あなたも立ち直れる
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- 藤井真 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 22章31節~34節
31「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に 願って聞き入れられた。32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように 祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」33 するとシ モンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わ たしを知らないと言うだろう。」ルカによる福音書 22章31節~34節
主イエスは御自分の弟子であるペトロのために心を込めて祈ってくださいました。「しか し、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち 直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」一度、聞いたら忘れることができないほどに、 愛と力に満ちた祈りであり、同時に不思議な祈りであると思います。
ただこの時、弟子のペトロは、これから自分がどうなるかをまだ知りませんでした。私 どももまた、将来の自分を想像することは簡単なことでないことを知っています。「こうな りたい、ああなったらいいの」にという漠然とした願いはあるものの、それが必ず実現す るという保証はどこにもありません。そのような私どもではありますが、誰も暗い将来を 思い描く人はいないでしょう。明るい光に照らされた自分がいることを期待したいと願う ものです。この時のペトロも同じでした。数時間後に、自分の信仰が無くなってしまうほ どの試練を味わうことになるとは、まったく思ってもいなかったことでありましょう。そ んな試練など自分の力で簡単に打ち勝つことができるという自信に溢れていたのですから ...。そのペトロが、しかし、主イエスのお言葉どおり、信仰を失いかける経験をいたしま した。主イエスを三度も、つまり、完全に否んだのです。「私とイエスは何の関係もない。 あの人のことは知らない」と言ったのです。ただペトロ自身、挫折してしまったその先に、何があるのかまでは知りませんでした。そもそも、自分が挫折するはずなどないと思って いたのでから、無理もないことかもしれませんが...。
しかし、ペトロのために祈ってくださった主イエスだけが、この祈りに包まれたペトロ の新しい姿を見ていたのです。それは立ち直ったペトロの姿です。キリストの十字架が、 この私のための十字架であり、この十字架によって、私は赦され、立ち直ることができた のだという喜びに生かされているペトロの姿を、既に主は見ておられたのです。「しかし、 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直っ たら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」そして、この主イエスの祈りは、ペトロだけでは なく、既にキリストの弟子とされている私どものための祈りでもあり、私ども教会のため の祈りでもあります。そして、まだ洗礼を受けていない者たちのためにも、主イエスは先 立って祈ってくださるのです。「あなたも立ち直れる。いや、もうあなたはわたしの十字架 によって、立ち直って生きている人間なのだ!」本当に驚くべきことだと思います。そし て、救われるとは、ひたすらこの主イエスの祈りの中に立つことに他なりません。
この御言葉が語られたのは、主が十字架にかけられる前の夜、「最後の晩餐」と呼ばれる 食事の席においてです。今も礼拝の中で大切に守っている聖餐の原点がここにあります。 主イエスは、パンを取り、「これはあなたがたのためのわたしの体である」とおっしゃいま した。また、ぶどう酒を取って、「これはあなたがたのために流されるわたしの血である」 とおっしゃってくださいました。パンとぶどう酒をとおして、十字架によって示される神 の救いの恵みへと招いてくださったのです。しかし、同時に、主はここで深い悲しみを覚 えずにはおれませんでした。まもなく自分を裏切るユダがいたからです。そして、他の弟 子たちも、そんなことをしようとしているのは、この中のいったい誰なのだろうか?とい う議論をし始めたというのです。議論をしているうちに、やがて、話題は少し横にずれて いきます。24節以下にあるように、「自分たちのうちでだれかいちばん偉いだろうか」と いう新しい議論が起こったとういうのです。偉い人間であるならば、主イエスを裏切ると いう愚かなことはしないだろうということだったのかもしれません。
この「だれがいちばん偉いのか?」という議論はどうもこの時、急に始まった話ではな いようです。第9章46節を見ますとそこでも、同じように、だれが一番偉いかを議論し ています。主イエスがエルサレムに向かう決意を固められる直前に、つまり、十字架へ道 を歩むという決意を固める直前に起こったことでありました。そして、十字架を前にした 最後の晩餐の席においても、弟子たちは、パンとぶどう酒のこと、つまり、キリストの十 字架のことよりも、自分たちの中でだれがいちばん偉いのか。そのことのほうが大切に思 えたのです。このことも、主イエスにとって、深い悲しみであったに違いありません。そ して、この弟子たちのためにも、わたしは十字架の道を歩み抜くのだという思いを強くさ れたのではないでしょうか。
「だれがいちばん偉いのか」という議論は、今日にも色んなところに見られます。私ど もは多くの人から評価され、時に順位や成績が付けられます。反対に、自分がだれかに順位を付けるということもあるでしょう。人を正しく評価することは恐ろしいことであり、 難しいことでありますが、時にそんなことも忘れ、他人を評価することに快感を覚えるこ ともあるかもしれません。しかし、だれが偉いのか、偉くないのか?自分は偉いのか、偉 くないのか?そのことに心を完全に奪われる時に、人は体だけではなく、心まで病んでし まうものです。そして、本日の御言葉が語る一つのことは、人間が自分の偉さを求めて生 き始める時、そこにいったい何が生まれるのか?偉さを求めて生きる人間の真の正体とは いかなるものなのか?そのことを明らかにしているということです。
ペトロという弟子がまさにここで、「あなたは如何なる人間なのか?」「あなたの正体は 何なのか?」そのことが明らかにされる経験をいたしました。ペトロは、十二人いる弟子 の中でも、自分が一番だという自覚があったでしょう。最初に主の弟子になったのも自分、 主から何か問われたら、真っ先に答えるのも自分、特別な場所に主イエスが連れて行って くださる時、そこに必ず自分もいました。そして、主イエスも「ペトロ」(岩)という力強 い名前を付けてくださり、「あなたの上に教会を建てる」というふうにもおっしゃってくだ さいました。「あなたの上に」というのは、ペトロ個人のことではなく、「イエス様こそ救 い主です」という告白の上に教会を建てるという意味です。でも、主イエスはペトロに期 待をし、リーダーとして弟子たちを引っ張ってもらいという思いはあったと思います。だ から、「だれがいちばん偉いのか?」という議論が起こった時、ペトロは少し冷めた目で他 の弟子たちを見ていたのかもしれません。議論するまでもなく、自分がいちばん偉いに決 まっているではないかと信じていたからです。しかし、このペトロのがこのあと、人生最 大の危機を迎えることになるのです。
31節にこのようにあります。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のように ふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」ここにサタンが急に登場します。荒れ 野で主イエスを誘惑し、それに敗れたサタンが、再びここに登場するのです。そのサタン がシモン・ペトロをふるいにかけたのです。ペトロだけでなく、「あなたがたを...ふるいに かけることを」とありますから、弟子たち全員がふるいにかけられる対象であるというこ とです。小麦をふるいにかけますと、小さな殻は下に落ち、実だけが残ります。食べられ るものと食べられないもの、使えるものと使えないものというふうに、はっきりと分ける ことができるのです。ここでサタンがふるいにかけるのは「信仰」です。あなたの信仰が 本物か偽物かが明らかにされるというのです。あるいは、ふるいにかけるということは、 今まで見えていなかったものが明らかにされるということだ。そのように言う人もいます。 ペトロがサタンのふるいにかけられた時、そこで見えてきたのは、「信仰が無くなる」とい う想像したともないような自分の姿でありました。
しかし、そのペトロのために信仰が無くならないように祈ってくださいました。また、 31節をもう一度よく見ていただきますと、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるい にかけることを神に願って聞き入れられた。」とあります。サタンはペトロや私どもをふる いにかける前に、神様のもとに行き許可を求めているということです。そして、許可が与 えられたサタンは私どもを誘惑しようとするのです。まったく、同じことが、先立って読んでいただきました旧約聖書ヨブ記にも記されていました。サタンは神様に話し掛けるの です。「ヨブがあなたを真っ直ぐに信じているのは、利益があるから、財産があるからでし ょ?すべて無くなれば、すぐに神を信じなくなりますよ。一度、ヨブの信仰が本物かどう か私に試させてもらえませんか?」その言葉を聞いて、神様は、「お前のしたいようにした らいい。ただし、いのちに手を出すな!」と言われたのでした。サタンは様々な仕方で私ど もを誘惑し、神様から引き離そうとします。ヨブのように、ありとあらゆるものを奪われ、 苦しみを覚えることもあるでしょう。でも、聖書が語りますことは、サタンもまた神の許 可なしには何もできない存在であるということです。つまり、サタンの力が絶対的なもの ではないのです。神のお姿などまったく見えない、どう考えてもサタンの仕業だとしか思 えないような出来事に直面しても、そこで本当に支配しておられるのは神様であるという ことです。
ただこのサタンというのは実に巧妙な手口を使って人を誘惑します。そして、まさにこ の時というタイミングで登場して来るのです。まさに、弟子たちが「だれがいちばん偉い か」を議論し始めた時に、しかも、主イエスが十字架を前にした時に、再びサタンが出て 来るのです。そして、自分こそいちばん偉い人間であると、微塵も疑うこともなかったペ トロの信仰を、ふるいにかけようとしたのです。ペトロは、主イエスが自分のために祈っ てくださっているということ、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいという言葉 をどういう思いで聞いたのでしょうか。こんな私のために祈ってくださり、ありがたいと 思ったのでしょうか。そうではなかったと思います。主イエスが何を言っているのか分か らなかったのではないでしょうか。信仰が無くなるとか、立ち直るとか、まったく自分に 覚えのないことをばかり口にされる主に、ペトロは正直戸惑ったのだと思います。
そして、ペトロはこんなことを主に言わせてはいけないと思ったのでしょう。あるいは、 「主よ、あなたは私のことを『信仰が無くならないように』とか、まるで弱い人間のよう に言いますけれども、それは違っています。余計な心配はしないでください」と思ったの でしょう。すぐに、主に対してこう言ったのです。33節「するとシモンは、『主よ、御一 緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております』と言った。」ペトロはここで一 つの覚悟をしています。それは死ぬ覚悟です。「御一緒になら」と訳されていますが、これ は「〜なら」というふうに条件を付けているわけではありません。直訳すると、「主よ、私 はあなたと一緒に牢に入ります。そして、死にます。」という強い覚悟、決意を表す言葉で す。いちばん偉いのは私だと思っていたペトロらしい言葉であるかもしれません。しかし、 サタンからすればまさに思う壺なのです。ペトロの言葉は、自分の信仰の強さを表す言葉 ではなく、サタンの誘惑に敗れた者の言葉なのです。ペトロは自分の偉さによって、信仰 に固く立てると思っていました。だから、「覚悟しております」と言ったのです。ペトロに とって、信仰を信仰たらしめるものは、自分の「覚悟」であり、自分の「決意」であった のです。
しかし、死んでもあなたについて行きますというペトロの決意は、ものの数時間後に見 事に打ち砕かれてしまいます。そのことが、第22章54〜62節に記されています。新約聖書156ページです。
「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れ て従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に 混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを 目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。しかし、ペトロはそれを 打ち消して、『わたしはあの人を知らない』と言った。少したってから、ほかの人がペトロ を見て、『お前もあの連中の仲間だ』と言うと、ペトロは、『いや、そうではない』と言っ た。一時間ほどたつと、また別の人が、『確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから』 と言い張った。だが、ペトロは、『あなたの言うことは分からない』と言った。まだこう言 い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、 『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言 葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
ペトロは、主が予告されたとおり、鶏が鳴く前に三度、主を「知らない」と言って、否 みました。三度というのは、文字どおり三回という回数のことでもありますが、聖書的に は「何度も」「完全に」という意味です。「私はイエスなどまったく知らない。何の関係も ない。」と言って、主との関係を打ち消しました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死 んでもよいと覚悟しております。」と見事なまでに立派な告白を、主の前でしたばかりでし た。「あなたと一緒に」と口にするほど、自分が主と共にあることが生き甲斐であり、それ は「主と一緒に死ぬ」と言い切れるほどのものでした。でも、そのペトロの思いは、虚し く崩れ去っていったのです。
このペトロが如何にして立ち直ることができたのでしょうか。「岩」と呼ばれたペトロの 信仰がぐらつき、もう岩の面影もないほどに粉々になってしまいました。人目を気にする ことなく激しく泣いたのです。そのペトロが如何に立ち直ることができ、流れ続ける涙を 誰にどのようにして拭ってもらったのでしょう。ペトロはもうまだまだ自分の信仰が足ら なかった。もっと強く堅固な信仰を持つことができるように努力しよう、誰よりも立派な 悔い改めをしようということではなかったと思います。ペトロは、自分の信仰を支えるも のは、自分自身の覚悟であり、決心であるということを信じて疑いませんでした。しかし、 それが無意味であるということを知った今、どうすればよいのでしょうか。どうすること もなかったと思います。それこそ、信仰が無くなるという経験をする他なかったのです。
しかし、主イエスは、このペトロのために祈ってくださいました。「しかし、わたしはあ なたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟 たちを力づけてやりなさい。」主イエスは、ペトロがサタンによってふるいにかけられ、信 仰が無くなるほどの試練に襲われることになるということを知った時、ペトロに対して、 「もっと勇気を出すように」とか「もっと頑張るように」と言って、励まされのではあり ませんでした。主はペトロのために信仰が無くならないように祈ってくださいました。こ こにペトロの信仰が、そして私どもの信仰が何に根ざしているのかが明らかにされているのです。それは主イエスの祈りの中に根ざしているということです。私の決意、決心が信 仰を成り立たせているのではないのです。主イエスがこの私のために祈ってくださる。た だ、そこのことが私どもの信仰を支えるのです。
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」とおっしゃってくださ いました。では、主イエスは、いつペトロのために祈ってくださったのでしょう。ルカに よる福音書は、「祈りの福音書」と呼ばれるほどに、主が祈りについて丁寧に教えてくださ り、また主御自身が祈られる場面をいくつも記しています。同じ第22章の39節以下で は、オリーブ山で祈られた場面が記されます。「ゲツセマネの祈り」とも呼ばれる有名な場 面です。39節と40節だけお読みします。「イエスがそこを出て、いつものようにオリー ブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘 惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」「誘惑に陥らないように」というのは、サ タンの誘惑に他なりません。信仰を失い、もう立ち直ることができないほどの絶望に引き ずり込もうとする力と戦いなさいと言うのです。そしてここで誰よりも誘惑と戦っておら れたのは主イエスでした。「十字架の苦しみを取り除いてください。しかし、父よ、あなた の御心を行ってください。」と、汗が血のように滴るくらいに激しい祈りをなさいました。 その祈りの中で、御自身のことだけでなく、共にいる弟子たちのことを思っていたに違い ありません。主の十字架は、弟子たちのための十字架でもあったらからです。でも、弟子 たちは主の思いを理解することなく、誘惑に負け、眠り込んでしまいました。また、39 節に、「いつものように」とあります。40節には、「いつもの場所に」とありました。主 イエスは十字架の前の夜だけでなく、日々、祈ることを大切にしておられました。
もう少し遡るならば、第6章12節の場面にまで戻ることができるでしょう。主イエス は祈るために山に登り、夜を徹して祈られたのです。そこまで徹底した祈られた主は、何 を祈られていたのでしょう。それは、ご自分の弟子となり、やがて教会の群れを導くこと になる使徒たちを選ぶために、祈り続けたということです。ここに、既にペトロのための 祈りが始まっていました。そして、ルカは十字架上の主イエスの祈りを書き留めます。「父 よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」第23章34節の 御言葉です。罪というのは、自分が何をしているのか分からないところに恐ろしさがあり ます。この私が主を否むはずなど絶対にない。そう思い込んでいるところに、サタンの力 が既に働いていることを、ペトロは知りませんでした。しかし、このペトロのためにも、 主は十字架の上で、「父よ、わたしの十字架のゆえに、ペトロの罪をお赦しください。」と 祈ってくださったのです。
主イエスはペトロのために、「信仰が無くならないように」祈ってくださいました。ある 説教者が、この時、主を三度否んだペトロの信仰は完全に無くなったのだろうか?それと も、少しは信仰が残っていたのだろうか?どっちなのだろうか?そんな想像をしています。 主イエスは「立ち直ったら...」というふうにもおっしゃっていますから、ペトロはここで 一度、立ち直ることができなくなった。つまり、信仰が完全に無くなったと考える人もい るからです。そして、一度、信仰を無くしたペトロが、主イエスによって立ち直ることができた、再び信仰が与えられたのだと理解するのです。しかし、そのように理解しますと、 主イエスの祈りは、文字どおりには聞かれなかったということになってしまいます。でも、 その説教者は、ペトロが主を三度否んだ時でさえ、彼の信仰が無くなることはなかったの だと言っています。主を三度否んだ出来事は、ペトロが自負していた自分の偉さというも のが崩壊した出来事であり、信仰喪失の出来事ではないのだと、その人は言うのです。そ れはたとえ、自分でこれはもう駄目だ。もう立ち直ることができない。もう自分は神の前 を去り、呪われた残りの人生を生きるしかないと絶望することがあったとしても、なお信 仰を失わずに済むように祈ってくださるお方が共におられるということです。御自分のこ とを三度否む前から、既に主はペトロのために祈ってくださいました。「立ち直ったら...」 とおっしゃってくださったように、裏切る前から、主の恵みの中で立ち直ることができて いるペトロの姿をはっきりと見ていてくださいました「。わたしがあなたのために祈ったの だから、わたしがあなたのために、これから十字架のために向かうのだから、ペトロよ、 あなたの信仰が無くなるということは片時もないのだ。」主はそうおっしゃってくださるの です。
この「立ち直ったら」という言葉ですけれども、元々は、「向きを変える」とか「立ち帰 る」という意味があります。ペトロが主イエスの祈りの中で、立ち直るということは、ペ トロがもう一度向きを変えて、神様のもとに戻って行くということです。向きを変えるこ と、生きる方向を変えること、それが回心ということであり、神を信じるということでも あるのです。その時に、改めて思い起こしますのは、ペトロが三度「主を知らない」と言 って、否んだ直後の主イエスのお姿です。もう一度、第22章61,62節をお読みしま す。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは 三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、 激しく泣いた。」ここに記されているのは、振り向いてペトロを見つめる主のお姿です。向 きを変えるのは、ペトロが先ではありません。先に主イエスがペトロのほうを振り向き、 ペトロを見つめられたのです。その主イエスのまなざしの中で、自分の裏切りを予告して おられた主の言葉を思い出し、激しく泣いたのです。振り向いて自分を見つめる主のまな ざしは、どのようなものだったのでしょうか。まなざしの奥にある主イエスの思いとはど のようなものだったのでしょうか。 「ペトロよ、お前はさっき、『わたしと一緒に死ぬこと ができる』と勇ましいことを言ったね。でも、わたしの言ったとおりだ。お前の信仰など たいしたことはない。お前は偉い人間でも何でもない。結局は、わたしを裏切ることしか できない愚かな人間なのだ。」主はそのような思いで、ペトロを見つめられたのでしょうか。 そして、ペトロも主に何を言われても、言い訳をすることができない。主がおっしゃると おり、私は主イエスを信じるに相応しくない人間だということを悟り、そして激しく泣い たのでしょうか。
私はそうではないと思います。主イエスは、ペトロが、「自分のことを知らない」と言っ て、否むことを初めから知っていました。自分はいちばん偉いというプライドが崩れるだ けではなく、信仰が無くなったと言ってもいいほどに、深い絶望の中に突き落とされてし まう経験をするであろうということも知っていました。でも、それだけが主イエスの知っているペトロの姿ではありませんでした。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無く ならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 この主イエスの祈りの中で祈られ、この祈りの中に見えてくるペトロこそが、主イエスが 見ておられるペトロの本当の姿です。
主を三度否んだ自分を見つめるまなざしの中には、当然、主の深い悲しみの思いが込め られていたでしょう。でも、同時にこの私のために祈り、この私のために主は十字架に向 かってくださるのだという大きな愛を、ペトロは感じ取ったに違いありません。「鶏が鳴く 前に、三度、わたしを知らないと言うだろう」という主の言葉は、自分の裏切り、自分の 罪をあらかじめ知ったうえで、なお私のことを愛し、私のために十字架についてくださる のだという恵みの言葉として響いてきたのです。だから、ペトロは自分を隠すことなく、 人前で激しく泣きました。
やがて、ペトロは主イエスがおっしゃったとおり、生まれたばかりの教会において、使 徒としの大きな働きを委ねられ、喜んで神と教会に仕える者となりました。「あなたは立ち 直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」という主の言葉にありましたように、教会の 仲間を力づける働きへと召し出されて行くのです。主イエスが私どもを立ち直らせる時、 例えば、座っていた者が立ち上がったという、そういう話ではありません。立ち直ったら、 そこから主が与えてくださる目的に向かって歩み出して行くということです。主は明確な 目的をもって、私どもを立ち直らせてくださいます。
ところで、新約聖書に収められている4つの福音書というのは、ペトロの証言が大きな 役割を果たしているとも言われます。4つの福音書どこを読んでも、ペトロが、三度、「主 を知らない」と言った場面が記されております。それは、ペトロ自身が教会の人たちに福 音を語り伝えた時、自分の物語を隠すことなく、むしろ喜んで語ったということでしょう。 主を裏切ったなどという話は、普通ならば、恥ずかしくて誰にも言えないような話ですが、 そこで恥と弱さと罪に満ちた自分のことを隠すことなく語ることができたのは、ただ罪深 い自分のために祈り、愛し、赦してくださった方によって救われたその喜びを知っていた からです。そして、ペトロが人々に語りましたのは、決して人は自分の偉さや強さ、また 自分の力によって生きるのではないということです。だから、教会の仲間たちを力づける という時に、自分は偉い人間で、あなたがたは偉くなから教えてあげようというのではあ りません。ペトロは、自分がどのようにして立ち直ることができたのか、そのことを話し ただけだと思います。「主が、信仰が無くならないように祈ってくださった。愛と赦しのま なざしで私を見つめ、最後に十字架についてくださった。だから私は立ち直ることができ た。主はあなたのためにも祈っておられる。あなたがどんな人間であっても、主はあなた のことを、愛をもって見つめていてくださる。どうか、あなたも主イエス・キリストの祈 りとまなざしの中に立っていただきたい。必ずあなたも立ち直れるのだから。この私のよ うに。」ペトロはこのようにひたすらキリストの救いに招く言葉を語り、今も生きておられ るキリストを紹介し続けたのです。今、信仰が与えられている私ども一人一人はどのような歩みをしているでしょうか。将 来、私どもはどのような歩みをしているのでしょうか。人間的に見て、必ずしも良い将来 を描くことができなかったり、神様からご覧になったならば、本当に申し訳ないほどの生 き方をしてしまっているかもしれません。でも、私どものすべてを知っていてくださる救 い主イエス・キリストが、私のために、そして教会のために祈っていてくださることを、 いつも心に留めたいと思います。様々な苦難に襲われたり、自分の罪に苦しむこともある でしょう。でも、私どもは主によって、立ち直ることがゆるされた人間です。そのことを 信じたいと思いますし、私ども以上に主イエスが、私どもの本当の姿を見てくださるので す。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち 直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」この主イエスの祈りと言葉の中に、共に立ち 続けましょう。共に兄弟姉妹を励ます歩みを重ねましょう。それが教会に与えられている 幸いなのです。お祈りをいたします。
私どもの知らないところで、主イエスよ、あなたは誰よりも、私どものことを知ってい てくださり、そして、祈っていてくださいます。あなたの祈りが真実であることを、十字 架でいのちをささげることによって、私どもに示してくださいました。私のための十字架 です。感謝をいたします。もう、主にあって、立ち直ることがゆるされた人間として、益々、 あなたの祝福の中を生き抜くことができますように。そして、私どももまた教会の兄弟姉 妹に向かって、まだ神を信じていない人たちに向かって、「あなたも立ち直れる」と、祈り をもって証しする働きに仕えることができますように。主イエス・キリストの御名によっ て感謝し、祈り願います。アーメン。