2021年11月14日「恐れるな、ただ信じなさい」
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恐れるな、ただ信じなさい
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マルコによる福音書 5章35節~43節
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聖書の言葉
35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。マルコによる福音書 5章35節~43節
メッセージ
ボンヘッファーというドイツの神学者が、次のようなことを言っています。「神の道が私たちの道と交差するところ、そこにキリストの十字架がある。」興味深い言葉です。神様は御自身の道、神様の御計画というのを持っておられます。一方で、私たち人間も自分の道、自分の計画を持ち、それらを実現するためにそれぞれの道を歩んでいるというのです。神の道と人の道が交差するというのは、それぞれ別の道を歩んでいるということでしょう。それは神から離れて生きてしまっている人間の姿があります。決して、一つになることがない神様と私どもの歩みです。しかし、そこに主イエスが来てくださいました。交差するというのは、そこに出会いが起こるということです。私どもにとって決定的な出来事、事件が起こるということです。キリストにおいて、しかも、キリストの十字架という出来事をとおして、神の道と私どもの道が交差するという出来事が起こります。十字架の縦の木と横の木が交差、クロスするように、キリストの道と私どもの道が交差するのです。そのようにキリストが私どもの歩みを横切ってくださるのです。そこに神との出会いがあり、救いがあるのです。そして、教会がひたすら語り伝える福音もまた、「あなたもイエス・キリストと真実に出会ってほしい。」「そして、キリストと共にある歩みを始めていただきたい。」ということでもあるのです。
先程、マルコによる福音書第5章35節以下の御言葉を聞きました。本当は21節から朗読したほうが、区切りがよかったかもしれません。22節を見ますと、会堂長のヤイロという人物が登場します。彼もまた、主イエスと出会うことができた人であり、主に横切っていただいた人です。そして、主と共に新しい人生を歩むことができた人でした。ヤイロは「会堂長」であると言われています。「会堂」というのは、「シナゴーグ」と呼ばれ、ユダヤ人が礼拝をささげるために集まる場所でした。今で言う教会のような存在です。ただ、シナゴーグというのは、礼拝だけではなく、地域の公民館や学校のような役割を果たしていました。会堂長というのは、その会堂を管理する人物でした。一つの会堂に対して、何人か会堂長と呼ばれる人がいたと言われています。その中の一人がヤイロでした。信仰も篤く、人々からも尊敬されていた人でありましょう。主イエスも多くの会堂で御言葉を語っておられましたから、ヤイロも主イエスのこと、主が何を語っておられるか、どのような御業を行っているかを知っていたに違いありません。しかし、主イエスに従うというところまではいきませんでした。主イエスは必ずしもすべてのユダヤ人から受け入れられていた訳ではありません。ですから、主を本当に信じていいのかどうか、迷うところもあり、慎重な姿勢を貫いていたのでしょう。
けれども、この会堂長ヤイロに大きな苦難が襲い掛かりました。それは、23節に記されているように、ヤイロの娘が死にそうになったのです。42節を見ますと、娘の年齢が12歳だということが分かります。ユダヤでは、もう成人になるような年齢です。さあ、これからという時に、病か何かに襲われて、死にそうになったのです。父のヤイロも何とか娘のいのちを救ってあげたいと思いました。しかし、自分の力ではどうすることもできません。それでヤイロはどうしたかと言うと、主イエスの足もとにひれ伏し、願うのです。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)自分が会堂長であるとか、周りの目が気になるとか、そういうことはもうここではまったく気にしていません。自ら初めて主イエスの前に進み出て、娘のいのちを救ってくださいと心から願いました。そして、主イエスもヤイロの願いを聞いてくださいました。24節にあるように、「イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」のです。「一緒に出かけて行かれた…」。何気ない言葉かもしれませんが、深い慰めを覚える言葉ではないでしょうか。主イエスは私どもの「願い」に、あるいは、「祈り」にと言ってもいいかもしれません。私どもの祈りと願いを聞き、一緒に歩み始めてくださるのです。主御自身の御心、御業を行ってくださるために私どもと共に歩んでくださるのです。
キリスト者の歩みは、主イエスと共にある歩みです。けれども、私どもが信仰の歩みを重ねる中で経験いたしますことは、本当に色んなこと、予期せぬことがたくさん起こるということです。それらの出来事、事件に巻き込まれ、途方に暮れてしまうこともあるでしょう。洗礼を受けて、キリスト者になったからと言って、また、主が共に歩んでくださるからと言って、何も起こらない訳ではないのです。それは、私どもキリスト者一人一人が既に知っていることでもありますし、ここに出て来るヤイロ自身が、主と共にある歩みの中でまさに経験したことでありました。主イエスは、「娘を救ってほしい」という自分の願いを聞いてくださり、一緒に娘がいる家に向かって歩み始めてくださいました。ヤイロの心は、不安な思いもあったでしょうけれども、私には主イエスがおられるという希望のほうが遥かに上回っていたことでありましょう。娘は助かるという確信を持って、主と共に娘のところに向かったに違いありません。
しかし、聖書を見ますと、21節から始まったヤイロの物語が途中で中断していることが分かります。24節で一度終わっているのです。なぜでしょうか。それは、25節以下にあるように、長血を患った女性と主イエスの出会いの物語が急に始まるのです。これもたいへん興味深く、心打たれる物語です。途中から出て来る女性も苦しい生活を長く強いられていました。財産を失い、望みを失い、神様の前にまとも立つことすらできなくなっていました。しかし、それでも主イエスの後をついて行き、主の服にさえ触れれば癒されるという、いわば迷信的な信仰で主に近づき、主が着ておられる服に触れたのです。それは藁をもつかむような思いだったかもしれません。主イエスはそのような彼女の行為を、「信仰」と呼んでくださり、長く患っていた病を癒すだけではなく、神の前に立つ人間として回復させてくださったのです。そして、「安心して行きなさい」「平安の中を行きなさい」と告げてくださったのです。
しかし、そばにいたヤイロにとってはたまったものではなかったでしょう。彼女が苦しんでいるのも分かるのです。でも、私もあなたと同じように、藁をもつかむような思いで、主の前にひれ伏したのだ。それに私のほうがあなたよりも先に、主イエスに願い、今、家に向かっている途中ではないか。あなたは私の後でもいいではないか。そのような思いが、ヤイロの中にあったのではないでしょうか。1分でも、1秒でも早く娘のいのちを助けていただきたいのです。けれども、主イエスは、途中からやって来た長血を患っていた女に心に留め、対話をし、癒しと救いを与えることを良しとなさいました。その間、ずっとやきもきしていたヤイロですが、一つ救いだったことは、やはり主イエスというお方は、病を癒すことがおできになる力を持っておられるということを、確認することができたということです。これで娘のいのちは助かったと確信することができたでありましょう。
これらのことを受けて、お読みした35節以下の御言葉が続きます。ヤイロの物語が再び始まるのです。それは、まったく予期せぬ知らせが飛び込んでくることから始まります。もう一度35節をお読みします。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』」ヤイロが聞いた知らせ、それは娘が亡くなったという知らせでした。私どもの歩みには色んな知らせが飛び込んできます。ニュースや新聞に載るような出来事だけでなく、自分の身の回りで多くの出来事が起こります。色んな人から、色んな知らせを聞き、その度に心が揺さぶられます。その中で一番悲しい知らせ、一番最悪な知らせ、一番聞きたくない知らせとは何でしょうか。それは、愛する者が死んだという知らせではないでしょうか。愛する者を失うというのは、自分を失うことと同じと言ってもいいほどのことです。それほどに愛する者と自分は一つになって生きているのです。だからこそ、愛する者を失いたくないのです。それは自分の死を意味すると言ってもいいからです。しかし、ヤイロにその最悪の知らせが届きました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」この時ヤイロはどのような気持ちだったでしょうか。聖書にはヤイロがこの時、何を考え、何を語ったかはまったく記されていません。それは言葉を失い、何も考えることができなかったから、と言ったほうが良いかもしれません。そして、段々と時間が経つにつれ、ヤイロは自分の思いを整理することができたに違いありません。そこでヤイロが思ったことは、主イエスのことです。なぜ、主イエスは女を先に助けたのだろうか?彼女と対話し、癒しの業をしていたから、娘のところに間に合わなかったのではないか?彼女を救う時間があれば、娘を助けることができたではないか?なぜ、主は先に娘のところに行ってくれなかったのだろうか…?主イエスに対する色んな思いが沸き上がってきたことでしょう。病が癒され、救われた女性に対して告げた「安心して行きなさい」という言葉は、ヤイロにはまったく響いていないのです。
ある説教者は、「ヤイロはこの時、何も口にしなかったけれども、主イエスの顔を見つめたのではないか。」そのように推測しています。私どもは主イエスの顔を直接見たことはありません。しかし、主イエスと一緒に歩む中で、ヤイロと同じような経験、言葉を失うような経験をするということがあるのではないでしょうか。愛する者を亡くすという知らせが突如飛び込んで来ることもあるでしょう。今まで元気だった人が、急に病気で倒れたという知らせを聞くこともあるでしょう。もうそんなに余命は長くないと分かっていても、死という現実を簡単に受け入れることができないこともあります。また、私どもの歩みには、「間に合わなかった」「もう遅すぎた」ということも起こるのです。その時、私どもの目には見えなくても、まるで主イエスの顔を無言で見つめるように、「なぜですか」「なぜ間に合わなかったのですか」と問いたくなること、嘆き訴えたくなることがあるのではないでしょうか。主イエスと出会い、救われ、主と一緒に歩んで行くこと。それは「福音」という言葉にありますように、救い主イエス・キリストと共に生きることは喜びそのものです。けれども、先程も申しましたように、その歩みの中で、喜びを奪い去るような出来事に呑み込まれてしまうことがあります。平安の中を主と共に歩んでいるのですが、そこで心騒ぐような出来事に巻き込まれることもあるかもしれません。まさにそのようなところで、私どもの信仰が問われるような気がします。主イエスと共に生きるとはどういうことなのか。主が与えてくださる喜びとは、平安とは如何なるものなのかを神様の前で深く考えさせられるのです。
なかでも、死という厳粛な出来事を前にして、私どもは自らの人生を、そして与えられている信仰を見つめ直す機会になります。ヤイロに娘が死んだことを知らせに来た人々は言いました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」「先生」というのは、主イエスのことです。また「先生」というのは、御言葉を教える教師という意味でもあります。「主イエスを煩わすには及ばない」というのはどういうことでしょうか。それは、「死」という現実を前にしたならば、たとえ主イエスというお方であってもどうすることもできないということです。いくら悩み抜いたからと言って、死の現実を変えることはできないということです。病を癒すことができても、死の現実を動かすことはできない。どれだけ素晴らしい御言葉のメッセージを語ることができたとしても、死の力には打ち勝つことはできないというのです。それが人々の感覚でした。だから、もう主イエスを煩わすことはありません。お帰りくださって結構ですと言うのです。
その人々の話を主イエスは聞いておられました。36節「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた。」「そばで聞いて」という言葉ですが、これは少し当り障りのない訳になっています。「そばで聞いて」と訳してもいいのですが、他にも「聞き流して」とか「無視をして」と訳すことができる言葉です。そのように理解しますと、ここで主イエスは、ヤイロの娘が死んだという知らせを聞き流しておられるということです。そして、死の現実をどうすることもできないと諦めている人々の思いをも無視しておられるということです。私どもも悲しい知らせ、嫌な知らせは「耳にしたくない」「聞きたくない」「なかったことにしてほしい」と言って、耳を塞ぐことがあります。けれども、実際は悲しみに呑み込まれてしまうだけです。死の事実の重みに打たれ、身動きすることができなくなってしまいます。しかし、主イエスが死をはじめとする、悲しい知らせを聞き流すという場合、私どもと同じように耳を塞ぐということではないのです。ヤイロの娘が亡くなったという知らせをそばでちゃんと聞いていてくださるのです。そしてそこで、立ちすくんで何もできなくなったり、倒れてしまうというのではなく、しっかりと事実を受け止めながら、立ち向かってくださるということです。私どもは、死という突然の知らせにすぐ倒れ込んでしまいます。しかし、主イエスはそれを聞き流しながらも、正面から死に立ち向かってくださるのです。ここに深い慰めを覚えます。
また、主イエスは「娘が亡くなった」という悲しみの知らせを、ヤイロのそばで一緒に聞いてくださいました。ここにも慰めがあると思うのです。つまり、私どももまた自分一人で、悲しみの知らせを聞かなくてもいいということです。悲しみに押しつぶされて、孤独になることはないのです。そばで一緒に聞いてくださる主イエスというお方がいて、その方がその悲しみに立ち向かってくださるのです。ある人は、「祈り」とはまさにこういうことではないかと言います。私どもの嘆き訴える声を、そばにいてくださる主イエスは、いつも耳を傾けて聞いていてくださるのです。
そして御言葉をもって私どもの祈りに答えてくださるのです。主イエスはヤイロに言いました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」愛する者を亡くしたという悲しみの知らせを聞いても、決して倒れることのないお方が、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、信仰に招いてくださいます。「恐れるな!」これは主がよくお語りになる言葉の一つです。「恐れるな」とおっしゃられたということは、ヤイロが恐れを抱いていたということでしょう。会堂長として、何度も会堂でささげられる葬儀に立ち会ってきたことでしょう。しかし、愛する者の死は特別深い恐れを呼び起こしました。それは娘を失った悲しみも当然ありましたが、死ということをとおして、神の前に立たされている自分であることを覚えたからでしょう。神の前に自分は如何に貧しく、小さな存在であるか改めて思わされたのではないでしょうか。しかし、主は「恐れるな」と言って、ヤイロの中から恐れを取り除いてくださいます。そのために、私は生きて働く、力強い御業を行うというのです。
そして、弟子のペトロとヤコブとヨハネを連れて、ヤイロの家に向かわれました。そこで人々が「大声で泣きわめいて騒いで」いました。家にいた「人々」というのは、ヤイロの家族も含まれていたでしょうけれども、具体的には「泣き女」「泣き男」と呼ばれる人たちのことを指します。これは一つの職業でありまして、誰かが死んだ時や、葬儀の時に、泣き女たちを呼んで、大きな声で泣いてもらい、変な言い方ですけれども深い悲しみを演出したのです。貧しい人であっても、葬儀の時には、何人かの泣き女たちを呼んだと言われます。お金がある人は多くの泣き女たちを呼び、そこにさらに大きな悲しみを作り出し、立派な葬儀を行おうとしました。また、多くの者が、自分の愛する者ために涙を流してくれるということをとおして、遺族が慰められるということが実際にあったのだと思います。私どもはなぜ泣き女などを呼ぶ必要があるのだろうか。そんなことをしなくても、十分に悲しいではないかと思われる方もいることでしょう。ただ、泣き女たちを呼ぶ、呼ばないは別として、死という現実を前にした時、人は静かにしていることなどできないのではないでしょうか。少しの間、言葉を失ったとしても、しばらくして一気に思いが込み上げてきて、ただ大きな声を出して泣くことしかできないということがあるのです。それが人間の弱さでもあります。
だから、主イエスは人々にこうおっしゃいました。39節「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」しかし、人々は主の言葉を聞いてあざ笑ったというのです。私どもは、誰からが死んだことを「永眠」という言葉で表すことがあります。棺に納められている遺体を見ても、穏やかで、まるで眠っているようにしか見えないということもあるでしょう。何よりも、愛する者の死を受け止めることができないからこそ、永眠という言葉を使って、少しでも自分で自分を慰めたいのです。しかし、私どもは本当は知っているのです。「永遠の眠りに就いただけだ」と言いながらも、決して、死んだ者が二度と目を覚ますことはないのだということを…。だから、主イエスが、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃった時、本当にそうであるならばどれほど嬉しいことかと人々は思ったことでしょう。しかし、死んだということ、「眠っている」と言い換えたところで、何かが起こる訳ではありません。虚しいだけなのです。だから、人々は「死んだのではない。眠っているのだ」という主の言葉を聞いてあざ笑ったのです。
しかし、主イエスは、ヤイロの娘の死を「眠っている」と真実に口にすることができました。人々に気休めを与えるためにおっしゃったのではありませんでした。「眠っている」と言うことができたのは、娘を目覚めさせ、甦らせることがおできになるからです。そして、人々を外に出し、娘の両親と三人の弟子たちだけ連れて、娘のいる所に入って行かれました。それは、主イエスを信じる者だけが、これから主がなさる奇跡の御業を体験することができるということでもあります。死んだ人間が甦ることなどあり得ないとか、死んだのに眠っているだけだなどというのはあまりにもおかし過ぎる。そのような思いに留まる限り、主イエスを信じることはできません。だからおっしゃるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」ヤイロの娘がいる部屋に、主イエスは入っていかれます。そして、娘の手を取って、こうおっしゃいました。「タリタ、クム」。カタカナで記されていますが、これは呪文の言葉ではありません。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味の言葉です。主イエスの言葉を聞いたヤイロの娘は目を覚まし、すぐに起き上がり、歩き出したのです。彼女は主イエスの言葉の力によって甦ったのです。
ところで、なぜこの福音書を記したマルコは、主イエスが普段話しておられた「タリタ、クム」というアラム語をそのまま書き留めたのでしょうか。新約聖書はギリシア語で記されていますが、なぜマルコは初めからギリシア語に訳さず、わざわざ「タリタ、クム」というアラム語を残したのでしょうか。それは、生まれたばかりの教会でとても大切にされていた言葉の一つだったからです。わざわざ訳す必要がないほどに、教会員一人一人の心の中に、主がお語りになった言葉がそのまま響いていたのです。マルコは他にも主イエスの肉声をそのまま記しています。耳が聞こえず、舌が回らない男に対して、「エッファタ」と言って、癒してくださいました。「エッファタ」というのは、「開け」という意味です(マルコ7:34)。十字架にかけられた主イエスは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です(マルコ15:34)。また、新約聖書の他の箇所には、再臨の主を待ち望む時に祈った「マラナ・タ」(主よ、来てください)という言葉があります。また、ヘブライ語ですが、祈りや賛美の最後に唱える「アーメン」とか「ハレルヤ」という言葉も、そのまま私どもは口にしています。
「タリタ、クム」。これは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味です。しかし、もっと素直に訳すと、「少女よ、起きなさい」という短い言葉になります。マルコは、「わたしは言う」という言葉を付け加えて、ギリシア語に訳しました。それは、マルコ自身、主イエスがこの私にもお語りくださった言葉として、「タリタ、クム」という主の言葉を受け取ったからではないでしょうか。そして、ヤイロの娘や自分だけでなく、すべての者に向けて語られている福音の言葉として、「タリタ、クム」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という言葉を記したのです。
また、「タリタ、クム」という言葉は十字架に死んで、復活してくださったお方の言葉でもあるということです。私どもが死ぬべき死を、主イエスは十字架の上で身代わりとなって死んでくださいました。そして、三日目に甦ってくださいました。「タリタ、クム」という言葉は、死に打ち勝ってくださった主イエスが語ってくださったからこそ、その言葉にいのちの重さが増し加わるのです。「タリタ、クム」という復活の主の言葉によって、私どもも起き上がることができたからこそ、死を恐れることなく、最後まで望みを持って主と共に歩むことができます。主イエスが与えてくださる復活の希望というのは、死んだ人間がもう一度息を吹き返すことができるという、単純な話ではありません。そうではなく、十字架に死に、復活してくださった主イエスにお会いし、主と共に歩んでいくことこそが、本当に大切なことです。最初に申しましたように、十字架の主が私どもの人生を横切ってくださいました。罪に支配され、死を恐れ、死の力に絶望する他ない私たちのところに主が来てくださり、「わたしと一緒にいのちの道を歩もう」とおっしゃってくださいました。その歩みの中で、確かに様々なことが起こります。しかし、そこに「タリタ、クム」という復活の主の言葉が響くのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、信仰の道に招いてくださる主を信じ、従うならば、私どもは死んでも生きるのです。復活の主を信じる私どもにとって、死は眠りに過ぎないのです。必ず目覚める時が来るからです。
私どもはやがて死を迎える時が来ます。地上の最後の日々において、また息を引き取る時、私どもが聞く言葉とはどんな言葉でしょうか。あるいは、キリスト者である愛する者を天に送る間際に、聞く言葉とはどのような言葉でしょう。「ご臨終です」という言葉ではありません。ここでも私どもは主イエスのいのちの言葉を聞くことができます。「タリタ、クム」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。」人生の最後に「起きなさい」という言葉を聞いて、死ぬことができるのです。また、ヨハネによる福音書に記されている主イエスの言葉を思い起こします。愛する兄弟を失った姉妹に対して、主はおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」ヤイロにもおっしゃいました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」復活の主と一緒にいのちの道を歩みましょう。お祈りをいたします。
私どもの歩みには喜ばしいことばかりでなく、悲しいこともたくさん起こります。そして、悲しみの出来事が、私どもから喜びを奪い去り、神のお姿さえも見えなくしてしまいます。しかし、そのような現実に立ち向かい、死に対してすら勝利してくださる主イエスが、私どもと一緒に歩んでくださいます。恐れることなく、ただ主イエスを信じ、確かないのちの中をこれからも歩んで行くことができますように。復活の主が与えてくださる希望を抱きつつ、与えられた地上の歩みを最後までまっとうすることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。