2022年01月23日「献げて、戦う」
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使徒言行録 4章32節~5章11節
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聖書の言葉
4::32信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 36たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、37持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。5:1ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、2妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。3すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。4売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 5この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。6若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。7それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。8ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。9ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」 10すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。11教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。使徒言行録 4章32節~5章11節
メッセージ
次週は今年度の定期会員総会を予定しています。本日、礼拝後に臨時小会を開催し、日時等の変更があるかもしれませんが、いずれにせよ、本日までにはお知らせするようにいたします。会員総会で扱う事柄は、週報の中にも記載していますが、簡単に申しますと昨年度の報告と新年度の歩みについて、神様の御前に感謝を表わし、献身の思いをもって新しく歩み出して行くことです。年間の行事予定等、すべてにおいて、まだ計画できていない部分もありますが、御言葉に導かれつつ、信仰の姿勢を整え直して新しい年も歩みを重ねていきたいと願います。年度の初めというのは、まだ不十分なところもあるのですが、しかし、そのような中において、いつも決算に関しては確定し、予算に関してはあらかじめ小会で承認したものを提案することになっています。そして、議事の中でも、決算や予算、つまり、会計に関する事柄はなるべく、丁寧に時間を割いて説明し、理解していただいたうえで、受け入れを諮ります。
要するに、「お金」のことが会員総会では大事な議題となり、それゆえに時間を割くというということです。予算を提案する前にも、小会や執事会でも協議・議論をしますから、その時間を含めるとずいぶんな長さになります。お金が大事だというのは、教会内の話だけではなく、皆様の普段の生活においても重要なのは言うまでありません。生きていくためには、働いて、お金を稼がないといけません。神の国と神の義を求めて生きるならば、必要なものがすべて神様から与えられる。このことも事実ですが、だからと言って、怠けて何もしないというのではなく、それぞれが神様から与えられた働き、遣わされた場所で仕えて生きていくのです。
しかし、お金や富というのは、時に危険なものに変わるということを私どもは知っています。時にお金が、偶像となり、神となるということさえあるのではないでしょうか。そして、お金が自分にとって神になる時、結局はそのお金や富に振り回され、自分自身を見失ってしまうのです。そして、このことは現代において起こった新しい問題ではありません。昔からある大きな問題です。ただ何年経っても、人間の心はお金や富を求める欲望から自由になることができません。自分が死ぬ時でさえ、お金がいのちを保証してくれると思ってしまうのです。たとえ、自分が死んでも、自分の名前や名誉や業績は残る。財産も子どもたちに分け与えることができる。だからこそ、お金はあればあるほどいいのだと思い込んでしまうのです。
キリスト者は、そのような思いから解き放たれて生きることができるようになったということです。お金も持ち物もすべては神様から与えられたものであり、死を前にした時も、死んだ時も私のいのちを保証するのはイエス・キリストが与えてくださった永遠のいのちだけだと信じているのです。しかし、そこで間違ってはいけないのは、お金自体、決してわるいものではないということです。一歩間違えると危険なものになることには違いありませんが、お金も神様が与えてくださった大切なものです。でも、教会の中ではこういう意見があるかもしれません。「お金の話をするなんて、あまりにもこの世的過ぎます」というふうに。事実、キリスト教会もまたお金が原因で大きな問題が生じるということも起こったこともありました。だから、「もっと霊的な話、もっと信仰の話をしましょう。どうしたら元気に伝道できるかを話し合いましょう。」そっちのほうが、如何にも教会的ではないですかという意見の人もいると思うのです。
もちろん霊的なことも大切です。しかし、教会会計のことや献金のこと、つまりお金全般のことは、本当に教会生活や信仰生活において、たいした問題ではないのでしょうか。赤字にならず、何とか教会が回っていけば、それで済む問題なのでしょうか。どんな組織や集まりでも、お金がないと何もできないから、教会も同じように予算や会計のことをちゃんと決めて、前に進んで行きましょうということなのでしょうか。決してそういうことではないのです。お金が大事なのはキリスト者の人も、そうでない人も知っています。お金はわるいものではないのです。生きていくうえでなくてはならないものです。だとしたら、教会会計や献金のことを、私どもは御言葉からどう学び、どう理解しているかということです。しかも、間違って理解するのではなく、正しく理解することです。そのことによって、教会内の生活だけでなく、私たちの生活全体までもが大きく変えられていくのではないでしょうか。
本日は「使徒言行録」の御言葉を聞きました。聖霊降臨によってキリスト教会が誕生し、その最初の様子を著者のルカは記します。お読みしませんでしたが、第2章42節以下に次のように、当時の教会の様子が記されています。新約聖書217頁。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」
第2章44節と45節にこうありました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」ここと重なる御言葉が
本日の第4章32節です。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」イエス・キリストの十字架と復活により、救いの恵みにあずかった者たちは、キリストの新しいいのちに生かされます。そして、聖霊の働きによって生まれた教会に集うキリスト者たちは、そこで新しい生活をするようになりました。人々から好意を寄せられたとありますように、周りの人々を驚かせました。これまでには見たこともない新しい生活を、キリスト者たちは生き始めていたからです。それが、すべての者を「共有」する生き方でした。財産や持ち物を売り、それをお互いの必要に応じて、分配したのです。これまでのように、お金や富を欲する思いに捕らわれるのではなく、それを分け与え、共有する生き方を新しく始めることができるようになりました。このことにおいて、32節にあるように、彼らは「心も思いも一つに」して生きたのです。
この箇所を読む時、よく「共産制の最初の姿」があるとか、「マルクス主義のお手本」がここにある。そのように言われることがあります。要するに、皆、持ち物を持ち寄って、それを互いに分け与えることによって、皆平等になり、平和な社会になるということです。それを教会が最初に実践したのだというのです。あるいは、この箇所を読むと、洗礼を受けて教会員になったら、自分の財産を全部教会に献げないといなくなるのか。もし献げなかったり、その額が少なければ裁きに遭うのだろうか。そんなこと恐ろしい思いをするなら、教会には行きたくない。そう思われてしまうかもしれません。
しかし、キリスト者たちを生かすその原動力となっているのは、信仰そのもののです。博愛や慈善の精神で、財産や持ち物を共有しているのではありません。イエス・キリストの十字架と復活によって救われたというその恵みが、教会員を新しいいのち、新しい生活に導いているのです。心も思いも一つにし、すべてを共有する生き方は、教会でよく聞く言葉で言えば「献身」の具体的な表れであり、私どもの献身・奉仕を支えるその土台にあるのは、イエス・キリストが私どものためにすべて献げて仕えてくださったという恵みの事実があります。
また、33節にはこうありました。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」使徒たちの福音宣教の働きを支えていたのも、自らの力でありません。「大いなる力をもって」とありますように、神の霊の力によります。「皆、人々から非常に好意を持たれていた」というのは意訳でして、「好意」というのは「恵み」という意味です。ですから、「大きな恵みがそのすべての者の上にあった」ということです。神の力と恵みによって、復活の主を証し、教会と建て上げる力が与えられていったのです。
また、私どもは、キリスト者になったら、持ち物すべてを教会に献げなければいけないという決まりはありません。私どもがそれぞれ持っている物は、神様がこの私のために与えてくださった物です。そういう意味で、自分の物は自分の物であって、他人の物ではありません。自分の物だからこそ、自分にしかできない働きがあるのではないかと真剣に祈り、考えることもあると思います。しかし、その上で、自分の持ち物や自分の権利に固執することなく、自由にまた自発的に献げることもできるし、実際にそのように、教会の人たちはしていたのです。だからこそ、「一人も貧しい人がいなかった」と34節で言われています。このこととの関連で思い出されますのは、旧約聖書・申命記第15章4節の御言葉です。「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる…」貧しく者がいなくなるのは、その理由があるというのです。それは、神様がイスラエルの民を祝福してくださるからです。そして、その神の祝福は、御言葉に聞き従う従順さの実りとして与えられていきます。その一人に、36節に記されているように、「バルナバ」という人物がいました。後に、パウロと一緒に伝道した人物です。彼もまた、持っていた畑を売り、その代金を教会に献げたのです。
このように、ルカは聖霊の力と祝福に満ちた教会の姿を描きます。しかし、その直後に、神と教会に背を向けるこの世の現実が記されます。それが第5章1節以下の物語です。1〜2節。「ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。」代金をごまかしたということですが、「ごまかす」という言葉ですが、元々は「取り除く」とか「一部を自分用に取り分ける」という意味です。そこから「盗む」「ごまかす」というふうにわるい意味にもなりました。アナニアとサフィラの夫妻は相談したうえで土地を売り、代価を得ました。そのこと自体がわるいことではありません。また、代価の一部を取り分けることも、責められるようなことではありません。私どもも、収入のすべてを教会に献げるわけではないのです。年度ごとに、月ごとにどれだけ教会のために献げ、どれだけ取り分けるかを神様との関係の中で考えます。時によっては、あらかじめ取り分けておいた額よりも多く献げたり、あるいは、少なくなることも当然起こり得ます。アナニアとサフィラの夫妻も、最初はそのように、土地の売り上げの代金を、自分のために取り分けたに過ぎないのです。
では、アナニアとサフィラの何が問題だったのでしょうか。3〜4節。「すると、ペトロは言った。『アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」ここで問題になっているのは、献げた金額が多いか少ないかではありません。自分たちの土地を売らずに、そのままにしておくことも当然許されました。けれども、アナニアとサフィラは土地を売ることを決め、その一部の代金を献げることを決めました。しかし、本当は代金の一部を献げたにもかかわらず、「これがすべての代金」ですと言って、二人は嘘を付いたのです。ペトロはこのことを、「あなたはサタンに心奪われたのだ」と言っています。しかし、これはすべてがサタンの仕業、サタンのせいだということではなく、9節にあるように、二人で示し合わせ、心の中で企んだことでもあります。
なぜアナニアとサフィラは、嘘をついてまで献げようとしたのでしょうか。決して、使徒たちは財産をすべて持ってくるように要求はしていないのです。ペトロが言うように、自分の思いどおりにできるのです。献げ物は自由だからです。それなのに、一部をすべてと偽ったのは、第4章36節に出てきたバルナバのような評判や名声がほしかったからではないでしょうか。要するに、他人と比べての献金をささげたということです。あの人はいくらくらい献げたのだろうか。どれくらい献げれば恥ずかしくないのだろうか。そんなことばかり考えていたということでしょう。そして、何よりも心から喜んで他の人と分かち合って生きようとする思いが欠けていました。名誉や評判を得ることが目的であり、主イエスの十字架と復活の恵みが共有されていないのです。新しいいのちに生かされた生活がそこにはないのです。聖霊ではなく、サタンの支配のもとで、欲望の思いに捕らえられていました。
そして、このことはペトロの言うように、人間を欺いたのではなく、神を欺く行為であるということです。代金をごまかしただけではないか、ちょっと嘘を付いただけではないか。人間的な思いからすれば、そう思うかもしれません。しかし、たとえ、些細な嘘やごまかしでも、聖霊が教会に働く現実の中では、まさに聖霊そのものを否定することであり、キリストに背くことです人間ではなく、神を欺くことなのです。だから、ペトロはなぜ「私たちを」欺いたのか、とは言っていません。分かち合う新しい生き方は、人間の善意や力ではなく、神の大きな恵みのゆえにできることなのです。しかし、アナニアとサフィラは聖霊を利用し、自分たちも褒められ、尊敬されたいと思いました。つまり神を欺き、教会をも裏切ったのです。
そして、アナニアとサフィラの物語を読んでいて、ある意味、たいへん衝撃的なのは、神を欺くかたちで献げ物をささげた二人が、神の裁きによって、死んでしまったということです。5節に「そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」とあります。11節にも、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と記されています。当時の人にとっても今日の私どもにとっても恐れを呼び起こす物語であることに変わりありません。私どもにとっても、生きるか死ぬかの大事な問題が、実はここに記されているということです。
アナニアとサフィラは、神の怒りを買い、裁かれて然るべきかもしれませんが、それにしても死ななければいけないほどの罪だったのだろうか。あまりにも厳しすぎるのではないかと思うのではないでしょうか。それに一度過ちを犯しただけで、どうして、悔い改めてやり直す機会を与えてあげなかったのかというふうに、色々とこの物語を読む者たちは思うわけです。なかには、あまりにも厳し過ぎるし、納得できない部分も多い。だから、この物語は作り話ではないかと言う人もいるほどです。
色んな人が色んなことを言うのも事実ですが、では、私どもはこのアナニアとサフィラの物語から何を学ぶことができるのでしょう。神は私どもに何を伝えようとしているのでしょうか。そして、この物語を聞く時に抱く深い恐れというものを、私どもはどう受け止めたらいいのでしょうか。アナニアとサフィラの罪は神を欺いたことであり、また9節にあるように、主の霊である「聖霊」を試すことでした。そのようなわるい思いに突き動かしたのは、「これは私のものだ」「少しでも多くの物を持っておきたい」という「欲望」や「貪欲」です。お金や物に捕らわれている心です。私どもも、そのような欲望に支配されてしまうことがあるのではないでしょうか。キリスト者として、そのような思いに捕らわれることはいけないことだ。御心に適わないことだと、どこかで気付いているのだと思います。しかし、それでも誠実になることができず、色んな言い訳を考えてしまいます。嘘を付きます。どうしてもこれだけは所有しておきたい。誰にも奪われたくないし、分け与えたくもない。そう思い始める時、私どもはいくらでも自分を弁明することができるものだと思います。
「使徒言行録」を記したルカという人は、それに先立って「ルカによる福音書」を書きました。この福音書を読みますと、改めて気付くことがあります。それは、お金や富の問題について実に多くのことを記しているということです。一つ一つ丁寧に取り上げる時間はありませんが、一つだけ、ルカによる福音書第12章13節以下に、「愚かな金持ち」と呼ばれる譬え話があります。そこに登場する金持ちは、自分が所有する多くの物によって、自分のいのちさえも保証できると勘違いしました。これから先、何年も生きていくだけの多くの蓄えができた。さあ、あとは食べて飲んで、好き勝手できると思ったのです。しかし、神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とおっしゃいました。主イエスはおっしゃいます。有り余るほど物を持っていても、財産によって人のいのちを保証することなどできないのだと。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならなければ、まったく意味がないのです。
人はなぜ貪欲の虜になり、お金をはじめ多くの物に頼ろうとするのでしょうか。それはどこかに不安を抱えているからだと思います。自分の弱さ、限界を知っているからだと思います。だから多くの物で自分の不安や弱さを満たし、自分のいのちを保証したいのです。その気持ちを否定する人は誰もいないでしょう。しかし、そこにサタンが入り込むのだというのです。宗教改革者マルチン・ルターは、「保証は究極的偶像礼拝だ」と言いました。最初に申しましたように、お金は偶像の神になります。貪欲も神になります。つまり、自分が神になり、自分が豊かになるところに幸せがあり、自分のいのちさえも保証できると思い込んでしまいます。
しかし、イエス・キリストによって救われ、聖霊に満たされた教会に生きるというのは、そのような物や保証や貪欲から解放され、まことの神を神として生きることができるようになったということです。十字架で死んでくださるほど貧しくなってくださった主イエスのゆえに、私どもは神様の前に豊かな者とされました。霊的な豊かさも物質的な豊かさも、すべてキリストの恵みによるのだということを信じることができるようになりました。その喜びの中で、キリスト者たちは自発的に献げ物をし、共有して生きることができました。
もし、その恵みを忘れ、神を欺き、聖霊を試みようとするならば、アナニアとサフィラのように神の裁きを招きます。無事では済まないのです。「聖霊の宮」と呼ばれる教会が、罪にまみれたまま、あり続けることなどできません。なぜなら、神を欺く罪をそのまま放置することは教会の死を意味するからです。私どもは普段嘘を付いたり、裏切ったり、あるいは、時に相手を思いやるために敢えて本当のことを言わないということもあるでしょう。しかし、問題となっているのはそういうことではなくて、「聖霊の宮」である教会において、あなたがたは真実でいなければならない。嘘偽りがあってはいけないということです。神の霊によって生まれ変わった者にふさわしく、真実に生きるように。誠実に生きるようにというのです。聖霊のもとでは喜びがあり、自由といのちがあるのです。貧しい者が一人もいないという祝福がそこにあります。反対に、ごまかしと嘘がまかり通るサタンのもとでは、滅びしかないのです。
最後11節に、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とありました。使徒言行録は、聖霊の働きによって生まれた教会の様子を記しますが、実は「教会」という言葉が初めて用いられるのがこの第5章11節なのです。それまでは、「兄弟たち」とか「信者たち」という言い方をもって、教会のことを言い表していました。意外な感じがいたしますが、それだけにここで初めて「教会」という言葉が用いられていることによって、「教会とは何であるか」ということが明確になっているのではないでしょうか。教会とは、「祈りの家」であるとか、「神を礼拝する場所」であるとか、「神に招かれた者が集まるところ」とか、色々と言うことができるのですが、ここで示されている「教会とは何であるか?」ということです。「教会にとってなくてはならないものとは何か?」ということです。それは、神に対する「恐れ」であるということです。それは、神様が「お前たちはちゃんとしないと滅すぞ」とおっしゃっているから、恐れるのではありません。本当は滅ぼされておかしくない私どもが、キリストの十字架のゆえに救われたからこそ、真実に神を恐れるのです。そして、主イエスの十字架と復活のゆえに、喜びと恐れは決して矛盾することはありません。神様の御前にあることを恐れつつ、喜んで生きる道を主イエスが拓いてくださったのです。
教会会計やそれぞれが献げる献金について考えることは、教会のことだけでなく、同時に自分自身の生活全体について考えることと深く結びついています。お金は言うまでもなく大事なものだからです。それゆえに、サタンはいつにも増して、私ども神からを引き離そうと誘惑してきます。富や貪欲を神として生きるように唆してくるのです。だから、私どもはますます、神の御前で真実でいなければいけません。そして、教会は聖霊の力によって、罪と戦わなければいけないのです。何者にも縛られることなく、聖霊の働きの中で喜んで自由に献げて生きること。この信仰に生きることにおいて、私どもが心と思いにおいて一つになること。ここに、この世では見ることができない神の祝福があるのです。新しい一年も、神様の御前にあることを恐れつつ、喜びつつ、献げて生きる喜びに、また、分かち合う喜びの中を共に歩んで行きたいのです。お祈りをいたします。
聖霊によって、教会を豊かに満たしてください。身も魂も私たちの救い主イエス・キリストのものとされた喜びによって、私どもの歩みが形づくられていきますように。日々、神の御前にあることを覚え、私たちの信仰の姿勢を正し、整えていくことができますように。主に従うことによって、見えてくる確かな祝福に、この一年も私どもを生かしてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。