2022年01月02日「今こそ、救いの日」
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今こそ、救いの日
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コリントの信徒への手紙二 6章1節~10節
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聖書の言葉
1わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。2なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。3わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、4あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、10悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。コリントの信徒への手紙二 6章1節~10節
メッセージ
本日は2022年最初の主の日の礼拝です。先日のクリスマスのように、一年の中でも特別な時であると言ってもいいでしょう。「今」がどんな時であるかが明確に分かるのが、この新年の時でもあります。しかし、2022年の1月1日とか1月2日という日付のことよりも、私どもは神様から信仰を与えられた者として、時を正しく知る必要があるのではないでしょうか。使徒パウロは言いました。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(2節)この御言葉は旧約聖書イザヤ書からの引用の言葉です。イザヤ書第49章8〜9節にはこう記されています。「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。 捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。」捕囚の民として生きていたイスラエルに対して、解放の時を告げる神様の言葉です。「わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。」パウロはこのイザヤの言葉をイエス・キリストのこととして理解しています。救い主イエス・キリストが、私たちを罪の奴隷から解放してくださった。罪に苦しみ、滅びる他なかった私どもを助け出してくださった。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」私どもは、キリストがもたらしてくださった新しい時を今生きている!パウロは叫ぶように、そう語るのです。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」ここで強調されているのは、「今」ということです。遠い過去でも、遠い将来の話でもありません。神の恵みはあなたの目の前にあり、神の救いはあなたをしっかりとつかんでいるのです。救われたというのは、今救われているということです。救いは今も確かなものであるということです。だから、救いはいつも今の話です。今日のことです。この瞬間の出来事なのです。また、今や恵みの時、今こそ救いの日というのは、自分の人生や計画が上手く行っている時だけ言えることではありません。むしろ、苦難の日々の中にあっても「今や」「今こそ」と言える恵みと救いが、私どもを覆っているということです。
パウロは1節でこのようにも言っています。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」考えてみますと、神様の恵みというのは、言い方はわるいですが、私どもが大事にしようが無駄にしようが、それに関係なく私どもを支えるほど確かなものだという面を持っていると言えるでしょう。そのとおりですが、しかし、パウロはここではそうは言っていません。絶対に無駄にするわけにはいかないという切迫感の中で、主イエスのために生き、働いていたのです。今しかない!今を逃してはいけない!なぜなら、今や恵みの時、今こそ、救いの日なのだから!私どももまた、パウロと同じ思いに立ち、今という特別な時をわきまえることができたならば、私どもの生き方そのものが大きく変えられていくに違いないのです。
では、「恵み」とは何でしょうか。「救い」とは何でしょうか。本日の箇所をより大きな区切りで見ると、第5章11節から始まっていると言うことができます。小見出しで「和解の任務」と記されているところです。その第5章14,15節に次のような言葉があります。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる」とありますが、「駆り立てる」という言葉は、色んな言葉に訳すことができます。「迫る」とか「ぐるっと周りを取り囲む」とか「板ばさみにされる」ということです。もうどこにも逃げ切れることができないほどの、キリストの愛の迫りによって、私どもは救われました。第5章17節の言葉で言うと、「キリストと結ばれ、新しく創造された」のです。すべてが変わり、すべてが新しくなりました。
宗教改革者ジャン・カルヴァンは、「今や、恵みの時」という言葉を、「今はよろこばしい時」と言い換えました。さらに、「無償の恩愛の時」というふうにも言っています。「恩愛」というのは、聞き慣れない言葉ですが、「恩寵」の「恩」に、「愛」と書きます。私どもに迫るキリストの愛というものは、無償の愛だというのです。神は私どもに代価を求めないということです。だからこそ、人間は簡単に神の愛を受け入れることができないのではないかと思います。人はどうしても代価を求めてしまうからです。これだけ愛したのだから、見返りにあれをしてほしい、これをしてほしいと言ってしまうのです。しかし、神様はそうではありません。その神様がキリストをとおして示された愛というのは、恵みとしての愛、無償の愛でした。御子イエス・キリストのいのちを十字架でささげてまでして、「あなたはわたしのものだ」とおっしゃってくださるのです。
私どもを圧倒する神の愛と恵みは、まさに溢れ出るように私どものところにまで及びます。ある説教者は、「私どもは神の恵みの中に溺れほどに浸り切っているか?」と問うています。神の恵みというのは、単に自分の願いや欲望を満たすものくらいにしか考えていないだろうか。恵みの中の恵み、それは主の十字架と復活によって日々赦され、生かされていることです。このことを、今与えられている確かな恵みとして感謝して生きてるいかどうか。主の恵みと赦しなしには、片時も生きていくことができない自分であることを知っているかどうかということです。
パウロは、そのことを第5章18節以下で、神との「和解」という言葉で言い表しています。神様に救われたというのは、神様と和解したということ、仲直りしたということです。今日も神様と手をつなぐように仲良く生きることができる。どのような時も、たとえ、苦難の日々の中にあっても、神の恵みを感じられないと言って不信仰に陥る時も、死を前にしたとしても、私の救い主でいてくださる主イエスは、私の手を取り、決して離すことことはない。この主の確かな御手に支えられて、生きることができます。私どもを苦しめる様々なものが迫って来ても、それに遥かに勝る神の愛の迫りが私どもの歩みを守ってくれるのです。神の愛によって、救われ、新しくされ、神の和解に生きる私どもは、生き方そのものもまったく新しくされたのです。自分のために生きるのではなく、私のために十字架に死に、復活してくださったイエス・キリストのために全生涯をささげて生きる者とされたのです。これこそが、今、神の救いの恵みに生きることであり、いただいた恵みを無駄にしない生き方です。
パウロの働きは、神がキリストをとおして与えてくださる和解を伝える任務に生きることでした。キリストの代理人として、「神と和解させていただきなさい」と福音を告げ知らせるのです。本日の第6章1節では「神の協力者」、4節では「神に仕える者」と言われています。このことはパウロ一人だけに言えることではありません。あるいは、牧師や伝道者だけに言えることでもありません。キリストの体であるすべての教会において言えることであり、教会に連なる私ども一人一人にも言えることなのです。皆、神の協力者、神と共に働く同労者として召されています。神様御自身が、私と共に働こうと声を掛けていてくださるのです。
パウロは、その主の御声に答えるようにして、神の僕として仕えていくことになります。そして、その働きの中で、パウロは4節後半から5節に記されているように、「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓…」といった多くの苦しみをも経験することになりました。それらを支えたのが、「大いなる忍耐」であったというのです。忍耐というのは、我慢したり、辛抱したりするということではありません。6節、7節にあるように、「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉」といった「神の力」そのものによって、その働きが支えられてきたのです。
だからこそ、3〜4節で、「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、 あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」と言うのです。「その実を示しています」というのは、以前は「自分を人々にあらわしている」と訳されていました。また、第5章12節に「自己推薦」という言葉があるように、自分を推薦するということです。あるいは、「私の本領を発揮する」「私が最も私らしく生きる」というふうに言い換えることもできます。伝道が上手く行っていると思える時も、そうでない時も、苦しみの時も、悲しみの時も、神に仕えて生きる時、そこで私が私としの本領が発揮される。最も私が私らしく生きることができたのだと、誇らしげに語るのです。これは決して、パウロが見栄を張っているわけではありません。苦しい時、どれだけ見栄を張って、自分をあらわしたとしても、それがどれだけ虚しいかは本人が一番よく知っていたでありましょう。パウロは心から訴えるように言うのです。「この私を見てほしい!どんなことがあっても、キリストの愛によって、喜びのうちに生かされている私を見てほしい。」
また、8節にはこうありました。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」ここで言われていることは、要するに、「評判」ということです。誰もが評判を気にしながら生きているのではないでしょうか。人のまなざしが気になって仕方ないのです。なかなか人の評価から自由になることができない自分がいます。何人かの人が集まって、こそこそ話していたら自分の悪口を言っているのではないかと気になります。かたや、自分の話題が取り上げられていないと、なぜ自分を無視するのだと怒ることもあるでしょう。周りの目線を気にし出したら、そのうちストレスが溜まり、息苦しくなり、病気にさえなってしまいます。でもここで言いたいのは、人の評価など気にするなということではありません。
パウロも人の評価を気にして生きていた人物でした。元々、キリスト教を激しく迫害していた人物でしたから、「使徒」としてパウロを受け入れない人が教会の中にもいたのです。だから、一所懸命パウロは自分が使徒として、神に召されたということを説明しなければいけませんでした。8節以下に次のような言葉があります。「人を欺いているようでいて」「人に知られていないようでいて」「死にかかっているようで」「罰せられているようでいて」「悲しんでいるようで」「貧しいようで」「無一物のようで」というふうに。これは実際、パウロが人々から言われていた言葉ではないかと言われています。「お前がしていることは人を欺いているだけだ」「お前は神を信じていると言うけれども、死にかかっているではないか」。そのようなことを言われて、いや言われるだけではなくて、捕らえられ、牢屋に入れられ、酷い罰を受けたパウロです。彼がそれでも何も感じなかったわけではありません。間違った仕方で、自分が見られ、評価され、酷いことをされることに耐えられなかったと思います。自分の名誉というよりも、自分が正しく理解されないことによって、自分が語るキリストの福音が受け入れられない恐れがあったからです。一所懸命、神と教会のために奉仕していれば、周りの目はまったく気にならないということでもないのです。私どもも、パウロとまったく同じとは言えませんが、それでも周りから色んな見方をされてしまいます。いい意味でも、わるい意味でも…。
しかし、パウロは、人々から辱められ、評価され、苦しんでいるところで、別の深い次元を見ていたのです。だから、褒められても、そしられても、悪評を受けても、好評を受けても、パウロは自由でいることができました。なぜパウロはそれらの評価から自由でいることができたのでしょうか。パウロは何を見つめていたのでしょうか。自分を責める者たちに、「あなたがたの言っていることは間違っている」「正しく私のことを理解していない」と言って反論したのでしょうか。あるいは、「言いたい人には言わせておけばいい」「私のことは私がよく知っているのだから、私を理解してくれている人の声にだけ聞いておけばそれでいい」と言って、自分で自分を励ましたのでしょうか。どうもパウロがここでしていることはそういうことではないようです。パウロは人々の評価、人々のまなざしを気にしつつ、しかし、そこで見つめていたものがありました。正確に言うと、何が起こっても、自分を真っ直ぐに見つめるもう一つのまなざしを知っていたのです。それが主イエス・キリストのまなざしです。自分が何よって生きているのかということを考える時、それは自分や他人のまなざしによってではありませんでした。そうではなくて、キリストのまなざしの中に自分が置かれることによって、私は初めて生きることができるのです。信仰が与えられるとは、神のまなざしのもとで、私を正しく見直すことのできるメガネが与えられるということでもあります。そして、このことは今、私どもが御言葉を聞いているように、神の語り掛けによって分かることです。
9節の真ん中あたりに注目するべき御言葉があります。「死にかかっているようで、このように生きており」という言葉です。以前の口語訳聖書では、「死にかかっているようであるが、見よ、生きており」と訳されていました。「見よ」というギリシア語が新共同訳聖書では訳されていません。しかし、「見よ」というのは、小さな言葉ですが、とても大切な言葉なのです。「見よ!」それは、神様が御業を行う時に用いられる言葉なのです。福音のすべてが「見よ!」という一言に込められていると言っても過言ではありません。「死にかかっているようであるが、見よ、生きており!」9節だけではありません。第5章17節でも、また本日の第6章2節でも、実は、「見よ!」という言葉が本当はあるのです。「見よ、新しいものが生じた」「見よ、今や、恵みの時。見よ、今こそ、救いの日」。パウロは立て続けに「見よ!」「見よ!」「見よ!」と呼び掛けるのです。
「死にかかっているようであるが、見よ、生きており!」問題は、いったい誰が「見よ!」と言っているのかということです。パウロが書いた手紙ですから、パウロが言っているのには違いないのですが、先程も申しましたように、パウロは死にそうなほどの苦しみを負いながら、「見よ、わたしは生きている」と自分で自分を励ましているのではないということです。そのようなことをしても、何も変わらないのです。虚しいだけです。「死にかかっているようであるが、見よ、生きており!」この言葉をパウロに語り掛けてくださっているのは、他でもないイエス・キリストだということです。復活の主が苦難の中にある自分に語り掛けてくださったいのちの言葉、喜びの言葉としてパウロは聞いているのです。
「見よ、あなたはキリストに結ばれているではないか。見よ、あなたは新しくされているではないか。見よ、あなたは新しい自由の呼吸を始めているではないか!」「あなたたちの目から見れば、この世界は闇に覆われているように見えるかもしれない。恵みや救いからもかけ離れているように思えるかもしれない。しかし、キリストにあって、見よ、今や、あなたにとって恵みの時。見よ、今やあなたにとって救いの日なのだ!」「死にかかっているようで、見よ、あなたはこのように生きている。わたしがあなたを生かしている。」パウロは、その主の御声がこだまするように、「そうだ。死にかかっているようで、見よ、私は生きている」「見よ、私はキリストにあって生かされているではないか」と語るのです。
「死にかかっているようであるが、見よ、生きており!」この言葉と響き合う言葉を既にパウロはこの手紙の中で語っていました。第4章7〜11節の御言葉です。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」
私どもキリスト者は何によって生かされているのでしょうか。それは、キリストが十字架で死んでくださったことによってです。誰よりも主イエス御自身が人々の評価にさらされました。辱めを受け、そしりを受け、悪評を受けて、十字架につけられたのです。神様がキリストをとおして、和解の手を差し伸べたにもかかわらず、その手を振りほどいたのです。しかし、ここに主の十字架が立ちました。ここに神の愛があり、恵みがあり、救いがあります。ですから、私どもが死にさらされている時も、それは私どもにとっての終わり、敗北を意味するのではありません。なぜなら、私どもを真実に生かす十字架の主は、甦りの主でもあるからです。その主イエスのいのち、神の力が、私どもの苦難の中においてこそ最も輝き出るのです。神の愛が私どもを捕らえる時、私どもは評価し、評価される苦しみから解き放たれ、自由の息を呼吸することができます。そこで、私が最も私らしくなるのです。
この神の愛、神の和解の福音を宣べ伝えるために、あなたもわたしと働きを共にしてほしい。わたしの「協力者」となってほしいと、神様は声を掛けてくださいます。この光栄ある働きに、この一年も私どもは召されています。「土の器」のような弱く貧しい存在であることを覚えつつも、そこに神御自身が託してくださったキリストの福音が、まことの宝のように輝いています。その時、私どももまた、「見よ、生きており」という復活の主の言葉を聞くことができます。私どもが本領を発揮して生きることができるのだと約束してくださるのです。
神と協力し、神と共に働くためには、呼吸を合わせることが大切です。復活の主の息遣い、いのちの呼吸、霊の呼吸を私どもはどこで味わうのでしょうか。それは何よりも、主の日ごとに共に集う礼拝においてです。だから、私どもはここに集います。今日も礼拝の真ん中に立ってくださる復活の主がいのちの息を吹きかけてくださり、私どもを和解の使者として遣わしてくださいます。この後、共に祝います聖餐においても、「今や、恵みの時であり、今や、救いの日である」ということを、確かにしたいと願います。お祈りをいたします。
新しい一年の歩みも、復活の主のまなざしの中に私たちを置いてくださいますように。今が恵みの時であり、救いの日であることを信じ、あなたの愛に喜んで応え、仕えていくことができるようにしてください。この年も私たちが計画したこと超えるような大きな出来事が起こるかもしれません。しかし、そのような時にこそ神様の愛の迫りを覚えることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。