2022年02月13日「人間とは何ものか」
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人間とは何ものか
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詩編 8編1節~10節
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聖書の言葉
1【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】2主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 3幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。4あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。5そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。6神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 7御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。8羊も牛も、野の獣も 9空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。10主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。詩編 8編1節~10節
メッセージ
詩編第8編を歌った詩人は、5節にもありますように「人間は何ものなのでしょう」と驚きの声をあげています。「人間とは何ものか?」「自分とは何ものなのか?」大切な問いであるかもしれませんが、その割には四六時中いつも考えている人はそれほど多くはないでしょう。そのようなことを、自分自身の経験も含めて思わされた次第です。自分を含めた「人間」とは何ものであるのか?そのように真剣に考えるのは、もしかしたら、生きることに本当に行き詰まった時だけなのかもしれません。また、既に神を信じる信仰に生きる者にとっては、「人間は何ものか?」という問いは決して難しい問いではなく、考えるまでもなく明確に答えることができるでありましょう。それゆえに、今更、自問自答するまでもない。そう思っている方もおられることでしょう。しかし不思議なのは、「人間とは何か?」「私は何ものか?」その答えを明確に知っていたとしても、なおそこでもう一度問いたくなることがあるということです。それは、神を信じる生活においても、様々な試練を経験するからということもありますが、それだけではなく、神様の圧倒的な恵みを前にして、「人間とは何ものなのだろうか?」と、どうしてももう一度問いたくなることがあるからです。
詩編第8編は、神殿における礼拝において賛美された歌であろうと言われています。2節に、「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」と歌われています。終わりの10節にも、同じ言葉で神をほめたたえています。礼拝における神賛美に挟まれる形で、詩人は「人間とは何ものなのでしょう」と声を高らかに上げています。また、「天に輝くあなたの威光をたたえます」とありますから、礼拝は礼拝でも、「夜」にささげられた礼拝ではないかと言われています。そこで、詩人は夜空を見上げ、天におられる神に賛美の歌をささげるのです。4節でもこのように歌っています。「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」
なぜこの時、詩人は夜空を見上げたのでしょう。それは時間帯が夜だったとか、夜空に輝く星があまりにも綺麗だったからという理由もあるかもしれませんが、それだけではなく、おそらく詩人はこの時、生きることに悩み、どこか虚しさを抱えていたのではないか。そのように想像する人もいます。3節にこうあるからです。「あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。」具体的なことはこれ以上分かりませんが、おそらく、敵対する者に苦しめられていたのでしょう。あるいは、その敵から神によって守っていただいた経験をしたばかりなのかもしれません。私どもは詩人とまったく同じ環境に置かれているわけではありませんが、人生に行き詰まりを覚える時、人間関係が上手くいかない時、その苦しい心や押しつぶされそうな小さくなった心を、美しく広大な夜空や天に向かって解き放ちたいと思うことがあるのではないでしょうか。そのようにして、少しでも気持ちを楽にしたいと願う気持ちが分からないわけではありません。
2節の初めを見ますと、「幼子、乳飲み子の口によって」という言葉があります。この言葉がどこにかかっているのか、色々と議論が分かれるところです。元の文章が中途半端な区切りになっているというのもありますが、一つは、私たちが用いている新共同訳聖書のように、「幼子、乳飲み子によって、天に輝いている神様の栄光をたたえる」という理解です。幼子が賛美の歌をうたっているというのです。もう一つのは、3節後半と結びつけて理解します。つまり神様は。幼子、乳飲み子の口によって、敵を倒されるという理解です。文字通り理解するのではなく、信仰的な意味でここを読むならば、どちらの読み方でも理解は可能です。
それにしても注目すべきは、「幼子、乳飲み子」という言葉が、突然ここに出てくることです。礼拝は、大人だけがささげるものではありません。幼子でも、言葉がまだ十分に話せない乳飲み子でも、そこにいるということ、それ自体が大きな意味を持つわけですが、詩編第8編がここで言いたいことは、幼子や乳飲み子という存在が、どういう存在であるかということです。それは小さな存在であり、弱い存在であるということです。乳飲み子を見れば明らかですが、自分の力で生活することは困難です。常に親の助けと守りを必要としています。また、乳飲み子はよく泣き叫びます。泣き叫ぶことによって、親や周りの人に、自分の思いを伝えようとしています。私は生きているということを、周りに証ししていると言ってもよいでしょう。そして、親は我が子の叫びや涙をそのままにすることは決してありません。優しく声を掛け、涙を拭います。乳飲み子や、幼子の涙の意味を理解しようと一所懸命になり、必要なものを与えます。
詩人が大切にしていた信仰もまた、幼子、乳飲み子のように生きる信仰です。もう自分は子どもの年齢をとっくに過ぎてしまったからというのではなく、大人になり、高齢者になったとしても、なお神の前に自分は幼子であり、神の守りなしには生きられないということを知っていました。神に嘆き叫ぶ自分の声を、天の父は聞いてくださり、慰めと守りと必要をお与えくださるお方であるということを知っていたのです。だから、大人である自分もまた幼子、乳飲み子として、神を賛美することができるというのです。
あるいは、3節後半との結び付きで考えるならば、幼子、乳飲み子に神が強大な力をお与えになり、敵を倒すというふうに読めてしますが、そういうことではありません。神が力をおおいに発揮される場所はどこかということです。それは何の力もない幼子や乳飲み子においてだということです。小さな子どもというのは、本当に無防備な存在です。色んな危険や敵に取り囲まれていると言うことができます。そして、このことは大人であっても、信仰者であっても同じです。私どももまた幼子であり、乳飲み子なのです。しかしそこで、私どもの父でいてくださる天の神は、我が子を見捨てることなく、敵から守り、敵と戦う力さえも備えてくださるというのです。反対に、自分の力を誇り、神に働いていただく余地を一切残そうとしないならば、当然神の力が私どもの内で発揮されるということはありません。
詩人は幼子、乳飲み子であるこの私を守り、助けてくださった神に感謝をし、礼拝の恵みにあずかっています。そして、先程も申しましたように、天を仰ぐのです。4節です。「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。」詩人は、神の指の業をほめたたえます。「指の業」というのは、7節では「御手によって」と言い換えられています。これは神の「手の業」ということです。「指の業」「手の業」というのは、創世記第1章に記されている天地創造の御業のことです。「指」とか「手」というのは、どちらかというと体の中でも小さな部分です。しかし、それだけに細やかで丁寧な働きをすることができる部分ではないでしょうか。天地創造の御業は、神様が適当に月や星を造り、適当な場所に配置されたということではありません。すべてが絶妙かつ正確に計算され、月や星が夜空で美しく輝いているのです。この事実に詩人は圧倒されています。そして、その細やかな神の御業と神の愛が夜空の月や星だけではなく、この私にも及んでいる。私の人生にも、自分では計り知ることのできないほどに丁寧な神の配慮が与えられている。そのことに、今度は心を向けていくのです。
5節をご覧ください。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」「人間は何ものなのでしょう。」「人の子は何ものなのでしょう。」詩人は驚きつつ、また感謝をもって語ります。「人間」という言葉と、「人の子」という言葉が用いられます。どちらも要するに、「人間」ということに変わりはないのですが、初めの「人間」という言葉は、ヘブライ語で「エノシュ」と言います。弱く、儚い存在。また、限りがある存在を意味する言葉です。そこから、人間は病を抱えた存在と言い換える人もいます。また、「人の子」と訳されている言葉は、ヘブライ語で「ベン・アダム」という言葉です。直訳すると「アダムの子」となります。神が土の塵から最初にお造りになった人間、それがアダムです。土から造られたということは、やがて土の塵に帰っていく存在、それが人間であるというのです。つまり、人間は死ぬべき存在であり、その背後には人間の罪があるという事実を見つめています。お聞きくださればと思いますが、同じ詩編144編3〜4節にも、第8編と似たような御言葉があります。「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。 人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」ここでも人生とは息のように儚いもの、やがて消え去るものだということが歌われています。詩人は人間のことを、自分自身のことを、そのように弱く儚い存在。そして、やがて死ぬべき、虚しい存在であるというふうに見ています。
私どもはよく美しく広大な自然を前にして、自分の小ささを思うことがあります。あるいは、自分は立派な人間だと思っていたけれども、宇宙の不思議を前にしたとき、如何に自分が愚かであったか。そのことに気付かされ、謙遜になることもあるでしょう。あるいは、美しい自然に包まれると、不思議と心が楽になるという経験をすることもあるのではないでしょうか。では詩人は、夜空を仰ぎつつ、何を思っていたのでしょうか。私どものように、美しい自然世界と比べて、自分は「弱く儚い」と言って、嘆いたのでしょうか。どうもそういうことではないのです。夜空の美しさに感動しながらも、そこで本当に心打たれているのはこの世界を創造なさった神様の御業そのものに対してです。夜空に輝く月と星をお造りになり、美しく見事なまでに、それらを配置なさったその神様の指の業、その細やかな愛の配慮が、何と「この私」にまで及んでいるということ。そのことへの大きな驚きです。
「そのあなたが御心に留めてくださるとは」「あなたが顧みてくださるとは」…。そのように詩人は神様の御業をたたえています。「御心に留める」というのは、憐れみと親しみをもって、私のことを覚えていてくださるということです。私のことを決して忘れないということです。「顧みてくださる」というのは、憐れみをもって私のところに近づき、私のもとを訪ねてくださるということです。先の3節では、「幼子」「乳飲み子」ということが歌われていました。この5節では、弱く儚い人間、傷付きやすい人間、やがて死ぬべき人間、そして、罪人としての人間のことが歌われています。いずれも、自分の力では立つことができない存在であり、神の憐れみと助けなしには生きていくことができない人間です。偉大なことをなさる神が、こんなちっぽけな自分などに関わってくださるはずはない。そのようなことはつい考えてしまうかもしれません。特に、苦難や試練の中にある時はそのように感じてしまいます。しかしそうではないのです。苦しみの中で、自分が惨めで儚い存在だと思うことがあったとしても、美しい自然や他人と見比べて、自分の存在のあまりもの小ささに落ち込むようなことがあったとしても、神様はあなたのことを心に掛け、顧みてくださいます。あなたを忘れることなど決してありません。そのことを明らかにしてくださるために、私どもに近づき、私どものことを訪ねてくださいます。それが私たちをお造りになった神様です。
だから自分が、弱く、儚く、やがて死ぬべき存在であったとしても、私どもはそのままの姿で、永遠なる神様との出会いが与えられ、神様と共に歩むことができるのです。もっと言うならば、神様の聖さ、偉大さの前で滅びるほかない罪人であったとしても、神様が私どもを御心に留め、顧みてくださるがゆえに、救いの恵みにあずかり、神を心から畏れ敬って生きることができる者とされていくのです。
「人間は何ものか」「人の子は何もの」か。この詩人の驚きとも言える言葉は、神を礼拝し、賛美をささげる中で生まれた言葉です。「人間とは何ものか」という問いは、神を知らない人でも、どこかで一度は深く考えることでありましょう。しかし、聖書は私どもをお造りになり、いのちをお与えくださった神様との関係から離れたところで、人間について論じるようなことはいたしません。人間を知ることは、そこで私を造ってくださった神を知ることです。神を知り、神をたたえるところではじめて、自分を正しく知ることができる。聖書はそのことを初めから語ります。私のことを顧みてくださった神の恵みのゆえに、私どもは自分のことを深く知ることができるのです。また、自分には既に信仰が与えられているし、神様から自分のことも人間のことも十分に教えていただいた。だから、改めて自分の存在について新しく知る必要はないということでは決してありません。幾度、神を礼拝し、賛美ささげたとしても、もうこれで十分だというキリスト者はどこにもいないと思います。神への賛美が尽きないのは、いつも神が生きて働いてくださっていることを知っているからです。どのような状況の中に私が置かれたとしても、神は私を顧みてくださるお方である。神様の愛の御手によって、私の歩みが日々守り導かれている。そのことを知る時に、色あせかけていた私の歩みが、再び神の栄光によって明るく照らし出されるのです。だからこそ、もう一度、「人間とは何ものか」「自分とは何ものか」と口にしながら、神を賛美します。
また、詩編の詩人はこのようにも歌います。6〜7節です。「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」人間とは何ものなのでしょうか。詩人は自ら答えます。人間、それは「神に僅かに劣るもの」だと言うのです。「人間を神だ」と言っているわけではもちろんないのですが、それでも、どこか神様と肩を並べたような存在、神に近い存在である。そのように読めてしまう言葉かもしれません。だから、「神」に僅かに劣るものではなく、「御使い」に僅かに劣るもの、そのように言い換えている人もいます。しかし、神に僅かに劣る者であろうが、天使に僅かに劣る者であろうが、人間は神に造られた被造物であり、神そのものではありません。そこにははっきりと違いがあります。しかし、それにもかかわらず、なぜここまで人間に対して「素晴らしい存在」だと歌うのでしょうか。6節後半には、「栄光と威光を冠としていただかせ」とありましたが、通常、すべての人間に対してこういう言い方はしないと言われます。例えば、古代の神話では、ごく限られた人物、つまり王様のような力を持った人間に対して、「栄光と威光を冠としていただかせ」と言ったのです。他の人たちは、その王のもとで生きるただの人間にしか過ぎないのです。しかし、聖書はそうではないと語ります。王であろうが、どこの国の人間であろうが、男であろうが女であろうが、奴隷であろうが、どのような境遇に置かれていようが、人は皆、神の栄光と威光の冠をかぶって、神の前に値高い存在であると言うのです。
このことはまた、創世記第1章に記されているように、人間をお造りになったところでお語りになった神様の言葉を重なり合うところがあります。創世記第1章26〜27節(旧約2頁)です。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」ここに「我々に似せて」とか、「神にかたどって」という言葉があります。「神のかたち」「神の似姿」と呼ばれることもあります。神に似た者として、また神のかたちを持つ者として、人間が造られたという事実は何を意味するのでしょうか。それは、神様との交わりに生きるために造られたということです。神との交わりというのは、今、ささげているように礼拝をしたり、御言葉を聞いたり、賛美をささげたり、祈りをささげるということです。要するに、神様と私たちの関係というのは、一方的な関係ではないのです。いつも神様とのコミュニケーション、対話があるということです。そのことを喜ぶのです。時に神様に嘆いたり、訴えたりということもあると思いますが、それでも神様と一緒に生きることやめないのです。私どもに先立って歩んでくださる神様の後ろに立ち、ついて行くのです。それが本来、神に造られた人間の姿であるということです。だから、人間は神の目に尊い存在なのです。「神よりも僅かに劣る」とおっしゃってくださるほどに、「あなたはわたしと本当に近い存在なのだよ」とおっしゃってくださるほどに、人間は素晴らしい存在であるということです。月よりも星よりも宇宙よりも遥かにあなたのほうが光輝いているというのです。
だからこそ、神様は7節以下にあるように、「御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」と歌うのです。この部分も、先程の創世記の続きの言葉と重なり合う部分です。創世記第1章28〜29節。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』 神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。』」つまり、神様は御自分のお造りになった世界を正しく統治し、管理する働きを人間にお与えになりました。これもよく誤解される御言葉でもありますが、人間が自分たちの思いのままにこの世界を支配することができるという意味ではありません。何よりも神との交わりを第一にして、その神の御心に仕える思いをもって、与えられた場所で、与えられた働きに生きるのです。このことこそが神の栄光をあらわすということであり、神が私どもに望んでおられる生き方です。
しかし、聖書が語る人間の現実は、初めに造られたアダムとエバの堕落によって、その尊さをすべて失ってしまいました。神と共に生きることができなくなり、それゆえに、神ではなく人間を、自分を賛美する生き方をするようになりました。私どもが生きるこの世界も自分のいのちも神から与えられたことを忘れ、自分の思いどおりにすることが一番幸せなことだと思い違いをするようになりました。あるいは、「自分が人間である」ということに喜びを見出すことができず、儚さや虚しさの虜になってしまいました。神を忘れてしまっているからです。
しかし、神は私どものことを御心に留めてくださり、顧みてくださいました。時が満ちた時、神は御子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになりました。神でありながら、同時に、私どもと同じ人間としてこの世界に生まれてくださいました。主イエスが、人間としてこの世界にきてくださった。このことの中に既にもう私ども人間への愛が示されているのです。神の義しさのゆえに、否定され滅んでもおかしくない人間が、肯定され受け入れられているのです。新約聖書ヘブライ人への手紙第2章6節以下では、本日の詩編第8編の御言葉を引用し、イエス・キリストのことについて語っています(新約402頁)。「ある個所で、次のようにはっきり証しされています。『あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。 あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。』『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」手紙の著者は、詩編第8編が語る「人間」や「人の子」について、それは「イエス・キリスト」のことであると理解します。ただこれも誤解されると困るのですが、イエス・キリストは、天地を造られた父なる神に比べて劣っているということを言おうとしているのではないということです。また、イエス様は天使よりも低い存在だ。そういうことを言おうとしているのでもないのです。
イエス・キリストはまことの神であられます。しかし、先立って読んでいただきましたフィリピ書の御言葉にもありましたように、主イエスは神の身分でありながら、神と等しいことに固執しようとは思わず、自分を無にし、しもべとなり、私たちと同じ人間となってくださいました。
最初に神に造られた人間であるアダムは堕落しましたが、イエス・キリストは「新しいアダム」として、本来人間が歩むべき正しい道を、神の前に忠実に歩み抜いてくださいました。その歩みは、十字架の死に至るまで従順なものでした。イエス・キリストこそ、人間として最も低く、最も貧しい仕方でこの地上を歩まれたお方です。十字架は人間の無力さ、儚さ、また罪人としての愚かさや悲惨を示すものです。しかし、神は主の十字架をとおして、御自分の栄光を現わしてくださいました。低きに降り、十字架で死なれた主イエスに、神は栄光と栄誉の冠をかぶせ、高く挙げられたのです。キリストによって救われるというのは、主の十字架の恵みによって、新しい人間に創造され、罪のゆえに失ってしまった神のかたちを回復することです。キリストからまったく新しいいのちを受け取り直すことです。私どもはイエス・キリストによって、神に造られた本来の人間らしさを、ようやく取り戻したのです。
詩編の御言葉を引用したヘブライ人の手紙の著者は、いまだにまことの神であり、まことの人であられるイエス・キリストに従っていない罪の現実があることを指摘しています。ヘブライ人の手紙を受け取った教会の人々も、当時、厳しい迫害の中にありました。夜空を見上げても、何の感動も生まれないのは、人間がこの世界と自然を思うままに支配してきたからでしょう。だから、空気が汚れて、本来綺麗に見えるものも見えないのです。しかし、もっと大きな問題は、罪の根っこにあるのは、私どもに栄光と威光の冠を授けてくださった神のお姿が見えなくなっていることです。そして、神を見失うところで、自分の尊さも他人の尊ささえもよく分からなってしまいました。
詩編第8編は2節と10節にあるように、賛美に始まり、賛美の言葉をもって終わっています。5節の「人間とは何ものか」「人の子とは何ものか」…。この言葉もまた礼拝の中で、夜空を仰ぎ見るところで、驚きと感謝をもって歌われたものでした。詩人が夜空の輝きの奥に神の素晴らしい創造の御業を見たように、今、私どもはイエス・キリストをとおして神の救いの御業を見ることがゆるされています。そこで初めて、人間の素晴らしさ、自分の尊さに気付かされるのです。神様は、私どものことをいつも忘れることなく心に掛けていてくださり、憐れみをもって近づき、訪ねてくださいます。この神の愛が私どもを真実に生かすのです。どれだけ自分の弱さや儚さ、また死に対して恐れるようなことがあったとしても、そのような私のことを神様が顧みてくださっている。この恵みの事実を心に留めるならば、私どもは強くあることができ、死を超えたいのちに生きていくことができます。どん底の中にあっても、そこで神が力を発揮してくださり、キリストとの豊かな出会いが与えられることを信じる信仰へと導かれていくのです。神様の前にある自分の尊さを覚え、神様が私どもに与えてくださった働きに喜んで参与していきましょう。お祈りをいたします。
天と地をお造りなり、それらを統べ治めておられる父なる御神。私どもを罪から救い出してくださったイエス・キリストの父なる御神。あなたの御名を心から賛美いたします。人間とは何ものであるのか、そのこと真剣に問いたくなるほどに、自らの貧しさや弱さを覚えることがありますが、それ以上に、そのような私を顧みてくださり、救いの恵みの中に招き入れられている自分であることに、深い畏れと喜びを覚えます。神でありながら、私たちの同じ人間として、この世界に来てくださったイエス・キリストをいつも仰ぎ見ることができますように。神様との関係の中で、自分の尊さを知り、御国の前進のために仕えていくことができますように。主の御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。