2022年01月16日「神を求めよ!」

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神を求めよ!

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 14編1節~7節

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聖書の言葉

1【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。2主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。3だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。4悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。5そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。6貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。7どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。詩編 14編1節~7節

メッセージ

 時に私どもは深く嘆くことがあります。実際に言葉や声に出さなくても、心のどこかでは、誰かに嘆き訴えたい思いというものを持っているのではないでしょうか。今、自分が置かれている状況が厳しければ厳しいほど、嘆きの声も大きくなることでしょう。

 先程共に聞きました詩編第14編もまた、深い嘆きをもって始まっています。自分自身のことというよりも、この世界が抱えている現実、つまりここでは、神の民イスラエルの現実を見て、詩人は深く嘆くのです。いったい何を嘆いているのでしょうか。何が嘆きの一番の原因になっているのでしょうか。詩人は言います。「神を知らぬ者は心に言う/『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」嘆きの原因となっているのは、イスラエルの民の信仰です。「神などない」と言っているというのです。しかし、これはいわゆる無神論者ということではありません。あるいは、最初、神を信じていた人が、何か辛い経験をして、「私をこんな酷い目に合わすのは神など、神の名に値しない。だから、神などいないのだ」と結論付けたわけでもありません。「神などない」と言っているのは、神を信じて生きているイスラエルの民です。だから、もちろん彼らは、神が生きて働いておられることを信じています。ただ問題はここからです。神がおられることを信じていながら、まるで神がいないかのような生活をしているということです。要するに、神に従っていないということです。神の言葉がはっきりと聞こえていながら、聞こえない振りをして生きているのです。神の言葉、神の恵みに感謝し、応答しようとしないのです。神との交わりに生きようとしないのです。

 また、1節の初めの言葉をよく見ますと、「神を知らぬ者は“心”に言う」と記されています。「心に言う」というのは、口では直接言っていないということです。信仰者がもし、「神などない」と言えば、大きな問題になります。イスラエルの一員として、人々との交わりに生きることもできなくなるでしょう。だから、「神などない」と思っていながら、その本音を口にすることなく、自分の心の奥に隠すようにして生活をしているというのです。しかし、人の目を誤魔化すことができても、神の目を誤魔化すことなどできません。詩人の目にも、人々の信仰の姿がはっきりと見えていました。だから、「神を知らぬ者は」と初めに言っています。これは「愚か者」という意味です。また、「人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない」と言って、彼らの信仰を厳しく批判します。そして、「神などない」と思って生きる時、その生活の姿は必ず形として表われてきます。「忌むべき行い」というのは、異邦人が信じる神々を拝み、偶像礼拝に生きることです。また、人間関係においても亀裂が生じてきます。正しい男女の交わりができなくなり、暴力が横行します。また、不平等な社会となり、弱い者、貧しい者が顧みられることがないのです。

 「詩編」やその後に記されている「箴言」において、いや、聖書全体が語る大切なメッセージの一つは、「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111:10、箴言1:7)ということです。人間は何をもって、「賢い」と言うことができるのでしょうか。私どもが何よりも先に、身につけるべき知恵とは何でしょうか。この一点が欠けてしまうならば、人間が人間でなくなってしまうほどに大切な知恵とは何でしょうか。それは、神を畏れ敬うことです。神を礼拝し、神の言葉に従って生きることです。この詩編第14編も、先週の詩編第1編と並んで、「知恵の詩編」と呼ばれています。詩編第1編でも、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」こそが「幸いな人」だと言われていました。本日の詩編では、こういう人が幸いだという具体的な言い方はなされていません。しかし、「主を畏れることは知恵の初め」というメッセージがここにも貫かれています。それにもかかわらず、「神などない」という現実があるということ。口には出さなかったら、神を否定して生きてもいいのだと言う者。神ではなく、自分こそが知恵に頼り、賢い者であると思い込んでいる者。そのような愚かな者たちの姿を見て、詩人は深く嘆くのです。しかも、彼らはまことの神を知らない異邦人ではありません。神の憐れみによって、選んでいただき、神様のものとしていただいたイスラエルの民の中に、このような愚かさがあることを見て、嘆いているのです。「人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」

 そして、嘆いているのは、詩人だけではありません。詩人よりも、誰よりも深く嘆き、そして、怒りを覚えておられるお方がおられます。それが主なる神様です。2節。「主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」神様は天から探しておられるのです。目覚めた人、神を求める人を、どうしても見つけたいと願っておられます。「目覚める」というのは、「凝視する」「洞察する」という意味です。そこから「賢い者」と訳されることもあります。「どのような時も、神のことをじっと見つめ、神からいただく恵みの言葉と知恵によって生きている者たちを、わたしは探したい。わたしを求める者を早く見出したい。」神様はそう願っておられます。なぜなら、人間は神様によって造られた存在であり、神様からいのちを与えられた者だからです。人間をお造りになった時、「極めて良かった」と言って、心から喜んでくださいました。神に背を向けることがあっても、神様は私どもを憐れみ、救いの御計画を立ててくださいました。そのために、神様はまずイスラエルの民を選んでくださったのです。

 主は探しておられるのです。目覚めた人、神を求める人を。果たして、神の願いどおり、御心に従う者が見つかったのでしょうか。再び、神を喜ばせ、満足させる者たちは表われたのでしょうか。神は天の上から、地上を見下ろし、一目パッと見て、「ああこの世界はダメだ」というふうにすぐに判断をくだしたわけではないでしょう。神が「目覚める者」を求めたように、神御自身も私ども人間一人一人をじっと見つめておられたに違いありません。一人一人のものを訪ねるようにして、「あなたはわたしに従っているか?」「他のものに心を奪われず、わたしを真っ直ぐ見つめて歩んでいるか?」そのように聞いて回ったのではないでしょうか。「探す」というのはそういうことです。どうしても「見出したい」という熱心をもって、神様は探されるのです。そして、探し回った結果どうだったのでしょうか。「わたしを信じる者がここにいた!」と言って、喜ばれたのでしょうか。

 残念ながら、そうではありませんでした…。3節にこうあります。「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」「善を行う者」、つまり、神を畏れ敬って生きる者たちのことです。神を愛して生きる者です。そのような者が、「ひとりもいない」と言うのです。百人しかいなかった。十人しかいなかったというのではありません。「ひとりもいない」というのです。はっきりとここで、神は断定しておられるのです。「現時点ではひとりもいないが、やがて、わたしを畏れ敬う多くの者が見つかるだろう」というのではありません。将来に希望を託しているわけではありません。すべての者たちをご覧になり、その上で「ひとりもいない」と言って、はっきりと断定をし、結論を出しておられるのです。また、次の4節にも「悪を行う者は知っているはずではないか。パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/主を呼び求めることをしない者よ。」主を呼び求めることをせず、自分の知恵や賢さを頼りに生きようとする時、その生活が1節にありましたように、忌むべき行為となって表われ出てきます。「パンを食らうかのようにわたしの民を食らい」というのは、世の支配者たちによって、貧しい者たちが食い物にされている現実です。

 「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」ここまで言われると、私どもはどうしていいか分からなくなるでしょう。しかし、それ以上に「どうしたらいいのか…」と深く嘆いておられるのは神様であるということです。信じていたけれども、ついに、「ひとりもいなかった」と言って、神は心を痛めておられるのです。神は求めておられます。目覚めた人を!神を求める人を!この神様の思いは、詩編の中に突如表われたというのではなく、聖書の最初に記されている「創世記」から既に語られていることでもありました。創世記の中に、「ノアの箱舟」と呼ばれる物語が記されています。創世記第6章5節以下に次のような御言葉があります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』」(創世記6:5-7)

 神様が地上をご覧になった時、そこには悪が増し、人は心に悪いことばかりを思い計っていました。そこで、神様は全地を大洪水によって、ノアとその家族以外の者をすべて滅ぼしてしまわれたのです。驚くべきことは、「わたしはこの世界を造ったことを“後悔”する」と神様がおっしゃっていることです。まるで、「この世界を造ったこと、あなたを造ったことは失敗だった。大きなわたしのミスだった」と言っているかのようにも聞こえます。天地創造の御業のあと、「極めて良かった」とおっしゃったのは嘘だったのか?結局、私もこの世界もあってもなくても、どっちでもいい軽い存在だということなのか?そもそも、神様が失敗するとか、後悔するということがあるのだろうか?色々と疑問が生まれます。しかし、神が「後悔した」というのは、文字どおり理解するのではなく、後悔したいほどに「深い悲しみ」を覚えておられると、理解すべき言葉です。自分がしたことを「後悔した」としか言いようがないほどに、神様は御心に従わない者たちのことで心を痛められたのです。そして、御自身の正しさ、聖さを貫くために、裁きをくださなければいけませんでした。

 また、同じ創世記第18章には、「ソドムとゴモラ」と呼ばれる物語が記されています。創世記第18章20節以下をお読みします。「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。』その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。』」(創世記18:20-26)

 アブラハムは、神様の前に立ちはだかり、ソドムの町にいるかもしれない正しい人のために、必死で執り成しをします。アブラハムは五十人から始めて、十人まで数を下げていきます。アブラハムは言うのです。「『主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。』主は言われた。『その十人のためにわたしは滅ぼさない。』」(創世記18:32)神様はアブラハムの執り成しを受け入れます。「その町にいる正しい者のために裁くことはしない。」ところが、いなかったのです。ひとりもいなかったのです。そして、ソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいます。

 また、新約聖書の時代において、使徒パウロは、本日の詩編第14編を引用してこう言うのです。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』」(ローマ3:9-12)ここではもう詩編のように、イスラエルの民に限定されていません。ギリシア人もローマ人も、つまり、すべての人々が神を求めず、善を行わず、皆、神の道から離れ、彷徨っているというのです。

 「正しい者はいない、一人もいない。」「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」この御言葉は、元々、神の民イスラエルに向けて語られた言葉でした。まだ神を信じていない者たちに向けて語られた言葉ではないということです。今日で言えば、「教会」に向けて語られた言葉であるということです。まだ洗礼を受けていない求道者や未信者の方に向けて、「正しい者、善を行う者は一人もいない」と言っているのではないということです。私どもはこの世の現実を見て嘆くことがあります。このような闇が存在するのは、人々がまだまことの神を知らないからではないかと批判することもあるでしょう。そのように、私たちが生きる世界が抱える闇の現実をしっかり見つめることも、キリストの福音を伝えるうえで大切なことに違いありません。しかし、「この世の闇は深い」と嘆きつつ、どこかで自分たちは関係ない。なぜなら、もう私たちはキリストによって救っていただいたのだから、と思ってしまうことがあります。

 しかし、この世の闇の現実や罪の現実について、既にキリストのものとされた私どもには関係がないのでしょうか。私どもは高い所に立って、この世界を眺め、「何て酷い世界だ」「誰も神を求めようとしない」と言って、嘆いていればよいのでしょうか。決してそうではないのです。聖書は、神を信じて生きているはずのあなたがたの中にも、「神などない」と、どこか冷めた思いで生きている者がいる。神を知りながら、その神の思いに応え、生きようとしない者がいる。神を求めてはいるかもしれないけれども、それは結局自分の益になるものを手に入れたいがために、神を呼んでいるだけではないか。あなたは神御自身を、神そのものを呼び求めているのではない。ただ神を利用しているに過ぎないのではないか。聖書はそうはっきりと語ります。「主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。…」この御言葉を前にして、私どもは何も言い訳することができません。救いの恵みにあずかりながら、どうしたらいいのかと途方に暮れます。もし、口にすることができるとするならば、「主よ、憐れんでください」と祈るほかないと思います。

 詩編にしろ、パウロにしろ、善を行う者も、正しい者も、神を求める者もただの一人すらいないのだと言います。しかし、そう語る目的はいったい何なのでしょうか。私どもを絶望に突き落とすためでしょうか。キリストに救われたのに、御心に適わない生活をしていたら、最後は滅ぼされるだけだということを言いたいのでしょうか。神様は、善を行う者、目を覚まして神を見つめ、神を求める者をお探しになったけれども、誰一人として、そのような者たちはいなかったと、はっきりと結論付けていました。しかし、この詩編第14編は、「ひとりもいない」と語りつつ、後半の5節以降で大きく転換しているのです。別の言い方をすれば、最初に言っていたことと、最後に言っていることは明らかに矛盾しているということです。「神を求める者は一人もいない」と言われるのですが、5節の後半を見ると、「神は従う人々の群れにいます」という言葉があります。神に従う人々がいるという事実があるのです。その群れの中に神が確かに共にいてくださるという約束です。次の6節では、世の権力者たちによって、貧しい生活を強いられている者たちを、主が必ず守り助けてくださるという約束がなされています。彼らの避けどころ、避難所になってくださるといのです。最後の7節では、神様はイスラエルの民のことを「御自分の民」と、はっきりおっしゃいました。「あなたはわたしの民だ」と言って、神様とイスラエルの関係を改めて明らかにしてくださるのです。そして、神御自身があなたがたを神のもとに連れ帰り、救いを与え、喜びで満たしてくださるという素晴らしい祝福が語られています。

 神を求める者が、「ひとりもいない」というのは、決して、嘘ではありません。既に救いの恵みにあずかっている私どもでさえも、神様の悲しませてしまうことはたくさんあります。使徒パウロも、救われていながら、自分が望むことを行うことができず、憎んでいることを行ってしまう。自分の望む善を行うことができず、望まない悪を行っている。そのように、まだ罪の現実に苦しむ自分に対して、「わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。

 しかし、私たちの神は、いつも神を求める者たちを探しておられるのです。神などないような生活をしてしまったとしても、「わたしはあなたを見出したい」と願っておられます。神様の御心は、罪人を滅ぼすことでなく、救うことだからです。神の救いというのは、パウロも語りますように、「正しい者は一人もいない」という罪の現実の中に与えられていきます。本当に奇跡としか言いようのない出来事です。パウロはこのように言います。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:21-24)私どもは罪を犯し、神の栄光を受けられなくなった。そのあと続く言葉は、普通、「それゆえに、滅ぼされる」という言葉でしょう。しかし、私どもが救われるというのは、私どもにとって矛盾としか言えないような大転換起こるということです。罪のゆえに神の栄光を受けられなくなっている。「だから、キリストの恵みによって、神の前に義とされ、救われる」というのです。

 「神などない」と言う、愚かな罪人のために、イエス・キリストが天からこの地上に降って来てくださいました。高い天の上から私どもを探すのではなく、神でありながら、自ら貧しく低くなり、本当にこの地上に降って来てくださったのです。それも私どもと同じ人間として、私どもと共に歩んでくださったのです。そして、本来、私どもが受けるべき神の裁きを、身代わりになって受けてくださいました。それがキリストの十字架です。十字架によって、私どもは神の前に正しい者とされ、救われたのです。神を呼び求める道が拓かれたのです。そして、いつも神が私どもの避けどころとなっていてくださるのです。善い行いをする者は「ひとりもいない」という現実の中に、神はキリストのゆえに、御自分に従う正しい者の姿を見出してくださるのです。

 詩編第14編5節後半からもう一度お読みします。「神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても/主は必ず、避けどころとなってくださる。どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。」主の日の礼拝は、私どもがイエス・キリストによって、神のもとに帰ることができたこと、神を求めて生きる者とされたことを喜び祝う時です。こうして、共に教会に集い、礼拝を共にささげていること。このこと自体が救いの出来事そのものであるということを、私どもは知ることができるでしょう。「神は従う人々の群れにいます」というふうにも詩人は語っています。神が共におられるという幸いを、私どもは自分一人だけで味わうのではないということです。神が共におられるということを、実はどこよりも強く実感できる場所があります。神に従う者たちが共に集う場所です。そのキリスト者たちの群れの中において、神がおられることを知る幸いが与えられるのです。それが教会であり、礼拝でありましょう。他にも教会では様々な集まりや交わりがあります。新しい一年も教会生活を大切しながら、主と共にある幸いの中を歩みましょう。神の恵みによって、ますます、神を心から求め続けていきましょう。お祈りをいたします。

 父なる神様、御名を賛美いたします。「わたしの心に適う者はひとりもいない」というあなたの言葉に深い恐れを抱く者です。しかし、そのような私どもを御子イエス・キリストのゆえに、罪から救い出してくださいました。何にも増して、神を求めて生きることを喜びとすることができるようにしてくださいました。感謝をいたします。「神などない」と思ってしまうほどの罪と絶望の中で、主よ、どうか私どもが目を覚まし、あなたを見続けることができますように。私どもを探し求めておられるあなたの思いに、また、あなたの悲しみにいつも心を向け、信仰の歩みを整えていくことができるようにしてください。主の御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。