2021年11月28日「愛の負債」

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聖書の言葉

8互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。11更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。12夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。13日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、14主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。ローマの信徒への手紙 13章8節~14節

メッセージ

 本日から、教会の暦で言う「アドヴェント」(待降節)が始まります。この世のカレンダーでは、一年の終わりが近づく季節ですが、教会のカレンダーでは、このアドヴェントから新しい一年が始まるのです。この一年を振り返って、色んな思いが込み上げて来ることでしょう。喜ばしい出来事がたくさん与えられたと同時に、どうしても、神様の前に悔い改めなければいけないことも

あることでしょうか。教会では新しい歩みが始まったと言われても、これまで心に引きずっていた思いをすべてリセットできる訳ではありません。依然として、重荷があり、悲しみが残り続けるということがあるのです。しかし、それにもかかわらず、「新しい歩みをここから始めよう」と声を掛けてくださるお方がいます。そのお方こそ、クリスマスにこの世界に来てくださった主イエス・キリストです。キリストのゆえに、どのようなことがあっても、ここから新しい日々を数えて歩むことができるというのです。本当に素晴らしいことだと、毎年、クリスマスを迎える度に思わされています。

 「アドヴェント」という言葉は、日本語では「待降」と訳されていますが、本来そのような意味はございません。アドヴェントというのは、「到来」を意味する言葉なのです。やって来られるのは主イエスです。そのイエス・キリストの降誕を待つという意味で、「待降節」と呼ばれているのでしょう。しかし、主イエスはもう2千年前にこの世界に来てくださり、今は天におられます。その天におられる主イエスが、終わりの日、救いを完成するためにもう一度来てくださることを約束してくださいました。その再臨の主を待ち望みつつ生きるのです。クリスマスと再臨という二つのアドヴェント、二つの時間の中を生きているのが、私どもの歩みです。

 ローマの教会に宛てて手紙を書いたパウロは、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と言いました。考えてみると、私どもはいつも時間を気にしながら生きているところがあります。何時に起きて、何時に朝ごはんを食べてというふうに生活の身近なことから、自分の人生計画に至るまで、いつ、どこで、何をするか。そのことを予め、考え、準備し、実行していくことによって幸せをつかめると信じて生きているところがあります。しかし、誰もが経験することですが、時間どおり、計画どおり、すべてが上手く行くはずはありません。予想もしなかったような出来事に襲われることもありますし、忙し過ぎて思うようにいかないこともよくあります。あるいは、愛する者を失ったり、辛く悲しい経験をすると、自分の中で時間がピタッと止まってしまうことがあります。そのような中で、いかに時間を効率良く使うか。いかに時間を管理するかということが重要になってきます。自分の時間は自分のもの、自分の人生は自分のものと言いながら、時間に追われ、時間に支配されて疲れ果ててしまうということが、実際にあるのではないでしょうか。

 「時」とは、「時間」とはいったい何なのでしょうか?ある外国の神学者は、「時の贈り物」という素敵な言い方をしました。時というのは贈り物、プレゼントされたものなのだと言うのです。その時というプレゼントをしてくれるのは神様です。神様が時を、時間を、この歴史を支配しておられるからです。その神様が、「今がどんな時であるか」を私どもに教えてくださるのです。今はどんな時なのでしょうか。それを知った私どもはどのように生きていけばいいのでしょうか。「時」とは何かということを考える時、神がこの世界をお造りになった天地創造の出来事を思い起こすこともできますが、パウロがここで語っていることは、イエス・キリストのことです。その一つは、直接ここに記されているわけではありませんが、主イエスがこの世界に来てくださったクリスマスの出来事こそ、私どもの時の原点になるのだということです。西暦2021年というのは、キリストがお生まれになってから2021年という意味でもありますが、そういうことよりも、キリストがこの世界に来てくださったことによって、私どもの生き方がまったく新しくされたということです。クリスマスに来てくださった主イエスが、神が与えてくださった時を知って生きるとはどういうことであるのかを教えてくださいました。もう一度、11節をお読みします。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」主イエスが来てくださったのですから、もう眠っている場合ではないと言うのです。もう目覚める時が来ているというのです。その新しい目覚め、信仰の目覚めを与えてくださるのは主イエスです。言ってみれば、イエス・キリストという目覚まし時計の音を聞いて、朝、目覚め、新しい歩みを始めることができます。新しい歩みを始めることができます。そして、パウロがここで「眠りから覚めるべき時」と言っているのは、明らかに、主が再び来られた時に、死の眠りから目覚めることができるということです。終わりの日の朝が来るということです。救いの完成の恵みにあずかるということです。そのような素晴らしい祝福に今ここで私どもは共にあずかっているのだということです。だから、時を知り、時を生きるというのは、私どもの死といのちに関わる知識であり、知恵でもあるのです。

 12節でパウロは、「夜は更け、日は近づいた」と呼び掛けています。よく聞くと不思議な言葉です。「夜が明けそめ、日が近づいた」と言っているのではないのです。まだ大地は夜の闇に覆われたままなのです。しかし、そこに一筋の光が射し込んでいるというのです。その光は闇に掻き消されることはありません。やがて朝になり、大地が完全に光に包まれるように、勝利をもたらす光なのです。パウロはここで語っていることは自然現象のことではありません。今、私どもが生きている歴史、キリスト者の現実を語っているのです。パウロは、この世界には「闇などない」などとは言いません。聖書に教えられなくても、この世に闇があることは誰にでも分かるでしょう。しかし、問題はそのような闇の現実の中で、しっかりと一筋の光を見ることができているかということです。絶望していないかということです。今まさに私どものところに来ようとしておられる主イエスの足音にちゃんと耳を傾け、希望に生きているかということです。「日が近づいた」というのは、主の救いが近づいているといことの確かなしるしでもあります。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた…」ここに私どもの希望があります。

 私どもにとって、この世の闇を見つけるのは難しいことではないと申しました。光が射すというのは、そこに闇があるということです。この世においても、自分の中においても深い闇があることを知っています。今年もコロナ禍に翻弄された一年であったということも、一つの大きな闇として数えることができます。しかし、コロナが収束しても、災害や戦争がなくなっても、なお根強く残り続けている闇があるということ。そのことをキリスト者は日中の光の中を歩みながら、絶えず心に留める必要があります。しかし、繰り返し申しますが、そこで光が闇に打ち勝っていることを知るのです。闇に勝利してくださる神の光、救いの光のほうがどれほど確かであるかを信じるということです。そして、今既にその救いの光に照らされて歩むことがゆるされていることを信じて歩むのです。

 クリスマスは、「光の降誕祭」と言われます。町もクリスマスになると美しいイルミネーションに包まれます。教会もアドヴェントの週の日曜日ごとに、ろうそくに順に火を灯しながら、クリスマスの日を待つという習慣もあります。この光はまことの光であるイエス・キリストであり、闇に勝利する救いの光です。パウロは言います。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」また来週、再来週と、ルカによる福音書に記されている祭司ザカリアの物語から御言葉を聞きたいと願いますが、ザカリアはそこでこのように神を賛美しています。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ1:77~78)私どもも心に刻むべき賛美の一つでしょう。キリストの救いの光は、死という絶望の闇の中で座り込む者を照らすだけでなく、平和の道を歩むことができるように起き上がらせ、導いてくださるというのです。

 救いの光に照らされた者たち、つまり、キリスト者たちは普段の生き方さえも変えられていきます。13節で「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と声を高く上げます。「品位をもって歩む」というのは、つつましく歩む、美しい姿勢で歩むということですが、元々は「良い形」という意味の言葉です。その反対が「悪い形」ということですが、例えば、第12章2節でパウロはこう言います。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」「世に倣う」というのは、この世と姿・形を同じにしないという意味です。キリスト者は光の中を生きるものとして、良い形、良い姿勢をもって歩くのです。光の中で醜い姿を見せず、品位をもって歩むのです。また「闇」と言う時に、それはこの世の闇にとどまらず、キリスト者が自分自身の中にある闇をよく知り、それらと戦って生きるということを意味します。だからパウロは、「品位をもって歩もう」と言った後に、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と言いました。酔っ払わないように。また、異性を見る目に気を付けなさい。またそれだけでなく、争いと妬みを捨てなさいと言います。誰の心にも潜む闇の思いではないかと思います。それらを捨てるように、自分の心の欲に生きるのではなく、いつも神の御心が何であるか、神に喜ばれることが何であるかを考えて生きるように。神御自身によって、いつも新しくされなさいと勧めるのです。

 14節では、「主イエス・キリストを身にまといなさい」というふうにも言っています。キリストを身にまとうことが、そのまま戦いの武具、光の武具となります。普段、私どもが服を着る時、服を選ぶのは自分です。でも、パウロはここでわざわざ「主イエス・キリスト」というふうにたいへん丁寧な言い方をしています。「主」というのは、「主人」という意味ですが、当時、ローマ皇帝を「主」と呼ぶことがありました。皇帝をあなたの主人とし、その支配に従うように強要しました。しかし、キリスト者にとっての主人は、自分が主人でも、皇帝が主人でもありません。まことの主人はイエス・キリストだけです。その主イエス・キリストを身にまといます。自分が選んだ服ではなく、キリスト御自身が私どもの闇、つまり、罪を覆うようにして丸ごと包んでくださるのです。キリストが私ども選んでくださるのです。だから、「キリストを着る」という表現は、「洗礼」を意味する言葉となりました(ガラテヤ3:27)。主イエス・キリストという服は普段着であると同時に、この世の闇や自分の中にある罪を戦う武具、光の武具にもなります。そのようにして、品位をもって歩んでいくのです。

 また、品位をもって歩む生き方は、まだ触れていませんでしたけれども、8〜10節で語られている内容とも重なるところがあります。つまり、互いに愛し合って生きること。隣人を自分のように愛することです。8節にこうありました。「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」もう少し、原文のギリシア語に沿った訳し方をしますと、「誰に対しても、何も借りがあってはなりません。ただし愛の負債は例外です」となります。誰にも何も借りを作ってはいけない!という強い表現になっています。第13章は、初めから読むと分かるように、この世の権威、この世の支配者たちのことを、信仰的にどう捉え、そのような支配の中でキリスト者としてどう生きたらいいかを教えている大切な箇所です。ご存知の方もおられると思いますが、この時まだキリスト教というのは皇帝から公認されていません。厳しい迫害の中にありました。だから、迫害を逃れるように、カタコンベと呼ばれる地下墳墓で礼拝をささげることもありました。

 しかし、そのような厳しい状況にありながらも、パウロはキリスト教会が閉鎖的な交わりなってはいけないと考えました。教会の中だけでなく、教会の外、つまり国家や社会に対しても愛の交わりを形づくろうとしたのです。異教社会の中にあっても、教会が愛の担い手、愛の発信地になることを望みました。そのような愛に生きることによって、律法を満たすのだというのです。私どもは何よりも神に従わなければいけませんが、この世のルールにもちゃんと従わなければいけません。国家や社会の中にも神様は秩序を与えてくださるお方だからです。ですから7節では、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」とパウロは勧めています。一市民として、なすべき義務はちゃんと果たしなさいということです。ちゃんと納めるべき税金は納めるように。借りをつくってはいけない。借金などしないようにというのです。誰に対しても、何も借りがあってはいけないのです。借金だけではなく、誰かに対して借りがあるというのは、生きていて苦しいものです。返せるものなら、一日も早く返したいと願うものです。まだ解決できていない負い目を負っているならば、早く解決して自由になれたらと願うのではないでしょうか。借りをつくるというのは、苦しいだけで何もいいことはないのです。

 しかし、ただ一つの例外があるというのです。それは「愛の負債」だというのです。もう少し噛み砕いて申しますと、誰かに「愛される」というのは、負債を負うことだということです。だから、その負債を、自分を愛してくれた相手に少しずつ返済していくこと。それが愛に生きることなのです。愛するという行為は、特別なこと、尊いことに変わりありませんが、本来人間がなすべきことでもあります。借金を借りた人に返すように、当たり前のことをするに過ぎないのです。しかし、私どもはそういう神に造られた人間として当たり前のことをして生きていきたいと願いながら、それができない悲しい惨めな存在でもあります。なぜなら、愛の生活においても、愛の損得勘定しながら、あるいは、愛の貸し借りを計算しながら生きてしまうということがあるからです。私どもは愛の労苦を知っています。真っ直ぐにその人を愛したいと願いながら、思いどおりにいかない、計算どおりにいかないということを知っています。これだけのことをしてあげたのに、あの人は私に何もしてくれないと言って文句を言います。愛するということを、この世の貸し借りと同じ感覚で考え、行っている限り、愛を巡る思い煩いから解放されることはありません。そして、愛の損得勘定ばかりしていたら、お互いの関係は必ず崩れていきます。そういう自分の姿が、実は人間として惨めであるということを、私どもはどこかで気付いているのでないでしょうか。

 「誰に対しても、何も借りがあってはなりません。ただし愛の負債は例外です。」パウロは確信をもって語ります。誰かに愛されることが、負債を負うことであると申しました。一番私どもを愛してくださるのは、私どもの救い主であるイエス・キリストです。主イエスに愛していただくこと。それは絶対に返すことができない膨大な負債、借金を負うことでもあるのです。その負債を私どもは、毎日、主イエスに返済し続けていくのです。この世の負債には限度があり、すべて返済したらそれ以上返す必要はありません。しかし、キリストの愛の負債は、一生かかっても返し切ることはできません。ただ、キリスト者は返し切れない愛の負債を、歯を食いしばるようにして返済するというのではなく、喜びを感謝に満ちた思いをもって、愛の返済の業に生きることができます。

 その愛の業というのは、キリストだけを愛する、教会員だけを愛するということに留まりません。互いに愛し合い、自分を愛するように隣人を愛して生きるのです。その愛というのは自分の功績でもなく、相手に返済を求めるようなものではありません。キリストからの愛の負債を毎日少しずつ返していくというふうに、なすべきことをなしていくだけのことです。しかし、それは喜びをもってなされていくものです。8節では、「人を愛する」という言い方がなされていますが、ここでの「人」というのは、「他人」「他者」ということです。自分とはまったく異なる人のことです。自分が気に入った人、教会に生きる人だけでなく、自分にとってのまったくの他者が、愛の交わりの中で隣人となるのです。そのように愛は教会の壁を超えていく。パウロはそのようなキリスト者としての生き方を見ています。

 9節にある「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という言葉は、「十戒」の中にある言葉です。信仰共同体を形づくる上でも重要な御言葉ですが、国や社会をつくる上でも大きな意味を持つ言葉ではないでしょうか。10節では、「愛は隣人に悪を行いません」とあります。悪を行なわないというのは、害を加えないということです。愛するというのは、当然のことですが、愛する対象となる相手が存在しますし、その相手との関係が絶えず問われます。結婚の祝福へと導き、夫婦という関係を神様が与えてくださったのに、姦淫の罪をおかせば、妻や夫との関係は壊れてしまいます。神のかたちに似せて造られた人間のいのちに害を与え、奪い去ることは言うまでもありません。盗みもむさぼりも、結局は自分のことしか考えていないから、平気で相手を傷つけるようなことをしてしまうのです。別の言い方をすれば、自分のことを心から愛することができていないから、人を妬み、いのちを奪ってでも自分のものにしたいと思ってしまうのではないでしょうか。神様はただ「隣人を愛しなさい」とおっしゃっただけではなく、「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃいました。自分を心から愛し、受け入れることができるからこそ、隣人を愛することができるのです。そして、自分を心から愛することができるのは、ただイエス・キリストのゆえです。主イエスが十字架につき、私の罪のために死んで甦ってくださったからこそ、私どもは自分を愛することができるようになりました。キリストによって与えられた愛の負債のゆえに、自分と共に隣人を愛することができるようになったのです。

 また、「互いに愛し合いなさい」という言葉を聞く時に思わされますのは、誰かから「愛される」ということに習熟するということです。誰かの愛を素直に受け入れるということです。その場合の相手というのは、必ずしもキリスト者とは限りません。神様を信じていない人であったとしても、それぞれが精一杯の愛に生きていると思います。「神を知らない人は、愛に生きることができない」というのは乱暴過ぎる言葉です。事実、キリスト者である私どもは、まだ神を知らない多くの人たちの愛を受けて生きているのです。ただプライドが邪魔をして、誰かに愛される、誰かの世話になるというのは、大人として恥ずかしいこと、情けないことだと思ってしまうことがあるかもしれません。そんなことは余計なお世話だと言って、他人の愛を拒み、ますます孤独になり、心を固くしてしまうことがあります。愛することだけでなく、愛されることにおいても、自分自身が神の前に問われるのです。だからこそ、愛することと同時に、愛されて生きることを生涯にわたって御言葉から学び続けたいと願います。そこに愛の交わりが形成されていくのです。

 この手紙を記したパウロは「愛」ということについて、他の手紙の中でもたくさん記しています。ローマの信徒への手紙の中で、初めて愛について語るのが第5章です。その5〜8節にこのようにあります(新約p279)。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 神様は私たちに対して、罪人である私たちに対して、愛の損得勘定をなさるようなお方ではありません。もし神様が、御自分の正しさを基準にして、愛に生きられたならば、私どもは誰も愛される資格などないでしょう。滅びるだけです。しかし、神様はそこで私ども人間が考えないような計算・損得勘定をなさいました。それが救いの御計画です。クリスマスにイエス・キリストをこの世界に遣わすという計画です。そして、正しい者のためならまだしも、いのちを注ぐ価値のない罪人のために、御子イエス・キリストは十字架の上でいのちをささげてまでして、私どもを救おうとなさいました。それが神の愛です。この神の愛が、今も聖霊をとおして私どもの心に注がれています。「注がれる」というのは、土砂降りの雨が降り注ぐという激しい意味を持つ言葉でもあります。土砂降りの雨のように降り注ぐ神の愛によって、私どもは罪の闇から救っていただきました。救いの光の中を歩むことができるようになりました。イエス・キリストの膨大な愛の負債を背負いながら、しかし、そのことを心から感謝しつつ、喜びながら生きていくことができるようになったのです。神を愛し、自分を愛するだけでなく、自分とは違う他人をも愛のまなざしで見つめることができるようになったのです。そのように私どもは、日々、小さな愛の業、愛の負債に喜んで生きるのです。

 そのような愛の歩みの中で、挫折を経験することもあるでありましょう。自分の愛の貧しさ、醜さに絶望してしまうこともあるでありましょう。だからこそ、主の日ごとに、神様の前に立つのです。ここで主に愛され、赦されている自分を何度も確認することができます。愛の負債を負っている自分であることを思い起こし、ここから再び愛の業を始めることができます。今という時を正しく知り、それに相応しい品位ある生き方をしていくのです。今年もあと一ヶ月ほどで終わります。誰に対しても誇ることができるような立派な愛に、今年も自分は生きることができた。そのように胸を張って言える人はいないでしょう。けれども、私どもは今がどんな時かを知っているのです。今日からアドヴェントです。もうすぐクリスマスがやって来ます。「主イエス・キリストという新たな装いによって包まれながら、終わりの日の希望に生きよう!」と、主御自身が私どもに声を掛け、励ましてくださいます。私どもに溢れんばかりの愛を注いてくださる主イエスと共に、新しい歩みをここから始めていくのです。もう一度、愛の業に励むことができるように、主イエスが私どもを目覚めさせてくださいます。お祈りをいたします。

 この年の教会の歩み、私ども一人一人の歩みをここまで守り導いてくださり感謝いたします。自らの欠けや貧しさを覚えることもありましたが、それ以上に、主よ、あなたが豊かな愛を注いでくださり、私どもの歩みを祝福で満たしてくださいました。それゆえにどうか、あなたから与えられた愛に応えることができるように、献身の思いを新たにさせてください。どれだけ闇が深くなろうとも、既にそこに救いの光が射し込んでいる信仰の事実を見ることができますように。今年もアドヴェントに入り、クリスマスを迎える季節となりました。イエス・キリストに現された神の福音が一人でも多くの人々の心に届き、主にある慰めと平安を覚えることができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。