2021年12月26日「だれのためのクリスマスか」
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ルカによる福音書 2章1節~20節
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聖書の言葉
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」15天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。ルカによる福音書 2章1節~20節
メッセージ
本日の説教題を「だれのためのクリスマスか」としました。先週のクリスマス記念礼拝の説教題が「あなたのためのクリスマス」という題でしたから、今日、改めて問われるまでもなく、「クリスマスはあなたのためのもの」「この私のためのもの」と答えることができます。あるいは、「私の救いのため」とか、「この世界のため」というふうな言い方をすることもできるでありましょう。天使は羊飼いたちに告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10〜11節)天使が言うように、クリスマスはまさに「あなたがたのため」「あなたのため」のものなのです。このことがよく分かりませんと、神が与えようとする喜びを、喜びとして受け取ることができなくなります。
しかし、クリスマスについて考える時に、もう一つ大事なことがあります。クリスマスは人間の救いのため、私の救いのためではありますが、その人間の救いは、結局のところ誰のためにあるのかということです。私一人だけの問題なのなのでしょうか。あなたのため、私のためのクリスマスであると同時に、もっと大きな意味があることを考えてみる必要があると思うのです。9節にこのようにありました。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」クリスマスとは何か。それは、神の栄光があらわされた出来事なのだと聖書は語ります。だから、天の大軍はこのように賛美するのです。14節「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
クリスマスは、私たちのためのクリスマスですが、同時に神様のためのクリスマスです。神様の栄光があらわされること、そこにクリスマスの中心があります。クリスマスを本当に必要としているのは私ども人間というよりも神様です。どうしてもあなたを罪から救いたい!あなたを放っておくことなどできない!その神の御心が、ついに、クリスマスという出来事として実現しました。だから、イエス・キリストがこの世界に来てくださったのです。私ども人間の思いは、主イエスが寝かされた「飼い葉桶」の中に見えるように、なお罪の思いが渦巻いていて、「イエスなどいらない」「余計なことをしないでくれ」「私の人生は私が決めるのだ」と言って、神様に反発する闇が残っているのかもしれません。まるで親の存在を迷惑がる反抗期の子どものように…。しかし、神様の思いからすれば、あなたのことが心配でならないのです。どうしてもあなたが救われないと困るのだ、とおっしゃってくださるのです。だから、神様は御自分の愛する御子を私たちに与え、主イエスは惜しみなく御自分のいのちを十字架で献げてくださいました。
救いに至る信仰というのは、私どもが聖書をとおして、神様のことをたくさん知ることによって、ますます神様を愛するようになることだと思っているところがあるかもしれません。それはそのとおりで、私どもの神がどのような神であるかを正しく知ることなしに、神を信じることも愛することもできません。だから、一所懸命、神様について知りたいと願いますし、そのために聖書を読み、祈りを熱心にささげます。しかし、信仰というのは、私どもが如何に神様に関心を持っているかどうか。このことがすべてではないということです。ある説教者が興味深いことを言っていました。「人間の身勝手さが、もっともよく現われるのは、神のことを考える時だ」と。少し驚くような言葉かもしれません。必ずしも、まだキリスト者でない人のことを指して言っている言葉ではないと思います。キリスト者は、神のことをよく考えて生きている時にこそ、自分はまともな人間だと思うのではないでしょうか。神のことを考えれば、考えるほど、神様は私のことを喜んでくださると信じて疑わないのです。しかし、その神のことをいつも思う時に、人間は身勝手になるというのです。少し幸せが続くと神様に感謝しますが、少し嫌なことがあると感謝をしなくなります。神は私のことを見放しているのではないかと疑うのです。また、すべてが上手く行くと、もう自分には神などいらないと言って、傲慢になってしまうこともあるのです。ですから、健やかな信仰に生きるためには、神に対する私どもの熱心さも、もちろん大事ですが、それにもまして神様がどれほどあなたのことについて関心を持っておられるのか、神様がどれほど熱心にあなたのことを愛し、救いたいと願っておられるのか。その神様の思いに、いつも私どもの心を向けなければいけません。このことがクリスマスの出来事にもよくあらわれているのです。だから、クリスマスは神様のためのクリスマスでもあるのです。
世界で最初のクリスマスは、今から約2千年前、世界の片隅とも言えるベツレヘムの町で起こりました。救い主イエス・キリストがお生まれになった瞬間、世界中のすべての人がその出来事に気付いたわけでもありませんでした。今のように、号外のようなニュースが飛びかったわけでもなく、盛大な祝いがなされたわけでもありませんでした。まったくと言っていいほど、ほとんどの人が主イエスの誕生に気付くことはなかったのです。しかし、神様はそれでも何人かの人をお選びになり、生まれたばかりの主イエスが寝ておられる飼い葉桶まで導かれたのです。その中に、本日の御言葉に登場いたします「羊飼い」たちがいます。なぜ神様は羊飼いたちを選ばれたのでしょうか。選ばれるに相応しい何か素晴らしいものを彼らが持っていたからでしょうか。
羊飼いは、雇われ労働者でした。クリスマスの日も、「夜通し羊の群れの番をしていた」とありますように、体力的にたいへんきつい仕事を毎日していたのです。けれども、貧しい生活を強いられていました。そして、羊の番をするためには、ある意味大事なものを捨てる必要がありました。今日は用事があるから、他の人に簡単に代わってもらえるような仕事ではありません。だから、ユダヤ人が最も大事にしていた「安息日」をちゃんと守ることもできませんでした。今で言うと、日曜日に教会で礼拝をささげることができないということです。それゆえに、周りの人たちから「何て不信仰な人たち」だと言われ、交わりに入れてもらうこともできなかったと言われています。「あんなやつは信用できない」と言われ、「嘘つき」呼ばわりされていたのです。「羊飼い」と「羊」と言えば、のどかな光景を思い浮かべますし、教会学校の子どもたちが降誕劇で演じている姿を見ますと、本当に微笑ましく、心が温かくなる思いがするのですが、実際はそのような姿とはまったくかけ離れた厳しい現実の中に置かれていたのです。しかし、神様はその羊飼いたちをお選びになり、主イエスのもとへと導くことを御心となさいました。
また、聖書全体の文脈の中で、「羊飼い」を理解する時、羊飼いというのは、神様御自身のことを指すことがよく分かります。先程読んでいただきましたイザヤ書第40章11節にこうありました。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」また、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉から始まる詩編第23編も、キリスト者の中ではたいへんよく知られている御言葉であるとともに、人々の慰めと励ましになっている御言葉の一つです。主イエス御自身もまた、「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)と言って、御自分のことを私どもに紹介してくださいました。私どもの喜びは、まことの羊飼いである神様のもとで養われ、憩うことです。その神様を紹介してくださるために、主イエス御自身も良い羊飼いとして、この世界に来てくださり、私どもの歩みを最後まで導いてくださるのです。
クリスマスの夜、主の天使が羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(10〜12節)10節の「大きな喜びを告げる」という言葉ですが、「告げる」という言葉自体が、「喜びを知らせる」「福音を知らせる」という意味を持つ言葉です。だから、ここを丁寧に訳すと「大きな喜びを喜びとして伝える」というふうになります。日本語としてはおかしな文章になりますが、喜びの内容は喜びそのものだと天使は羊飼いたちに告げるのです。
また、9節では、「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」とあります。主の天使は遥か高い遠い天に現れたというのではないのです。このあと、天の大軍も加わり、神を賛美します。その光景について、絵画などの影響かもしれませんが、天使たちは遥か高いところで賛美歌を歌っているイメージが私の中にはありました。しかし、よく読むとそうではないのです。天使は羊飼いたちのすぐ側に現れたのです。主の栄光が一人一人を包み込むようにして、彼らを照らしたのです。主の栄光は遥か高いところにあるのではありません。飼い葉桶に寝かされた主イエスの貧しさは、主の栄光があなたのすぐ近くに、すぐ側にある。そのことを示すものでもありました。
羊飼いたちは、あまりにも突然の出来事を前にして、「非常に恐れた」のです。主の栄光に包まれること、つまり、神様の聖さ、神様が神様であられるという圧倒的な光の前で、羊飼いたちは、自分たちの貧しさや罪の汚れを思い、深い恐れを抱きました。神様がこの世界に来られ、私どもの人生に介入なさる時、そこに羊飼いたちが覚えたように、深い恐れが生じます。自らの罪を覚えるということもありますが、それとともに、神様が来られることによって、私どもの人生は大きく変わらざるを得ないからです。ある人にとっては、自分の人生計画を中断して、神様にすべてを献げるようになったという人もいるでしょう。洗礼を受け、キリスト者になるということはそういうことです。信仰生活に入ってからも、神様がなさること、お語りになる言葉を通して、私どもは驚き、戸惑うことがあります。時に、なぜこんなことをなさるのかと言って、迷惑がり、不快になることもあるでしょう。神が私どもの神でいてくださること、主の栄光に照らされて生きるというのはそういうことです。
あるいは、神様が私どもの人生に介入なさる時、それは同時に大きな問いの前に立たされることになります。しかも、その問いを前にして、聞かない振りをすることはできません。どうしても答えなければいけないのです。だから恐れを抱くのです。クリスマスの出来事をとおして、神様は私どもに何を問うておられるのでしょうか。先週のクリスマス記念礼拝においても、少しそのことをお話しました。それは、あなたにとってまことの王、まことの主人は誰か?ということです。ローマ皇帝か?それとも、イエス・キリストか?という問いです。本日のところでは、「羊飼い」が登場します。その関連で言えば、あなたにとってのまことの羊飼いは誰ですか?ということです。あなたの欠けをすべて満たすお方は誰か?ということです。荒れ野のような歩みの中にあっても、確かないのちの糧を与えるお方は誰か?たとえ、死の陰の谷を行くようなことがあっても、恐れずに歩むことができる。そのような素晴らしいいのちを与えてくださる、あなたの真の同伴者は誰か?ということです。天使は「大きな喜びを告げる」と言いましたが、ではあなたにとって大きな喜び、福音と言えるものとは何ですか?という問いです。その問いの前に立たされ、それに答え、主に従って歩んで行くことを神様は求めておられます。しかしながら、私どもは大小の違いはあるかもしれませんが、普段の歩みや礼拝の中で神の前に立つ恐れというものを知っているのではないかと思います。神様の御心にしっかり答えて歩むことができない自分がいることを知っているからです。このことに本当に恐れを抱かずにはおれません。
しかし、神様は、私どもが御前に立った時に覚える大きな恐れを、喜びに変えてくださるお方です。だから、天使は「恐れるな」と言った後に、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言葉を続けたのです。神様の栄光は私どもを滅ぼすためのものではありません。そうではなくて、私どもを救うための栄光です。9節に、「主の栄光が周りを照らした」とありました。何人かの説教者はこのところを、「サーチライト」とか「スポットライト」という言葉でイメージを膨らませています。要するに、強い光が、暗闇にいる「あなた」に向けて、行き詰まっている「あなた」に向けて当てられているということです。そして、あなたがどこに行こうとも、あなたがどこに逃げようとも、神の栄光はサーチライトやスポットライトのように、あなたを照らし出すのです。決して、あなたのことを見失うということはないのです。いつもあなたを追いかけて、あなたを照らすのです。それは、隠れることができないのですから、恐ろしいことであるかもしれません。しかし、神様の御心を知る者にとって、これ以上の慰めはないのです。
クリスマスは誰のためのものなのか?まず覚えるべきことは、クリスマスは私のためのものであるということです。私どもの一人一人を愛し、重んじておられるのです。あなたを抜きにしたクリスマスは存在しないとおっしゃってくださるのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」天使は、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言いました。「今日」というのは2千年前の何月何日という意味ではありません。神様があなたを救うために、御業を行ってくださる「特別な今日」という意味です。イエス・キリストを、私の救い主、私の王、私の羊飼いとして信じ、受け入れる時、そこに喜びが生まれます。
そして、もう一つここで考えたいのは、最初にもお話しましたが、救いの喜びというのは、結局誰のための喜びなのかということです。もちろん、罪から救われたこの私の喜びに違いないのですが、この私以上に喜んでおられるお方がいるということです。それが神様です。だから、天使は救い主誕生の知らせを羊飼いたちに告げた後、そこに天の大軍が加わり、賛美の歌をささげたのです。神の栄光をほめたたえたのです。それは神の喜びを喜びとして、賛美したということです。
14節です。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」天から遣わされた天使たちの賛美が、地上にこだまします。深い闇の世界に賛美の歌声が響き渡るのです。羊飼いたちもこの賛美を近くで聞き、ずっと忘れることはなかったでありましょう。天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ」と歌います。「栄光」という言葉は、元々は「重さ」を表す言葉でした。そこから「評判」とか「値打ち」を意味する言葉となりました。神様の存在の重さ、その豊かさ、その素晴らしさが最もよくあらわれること。それが神の栄光があらわれるということです。あるいは、神が最も神らしくあられる時、神が最も生き生きなさっておられる時、それが神の栄光があらわされるということです。それが、主イエスがお生まれになったクリスマスの出来事なのだ言って、神を賛美するのです。神の栄光というのは、神様の御心がはっきりと示される時です。私どもを罪から救おうとなさる時です。それゆえに、クリスマスは、まさに神の栄光があらわされた時でした。この神の救いを受け入れる時に、私どももまた神の栄光をたたえ、賛美する者とされるのです。
ところで、この福音書を記したルカという人は、一度聞いたら忘れられない福音の物語をいくつも記しました。文学者として評価されることもあるルカですが、それよりも主イエス御自身が福音を物語る名人だったとも言えるでしょう。特に、主がお語りくださったいくつもの譬え話を忘れることはできません。「わたしは良い羊飼い」とおっしゃった主イエスは、ルカによる福音書第15章に記されている「見失った羊の譬え」と呼ばれる譬え話をお語りくださいました。小さな子どもたちも一度聞いただけで、すぐに心に刻む物語です。百匹いた羊のうち、その一匹がいなくなってしまいます。それで羊飼いは九十九匹を野原に残し、見失った一匹の羊を捜すのです。この譬え話は、主イエスが何のためにこの世界に来られたのかを語る物語でもあります。主イエスは何のためにあなたのところに来たのか。主イエスは何のためにクリスマスに、この世界に来られたのかを語る物語なのです。それは、神のもとから離れ、神から見失われたあなたを捜し、見つけ出し、もう一度、神のもとに連れ帰るために、わたしは来たのだ、と主イエスはおっしゃるのです。そして、この譬え話の結びは、一匹の羊がついに羊飼いに見つけられて、その見つけられた羊が大喜びしたという話ではないのです。いなくなった羊が喜んだということは、一言も書いていないのです。喜んでいるのは羊ではありません。私ども罪人ではありません。異常なまでに大喜びしているのは羊飼いなのです。つまり、天の父なる神様です。主イエスはおっしゃます。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある。」一人の罪人が悔い改めて、神様のもとに帰る時、天がどよめくほどの喜びで満ち溢れるというのです。キリストによって救われたあなた一人のことが、天において大きな話題になり、大喜びしているというのです。クリスマスの夜に、「大きな喜びを告げる」と語った主の天使の声が、また神の栄光をたたえる天使たちの賛美の歌が、この主イエスの譬え話と響き合っているのです。主イエスがお語りくださった「見失った羊」の譬え話は、神様が喜ばれた物語です。クリスマスは、神様が喜びたいがために、私どもに与えてくださった恵みの出来事でもあるのです。
天使たちは神の栄光をたたえます。そのあとで、このように賛美しました。「地には平和、御心に適う人にあれ。」神の平和が与えられる人とはどのような人でしょうか。つまり、どのような人が救われるのでしょうか。「御心に適う人にあれ」という言葉がありますが、この御言葉を聞いて、自分は神の御心に適う人間なのだろうか?それとも、御心に適わない人間なのだろうか?と、自分で考えている限りは分かりません。救いというのは、神様が御心に適わない者を、御心に適う者に新しく造り変えてくださることです。そのために、主イエスは、飼い葉桶に寝かされたその貧しさを最後まで担い抜き、十字架で死んでくださいました。神のもとに立ち帰る道を、主イエスが開いてくださいました。そして、神様のもとに帰ること自体も、実は自分の足で帰るのではなく、この私を捜し、見つけ、連れ帰ってくださる主イエスの御業によるのです。イエス・キリストにあらわされた神の愛、神の栄光を信じる者こそが、御心に適う者です。ここに真実の平和も生まれるのです。
天使から大きな喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合います(15節)。クリスマスが私たちのためのものであるとともに、神の栄光があらわされた出来事であったということを信じ、ベツレヘムへと出発するのです。そして天使が言ったとおり、飼い葉桶に寝かされている乳飲み子の主イエスを探し当てたのです。羊飼いたちは、今、自分たちの目で、飼い葉桶に寝かされている主イエスを見つめながら、天使をとおして語られた神の言葉が真実であることを確信します。神様がおっしゃったことは本当だった。ああ、ここに神が生きておられる。ここに私の救いがあり、喜びがあるということを知ったのです。そして、羊飼いたちは、このクリスマスの出来事を人々に伝えた最初の伝道者となりました。「お前たちなど信用できない」「この嘘つきめ」と言われていた人たちが、キリストの福音を伝える者とされていくのです。このことにも神様の御業の不思議さを思います。
さて、今日の物語は次のような言葉で締めくくられています。20節です。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」羊飼いたちが帰って行くその先は、これまで自分たちが生きていた世界です。寝る間もないほどにきつい仕事をしなければ、生きていくことができない現実です。礼拝すら思うように守ることができない現実です。それゆえに、人々からの冷たい視線が絶えない、そのような現実の中に彼らは帰って行きました。クリスマスの出来事が起こっても、この世界がまるっきり新しくなったということが、はっきりと誰の目にも見える形で分かるわけではないのです。洗礼を受けてキリスト者になったらといって、今まで抱えていた重荷がすべてどこかに行き、広々とした道を誰にも邪魔されずに伸び伸びと生きることができるというわけではありません。見た目は、まったく主イエスとお会いする前と何ら変わりがないということがあるのです。
しかし、私どもが主イエスと真実にお会いし、主が与えてくださる救いを受け入れて生きる時、明らかに変わったと言えることが一つあるのです。それは、羊飼いたちのように、賛美しながら帰って行くことができるということです。神に感謝し、神をたたえる歌を口ずさみながら、今置かれている現実を生きることができるようになったということです。このことは、もしかしたら、色んな悩みや悲しみがすべてなくなったという喜びを、遥かに越えた驚くべき恵みの事実だと私は思います。救われるというのは、苦難の中でもなお神を賛美する人間に変えられるということでもあるのです。その時に、何の変わり映えもない平凡な生活が本当に光り輝くということが実際に起こるのです。
この時、羊飼いたちはどんな賛美の歌をうたったのでしょうか。その言葉まで詳しく記されているわけではありません。しかし、彼らはあの天使たちが歌った賛美を、自分たちの賛美として歌ったのではないでしょうか。帰りの道だけではなく、普段働いている時も、辛い思いをした時も、いつもあの天使たちの歌声が心の中で鳴り響き、その歌声に導かれるようにして、自分たちもまた賛美の歌をささげたのではないでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」イエス・キリストを与えてくださるほどに、この私のことを愛してくださり、私を救ってくださった神の栄光に包まれながら、賛美の歌をうたうのです。神様のところに帰って来た私のことを喜んでくださる神様の心を、私の心として生きていくのです。
そして、本日最後に覚えたいことは、羊飼いたちは天使の賛美に支えられて、ベツレヘムに行く信仰の決心へと導かれたということです。賛美は神様をたたえるためのものですが、そのことが同時に私どもの近くに生きる者たちを支え、励ますことがあるのだという信仰の事実です。天使が羊飼いを支えたように、今度は私どもが共に生きる教会の仲間をはじめ、共に生きる家族や友人、また多くの人々を支えていくのです。最初のクリスマスの出来事から2千年が経ちました。しかし、今もなお主イエスが寝かされていた「飼い葉桶」が示すように、深い闇の現実があります。その中で苦しみ、助けを求めている人たちがいることを私どもは忘れてはいけません。
なお生きることが苦しい世界です。しかし、この世界は主イエスが来てくださった世界であり、今も復活の主が生きて働いてくださる世界です。この主イエスのもとで、私どもはいくらでもやり直すことができます。主の赦しのもとで新しい出発を始めることができるのです。もうダメだと思うところで、もう一度立ち上がって主イエスと共に歩むことができるのです。このキリストの福音に生き、また伝える使命を今一度心に留めたいと願います。クリスマスというのは、ある意味たいへんシンプルなメッセージを私どもに告げていると思います。それは、どのような時も、主イエスが共にいてくださることを確信し、安心して、最後の最後まで生きることができるということです。単純なことかもしれませんが、これほど深い慰めは他にないのです。お祈りをいたします。
主よ、この一年もあなたの御前に立ち続けることがゆるされましたことを感謝いたします。あなたの栄光を前にして、ただ恐れるしかない私どもを福音の喜びへと招いてくださいました。キリストをお与えくださるほどに、私どものことを愛し、私どものことを喜んでくださる主の栄光に包まれて、私どももあなたに心からの賛美をささげることができますように。なおこの世には深い闇があり、思い煩いや息苦しい現実があります。しかし、その中にあって私ども一人一人があなたのお姿を見失うことがありませんように。いや、あなたがどのような時も私どもを見失うことなく、愛のまなざしの中に置いてくださり、祝福の御手をもって捕らえていてくださること確信することができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。