自分の心の浮き沈みの話ではなくて、私に何が起ころうとも主イエスは私と共にいてくださるという事実、リアリティーをいつも持って歩むことができているかどうかということです。そのことが私どもの信仰生活を確かなもの、喜びに満ちたものへと変えていくのです。

 そのようなことを考える時、本日お読みした御言葉の中に、次のような主イエスの言葉がありました。マタイによる福音書第18章20節です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエスの約束の言葉、真実の言葉です。それゆに、多くの人々が深い慰めと励ましを受けてきました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」というのは、「教会」のことです。洗礼を受けてキリスト者になるというのは、教会員の仲間入りをするということでもあります。それは、信仰生活を一人でするには心細いからという理由だけではありません。もちろん、たくさんの信仰の仲間が与えられることは大きな恵みに変わりありませんが、そもそも教会というのは、一人ではなく、兄弟姉妹と共に建て上げていくのです。しかし、教会に二人であろうが、三人であろうが、あるいは何十人、何百人集まっていても、悲しみや寂しさを覚えることはいくらでもあるのではないでしょうか。たくさん人が集まったら、目の前の大きな問題や苦しみがすべて取り除かれるという話ではないのです。

 そういうところで主イエスは約束してくださいます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」大切なのは教会の交わりの中に、今も生きておられる主イエスがいてくださるということです。主は「わたしもその中にいる」とおっしゃいましたけれども、「その中」というのは、もう少し丁寧に申しますと「真ん中に」ということです。主イエスは私ども教会の交わりの真ん中にいてくださいます。たとえ、二人であっても三人であっても、交わりの中心に主イエスがいてくださいます。「わたしがここにいる」と主イエスは、この礼拝においても約束してくださるのです。

 私どもは信仰の歩みにおいて、時に孤独を覚えることがあります。教会に集まる人数が少なくて寂しさを覚えることがあります。色んな集会を企画し、準備するのだけれどもなかなか人が集まってくれないことがあります。そこでとても悲しい思いをし、空しさを覚えることもあるでしょう。しかし主は、「わたしがあなたがたの交わりの中にいる!」「だから空しくはない!」と約束してくださいます。挫けそうになる私どもの心を励まし、強くしてくれるよう主イエスの言葉ではないかと思います。それだけに、いったい主イエスはこの御言葉をどのような文脈の中でお語りになったのかを、いつも忘れてはいけないのではないでしょうか。

 例えば、すぐ前の19節ではこうありました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」これは明らかに「祈り」について言及している言葉です。教会における祈りの交わりの中に、主がいてくださるということです。二人、三人が集まって、心を一つにして祈りをささげるのです。心を一つにして祈る時、共におられる主の恵みを覚えることができるというのです。では、私どもが何にもまして、心を一つにして祈らなければいけないこととは何なのでしょうか。「心を一つにして」というのは、英語の「シンフォニー」という言葉の語源になった言葉です。地上において、同じ響きを立てながら共に祈るのです。オーケストラのように様々な楽器の音色が奏でられながら、一つの美しい音楽を奏でるように、教会もまた色んな人、色んな賜物を与えられた者たちが集まっています。祈るべき課題も多くあります。しかし、そこで同じ響きを立てながら、天の父なる神様に向かって祈るのです。そこで私どもは何を祈るのでしょうか。真っ先に祈るべきこととは何なのでしょうか。そして、さらに驚くべきことは、どんな願い事であれ、天の父なる神様はその祈りを聞いてくださるというのです。「どんな願い事でもかなえてあげる」と言われたら、余計に悩んでしまうかもしれません。

 そのことを深く掘り下げて考える時、マタイによる福音書第18章という大きな枠組みの中で御言葉に聞く必要があります。本日の聖書箇所は、先週の14節からの続きになります。第18章は「教会憲章」と呼ばれることがあります。教会に生きる者たちすべてが重んじるべきもの。教会の作法。教会にとってなくてはならないもの。それらを主イエスはここでお語りになるのです。つまり、主イエスにとって「教会」とはどのような場所であるのか、その「教会観」がここに示されているのです。14節までのところをまとめると、教会というのは、小さな者の一人を軽んじてはいけないということです。小さな者というのは、子供ややもめ、貧しい者や病人といった当時の社会の中で、厳しい環境に置かれていた人たちもそうなのですが、それだけではありません。ここでは信仰に生きながらも、教会につまずいた人のことを指しているのです。つまずきを与えた教会自身ももちろんその罪が問われますが、つまずいて、教会を離れ、神から離れてしまう人に対しても神様は心を痛めておられます。主イエスは、12節と13節で、一匹の迷い出た羊の譬えをお話くださいましたが、同時に主は、残された九十九匹である教会の姿を問われました。「小さな者の一人が迷い出てしまった。では、あなたがたはどうするのか?」「天の父の御心は、小さな者の一人が滅びることではない。もう一度、見出され、神のところに帰って来ることこそが御心である。」「あなたがたもかつては小さな者、まことの羊飼いである主イエスに見つけていただいだ者たちではないか。」「だから、あなたがたも父なる神の御心に生きてほしい。迷い出た一匹の羊の回復のために、心を砕いて欲しい。」主イエスはそのように願っておられるのです。

 本日の15節では、よりはっきりと、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とおっしゃっているように、兄弟の「罪」の問題を見つめておられます。これも意外に思われるかもしれませんが、主イエスが「教会」という言葉をお使いになるのは、福音書の中でたった2箇所しかありません。第18章17節と、あとで少し触れますが第16章18節だけです。そして、主が教会について語る時、それは小さな者の一人のことであり、罪の問題でありました。それも罪をおかした者とどのように向き合い、その罪をどのように対処するのかという問題です。主は罪との関わりの中で、あるいは、死、滅びという関わりの中で、教会のことをお考えになり、その教会の姿を描かれるのです。教会について考えるという時、他にも色んなことを考え、語ることができると思います。礼拝や伝道、様々な集会、あるいは、教会政治や教会会計のこと。どれも大切なことです。しかし、主イエスは罪の問題、罪をおかした者とどう向き合い、どのようにしてもう一度、その人を神のもとに連れていくのか。このことにまず心を砕いておられます。そして、主の御心に生きる教会もまた、罪と真剣に向き合うことを主イエスから託されているのです。教会のことを考える時、なぜ罪の処理を交わりの中心に置くのでしょう。罪は交わりを破壊するからです。その人自身も滅びに至るからです。しかし、小さな者が一人でも滅ぶことは父なる神の御心ではないのです。その御心が示されているのが主の十字架なのです。

 十字架の主の憐れみの中で、私どもはどのように兄弟と向き合っていくべきなのでしょう。15節に次のようにあります。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」ここで言われている「罪を犯す」というのは、人は皆罪人だから仕方がないというような抽象的なことではありません。「あなたに対して罪を犯す」というより具体的なケースです。そうしますと、自分は被害者の立場ということになります。普通でしたら、自分に罪をおかしたその相手のほうが、「申し訳なかった」と謝罪しに来るのが正しいかもしれません。ただここでは、「行って…忠告しなさい」とあるように、自分のほうから罪をおかした兄弟のほうに出向いて行くのです。しかも、そのうち時間が経ったら行くというのではなくて、すぐに行かなければいけません。旧約聖書のレビ記にも、兄弟の罪を無視することは、その罪に加担することだと記されています(レビ19:15-17)。それにしても、なぜ自分から行かなければいけないのか。どこか釈然としない思いが残ることもあるでしょう。

 すぐに兄弟のところに行き、そこですべきことは、「忠告する」ということです。「忠告する」というのは、戒める、誤りを認めさせるということです。元の意味は光にさらす。明るみに出すということです。忠告するその目的は、15節の終わりにあるように「兄弟を得る」ためだと、主はおっしゃいました。小さな者の一人が滅びることを望まない神の御顔の光の中に、二人一緒に立つということです。しかしどうでしょうか。私どもはしばしば光ではなく、闇の中にその人を置き、闇の中で罪を葬り、処理してしまうことがあるのではないでしょうか。戒めるということの中に、憎しみや恨み、復讐心が伴ってしまうのです。

 教会の交わりにおいて、共に赦しの恵みに生きるとはどういうことなのでしょう。このこととの関連で、次週、読みますけれども21節以下と合わせて考える必要があるでしょう。弟子のペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねるのです。主イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。15節の「忠告する」「光の中に置く」というのは、七の七十倍、四百九十回赦しなさい。つまり、制限を設けることなく、「無限」に赦しなさいということです。間違ってはいけないのは、教会には罪をおかす人と罪をおかさない人の二種類の人間がいるわけではないということです。ここで言われていることは、罪人が罪人を赦すということはどういうことなのかということです。そのためには、共に神の赦しの光に立たなければいけません。

 ただそれでも、相手の人が自分の言葉を受け入れてくれない。悔い改めて、神様のところに帰ろうとしない場合はどうしたらいいのでしょう。そこで次の段階に入るのです。16節です。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」一人ではなく、二人、三人の証人というのは、その人の罪深さを指摘して、断罪することが目的ではありません。ここでも兄弟を得ることが目的であり、そのための言葉を獲得することです。そして、「二人または三人」というのは、19節、20節の主の言葉とも重なるところがあります。二人、三人共に集まり、罪をおかした兄弟のために祈る祈りがここにあります。いや、最初に自分一人で兄弟のもとに行った時も、そこには祈りの心がありました。自分が赦される側、罪をおかした側の立場に置き換えてみたら分かることかもしれませんが、素直に悔い改めることができるのは、自分のために真剣に心を砕いて祈ってくれる二人、三人といった小さな交わりの中で、初めて与えられるものなのではないでしょうか。その小さな交わりの中に、「わたしはいる」と主は約束してくだいます。この主イエスとお会いする時、心からの悔い改めに導かれ、神様のところに戻ることができるのです。

 しかしながら、主イエスはまだ言葉を続けられます。まだ次の段階があるというのです。17節です。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」自分一人でもだめなら、二人、三人でもだめなら、最後は教会に申し出るようにというのです。「教会に申し出るように」とありますが、具体的なことはわかりません。会員総会のような全員集まるところでその人の罪を指摘するのか、牧師に申し出るのか、小会のような役員会議に申し出るのかはっきりと分からないところがあります。教会・教派によって、理解も異なりますが、私たち改革派教会であるならば、小会に申し出るという理解が自然だと思います。ただそれでも聞き入れられない場合、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」というのです。教会の「戒規」を考える上で大切な御言葉がここにあります。戒規と言っても、訓戒とか陪餐停止とか職務停止とか色々あるわけですが、「異邦人か徴税人と同様に見なす」というのはどういうことでしょう。異邦人や徴税人というのは、当時、救いから最も遠く、罪人の代表と見なされていました。彼らのように見なすというのは、その人が救われる前の状態に戻ることを意味します。いわゆる「除名」と呼ばれるもので、戒規の中で最も重い処分です。教会の交わりから除外するということです。

 そこで、このように思う人もいるでしょう。罪をおかすことも、その罪を悔い改めないことも、確かにいけないことだ。しかし、だからと言って、交わりから除外するのはあんまりではないか。「四百九十回赦すように」「無限に赦し続けなさい」という主の教えとも相反するではないか。そう思ってしまうのです。そして、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なす」という裁きをくだすのは、私たちキリストの教会です。神様が直接おっしゃるのならともかく、教会にそれほどの権限があるのかと思ってしまいます。けれども、主イエスはおっしゃるのです。18節です。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」教会における決定は、天における決定だということです。「つなぐ」というのは、許可するということです。天の国に入る許可がくだるということです。「解く」というのは、禁止するということです。天の国に入ることができないということです。その判断をくだす権能が教会には与えられています。ここに深い畏れを覚えます。

 主イエスは同じような言葉を第16章でもおっしゃいました。そこでは弟子を代表してペトロが、主イエスのことを、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をするのです。その告白を受けて主は、「あなたは幸いだ」「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」「陰府の力もこれに対抗できない」と言って、教会建設の宣言をしてくださいました。そして最後にこうおっしゃったのです。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)イエス・キリストこそ罪から私たちを救う救い主であるという信仰告白、その信仰の土台の上に、主は教会を建ててくださいます。死の力に打ち勝つことのできる、確かないのちに満ちた教会です。この教会に主は「天の国の鍵」を授けてくださいました。鍵を誰かにあずけるというのは、私たちもそうですが、信頼しているからこそできることです。主イエスは地上の教会を愛し、信頼してくださるからこそ、天の国の鍵、つまり、神の権能をお与えになったのです。

 ただそこで問われるのは、与えられた天の国の鍵を教会がどう用いるのかということです。人の罪を皆の前で糾弾し、自分たちの正義感を満足させるために用いるのでしょうか。そうではありません。教会は天の国の鍵を用いて陰府の力、死の力と戦います。そして、ここでは罪の力と戦うのです。兄弟が神との関係を断ち、神のいのちから切り離されてしまうことに、教会は心を痛めます。迷い出た一匹の羊が、再び神のもとに帰れるように全力を尽くします。罪の力が信仰の仲間の一人を奪い取って、連れ去ろうとする時に、「待て」と言って、その罪の手を抑えて、もう一度、信仰の仲間をこちらにもぎ取ってくるような戦いをするのです。もう一度、天の国の扉を開いて、その中に招き入れるのです。天の国の鍵は人を締め出すものではなく、招き入れられるために用いられなければいけません。

 また、教会に権限があると言いましても、「異邦人か徴税人と同様に見なす」ということまでしかできないということです。何をしてもいいというのではないのです。あとは祈りつつ、神様にお委ねするしかないのです。そして、罪をおかした兄弟が、教会の交わりから出て行かなくてはいけない。そのような状況になったとしても、主の招きに応え、真の悔い改めに導かれるならば、もう一度戻ることができるのです。そして、ここで考えさせられますのは、主イエスにとって、異邦人や徴税人というのはどういう存在であったかということです。彼らはユダヤの社会の中で、忌み嫌われていた人たちです。一緒に交わりを持ちたくないと思われていた人たちです。しかし、主は積極的に彼らと交わりを持ち、救いへと導かれました。異邦人や徴税人というのは、ある意味、神から最も遠く離れて生きていた人たちです。それゆえに、どうしてもこの人たちを救わなければいけないと、主が強く願われた人たちでした。主の愛が最も注がれた人たちと言ってもいいでしょう。だから、「異邦人か徴税人と同様に見なす」というのは、この人が主イエスに最も近い人であるということを思い起こしなさいということでもあります。そして、彼らの友となってくださった主イエスにお委ねし、主の名によって祈りなさいということなのです。

 祈りを伴わずして、罪の問題を解決することはできません。天の国の鍵を授かった教会は、地上でつなぐ働きも地上で解く働きもしますが、19節にあったように、兄弟のために地上で心を一つにして祈り求めることなしできる働きではないのです。そこで、主イエスが、「祈る時にはこう言いなさい」とおっしゃった「主の祈り」を思い起こすこともできるでしょう。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」そのように祈りながら、兄弟の悔い改めを覚えて祈るのです。先週聞きました10節のところに、小さな者の一人のためにいつも天使が執り成し、神の御顔を仰いでいるとありました。ある人は言います。私どももまた地上に生きる天使として生きることができると。二人、三人もまた小さな者の一人の天使となるのです。執り成しの祈りをささげ、神の御心を担ってこの地上の教会で生きるのです。

 しかしながら、迷い出た一人の兄弟が、神様のもとに立ち帰るまで、私どもはどれだけ祈らなければいけないのでしょうか。「兄弟があなたの愛と憐れみによって、再び立ち帰ることができますように」「もう一度、信仰の喜びに生きることができますように」そう祈ります。また同時に、私どもは神様の前で、正直に告白しなければいけないのかもしれません。「私はあの人を赦せないのです。主よ、あなたが思っておられるほど、私はあの一人の兄弟のことを愛おしく思うことができないのです。あの兄弟のために、それほど心が痛むことがないのです…」ここでも、「主の祈り」を思い出すことができるでしょう。「わたしたちの負い目を赦しください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」まだ兄弟を赦すことができていない自分であるにもかかわらず、ただ主の憐れみを乞う以外に道はないことを深く嘆きながら、「もう一度、赦しの光の中に立たせてください」と祈ります。地上の教会の交わりにおいて、私どもが心を合わせて祈るべき祈りがここにあります。そして、その祈りの交わりの中心に主イエスがいてくださり、主イエスの名のゆえに、神は私どもの祈り聞いてくださるのです。

 「…はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」教会は、イエス・キリストの名によって集まり、主の名によって祈るところです。その交わりの真ん中に主イエスは共にいてくださいます。それは、いつも主イエスの御心が真ん中に立っているということでしょう。「小さな者が一人でも滅びることのないように」と心から願い、御子のいのちさえも惜しまずに、十字架の上で献げてくださった天の父の御心が、私どもの真ん中にあるのです。その天の父の御心を担っておられる主イエスが真ん中に立ち、「わたしの教会をここに建てる」と宣言してくださいます。

 また、教会はこの主イエスの約束を信じて集まります。「心を一つにして、小さな者のために祈りなさい」という主の言葉に従いつつ、しかしそこで祈りの空しさ捕らわれてしまう教会の弱さを主はよくご存知です。この空しさに打ち勝つことができるのもまた、主の約束の言葉以外にありません。本日の18節、19節だけではなく、第18章には何度も「はっきり言っておく」という言葉が散りばめられています。「はっきり言っておく」というのは、私どもが祈りの最後に唱える「アーメン」という言葉です。それこそ、主イエス御自身が、「アーメン」と心から祈るような思いで、私どもに約束の言葉を告げてくださいました。「アーメン」「はっきり言っておく」と不確かな私たちに念を押すようにして、「あなたがたの祈りは確かに聞かれる!」「わたしはあなたたがの真ん中にいる!」と約束してくださいます。

 主イエスは私たちを祈りに招いておられます。祈る務めを教会に与えていてくださいます。私どもを祈りの務めへと招き、交わりの中心にいてくださる主は、先立って祈っていてくださいます。「どうか小さな者が一人でも滅びることがありませんように…。」この主イエスの祈りを教会は担い続けるのです。兄弟の罪に向き合うこと。そして、自分の罪に真剣に向き合うこと。それは簡単なことではないでしょう。悲しみを覚えることがよくあります。空しさの虜になってしまうこともあります。私どもの足取りも重くなります。しかし、主イエスの約束がいつも私どもの真ん中で響いています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである!」人間には不可能と思える罪との戦いに、主は既に勝利してくださいました。この祝福にあずかりながら、十字架と復活の主が拓いてくださった祈りの道を、心を一つに合わせて歩んでいきます。そこで生きておられるイエス・キリストと真実にお会いすることができるのです。ここに罪赦された者の喜びがあります。ここに赦された者として、今度は兄弟を赦す力が与えられます。迷い出た兄弟をもう一度神のもとに導く熱心さと愛が与えられます。主が与えてくださった祈りの道を歩む教会こそが、主の名によって立つ教会なのです。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」お祈りをいたします。

 天の父なる神様、あなたは御自分のもとから離れた一人の罪人が救われることを切に願っておられます。あなたの御心がこの地上に映し出されるために、御子をお遣わしくださいました。教会が主の十字架にあらわされた御心に生き抜くことができるようにいつもお導きください。そのために与えられている主イエスの約束の言葉を信じ、祈りの交わりを大切にすることができますように。その中心におられる主と共に教会を建て上げていくことができますように。主の十字架のゆえに、罪赦されている者として、兄弟の罪を赦すことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。